足利 持氏
(あしかが もちうじ)は、
室町時代
の武?。第4代
鎌倉公方
(在職:
1409年
- 1439年)。第3代鎌倉公方?
足利?兼
の子
[3]
。
生涯
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]
幼少期
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]
?永
16年(1409年)7月、父??兼の死去によって、9月に鎌倉公方となる
[2]
。
?永17年(
1410年
)8月
[2]
、叔父である
足利?隆
が持氏に?して謀反を企てているとの風?が立ち、持氏が
?東管領
であった
上杉憲定
の屋敷に逃げ?むという?動が?生する(『
鎌倉大草紙
』など)が、憲定の仲介により持氏の異母弟の
乙若丸
を?隆の養子とすることで和睦?落着した
[2]
(?動は反憲定の勢力が?隆と結んだために?生したものであったため、その煽りを受けて憲定は翌年に?東管領を?任している)。
同年12月、幸王丸は
元服
し
[2]
、室町幕府の
?軍
?
足利義持
より
偏諱
(「持」の字)を賜って、
持氏
と名?った
[1]
(弟の乙若丸(改め持仲)も、同?に?持?の字を受けている)。
持氏は公方となったものの若年であり、新たに?東管領となった
上杉氏憲
(後の?秀)の補佐を受けていた。北日本の
?羽
地方は鎌倉府の管轄で持氏の2人の叔父である篠川公方
足利?直
??村公方
足利?貞
が治めていたが、?永20年(
1413年
)に
伊達持宗
が?者に逆らい反?を起こしたため、持氏は?州?人衆に召集を呼びかけ反?を??した。
しかし、持氏は?秀を疎んじるようになり、?秀は?隆?持仲と結んでいたため、?者の間の?立が次第に激しくなった。
?永22年(
1415年
)、?秀が?東管領を?し、持氏は
上杉憲基
(憲定の子)を後任として就任させた。
?永23年(
1416年
)、遂に?秀??隆は
ク?デタ?
を起こし、持氏?憲基は一時鎌倉を追われて
駿河
に追放された(
上杉?秀の?
)。しかし、この反?は、翌年に幕命を受けた
越後
の
上杉房方
?駿河の
今川範政
らによって??され、?秀??隆?持仲は自害し、持氏らは鎌倉に復?した。
ところが、さらに翌年の?永25年(
1418年
)には?東管領の憲基が急死し、幼少であった
憲?
が後任に就任すると若年の鎌倉公方を更に幼い?東管領が補佐するという事態が?生する。そのため、本?は上位者である鎌倉公方の命令を?えるために?東管領が作成する
施行?
を作成することが出?ず、持氏本人が憲?の代理で施行?を作成するという事態が?永31年(
1424年
)まで?いている
[4]
。
?軍との?立
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]
京都の?軍と鎌倉公方の?立は、持氏の祖父?
足利氏?
の時代にすでに始まっていた。この時は?東管領
上杉憲春
の諫死で?立は未然に防がれたが、?東に支配?を延ばそうとする?軍と、それに抗する鎌倉公方の衝突は宿命的なものであった。
?永30年(
1423年
)、
京都扶持衆
の
小栗?重
が
室町幕府
の命令を受けて反?を企てたとしてこれを攻め滅ぼし、?いて同じく扶持衆の
宇都宮持綱
?
桃井宣義
を倒して?東から親幕府勢力の一掃を?った(
小栗?重の?
または?永の?)。これに?して、?軍?
足利義持
は持氏討伐を計?するが、持氏の謝罪によって討伐は中止された。だが、?東御扶持衆を用いて持氏の勢力?大を牽制しようとする幕府側とそれに?抗しようとする持氏の?立は深刻化する一方であった。
?永32年(
1425年
)、5代?軍であった
足利義量
が病死し、
正長
元年(
1428年
)に前?軍であった義持も病死して?軍職が空位となると、持氏は義持の
猶子
であり、自身が
足利氏
の一族であるという名分から6代?軍の座を望んだ。しかし、
管領
の
?山?家
や
三?院
門跡
??
らの協議によって、6代?軍は義持の弟4人のうちから籤引きで選ばれることになり、この結果、
天台座主
義円が
還俗
して
足利義?
として?軍職を?承することとなった。
持氏はこの?軍職相?に不?を持ち、新?軍の義?を『還俗?軍』と?んじ、義?の?軍襲職祝いの使者を送らなかった。さらに、元?が
永享
に改元されても前年?の
正長
を使い?け、本?ならば?軍が決定する
鎌倉五山
の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と?立する姿勢を見せ始めた。
?東管領?上杉憲?は持氏と義?の融和を懸命に努めたが、持氏はこれに?じずに逆に憲?を遠ざけ、上杉氏庶流の
上杉憲直
や
一色直兼
?
?田?助
ら近臣を重用し、やがて憲?が持氏に討たれるという?が流れるまでになる。
永享9年(
1437年
)、憲?は施行?の?給を止め、間もなく?東管領を?職している(なお、これ以降?東管領の施行?の?給は途絶する)。一方、幕府においても義?と度??立していた
斯波義淳
が永享4年(
1432年
)に管領を?し、また宥和派であった?山?家が翌永享5年(
1433年
)に、??が永享7年(
1435年
)に?すると義?を止めることのできる人間は存在しなくなった。
永享の?
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永享10年(
1438年
)6月、持氏の嫡子
賢王丸
が
元服
を迎えて名を改める際、本?ならば?軍に一字を?領する慣例であったが、それを行わず「義久」と名付けた。なお、『喜連川判鑑』では元服式はわざわざ
源義家
の先例を調べて行われたもので、憲?はこの命名に反?したが無視されたとする。持氏は義久を源義家に擬して「八幡太?」の通?を?させて、
鶴岡八幡宮
にて元服の式を?げた。憲?はこの元服式に出席せず、憲?と持氏の?立は決定的となった。
8月、憲?は
鎌倉
を去り、領?の上野?へ下った。これを憲?の反逆と見た持氏は一色直兼に命じて討伐軍を差し向け、自らも武??府中
高安寺
に出陣する。
?軍?義?は憲?の救援のため、篠川公方足利?直(上杉?秀の?後持氏と?立)や駿河守護
今川範忠
の出兵を命じた。さらに?秀の子
上杉持房
?
?朝
らを含む6万の軍勢を派遣する。同時に持氏追討の治罰
綸旨
の?給を求め、持氏は
朝敵
となった。
9月27日、持氏軍は敗れて相模の
海老名
まで引いたが、鎌倉を守護していた
三浦時高
ら武?の裏切りが相次いだために兵は逃亡し、持氏は孤立無援となった。
持氏は鎌倉に引く途中で憲?の
家宰
?
長尾忠政
(芳傳、
長尾忠綱
の子)と出?い、憲?に義?との折衝を依?する。その後、鎌倉
?名寺
で出家し、
永安寺
に幽閉された。憲?は持氏の助命と義久の公方就任を懇願したが
[5]
、義?は許さず、憲?に持氏の追討を命じた。
永享11年(1439年)2月10日、憲?の兵が永安寺を攻?し、持氏は自害して果てた(
永享の?
)。義久と?村公方足利?貞も自害した。
持氏の自害により鎌倉公方は一旦滅亡することになるが、永享12年(1440年)3月に彼の遺?である
春王丸
?
安王丸
を?いだ
結城氏朝
?
持朝
父子が蜂起し、?東の混?は?いた(
結城合?
)。この反?も幕府に??され、結城氏朝父子は自害、春王丸?安王丸は幕府に捕らえられ?刑されたが、後に春王丸らの兄弟で生き?っていた
成氏
が鎌倉に?還、鎌倉公方に就任するも上杉氏と?立、
享?の?
を引き起こし北?東へ逃れ、
古河公方
を?することになる。
官?
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]
※日付=??
系譜
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]
偏諱を?えた人物
[
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]
脚注
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]
注?
[
編集
]
- ^
足利義?
の子?
義嗣
の次男である一色直明の娘とされる。
一色氏久
の項も?照のこと。
- ^
記?上持氏の妻は?田河?守の娘しか?えられていないが、鎌倉公方には守護大名もしくは足利一門出身の正妻もしくは上???(?田氏出身よりも格上の妻妾)が存在したと考えるのが自然であり、義久の生母は記?が喪われた正妻もしくは上?であったと推測される
[6]
。
- ^
『古河公方系?』では、?田河?守の娘が春王丸の母とされているが、長塚孝は結城合?の際に安王丸が兄を差し置いて主?に?がれ、かつ?田一族がこれを補佐していることを指摘して、安王丸の母の誤りである可能性が高いとする。また、成氏(万?王丸)の母が?田?助(助良)の姪であるとして、河?守の娘と?助の姪が同一人物、すなわち安王丸と成氏が同母兄弟であった可能性を指摘している
[6]
。
出典
[
編集
]
- ^
a
b
c
コトバンク_足利持氏とは
より。
- ^
a
b
c
d
e
f
g
足利持氏
より。
- ^
上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名?典 第5版』、株式?社三省堂、2009年 31頁。
- ^
?田俊和「鎌倉府施行システムの形成と展開」『ヒストリア』214?、2009年。
のちに
?田俊和「鎌倉府施行?の形成と展開」『室町幕府管領施行システムの?究』思文閣出版、2013年。
ISBN
978-4-7842-1675-8
。
と改題
- ^
『喜連川判鑑』では永享10年時点で義久は?に死亡していたとも
- ^
a
b
長塚孝「?論 足利成氏論」長塚孝 編『シリ?ズ?中世?東武士の?究 第三三? 足利成氏』(戒光祥出版、2022年)
ISBN 978-4-86403-421-0
P9-12.
- ^
長塚孝「鎌倉府奉公衆の一過程―?田氏の動向を素材として―」『葦のみち』15?、2003年。
- ^
早?田大??書館
所?『三浦家文書』所?「三浦十左衛門家系?」。
- ^
こちら
を?照。
- ^
詳しくは、
社家の姓氏-大伴氏-
(外部リンク)を?照。
- ^
「大伴神主家系譜集」『鶴岡叢書』 第1輯、鶴岡八幡宮社務所、1976年。
?連書籍
[
編集
]
?連項目
[
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]