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趙 芝?
(チョ?ジフン、
1920年
12月3日
?
1968年
5月17日
)は、
朝鮮
の
詩人
、?文?者。本名は
趙東卓
(チョ?ドンタク、
조동탁
)。
本貫
は
漢陽趙氏
。
?鹿派
の一詩人として?統への?愁を詠った。
高麗大
の?授として?文?の?究に?事し、『韓?民族運動史』、『韓?文化史序?』等の?究書を?したことも大きな業績である。
略?
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1920年
12月3日、
慶?北道
英陽郡
日月面主谷洞202番地に生まれる。父の
趙憲泳
(
朝鮮語版
)
は後に
制憲??
議員と第2代??議員になるが、
朝鮮??
のときに拉致された
[1]
。母は
全州李氏
。兄の
趙東振
(
朝鮮語版
)
も詩人である。趙は幼い頃から17?まで祖父に
漢文
を?び、普通?校には3年通っただけであった。?時の文士が新?育を受けるために
日本
に留?したり、近代?育を??する?校に通ったりしたのにたいして、趙は漢文という朝鮮の?統的?育を受けて育った。このことが、趙の朝鮮的情感を豊かにする助けとなったと言える。しかし、新文?の?誌等を?むことで、?時流行していた
プロレタリア文?
に敏感に反?し、8?でプロレタリア思考の童?を作っている。
1936年
、上京し、
?一島
の??する
詩苑社
に入り、
詩文?派
の影響を受けながら習作する。
ボ?ドレ?ル
、
ドストエフスキ?
、
フロ?ベ?ル
、
ワイルド
等に耽溺し、また民族文化についての?術書を?み始める。
1939年
、父が上京してきて
明倫洞
に住むと、趙は父と生活する。同年、
?化?門?校
文科に入?する。?化?門?校の授業中、落書きのつもりで書いた詩「古風衣裳」をそのまま封筒に入れて投函したのが『
文章
』の選者、
鄭芝溶
の目に留まった。これにより、趙は詩人として文壇にデビュ?する。
1940年
には同人誌『
白紙
』を?刊するが、同人達が??されたために3?までで?刊となった。
1940年
、
宣城金氏
の娘、
金蘭?
と結婚する。
1941年
、?化?門?校を卒業すると、
江原道
の
五台山
にある
月精寺
に赴き、??講院の外典講師になり、ここで
?
を?んだ。その後、趙の詩は情?と主?を排した無奇妙主義と言われる傾向に?わっていく。趙の健康はこの頃から?化し、1941年秋には下山してソウルに?った。
朝鮮語??
の『大?典(
큰辭典
)』の編纂にあたる予定であったが、
1942年
に
日帝
の一???(
朝鮮語??事件
)があり、編纂事業は中?された。趙は?員でなかったために??を免れた。
1943年
、故?に?り
1945年
の解放まで?里で過ごす。密かに?年?を組織し
ハングル
を?えていた。
1945年
8月15日、解放を迎えると、趙は9月に上京する。
朝鮮文化建設協?
?員や
明倫?門?校
の講師になり、また
ハングル??
の?本、
震檀??
の?史?本の編纂員として?文?の?育に?加する。
1946年
6月、
朴斗?
、
朴木月
らと三人詩集『?鹿集』(
乙酉文化社
)を刊行する。これをもって、趙等は「
?鹿派
」と呼ばれるようになる。趙は
1947年
に
高麗大?校
の?授に就任すると20年間、高麗大で?鞭を執った。
1963年
、高麗大に
民族文化?究所
が設置されると、初代所長に就任し、『韓?文化?系』を企?、編纂し、その第1?として『韓?民族運動史』を執筆した。さらに『韓?文化史序?』を執筆し、高い評?を得ている。病魔が趙の身?を蝕み、講義は休みがちであったが、趙の講義は?生達に好評で多くの弟子が趙から育った。
1968年
2月、終に病に倒れる。吐血がひどく、5月16日に
メディカルセンタ?
に入院するが、すでに手?れであった。
1968年
5月17日午前5時40分、?管支?張のため、死亡する。その遺骸は同月21日、
京畿道
楊州郡
磨石里(現在の
南楊州市
)
松羅山
の麓に埋葬された。
1972年
、ソウル
南山
に詩「芭蕉雨」が刻まれた「趙芝?詩碑」が建てられた。
外交官、元
?連大使
の
趙兌烈
は三男
[2]
。元??議長の
朴浚圭
は?姉妹の夫
[3]
。
年譜
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作品
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- 1946年6月、詩集『?鹿集』(
乙酉文化社
)
- 1952年、詩集『草葉?章』
- 1956年、詩集『趙芝?詩選』(
正音社
)
- 1959年、詩集『
歷史 앞에서
』(
新丘文化社
)
- 1964年、詩集『餘韻』
脚注
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