『 資治通鑑 』(しじつがん、 繁?字 : 資治通鑑 ; 簡?字 : ?治通? ; ?音 : Z?zhi T?ngjian ; ウェ?ド式 : Tzu-chih T'ung-chien )は、 中? 北宋 の 司馬光 が、 1065年 ( 治平 2年)の 英宗 の詔により編纂して 1084年 ( 元豊 7年)に完成した、 編年? の ?史書 [1] 。全294?。もとは『通志』といったが、 神宗 により『資治通鑑』と改名された。『 ?公通鑑 』『 涑水通鑑 』ともいう。
??範?は、 紀元前403年 ( 周 の 威烈王 23年)の 韓 ? 魏 ? 趙 の自立による ??時代 の始まりから、 959年 ( 後周 の 世宗 の ?? 6年)の北宋建?の前年に至るまでの1362年間としている [2] 。
この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評?が?えられてきた。また後述のように?際の政治を行う上での?考に供すべき書として作られたこともあり、『 貞?政要 』などと?んで代表的な帝王?の書とされてきた。また近代以後も、司馬光が執筆に用いた史料で?に散逸したものが少なくないため、有力な 史料 と目されている [3] 。
司馬光は『資治通鑑』の史?を選ぶ時、あえて?時全盛であった『 史記 』『 漢書 』以?の正史の形式である 紀?? を取らず、 編年? とした。これは彼が儒?の?典である『 春秋 』に倣うことを目的としたもので、主?を排し客?を重んじる司馬光の思想によるもの [3] とされるが、それ以外にも後述する?葉一?の?究にあるように?時の紀??史書の欠?を補うために行ったものであるとされている [4] 。
本書は、はじめは?に「通志」( 南宋 の 鄭樵 による『 通志 』は別のもの)と呼ばれ、全8?として 1064年 ( 治平 元年)に英宗に上呈された。その後、神宗の代になって「政治上の?考に資するもの(治に資し通じて鑑みる)」という意味合いをもたせて、『資治通鑑』という名を賜った。?容的には、 正史 に記載されていない、 野史 や家?、??などの322種にのぼる豊富な資料に基づいて記載している。とりわけ、 隋 唐 五代 の部分は、 ?陽脩 の『 新唐書 』編纂時に捨て去った史料や、後に?集された資料を?使しているため、正史としての『 ?唐書 』や『新唐書』、『 ?五代史 』?『 新五代史 』と同?に、高い史料的?値を持っている [5] 。
この司馬光の野史を多く用いた方針は?時としては革新的なものであった。唐代以降、正史を編纂する時は儒??典を丸暗記した史官が儒?道?的に問題がない話を 紀?? で婉曲に書くのが好まれていた。唐?宋の史官は貴族出身の官僚たちばかりだったので、軍人を卑賤にみており、軍人の功績を無視し文官の功績を過大に書き、文官の履?書と上表文を大量に?載している。このように冗長で非現?的な?史著述が行われていた [6] のだが、司馬光は軍事面の史?や民間の野史に?っていた話を多く取り上げている。
司馬光が野史を多く使い、編年?という?時としては流行っていないスタイルで?史を書こうとした理由としては、?史?者 ?葉一? の?究では下記の要因が?げられている。
[7]
?時の正史編纂官の偏見については宋の 洪邁 の『容?四筆』?十一に詳しく書かれている [8] 。
洪邁によると、?時の正史編纂官は「無?なこと、家?の記?、?軍した武?が書いた記?、野史に登場する些細なこと、正統ではない王朝の史?などは、恐らくそれを正史に記載すれば文が汚れます」と言って野史や?軍記、家?を捨て去り儒?道?的に問題のない話ばかりを史書に記載していた。司馬光はそうではなく、大?に野史を使って不道?なことも記載していると述べ、「だから資治通鑑の記事の本末は粲然と輝いており、野史や家?を無視してはいけないということが分かるではないか」と述べている [9] 。
司馬光が野史を大いに採ったために、結果的に資治通鑑は?酷な描?が多いと言われるようになった。資治通鑑を?究した 桑原?? [10] は資治通鑑の食人描?をもとに史料を集めて有名な「支那人間に於ける食人肉の風習」という論文を書いたほどである [11] 。これは司馬光が上記のような儒?的な曲筆をすべて排除し、正史が排除していた?時の武人の?軍記?や民間人の手記を「政治家の戒めになるもの」として?考にしているためである [12] 。このことからしばしば「通鑑は小?を採る」と言われて批判されたが、元の『 文?通考 』は「唐?五代の記述で野史を多く採用しているのは、司馬光が世を矯正し、?れた中?の風俗をただし、理想の社?を?現しようとしてやったことである。司馬校を誹謗中傷していたくだらない人間たちは司馬光の志を全く理解しようとしていない。悲しいことだ!」と弁護している [13] 。
逆に文官の功績を?えるために、正史が大量に採用していた文官の詩文や上表文はほとんど整理されてしまった。また、正史が文官の功績を?えるために記していた怪奇現象の類も全て削り、「君臣治??成敗安危の跡」すなわち?史の大きな流れのみを重点的に記すようにした。このことはかなり問題となり、助手劉恕の息子、 劉羲仲 は『通鑑問疑』を著して「淮南王劉安や司馬遷が日月と光を?うとまで褒め?えた 屈原 の『離?』を始めとする文?作品を切り捨て、?代の儒者??者の話も八割がた削除してしまっているのは全くおかしなことだ。また 劉邦 が白蛇を斬ったような怪奇現象は?史著述に必要なもので、それを『資治通鑑』が載せないのはおかしい」と批判して司馬光に?えたが、司馬光は助手に「なかなか良い質問だ」と返答させただけで意に介さなかった。ただ、劉邦の白蛇を斬る話のみ、後に復活させている [14] 。
また司馬光は、?時の正史が制度史???史を?視していたことを非常に嘆いており、資治通鑑では制度の?遷、??史、天文、地理といった百科全書的な記載も多くしている [15] 。注を行った胡三省は司馬光の百科全書的な記載に驚嘆し、「?公の通鑑を作るや、特にまた治?の跡を紀すのみならんや。??????天文?地理に至っては尤も其の詳を致す。通鑑を?む者は?河の鼠の如し。各おの其の量を充たすのみ。」 [16] と述べている。つまり、?河にネズミが口をつけて水を?み、自分が必要な量の水を?んだら?足して?るようなものだ、そして河はいつまでも?きることがないというのである。
本書の作製方法としては、可能な限りの資料を?集し、それを年月日に整理し直して一つの一大資料集(長編とも呼ばれた)を造り上げるという第一段階。次いでその大資料集を下に、司馬光が治世に役立つもののみを?び取り、『資治通鑑』として完成させるという第二段階があった。
このうち、第一段階は司馬光自身が全て行ったのではなく、漢代はその?門家 劉? (?時の著名な?者であった 劉敞 の弟)が、唐代は司馬光の弟子の 范祖禹 が??し、最も難?とされた南北朝時代は?時の史??究の第一人者 劉恕 が??した。そのため、?時としては最も優れた?史編纂の一つとなった。なお劉恕の史料?集は余りに完璧であったため、司馬光はただ出?上がったものを手にするだけで、自分では何もしなくてもよかったと言わしめたほどである。
司馬光はこの書を編纂するに?たって、編年?を取ったことからも、春秋の書法を相?程度意識している。これらは彼の文集に?る諸書の記述や、?時の著名な春秋?者であった劉敞(劉?の兄)への書簡のやり取りなどからも確認することができる。また、考?が必要な資料に?しては、別に『 通鑑考異 』30?としてまとめられている。同?に、年表として、『 通鑑目? 』30?も用意されている。
北宋時代は『資治通鑑』はそれほど喜ばれず、司馬光が知人に?ませたところ居眠りを始めたほどだったという。また、前述のような革新性を持つ史書だったために、司馬光のやり方を快く思わない者たちが批判をしており、司馬光の政敵だった 王安石 一派の新法?は「『資治通鑑』は政府批判の書だ」と言い出し、まるで認めていなかった。司馬光?後に版木を叩き?そうとする薛??林自なる者さえもいたが、皇帝の序文があったので版木は破?を免れたという [17] 。
南宋になると知識人の間で『資治通鑑』は?まれるようになったが、 朱熹 は正統について問題があると『資治通鑑』を批判している [18] 。
むしろ金?元のような 征服王朝 では『資治通鑑』が大?喜ばれ、金が北宋の首都を占領したときに版木を持ち?り、金の 世宗 や元の世祖 クビライ は『資治通鑑』愛?者であった [19] 。 金の世宗は「近ごろ『資治通鑑』を?むと、中??代の興亡が?によく分かり、非常に勉?になる。古の良史より勝っている」と絶?した。またクビライは賈居貞という?者に北方遠征中のパオの中で『資治通鑑』を講義させており、後に『資治通鑑』の略本(通鑑節要)をモンゴル語に??させ、モンゴル族の優秀な?年を集めて『通鑑節要』をモンゴル語で?ばせたという [20] 。
本書が以後の中?史?界に?えた影響は非常に大きく、同じく編年?の?史書や、編年?の欠点を補うものとしての 紀事本末? の?史書が相次いで編纂された [21] 。
これら資治通鑑の影響を受けた史書には大きく分けて2つの系統がある。 まず、 朱熹 の『 資治通鑑綱目 ( 中?語版 ) 』のほか、 袁? 『通鑑紀事本末』のようなダイジェスト本(略本)の系統である。通鑑は浩瀚であるために手頃なダイジェスト版が南宋の頃から『陸?元通鑑』など複?存在していた [22] この『資治通鑑綱目』系の本は 「綱鑑」 (こうかん)と呼ばれ、巷の講?師などがよく種本として用いた。したがって『 三?志演義 』?『 隋唐演義 』などの演義小?ではしばしば資治通鑑の略本「綱鑑」や、あるいは『資治通鑑』本編が引用されることがあると、上田望は指摘している [23] 。
また、『 十八史略 』も正史と資治通鑑をミックスしたダイジェスト本の一つである [24] 。『 十八史略 』を?補した編集者の 劉剡 は『資治通鑑』の略本を出版していた業者の一人であったことも上田は指摘した [23] 。
もう一つの系統は 李燾 『?資治通鑑長編』? 畢沅 『 ?資治通鑑 』? ?以周 ? 秦?業 ( 中?語版 ) 等『?資治通鑑長編拾補』など、『資治通鑑』の?編を意?し、『資治通鑑』で書かれた前の時代、もしくはその後の時代の?史を通鑑にならって書くものである。例えば 陳? の『通鑑?編』は、太古の?史と 遼 王朝の?史を編年?で書いている [25] 。
後世になると2つの系統をまとめた『通鑑輯?』?『 靖?遺言 』のような史書も書かれるに至った。『通鑑輯?』は?の乾隆帝の勅撰で、?史?者の 趙翼 らに命じて通鑑に加えて太古から明滅亡までの?史を資治通鑑及びその?編の書を元にまとめ、細かい訓??典故?考?を付したものである [26] 。
『通鑑輯?』を元に、更に『通典』などを元に制度面を補ったのが 那珂通世 の『支那通史』である。ただし『支那通史』は宋滅亡で終わっている [27] 。 『 靖?遺言 』は『資治通鑑』を元にしているが綱鑑系史書?正史でかなり補っており 顔?卿 ? 文天祥 ら忠臣七名の事績を述べたもので、日本の幕末の志士はこぞって?んでいる [28] 。
また、宋末 元 初の 胡三省 による本書に?する注?(『資治通鑑音注』、略して「胡注」という)は、記事を補正した上に、さらに異なった史料をも提供しており、本書を?む上での必?の文?であり、『資治通鑑』に付された多くの注の中でも、もっとも優れたものである [29] 。
全294?。
版本は他の正史と異なり、?欠なども見られず、ほぼ完全に?存している。司馬光の肉筆原稿はほんの一部分しか?っていないが、司馬光生前に木版印刷が計?され、版下の校正も司馬光の意向で行われている。初版本は流石に?らなかったが、重版のものは?存している。
以下、 尾崎康 の?究により?要を述べる [30] 。 資治通鑑は司馬光存命中に木版印刷が作られ、司馬光は版下の校正も行っている。その間、政?が起き司馬光や助手の范祖禹は政界に返り?いたために手が足りなくなったので司馬光自ら「?問があり、暇そうにしている」 ?庭堅 を校?の官にすることを願い出ており、了承されている。ただし、決定稿が完成し版木が出?たのは司馬光?後の元祐元年10月となった。(司馬光は同年9月病?)刊行は元祐7年までずれこんだ。宋の?子監で刊行したから「?子監本」という。この「?子監本」の初刷は現在?っていない。現存最古の本である「紹興本」(紹興三年?漸東路茶?司刊本…南宋の地方政府機?の「?漸東路茶?司」が刊行したもの)は、尾崎によれば「?子監本」の覆刻と推定される。商務印書館の百衲本も紹興本に依?している。紹興本には政府による刻本の他、坊刻本(民間で作られた粗末な刻本)もあり、六種ほど?っている。ただしこの「?子監本」は注がない。 通鑑紀事本末 の宋刊大字本 [31] は「?子監本」に依?しているため、『資治通鑑』の校訂にも使われている。
元の中期、紹興本に 胡三省 の注を付したものが出版された。これを「胡三省音注本」という。この系統では明治時代に津藩の?者だった 山名留三? が訓点を付した「山名本」がよく知られている。これは江?時代に行われた明の 陳仁錫 の校訂本を元にしているようである [32] 。また、?代に胡克家が復刻した「胡克家本」は現在もっともよく?まれている中華書局本『資治通鑑』の底本となっている。中華書局本が出版される前は山名本や百衲本が?究によく用いられていたと 間野?龍 は語っている [33] 。通行本の中華書局本では、「胡克家本」を元に百衲本(紹興本)や『通鑑紀事本末』などの諸本で校訂が行われており、版本の異同は7000箇所に及ぶという。
近年の日本?中?では多?の『資治通鑑』が??されている。ここでは代表的な版本のみを?げる。
現代日本語?の全?はまだなく、漢文書き下しの「???漢文大成」本が唯一の日本語全?となっている。
この項目は、 中?の?史 に?連した 書きかけの項目 です。 この項目を加筆?訂正 などしてくださる 協力者を求めています ( P:中? / P:?史 / P:?史? / PJ中?史 )。