豊田 副武
(とよだ そえむ、
1885年
(
明治
18年)
5月22日
-
1957年
(
昭和
32年)
9月22日
)は、
日本
の
海軍
軍人
。最終
階級
は
海軍大?
。第29代?第30代
連合艦隊司令長官
。
海兵
33期
?
海大
甲種15期首席。最後となる第19代
軍令部?長
を務めた。
??
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]
1885年(明治18年)5月22日、
大分?
速見郡
杵築町
(現
杵築市
)に生まれる。名前の「副武」は「添え物」に由?する
[1]
。
?制大分?立杵築中?校
を?て、
1904年
(明治35年)
12月17日
、
海軍兵?校
第33期
に180名中第107位の成績で入校。同期には、「?豊田」の片割れの
豊田貞次?
がいるが、和歌山?出身の貞次?とはこれが初面識であった。
1905年
(明治38年)
11月28日
、卒業成績順位171名中第26位で海軍兵?校を卒業。
海軍少尉候補生
として
2等巡洋艦
「
橋立
」?組。
1906年
(明治39年)
2月15日
、
練習艦隊
遠洋航海に出?し、
旅順
~
芝?
~
威海衛
~
?島
~
?淞
~
香港
~
マニラ
~
パ?ム島
~
タウンズビル
~
メルボルン
~
シドニ?
~
バタヴィア
~
シンガポ?ル
~
澎湖島
~
竹敷
~
元山
~
大湊
方面巡航。
8月25日
、?着。
8月30日
?甲巡洋艦
「
日進
」?組。
12月20日
、
海軍少尉
任官。
1907年
(明治40年)
9月28日
、
3等?逐艦
「
朝露
」?組。
1908年
(明治41年)
7月31日
、
海軍砲術?校
普通科?生を?命。
9月25日
、海軍中尉に昇進。
1909年
(明治42年)
1月20日
、
海軍水雷?校
普通科?生を?命。
4月30日
、
第14水雷艇隊
附。
1910年
(明治43年)
12月1日
、
海軍大?校
乙種?生を?命。
1911年
(明治44年)
5月22日
、海軍砲術?校高等科第8期?生を?命。
11月29日
、海軍砲術?校高等科を卒業。12月1日、
海軍大尉
に昇進、
巡洋?艦
「
鞍馬
」分隊長に着任。
1913年
(
大正
2年)12月1日、海軍砲術?校?官兼
副官
に着任。
1915年
(大正4年)
12月13日
、海軍大?校に甲種第15期?生として入?。
1917年
(大正6年)
4月1日
、
海軍少佐
に昇進。
11月26日
、海軍大?校甲種を20名中首席で卒業。
12月1日、
海軍省
出仕
軍事?議官
副官に着任。
1919年
(大正8年)
11月25日
、海軍省出仕兼
?須賀?守府
附。12月1日、在
イギリス
日本大使館附
海軍駐在武官
補佐官に着任。
1921年
(大正10年)12月1日、
海軍中佐
に昇進。
1922年
(大正11年)
8月1日
、?朝。12月1日、
?巡洋艦
「
球磨
」副長に着任。
1923年
(大正12年)4月1日、?須賀?守府附。
6月1日
、海軍省軍務局員に着任。
1925年
(大正14年)12月1日、
海軍大佐
に昇進、軍令部出仕兼海軍大?校?官に着任。
1926年
(大正15年)
7月15日
、?須賀?守府附。
11月1日
、?巡洋艦「
由良
」艦長に着任。
1927年
(昭和2年)
11月15日
、
第7?水隊
司令
に着任。
1928年
(昭和3年)
12月10日
、海軍省?育局第1課長に着任。
1930年
(昭和5年)
12月1日
、
?艦
「
日向
」艦長に着任。
1931年
(昭和6年)12月1日、
海軍少?
に昇進、海軍軍令部?謀第2班長に着任。
1932年
(昭和7年)10月10日、兼第4班長。
1933年
(昭和8年)
2月23日
、免第4班長。
9月15日
、
連合艦隊
?謀長
兼第1艦隊?謀長に着任。
1935年
(昭和10年)
3月15日
、海軍省?育局長に着任。11月15日、
海軍中?
に着任。
12月2日
、海軍省
軍務局長
兼
?官?議
議員に着任。
1937年
(昭和12年)
10月20日
、
第四艦隊
司令長官に着任。
1938年
(昭和13年)
10月13日
、
?1等瑞?章
を受章。11月15日、
第2艦隊
司令長官に着任。
1939年
(昭和14年)
10月21日
、海軍省
艦政本部長
に着任。
太平洋??
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1941年
(昭和16年)
9月18日
、海軍大?に昇進、
??守府
司令長官に着任。10月、
東條英機
?閣の?足時には
海軍大臣
に?定したが、首相が東條と知って就任を拒絶した。もっとも東條のほうでも豊田を忌避してきた。1941年12月、太平洋??勃?。
1942年
(昭和17年)
11月10日
、
軍事?議官
に着任。
1943年
(昭和18年)
4月21日
、
?須賀?守府
司令長官に着任。
連合艦隊長官
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]
1944年
(昭和19年)
5月3日
、
連合艦隊司令長官
に着任。前任の連合艦隊司令長官
古賀峯一
大?の遭難?殉職(いわゆる
海軍乙事件
)を受け連合艦隊司令長官に
親補
される。先任順では山本五十六の死後、連合艦隊司令長官に補職されるべき職位に居たが、兵?校1期後輩の古賀峯一が選任された事にこだわり?け、??末期の就任時にも?初は「今さら任されても自分にできる事は何もないし?力もない」と突っぱねた。?初、連合艦隊司令部を
?巡洋艦
大淀
に設置したが後に司令部を日吉に移動し陸上から指揮を執った。
1944年12月1日、
神雷部隊
を視察。隊員に神雷鉢?と短刀を授?する
[2]
。
1945年4月、?艦大和を含む第二艦隊による
海上特攻隊
が?施された。この作?は連合艦隊?謀
神重?
大佐が?謀長
草鹿龍之介
中?を通さずに豊田から直接裁決を得た。豊田は「大和を有?に使う方法として計?。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ?けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という
[3]
。
1945年
(昭和20年)
4月25日
、兼
海軍?司令長官
。
5月1日
、兼
海上護衛
司令長官。
軍令部?長
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]
1945年
5月29日
、
軍令部?長
に着任。
昭和天皇
は「司令長官失格の者を?長にするのは良くない」と豊田の?長就任に反?する旨を海軍大臣
米?光政
に告げているが、米?は「若い者(本土決?派)に支持がある豊田なら若い者を抑えて終?に持っていける」という意?を天皇に告げ押し切った。しかし結果的に若い者を抑えるどころか押し切られた形になり、米?も親しい知人に「豊田に裏切られた?分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米?の失敗だ。米?のために惜しまれる」と述?している
[4]
。
??末期、軍令部次長
大西瀧治?
中?とともに徹底抗?を訴えた。もっとも豊田は自著で、太平洋??末期に於ける徹底抗?主張で和平派と立場を異にする事により、海軍?部における決?派の暴走を食止めたと自己弁護論を展開している。
高木?吉
は、豊田の見解に?し「苦しい弁疏にすぎず論点甚だ不明」とした上で、「?長、次長は一方面、一?場の指揮官ではなく、陛下最高の統帥幕僚として??指導の?機をにぎり、?家の全局を大?すべき立場にあったはずである。?局に引きずられ、全?民の災難に思いを致さなかったことは、?じて許されない誤りである」と?しく批判している
[5]
。
吉田俊雄
は「もしこのとき、(豊田が終?派についていて)はじめから三?三でなく四?二のバランスであったら、現?のように、
ポツダム宣言
受諾ができたろうか。とすれば、この三?三という?字は、偶然にそうなったと考えてよいのか。いったい豊田?長の心底は、どうだったのか」と書いている
[6]
。
ソ連の??を受けて8月9日?前に行われた最高??指導?議では、軍令部?長の豊田が、招かれてもいないのに軍令部次長の
大西瀧治?
を同席させるなど問題行?があった。さらに8月12日、軍令部?長の豊田は陸軍?謀?長
梅津美治?
とともにポツダム宣言受諾の反?を奏上する
[7]
。同日海軍大臣
米?光政
は豊田と大西の2人を呼び出した。米?は豊田の行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一?になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干?するのではない。しかし今度のことは、明かに一?は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部?一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は「申し?ない」という?子で一言も答えなかった
[8]
。
敗?後
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]
敗?直後の
9月2日
に、第二次世界大?の降伏文書調印式が
東京?
(?の?水道中央部千葉?よりの海域)に停泊中のアメリカ海軍?艦
ミズ?リ
艦上
[9]
で、日本側全?代表?と連合?代表が出席して行われた。しかし豊田は調印式への出席を拒否し、仕方なく
富岡定俊
海軍少?が代理として出席した。豊田のこの行?は「大?として言語道?」、「女?しい」として批判を呼んだ。
また10月の
幣原?閣
?足時、米?は病?を理由に海軍大臣を?退し後任に豊田を推薦したが、占領軍が豊田の太平洋??中に於ける職?から
??犯罪
容疑で調査を進めており、かつ海軍部?に於いても井上や
高木?吉
などから豊田の就任には猛反?があり、ついに豊田の海軍大臣就任は?現せず、米?が海軍省?官まで大臣を務めた。
10月15日
、海軍省出仕。
11月30日
、
予備役
編入。
同年
12月2日
、
連合?軍最高司令官?司令部
は日本政府に?し、豊田を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)
[10]
。
A級?犯
の容疑で
?鴨拘置所
に勾留されたが
極東?際軍事裁判
では不起訴、?いて行われた
GHQ裁判
(豊田裁判)では、
ベン?ブル?ス?ブレイクニ?
及び
ジョ?ジ?A?ファ?ネス
?弁護人の?力によって、無罪判決を得た。のち
公職追放
となる
[11]
。
死去
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1952年(昭和27年)追放解除
[12]
。1957年(昭和32年)9月22日、死去。72??。
評?
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]
井上成美
は?前と?後で豊田の評?が180度異なったものとなり、昭和天皇の意思を無視した徹底抗?や、降伏文書調印式への出席拒否などの女?しい行動により、?前の絶?が一?して?後は罵倒に近い評?をしていたという
[13]
。
家族
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]
- 妻のリトは海軍中??江口麟六(1865-1941)の長女。
- 長男?豊田令一。その岳父に
八木幸吉
。
?典
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著書
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]
- 『最後の帝?海軍』世界の日本社、1950年
- 新版 主婦の友出版サ?ビスセンタ?、1989年
- 中公文庫
、2017年。解?
?高一成
GHQ?史課陳述?
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- 元海軍大?軍令部?長豊田副武に?する質問
1949年(昭和24年)8月29日
- 1945年6月22日最高??指導者?議、藤村?ダレス交?、原子爆?などについて
1949年(昭和24年)9月1日
- 日本の終?に就いての回想
1949年(昭和24年)12月1日
- 終?時の回想若干
1949年(昭和24年)12月1日
- 1945年6月6日及び8日最高??指導?議に就いて
1950年(昭和25年)3月10日
年譜
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出典
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]
- ^
『最後の帝?海軍』
- ^
?友?『海軍神雷部隊』11頁
- ^
?史叢書93大本?海軍部?聯合艦隊(7)??最終期p273-275
- ^
『昭和天皇?白?』
- ^
『高木?吉日記と情報』
- ^
『四人の軍令部?長』
- ^
?史叢書93大本?海軍部?聯合艦隊(7)??最終期 471頁
- ^
?史叢書93大本?海軍部?聯合艦隊(7)??最終期 473頁
- ^
外務省
- ^
梨本宮?平沼?平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 ?日新聞(東京))『昭和ニュ?ス?典第8? 昭和17年/昭和20年』p341-p342 ?日コミュニケ?ションズ刊 1994年
- ^
?理?官房監査課 編『公職追放に?する?書該?者名簿』日比谷政??、1949年、
106
頁。
NDLJP
:
1276156
。
- ^
『?日新聞』1952年4月22日夕刊一面。
- ^
杉本健『海軍の昭和史』光人社NF文庫
- ^
『官報』第7084?「?任及?令」1907年2月13日。
?考資料
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