西?隆盛像
(さいごうたかもりぞう)は、
日本
の
武士
?
軍人
?
政治家
である
西?隆盛
(
1828年
〈文政11年〉 -
1877年
〈明治10年〉)の?彰を目的として建立された
銅像
。
本項では、特に著名な3?の西?像について解?する。
東京(上野公園)の西?銅像
[
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]
東京都
台東?
上野
の
上野公園
に建っている西?像は
高村光雲
の作(傍らの犬「ツン」は
後藤貞行
作)、?造は
岡崎雪聲
、台座は
塚本靖
が設計した
[1]
。1889年(明治22年)
大日本帝?憲法
?布に伴う
大赦
によって西?の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、
吉井友?
ら
薩摩藩
出身者が中心となって建設計?が始まった
[2]
。
宮?省
より500円を下賜され、さらに全?2万5千人余の有志の寄付金で建立された。除幕式は、西?の死後21年を?た、
1898年
(明治31年)12月18日に行われた。
以後、この像は「上野の西?さん」と呼ばれて100年以上も?民に親しまれ、像の意味を少しずつ?えつつ、
東京タワ?
や
西新宿
の
高層ビル
街と?ぶ、東京の象?的光景となっている
[3]
。
製作
[
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]
身長:370.1cm、胸?:256.7cm、足:55.1cm。正面から?した??では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合、
遠近法
で適正に見えるよう計算されているためで、?際の西?の?つきがこうであった?ではない。
銅像には西?の??の姿が望まれたが、西?その人を撮影したとされる信?性のある??が一枚も?っていなかった
[4]
。
岡崎によると、
キヨッソ?ネ
のコンテ?を元に西?の知己?親戚に一?聞き、石膏像や木彫も幾度も修正して制作を進めたという
[5]
。銅像の建設委員長をしていた
樺山資紀
を助けて奔走していた子息の
樺山愛輔
は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西?の特?ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている
[6]
。?際、生前の西?に接した
東?平八?
元帥も「上野の銅像なども、制作には大分苦心された?だが、やはり緊張した顔付だし、少しふとり過ぎて居るように思ふ。」と評し、??等では西?の愛嬌や?和が再現しきれないと述べている
[4]
。
上野の西?像は、西?の妻??子の評言(詳細は次節?照)にある散?している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎?をはさんで兎狩りに出かける姿である。この姿は大山?が
ガリバルディ
のシャツだけの銅像から思いつき、西?の?面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本?の姿にこそあるとして?案した
[6]
。
連れているのはお?に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、
海軍
中?
?
仁?景範
の雄犬をモデルにして雄犬として作成された
[2]
。犬が人?と比べてあまりに小さすぎると批判されたことがあるが、兎狩りに用いる
薩摩犬
は?際小さく、そのままの比率で作るとバランスが?いと考えた高村の意向により像の犬は?物より大きめに作られたと考えられている
[2]
[7]
。
受容
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]
『
太陽
』明治32年2月?の「西?南州の像を評す」という記事で
高山樗牛
は反逆者であった西?と「帝?第一の公園」である上野公園は?史的?係もなく設置場所として不適であると批判する一方で、陸軍大?としての制服ではない服?を?迎した
[8]
[2]
。
公開の際に招かれた西?夫人?子は「
宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ
(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を?かし、また「浴衣姿で散?なんてしなかった」といった意の言葉(
薩摩弁
)を漏らし、周?の人に窘められたという。
[
要出典
]
この?子の言をも、樺山愛輔は「大?の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出?たらうが、…」
[6]
と解?している。
上野公園の銅像に?する?子の?言については、「銅像の顔が本人に似ていないことを意味する」と解?する?もあるが、昭和50年代に鹿?島?下で小?生に無料配布されていた西?隆盛の?記?本『西?隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正?ではなく、普段着で出るような?儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解?している。
除幕から2年後の明治33年の『尋常?語?本』(金港堂書店)にこの像の話が?載された
[2]
:
コノ 大キイ 人 ハ サイゴ?タカモリ ト イフ 人 デ アリ マス。
タカモリ ノツレテ ヰル 犬 ハ、ケモノ ヲ カル トキ ニ、ツカフ 犬 デ アリ マス。
タカモリ ハ、リクグン ノ タイショ? デ、 ヨ ニ メヅラシイ エイユ? デ ゴザイ マシ タ。
美術史家
の
吉田千鶴子
の調べによると、?初「馬上」で「
陸軍大?
軍服」姿の??が募集された
[9]
が、騎馬像とするには資金が足りず、次に「大?服着用の立像」となり雛形まで出?あがったものの、今度は「さる筋から大?服姿に猛烈な反?が起」こり、最終的に現在の姿になったという
[10]
。そこには、西?の高い人?故に反政府的機運を?成しかねない動向を逸らし、西?から武人としての牙を?き、犬を連れて?く人畜無害な人物というイメ?ジを民衆に定着させようとする、政治的意?が?いていたと見られる
[11]
。
一方、
荻原碌山
は西?隆盛像への嘲笑や批判に?し、
ロダン
が制作した??き姿の
バルザック
像を引いて、彫刻は製作者が?究の末にモデルの性格を表すのに最も適?と信じる服?をさせるものであり、それを云?するのは「銅像の本義を解せざるもの」と援護している
[1]
。
造像後、西?隆盛像を目がけて紙玉を投げつけるという奇妙な風習がはやり
[12]
、
昭和
に入っても鼻に?たると出世すると言われた。見かねた鹿?島?人?らは、?掃を買って出たという。また、
?東大震災
の時には、尋ね人の貼り紙を貼る?示板に代わりにされた。その後も、
銅
の?値から犬の像の方を?もうとする輩が度?表れたが、この企ては成功しなかった
[13]
。
「
上野の山の?と西?隆盛像
」
上野の山の?は、天海僧正(1536 - 1643)が、江?城?護を祈願して?永寺を創建した時、上野の山の?所に?の木を植えたことに始まる。?の名所として知られるようになったのは元?年間(1688 - 1704)。上野公園入口に建つ西?隆盛(1827 - 1877)像は、明治31年(1898)の建立で、筒袖に兵??姿、わらじばきの像は高村光雲(1852 - 1934)の作。連れ添う犬は後藤貞行(1849または1850 - 1903)の作。?き誇る?の?あり。上野の山の西?隆盛像が描かれた商標が、書き?されている。
? ?水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「上野の山の?と西?隆盛」より??
[14]
鹿?島市の西?銅像
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上野公園の西?像に?して、
鹿?島市
城山町
の
鹿?島市立美術館
近くに立つ?土の彫刻家?
安藤照
が
1937年
(昭和12年)に作成した西?の銅像は軍?(陸軍大?)である。明治より時代が下って鹿?島市に建てられた銅像が、陸軍大?の正?で直立不動の姿勢であるのは、西?の名?回復という?点からすれば、未亡人が本?期待した姿に近いと考えられる。
製作とモデル
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西?と同じく鹿?島?出身で作家の
海音寺潮五?
は、絶筆となった著書『西?隆盛』にて次のように述べている。
「これはぼくだけの見?だが、安藤は西?の孫にあたる西?隆治さんをモデルにし、それを彼の主?でアレンジして造形したのではないかと思っている。安藤は
鹿?島二中
の出身であるが、隆治さんも二中の出身だ。大?同じころに在?している見?でもある。隆治さんは西?が奄美大島に流謫中にめとった島の娘アイカナの産んだ菊次?の子で、西?に最もよく似ているといわれている人である。大正八年、ぼくは鹿?島市から六里北方の
加治木中?
を卒業して鹿?島に出ていたが、ある日友人と一?に電車に?ると、車中に年頃二十四、五の?年のいるのが目についた。折り目正しい薩摩ガスリの着物に紺のはかまと紺足袋をはき、右手にステッキをつき、左手につり革をつかんで立っている。目をひく立派さだ。ぼくが感嘆して見とれていると友人がささやいた。『あ、西?どんの孫じゃ』『ほう、ほんとか』『西?隆治というのじゃ。二中の卒業生で柔道が?かったのじゃ』と友人は答えた。?格は雄偉で、骨格はたくましかったが、肥?というほどではなく、引きしまっていた。顔立ちは眉が濃く太く、眼裂の大きい目はけいけいとしてかがやきが?く、身だしなみよく剃った??としたひげあとが?うばかりであった。最も男性的な風貌であった。『りっぱじゃなあ』とぼくが感嘆すると、友人はさらに答えた。『西?どんの孫の中で一番似とるといわれているお人じゃ』ぼくは若い日の西?を想望したのであった。ともあれ、安藤のつくった銅像は隆治さんによく似ている。」
? 海音寺潮五?、『西?隆盛』
[15]
?の安藤は?大西?と銅像?(『
改造
』第19?9?、1937年)にて、次のように記述している。
「襟は十九インチ、身長は五尺九寸余、?重は二十九貫と云うので胴回りなどの?究を進めることもできた。翁の令孫隆治氏は柔道?道の達人で相?偉大な??の持主であるが、この大?服を着用せられてなお二貫余の綿を入れなければならなかった。また私共が、二人も一しょに入れるような胴回りである」
? 安藤照、?大西?と銅像?、『
改造
』第19?9?、1937年
2008年
(平成20年)12月30日の
南日本新聞
記事によると、西?のモデルは、元?山形?議の男性であることが判明。安藤のアトリエで撮影された、銅像のひな型や肖像?などが?り?んだモノクロ??が、男性の遺族宅で?見されたという。遺族は「(祖父の)目は隆治さんに似ていると思う」とも述べている。
霧島市溝?町(西?公園)の銅像
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鹿?島?
霧島市
溝?町麓
の
鹿?島空港
近くにある
西?公園
の西?像、正式名?「
現代を見つめる西?隆盛像
」は?初、
1977年
(昭和52年)の西??後100年?彰事業として?西在住の鹿?島?出身者らが
京都市
の
京都?山護?神社
に建立する計?を立て、彫刻家?
古賀忠雄
に?注して作られたものである。?在の人物像としては日本最大となる10.5メ?トルに及ぶこの立像は
1976年
(昭和51年)に完成したものの、?注者の死去により計?が宙に浮いたため、
富山?
高岡市
の倉庫に10年以上も保管されたままの?態となった。
1988年
(昭和63年)、報道により像の存在を知った溝?町の有志が古賀忠雄の遺?で彫刻家の
古賀晟
らと協力し、像を現在の場所に誘致すると共に一?を公園として整備した。
その他の建立計?
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- 1888年(明治21年)、薩摩藩と親交のあった
嵯峨?愛
の近親者にあたる植田??が?起人となり、京都
?水寺
の近くに西?像を建てる計?が存在した
[16]
。この銅像のデザインは建築家の
河合浩?
が設計したものでイメ?ジ?では軍服で騎?姿の西?像となっていた
[16]
。この計?には
樺山資紀
や
九鬼隆一
の呼び掛けで
西??道
も?同していたが?起人の植田??が亡くなり?現しなかった
[16]
。
脚注
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?連項目
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]
ウィキメディア?コモンズには、
上野の西?隆盛像
に?連するカテゴリがあります。
外部リンク
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