17世紀の
西?の服飾
(せいおうのふくしょく)では、17世紀の
フランス
を中心とする西ヨ?ロッパ地域の服?を扱う。
特?
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17世紀最初の二十年ほどは、16世紀とほとんど?わらない
スペイン
風ファッションが主流であったが、動き辛く煩わしいフレ?ズ(英語ではラフ。
?襟
)の?量化や、正面が開いてブラゲット(英語では
コッドピ?ス
)という布で?していた
オ??ド?ショ?ス
(半ズボン)の?脚部分が現在のズボンと同じように?げて仕立てられるなど改良が進められたものもあった。
この時期のファッションは、男性の場合、半ズボンやプ?ルポアン(英語では
ダブレット
。上衣)に詰め物をして、女性の場合は
コルセット
で胴を締めあげ
?
などでできた?(ベルチュガダン、英語では
ファ?ジンゲ?ル
(
英語版
)
)でスカ?トを大きく膨らませ、さらに大きな?襟を付ける非常に動きづらいものであった。
各地で??が激しくなる1630年ごろから、男性のファッションからは?襟や詰め物が消え、
アレクサンドル?デュマ
の『
三銃士
』の??に描かれるような、より動きやすく自由な印象の服?が主流になる。
ファッションを牽引していたスペインは弱?化し、スペインから?立を勝ち取りつつあった新興?
オランダ
の富裕市民の衣?が流行した。
?時マントと呼ばれたケ?プの一種やブ?ツなど農民や兵士の野外での服?だったものが、宮廷のサロンや舞踏?でも身につけられるようになった。
上衣は徐?に短くなっていき、半ズボンは膝下丈となり、運動しやすいゆとりをもたせたものとなった。
女性の場合、やや?れて1640年代にコルセットやスカ?ト?が?れはじめ、スカ?トを重ねて膨らませパントゥフルというスリップオン式の靴を履くより?やかなファッションが主流になる。
コルセットは
ボディス
と一?化するなど、ゆるやかになる。
騎士たちには長?と?が流行して、
レ?ス
の
カフス
やカノン(膝飾り)全身にギャランというリボン束を身につける華やかな格好をした。
その極地として、1650年代ごろからオ?ドショ?スの上にラングラ?ヴ(英語ではペティコ?トブリッチズ。つまりスカ?トのような半ズボン)というリボンを飾ったほとんどスカ?トに見えるキュロットスカ?トを穿く流行が生まれる。
しかし、17世紀を代表するのは1661年から始まる
ルイ14世
の親政をきっかけに生まれた、バロックスタイルと呼ばれるフランスファッションである。
フランスファッションはイタリアに素材を依存していたスペインファッションと違い、最初から??のモ?ド産業による利益を意識していた。
1627年に
重商主義
政策をとった
リシュリュ?
によって、「金?、銀?、レ?ス、モ?ル、ビロ?ドの輸入禁止令」が出され、?いて1633年にはより?しい「金紐、銀紐、金銀織物、サテン、ビロ?ド、金銀刺?、?飾りの禁止令」が出された。
この時期のこれら贅?な織物や?飾は、多くが
イタリア
などからの輸入品であったため?の財政を守るための措置であった。
リシュリュ?の後を?いだ
マザラン
も?しい禁止令を引き?ぎ、1644年には「華美なる刺?、金銀織物の禁止令」を?布している。
マザランの後?者であり、財務?監となってフランスのモ?ド産業の基礎を築いた
コルベ?ル
(ラシャ商人の家に生まれる)は
「フランスにとってのモ?ド産業はスペインにとっての
ペル?
の銀山である。」
とモ?ド産業の重要性を述べている。
1667年には、諸?の王や貴族の美麗な衣?への要求を?たす、リヨン王立織物製作所と王立レ?ス工場が相次いで設立されている。
また、華麗な衣?に不可欠なシルクのための養?業がこのころリヨン近郊の農村を中心に軌道に?っていた。
この時代、フランスでは1672年に最新ファッションの版?を載せた世界初のファッション誌『メルキュ?ル?ギャラン』が創刊され、パンドラ(正?の大パンドラと日常着の小パンドラの二種がある)と呼ばれるマネキンにパリの最新流行の衣?を着せてヨ?ロッパ中に送り最新モ?ドを知らしめた。
1670年ごろから、フランス貴族の衣服と言って現在連想されるような衣?、
ジュストコ?ル?ヴェスト?キュロット
の一式が確立し始める。
女性の?型や服の作りは有力な
サロン
の女主人(多くはルイ14世の愛人や女友達であった)に影響され、目まぐるしく細かな?化を起こしている。
新しい布地の登場に?しては、インドから輸入された華やかなプリントの木綿布「アンディエンヌ」が貴族の部屋着として大流行したほか、このインド更紗の模造品が
プロヴァンス
で製造されるようになった。
フランスではシルクの?産化が進んだため、キャムレット(アンゴラヤギやヒツジやラクダの毛とシルクを交織した平織の服地)やボンバジン(シルクと羊毛を交織した綾織の服地)やトビン(
モアレ
模?の
タフタ
)やカルテック(服の裏地に使う薄いシルク)などが市場に出回る。
男子の服飾
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1620年代までのスペインファッションの?子は、
西?の服飾 (16世紀)
を?照。特?としては服にきつく詰め?まれた詰め物と固い飾り襟によって威儀を正す、大?格式ばって動きにくいものであった。
1630年代頃には世俗世界ではほぼ完全にスペインスタイルが?逐され、騎士達の間でより柔軟で活動的なファッションが主流となる。
タマネギのように膨れていたオ?ドショ?スは詰め物が取れ、レ?スの付いた
リボン
や飾りボタンで膝下で?を留めた上から「カノン」というレ?スの膝留めを飾った。
生地に切れ?みを入れて飾るプ?ルポアンは引き?き着られたが、腹に詰められていた詰め物が?れて自然な?の線を描き、袖丈や着丈は徐?に短くなって、服の?側で結んでいた「エギュイエット」(オ?ドショ?スを吊る
リボン
)は
鳩目
を通して外側で結ばれてリボン飾りの役割も果たした。
そして、襟は柔らかく垂れさがった通?「ルイ13世襟」を付け、コラ?という袖のない革の上着、爪先の尖った膝丈のブ?ツ(後に上部を大きく折り返した腿丈のブ?ツ)、?石を飾った?、マントルというケ?プ型の外套を片方の肩に引っかけ、「レスポンダン(感?)」という鍔の大きく?がったフェルト帽をかぶった。
この時期からのファッションには豪奢な毛皮や金?銀?の重厚な刺?よりも、「ギャラント」という色鮮やかなリボン束が好まれてあちこちに飾られるようになる。
1661年、長くフランス政界を支配した宰相
マザラン
の死により、17世紀を代表するファッションリ?ダ?であるルイ14世の親政が始まる。
この頃、17世紀の初頭に比べて袖丈はおよそ三分の二、着丈は半分程度とプ?ルポアンは極端に短くなっていた。
防寒のために、ドロワ?ズというゆったりしたパンツ、カミソルというシュミ?ズの下に着るシュミ?ズや、兵士の外套から?展したジュストコ?ルという上着、部屋着として
ヴェスト
と言う丈の長い長袖の中着が着られるようになり、プ?ルポアンは衰退していく。
また、ルイ14世は脚が美しいことを常?自慢にしており、
ハイヒ?ル
を履いて脚の長さを?調した。
?が薄かったルイ13世が着用し始めたかつらは、小柄だったルイ14世によって?き毛を背や胸に長く垂らし頭を高く盛り上げた「アロンジュ」という大仰なものへと?化している。
レスポンダン帽はかつらの邪魔になる?いつばを折り返すようになり、「トリコルヌ」(
三角帽
)へと?化した。
こうして、1680年代頃にフランス宮廷衣?を代表するジュストコ?ル?ヴェスト?キュロットの一?いとハイヒ?ル?トリコルヌという、18世紀の革命期まで多少の?遷を?て受け?がれる華やかなファッションが定着した。
庶民の服?
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農夫や樵たちはおおよそ17世紀を通して、シュミ?ズの腕をまくり上げ、昔ながらの「ホ?ズ」(長ズボン)か、ブリ?チェス(
ニッカ?ボッカ?
風の短いズボン)を穿いている。
農夫達は、時には頭巾を被り、種まきの時に?を入れたり手を拭うのに便利な短いエプロンを締めていた。
また、防寒用にジャケット風の外套を着ることもあり、
ドイツ
の農民の間ではこうしたジャケットを「ロック」、イギリスでは「ジャク」と呼んでいた。
ロックは兵士の防寒着にもなっており、フランスではこの兵士の外套を「カザック」と呼んで?く着るようになり、後に「ジュストコル」という宮廷用の外套の起源となる。
長く?を伸ばすことはかつて貴族の特?であったので、?はだいたい短く刈り?んでいた。
領主たちの下で羊を追う羊飼いたちは古風な服?を守っており、シュミ?ズの上に古風なゆったりした飾り?のないプ?ルポアンを着てブリ?チェスを穿く。
防寒のため「クロ?ク」(釣鐘型の長いマント)を羽織って、ブ?ツを穿き、平らなクラウン(帽子の頭が?まる部分。帽子の山)と?い鍔をもったフェルト帽をかぶった。
農家から買い上げた牛乳を街に?りに行く牛乳屋は、ジャケットにキュロットを穿き、大きなボタンのついたブ?ツと平らな帽子、ミルク缶を荷馬車から積み下ろしするために膝まで覆う長いエプロンを身に付けた。
農村に住む庶民の中でも、ワイン作りの親方はプ?ルポアンに膝丈のブリ?チェスを穿いて革のエプロンを締め、17世紀を通じて聖職者のように固い?襟を身につけて威儀を正していた。
これは、ワインが??の祭祀に使われる重要な物品であるがゆえに、ワイン作りの職人もある程度尊重され裕福であったためである。
町に住む職人たちの衣?も互いによく似ていたが、職業ごとに多少の差異がある。
職工
は短いプ?ルポアンにブリ?チェスを穿いてエプロンを締め、円錐型の帽子を被っていた。
靴屋
も格好に大差はないものの、?い革靴がトレ?ドマ?クで、外出するときにはジュストコルを着ていた。
肉屋
は、シュミ?ズの袖をまくり、力仕事に耐える袖のない革のプ?ルポアンを着ているのが特?的だった。
パン屋
は、粉で汚れないように袖の短いシュミ?ズを着てエプロンを締め、?を覆う帽子を被っていた。17世紀も末になると、?潔感のある白いエプロンがトレ?ドマ?クになる。
17世紀には、さびれた農村から街に職を求める人夫という職業が登場する。
?外での作業の寒さをしのぐベルトつきのコ?トに長い中着、膝を覆わない程度の短いブリ?チェス、フェルト帽と?丈の革靴に作業で出る小石などを入れておくためのバスケットを常に携?していた。
上流市民の服?
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1630年代頃から、男子服の流行の先端は新興?オランダの富裕市民にあった。
このころのファッションリ?ダ?である裕福なオランダ市民の身なりは、
レンブラント
の『
夜警
』の市民隊の衣?を見るとよくわかる。
堅かった襟は柔らかく肩に?がり、帽子はつばが?い柔らかな物を長?の上に被り、プ?ルポアンと膝下までのゆったりしたズボンをブ?ツと合わせている。
スペインモ?ド同?、オランダモ?ドも?や深紅が中心的であったが、前世紀の濃く重い色合いに代わって、淡い?、淡い赤、淡い?、薄い?などパステル調の色や煙ったような色合いが人?を博すようになった。
また、アグリッパ?ドゥビニエによれば、17世紀初め「修道女の腹」「陽?な未亡人」「病?のスペイン人」「毒殺された猿」「便秘の女」「疱瘡色」などの奇を衒った色名が流行していた。
これらは淡いピンクや濁った?褐色から?がかった鈍い?色というこれまでほとんど衣服に使われなかった色合いである。
1635年ごろから農民が着ていたジャケット型の衣服がモ?ドの世界に現れ始める。
男子服の上着の丈やズボンの股上はこのころだんだん短くなっていき、若い裕福な男性は肌着であるシュミ?ズや
ドロワ?ズ
の一部が見えた?態で街を?くのが?たり前になった。
ルイ14世の親政が始まった1661年に?表された
モリエ?ル
の『
亭主?校
』には、堅物のスガレナル?年が流行の服?に目がない派手好きの兄を?める一幕がある。
堅?な弟は腹を完全に覆うプ?ルポアンにぴったりしたオ?ドショ?スを穿いているが、兄は小さな帽子を被り長い金?の?を身につけ、腹部を覆わない短いプ?ルポアンに、シュミ?ズからジャボ(襟もとの?飾り)を椅子に掛けた?態でテ?ブルにつくほど長く垂らし、派手なレ?スのカフスとカノン(膝飾り)の?い。
さらにペティコ?トを穿いているではないかと弟を?れさせている。
これは、1650年代ごろから流行していた
ベルギ?
フランドル地方に由?する「ラングラ?ヴ」という一見したところスカ?トに見える幅の?い半ズボンであろう。
完全にスカ?ト型をしたものであったという?もあるが、
サミュエル?ピ?プス
が日記に街の笑い話として「ペティコ?ト?ブリッチズ(ラングラ?ヴの英名)の片方の筒に?脚を通したまま、まる一日?付かなかった男」の?話を書き留めていることからも現代のキュロットスカ?トに近い形のものと考えた方がよさそうである。
ラングラ?ヴの?や腰には、色好みや優男を意味する「ギャラント」と呼ばれるリボン束をたっぷりと飾っていたのでますます女性的に見えた。
1656年頃には、流行の衣服上下一式には500~600のリボン結びがついていて、300エレ(2メ?トル弱)の長さのリボンを買っても必要な?には足りないと言われている。
1680年代には流行が下火となったようで、1682年の『メルキュ?ル?ギャラン』には「ラングラ?ヴとカノンには我慢がならない』と非難されている。
17世紀には、カ?ルした長い金?の?は富裕市民層の若者に「獅子のように雄?しい外?を?える」と2000フラン~3000フランと言う高値にもかかわらず非常に人?があった。
また、金?以外の生まれつきの?も長く伸ばして思い思いにヘアセットすることが流行した。
長?が一般に流行したために、1650年代には肩を覆うほど?かった飾り襟が、首元が詰まって幅が?く胸元まで垂らすタイプになっている。
このタイプの飾り襟は後にクラヴァット(
ネクタイ
の原型となったスカ?フの一種)に移行した。
サミュエル?ピ?プスは1662年10月11日の日記に、市場で自分が身につける男物の90シリングのクラヴァットと妻へ贈る女物の45シリングのクラヴァットを購入したと記している。
1681年のフランスのファッション誌『
メルキュ?ル?ド?フランス
』では、レ?スのクラヴァットとカフスはセットで購入するものとされており、合わせて50ルイド?ル前後が相場であったらしい。
ルイ13世の親政の頃には、?の薄かったルイ13世が宮廷の正?に?を持ちこんだのと同時に、長い?をカ?ルさせたり編んだりした「カドネット」という?型にリボンや?石を飾った「ファビュ?ル」というファッションも流行した。
この?飾過多な?型はルイ13世の同母弟で、ガストン?ジャン?バティストが彼を慕う貴婦人からの捧げものを?に飾ったのが宮廷での流行の?端とされている。
男性が愛の?として?人から贈られたリボンを?に結ぶ風習は、もともと農村や町の若者の間から起こったもので、ドイツでは、?人から贈られたものと?って自分で買い?んだリボンを?に結ぶ見?っ張りの男を馬鹿にする民?が?わっている。
裕福な市民の若者には、?で?いた?き毛を垂らしたもののほかに頭全?をふわふわとした?き毛で覆った「プ?ドル頭」が流行している。
モリエ?ルによって1668年に?表された『守?奴』では、裕福な老人が息子の?と?のリボンの値段を見積もって20ピスト?ルはすると非難しているが、?時の富裕市民層の若者にとってはこの位の値段の?が相場であったのだろう。
一方、役所や裁判所に勤める者たちは、威儀を正すためスペイン風の堅苦しい恰好をしなければならなかった。
ドイツ
では18世紀の末まで、役人が?襟を身に着けていたという。
スペインの影響が?かった
ベルギ?
や
オ?ストリア
では、宮廷を中心により?い層にスペイン風の衣?は長く着用されていた。
ただし、スペイン本土でも余りに不便であった?襟の改良はされており、?時主に着用された飾り襟は皿を意味する「ゴリ?リャ」という?を?まないリンネルを糊で皿型に張った小さく低いものである。
17世紀末期には、ルイ13世が宮廷中に着用させ、ルイ14世がたっぷりした?き毛を大きく盛り上げる形に改良した男性用かつら「アロンジュ」を聖職者や裁判官も着用することとなった。
特に裁判官が威儀を正すためかつらを身につける習慣は現代まで生き?っている。
聖職者の場合、カトリックの重要な儀式である塗油の儀のためにかつらを外さないで?むように、頭頂部に切れ?みや窓を作って儀式の際だけ開くように工夫していた。
上流階級の服?
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宮廷では、スペイン風の服?が日常着から?れてからも長く正?としてスペイン風の服?が使われていた。
1688年にナポリからウィ?ンに派遣された使節が、宮廷?ではスペイン風の服?をいまだに着用していると?言している。
靴下は綿ニットのものを重ねて使うことが多くなっていて、1613年の
ラトランド伯
の財産目?には肉色(ピンク)、?、灰色、銀色、?のストッキングを所持しているとある。
しかし、宮廷の儀?やミサ以外では日常の衣服はもちろん舞踏?など貴族同士の社交の場でも、上流市民の項目で紹介したようなより?快な格好が?たり前であった。
1675年のモリエ?ルの喜劇「ドン?ジュアン」では、水に落ちた貴族ドン?ジュアンを助けた農民が彼の服?に仰天している一幕がある。
ドン?ジュアンの服?は、大きく膨らんだアロンジュ?に、農民のものの二倍近く膨らんだシュミ?ズの袖、人間二人が入れるほどの?幅のズボン「ラングラ?ヴ」、低い襟のついたプ?ルポアンは腹を覆わないほど短い上に袖がなく、長い「クラヴァット」を締めているとある。
しかも、レ?スのカフスと膝飾り「カノン」を身につけ、いたるところにリボンの束をくくりつけている。
このリボンの束は1690年代ごろまで流行し、伊達男という意味の「ギャラント」と呼ばれている。
色は自分の好みのものを使うほか、家に代??わる騎馬試合での色や、意中の貴婦人の好む色などを身に付けた。
プ?ルポアンが極端に短くなると、?が冷えるのが防ぐために室?においては豪華な生地で仕立てた長袖で丈の長いジャケット「
ヴェスト
」を着た。
ヴェストは後に、外套の下に着る中着として定着した。
17世紀後期には、部屋着として「アンディエンヌ」と呼ばれたインド更紗の
ガウン
が流行。
モリエ?ルの『町人貴族』では、貴族にあこがれる成り金が?のカミソルと赤いビロ?ドのズボンという派手な格好の上に「貴族の間に流行している」という理由で高?なアンディエンヌの部屋着をわざわざ仕立てさせる場面がある。
上着として兵士が着ていた「カザック」というコ?トを洗練させ、腰にぴったりした服を意味する「ジュストコ?ル」と呼んで着た。
これは膝丈のジャケットの背と脇にダ?ツを入れて腰を絞り、?の?脇に?をいれて??がりにしたものだった。
?馬
のために、背中には現在の
背?
のセンタ?ヴェンツと同じような背割が入り、袖口は漏斗型に?がっていて大きく折り返し、しばしば
モ?ル
で?飾された。
17世紀から頻繁にファッション界に登場するようになったモ?ルは、
トルコ
軍の階級章であったものがトルコに?が深いイタリア?由で大いに流行した最新ファッションであった。
この宮廷での華やかな衣?にはクラヴァットというスカ?フのようなものを?いた。
これは、幅30cmで長さは1mほどの白麻やモスリンの布で、後に2mほどまで長さが伸びた。
1660年に靴屋がボルド?の視察に訪れたルイ14世に、爪先が四角く踵が赤色のハイヒ?ルを?上したところ、王にたいへん?に入られて宮廷で必ず身に付けるようになった。
貴族男性は王の好みを?似、贅?な服?をする上流市民に?して踵の赤いハイヒ?ルを履くことを貴族のみの特?として宣言した。
女子の服飾
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女子の衣服の改良は、男子に十年ほど?れて1630年代に徐?に進んでいく。
まず衰退したのが大仰なスカ?ト?と胴?を締めつけるコルセットであったが、?時の女性達はスカ?ト?で大きく?がったスカ?トが急にしぼんでしまうことに慣れなかったためか、過渡的に浮き輪型の腰?てを?てたり最上部のスカ?トを腰までたくしあげるファッションが見られるようになっている。
やがて、スカ?トのボリュ?ムは、刺?を施すなどした豪華なジュップ(アンダ?スカ?ト)を三枚重ねにすることで保たれるようになった。
その上から着るロ?ブは
ボディス
と引き?の付いたオ?バ?スカ?トが一?化したものだが、胸の膨らみを?すスペインファッションの反動なのか、透けるロ?ン布のフィシュ(スカ?フ)で覆うものの乳首のすぐ上まで台形に襟ぐりを開けるようになっていく。
靴も男性の履く動きやすいブ?ツに??するかのように、スリップオン式(ロ?ファ?のように、足の甲を紐やボタンやバックルで固定しない足を滑り?ませるように履く靴)の「パントゥフル」というものが流行した。
1650年代にはボディスの中に
葦
を入れて仕立てて?型を補正するコ?ル?バレネが登場し、袖も七分丈程度に短くなって「アンガジャント」というレ?スを重ねたカフスで飾り、ジュップも二枚重ねが主流となった。
男子の?襟が、いまだスペインファッションが流行していた1620年代から糊づけをやめる者が出るなど早くに?れたのとは?照的に、女子のフレ?ズは1660年代まで生き延び、最末期には巨大化する風潮まで見られた。
男性がふくらはぎに詰め物までして脚線美を誇っていた頃、貴婦人もいったんは下火になっていたコルセットを使って腰を細く胸をより豊かに見せようとした。
1667年には??のタイユ?ル(仕立屋)ギルドから、クチュリエ?ル(婦人服仕立屋)ギルドが分立し、婦人服の?門家が出現。
貴婦人達は?紛れな流行の?化にますます?頭した。
しかし、クチュリエ?ルが密室で肌も露わな貴婦人に?れることが風紀を?すという懸念から、1675年には女性によるクチュリエ?ルのギルドが?から認可を受ける。
女性の婦人服職人は、まず重く堅苦しいコルセットの?量化を?り、貴婦人達の友人として存分に腕をふるった。
庶民の服?
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農婦は白麻の小さなボンネットやスカ?フ、?わら帽子を被り、安い毛織の長袖のボディスとスカ?トやワンピ?スの上にオ?バ?スカ?トを着てエプロンを締めている。
長袖のボディスの上から袖のないボディスやジャケット風の上着を身に付けている者もいるが、一?に飾り?のない?い
ロ?ファ?
のような靴を履いている。
市民の間にオランダファッションが流行した1650年代前後の一般の女性の服?は?時の風俗?家
フェルメ?ル
や
ヤン?ステ?ン
の作品などに見られる。
よく見受けられる色は、淡い?色を中心に淡い赤や水色、褐色、それに濃い?である。
濃い?色はかつては王家の象?とされるほど高?であったが、簡?に濃く鮮やかな?色が染められるインド藍の輸入が始まると1640年代後半には??の淡い?しか出せないヨ?ロッパタイセイは?逐されてしまった。
女中は?きやすい地味な?いワンピ?スに襟の詰まった白い小さな襟をつけており、上流市民の女性が大きく胸元を開けているのとは好?照である。
ルイ14世治下のフランスで絹や木綿布の生産が軌道に?ると、上流階級への商品に仕立てる素材を取り分けた後の品質の?い絹や木綿が出てきた。
これを薄い布地に織りあげて庶民用に?りだしたところ、庶民の女性に大?な人?を呼んだ。
こうした布地はたいてい灰色がかった色をしていたのでグリゼットと呼ばれたが、こうした身分の低い女性をややあざけって呼ぶときに「グリゼット娘ども」といういい方がされることがあった。
上流市民の服?
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1640年代には、
長手袋
とマフが登場する。
市民の間にオランダファッションが流行した1650年代前後の一般の女性の服?は?時の風俗?家
フェルメ?ル
や
ヤン?ステ?ン
の作品などに見られる。
よく見受けられる色は、淡い?色を中心に淡い赤や水色など?やかな色合いである。
スカ?トに?はなくなり床に引きずり、コルセットで胴?全?を締めつけることもなくなったため全?のシルエットは16世紀よりふくよかに見える。
布地も重厚で豪華なブロケ?ドよりも、つやつやとして?やかなサテンに人?が集まった。
スカ?トがゆるやかに?がっているのは三枚のジュップ(アンダ?スカ?ト)を重ねているからであり、フランスでは上から「ラ?モデスト(つつしみ)」「ラ?フリポンヌ(おてんば)」「ラ?スクレット(秘密)」とそれぞれ違う名で呼んでいた。
胴?を締めつけなくなったために胸のふくらみが復活し、襟ぐりを台形に?く開けて胸元を見せるようになった。
袖は17世紀前半に流行したメディチスリ?ブに代表される詰め物をして膨らみをいくつも作った動きづらいものではなく、七分丈程度でややゆとりのある長袖が普通であった。
上着として尻を覆うくらいの丈をしたゆったりした上着を着ることもあったが、たいてい毛皮の?が付けられていた。
フェルメ?ルの財産目?には、モデルに着せるためのと思われる「?色いサテンのテンの毛皮?の上着」が?されており?時の流行を反映した風俗?のために?家が購入したものと思われる。
部屋着としては、オランダでは「ヤポン」という着物風のガウン(時には非常に裕福な婦人が日本から取り寄せる本物の和服をはおることもあった)が特に富裕な上流市民に流行していた。
外?風趣味の物珍しさと富の誇示に加え、いまだに高?であった上質の絹をガウンとして着用する最高のぜいたくであった。
日本と交易ができないイギリスやフランスでは、上流階級の人?が似たようなガウンをインド更紗で仕立て、生地を「アンディエンヌ」と呼んだ。
?は耳の?で?き毛にして、後ろ?を三つ編みにしてから頭の上でシニヨンに結った。
1672年に、イギリスから?州に旅行した上流市民の若者に同行した
家庭?師
から、若者の伯母へパリの流行を書き送った手紙がある。
「胸衣とコルセットは白や褐色の
タフタ
に?などで花模?の刺?をしています。白と?だけの衣?でも白や銀のスカ?トを着ると、美しく誠?に見えます。アンダ?スカ?トは下に穿いているものが?くように重ねるか、レ?スで?を付けています。」
これはイギリスの女性がパリの最新流行をいち早く知るために、甥の家庭?師に報告を?んだもので、そうした背景があるためにかなり細かく正確に?時の流行を描?していると考えられる。
胸衣とはピエスデストマと呼ばれるコルセットを覆う三角の布地のことで、?時はロ?ブ(いわゆるドレス。ワンピ?ス型に見えるが上下が分かれておりスカ?トをホックで上衣の?側に留めている)の襟ぐりからへそにかけてが大きく三角形に開いており、その開いた部分を紐で締めあげた後ろに差し?んで使った。
リボン飾りを付けたりレ?スで?飾するのが流行していたが、18世紀にはロ?ブに最初から縫いつけられるようになっていく。
17世紀後期にコルセットは復?したが、胴?全?を締めつけるものではなく乳房を持ちあげて胸を?調するような形に?わっていた。
前をひも締めするコルセットは庶民の女性が?く用いたが、華やかな飾り結びをつけると中流以上の人にも流行し「グルガンディ?ヌ(尻?女)」という冗談めいた名で呼ばれた。
上流階級の服?
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1660年代までの流行は上の項目で述べたものとあまり?わらない。
むしろ、宮廷の女性の方が儀?や典?や身分の違いの表現や?儀などの堅苦しい問題で前時代的な恰好をしていた。
ルイ14世親政開始から王の愛人や女友達が社交を主催するサロン文化が隆盛し、ファッションはより華やかになる。
モ?ル??いレ?ス?リボンの段飾り?造花??玉?七??きを施した美しいボタンなどが流行し、縞や波紋模?を織りだした絹のロ?ブの上からレ?スや薄絹のロ?ブをまとうような贅?も見られた。
1667年にセヴィニエ夫人は、王の愛人である
モンテスパン夫人
の金?のロ?ブの上にレ?スのロ?ブを着るという豪勢な?いに驚き、娘にその感激を書き送っている。
セヴィニエ夫人は1676年にも、やはりレ?スの服とダイヤの耳飾りにたくさんの?珠を身に付けたモンテスパン夫人の豪華な姿に感激している。
モンテスパン夫人の?勢はすさまじく、彼女を快く思わない人は、王の子を次?と?胎していた彼女が突き出た腹を?すためにコルセットもつけないネグリジェ(?時のネグリジェは部屋着や街着も含む)である「ロ?ブ?ド?シャンブル」(インド更紗や薄絹でつくるゆるやかなワンピ?ス風ロ?ブ)を宮廷中に流行させたのだと苦?しく?した。
1680年には王の新しい愛人のフォンタンジュ?が考案した、頭の上で?をまとめるヘアスタイルが流行した。
このヘアスタイルは年ごとに細かく流行が分かれ、1685年には扇の形に整えたリボンと針金で立てたレ?ス飾りを飾るスタイルがフランスのみならずヨ?ロッパ大陸全土に流行した。1687年には三つの蝶結びで立てたレ?スを分けるようになり、1688年にはレ?ス飾りはぴったりと結い上げた?に寄せてリボン束を飾るようになった。
?考文?
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