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衛紹王
(えいしょうおう)は、
金
の第7代
皇帝
。
女?
名は
果繩
(ガジェン)、漢名は
允?
(いんさい)、のち
永?
(えいさい)。殺害後に帝位を?されたため、皇帝としての
諡?
はないが、?位前の
衛王
の位に復して「紹」と諡された。すなわち衛紹王とは「衛の紹王」である。
第5代皇帝の
世宗
の七男。同母兄は鄭王
允蹈
。同母弟は潞王
允?
。
生涯
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父の世宗の存命中に?王に封じられ、甥の
章宗
により潞王?韓王、さらに
承安
2年(
1197年
)に
衛王
に封じられた。このころ、異母兄の宣孝太子
胡土瓦
(允恭、章宗の父)が皇帝位(?宗)を追贈されたために
避諱
し、漢名を「永?」と改めた。
長身の美男子で質素な人物としての評?がある一方で、暗愚な一面も認められる。章宗の命により
モンゴル
への正使として、宗室の
福興
(承暉)を副使に?えてモンゴル平定直前の
チンギス?カン
の許へ赴いた際、果繩の容貌を見たチンギスは愚鈍であると言い放ち、わざと果繩を無視して副使の福興に??し、謁見が終わると自らの幕?に?った。かつてない屈辱を受けた果繩は?朝後、章宗に?して野粗で野?なモンゴル族を滅ぼすべきであると直訴している。
章宗が崩御する間際、6人の皇子を夭折させていた章宗は、親密で年?が近い叔父である果繩を後?者に指名して崩御した。こうして果繩は皇帝に?位することとなった。
衛王?位の報を聞いたチンギスはそれを吉報とし、仇敵の金を滅亡させる好機であると考え、遠征の準備に着手した。なお、チンギスは衛王?位を聞いた際に「中?の皇帝は天上の人がなると思っていたが、衛王ごときでもなれるとは。あんな愚か者に何ができるか」と言って南に向かって唾を吐いた(金はモンゴル人たちから見れば南の方にあるため、それにあてつけたもの)と今に?えられている。また、果繩もモンゴル軍の?襲に備え、準備を整えた。
大安
3年(
1211年
)春、チンギスは本?地に2000騎ほどを留め、?るモンゴル軍全軍を率いて
金遠征
に動き出した。
騎兵
の持つ長所を最大限に活用し、華北地方を??無?に?け回るモンゴル軍の侵攻に?して、果繩は有?な?策が取れずにいた。果繩は定薛?軍に命じてモンゴル軍侵攻の防御に?たらせたが、定薛を初め金軍は敗北、?滅した。また
遼
の?宗族(?義の皇族)であった
契丹
人の
耶律留哥
が自ら遼王と?してモンゴル軍に呼?し、謀反を起こしている。
至寧
元年(
1213年
)8月、敗?責任を追及されることを恐れた?軍
胡沙虎
の兵?により、果繩は幽閉された。翌月に胡沙虎の命を受けた宦官の
李思中
によって、果繩は毒殺された。
政?を奪取した胡沙虎は
海陵王
の例に倣い、果繩の帝?の?奪を計?した。朝廷?には果繩に同情的な勢力が存在することから、東海郡侯への降格が決められた。しかし胡沙虎が殺害された後の
貞祐
4年(
1216年
)、?位直前の衛王に復されて「紹」の諡?が追贈された。衛紹王の娘である哈敦(ハトン)公主は、帝位を?いだ?兄の
宣宗
の命で、モンゴルへと下嫁した。皇太子であった子の
?恪
は、父が毒殺された後も20年間幽閉され?けたが、
天興
3年(
1234年
)の金滅亡時にモンゴル軍によって?刑された。
宗室
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妻妾
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]
男子
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]
(徒?氏の子)
(袁氏の子)
女子
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- 太祖
1115-1123
- 太宗
1123-1135
- 熙宗
1135-1149
- 海陵王
1149-1161
- 世宗
1161-1189
- 章宗
1189-1208
- 衛紹王
1208-1213
- 宣宗
1213-1223
- 哀宗
1223-1234
- 昭宗
1234
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