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"藩札"
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TWL
(
2013年2月
)
|
備後福山藩が享保15年に?行した藩札。額面は銀1?、?行元の「濱口屋」の名?も見える。
藩札
(はんさつ)は、
江?時代
に各
藩
が?自に領?に?行した
紙幣
である。以下では、?義の「各藩が?行した藩札(大名札)」を中心に述べるが、?際上は、
旗本
が?行した
旗本札
、
寺社
が?行した寺社札、
宮家
が?行した宮家札、地域で?行した町村札、私人が?行した私人札なども、?義の藩札として取り扱われることも多い。
?要
[
編集
]
最初の藩札は、通?では越前
福井藩
松平家
が
?文
元年(
1661年
)に?行した銀札
[1]
であると言われているが、文?上では?永7年(
1630年
)に?行された
備後福山藩
の銀札が最初である。もっともそれ以前に
伊勢
や
大和
では
私札
の?行が見られ、現存する日本最古の紙幣ともいわれる
山田羽書
(
1610年
)もこれに?する。
?永
11年(
1634年
)には自治都市であった
今井町
において、幕府から許されて藩札と同じ?値のある?自の紙幣として?行された銀札「今井札」が74年を通じて?く近?でも用いられたが、兌換の円滑さから?中でも信用性が高かった。その後、特に銀遣い??地域である西?の諸大名を中心として、多くの藩が藩札を?行した。
[2]
藩札?行の目的は、自領?の貨幣不足を補い、通貨量の調整機能を?わせることであった。それには十分な
正貨
準備が不可欠であったが、?際には、藩札?行で得られる?通貨の納庫を目論み、これによって藩の財政難の解消を試みる場合がしばしばあった。藩札の流通は、藩が?自の流通規則を定め、藩札以外の貨幣の流通を禁じた藩もあったが、藩札と幕府貨幣の?方の流通を認めた藩も多かった。
なお藩札は、藩を
改易
された際には紙くずと成るリスクを有し、また藩の財政?況が?化しただけで信用力の低下につながる。そのため藩札の運用が行き詰まった場合には、藩札の
兌換
を巡る
取り付け?ぎ
や
一揆
、
打ちこわし
も?生した。表向きには金銀などの兌換保?を前提としていた藩札だったが、?際にそれだけの正貨を用意できた藩は少なかった。
藩札普及初期には、藩が自ら藩札?所などを設けて藩札の?行をしていたが、やがて領地?外の富裕な商人が藩札の札元となり?行を行い、その商人の信用によって藩札が流通した側面もあった。ただし、?際の版型を彫る技術者を各藩?で得るのは困難なため、
大坂
を中心とする京阪地方で各藩の注文を受け、銅版の場合は藩の注文に?じてその地に出張して製版に?たった。印刷は各藩?で藩の者によって刷られ、銅版の場合は製造技術者が共に行った。
畿?近?においては、幕府領、諸藩領、旗本領などがモザイク?に入り組んでいたために、他領地との取引が諸領の??活動に占める割合が非常に大きく、また江?時代後期以降は幕府の意?的な銀?位通貨流通量抑制政策のために手形や藩札による取引も盛んであったため、?行元である藩の思惑に反して藩領を超えた比較的?い範?にまで藩札が流通していた場合も少なくない。
また近隣の藩で藩札が?行された場合、領?の良貨(幕府貨幣)が?貨(近隣の藩が?行した信用の裏付けの弱い紙幣)に取って代わられる、言い換えれば良貨を近隣他領に吸い上げられることは自領の??活動に?影響が及ぶため、それを防ぐための自衛策として、小藩や旗本領、?東諸藩の飛び地領などでも?自の紙幣を?行せざるを得なくなる場合も少なくなかった。
[
要出典
]
包金銀
と同?に、藩札にも所定の枚?の藩札を包んだ「藩札包」が存在し、包金銀とほぼ同?の機能を持っていた。
藩札の種類
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]
藩札は、
和紙
に
木版
刷りが基本であったが、手書き墨書の札も少なくない。
仙台藩
により
天明
4年(
1784年
)に?行された
仙台通?
のように
硬貨
形式のものも?義の藩札に含める場合がある。
銅版
による藩札は、?政年間に
司馬江漢
が
足守藩
で銅鐫したのが始まりで、幕末にはほぼ玄?堂が?占した。銅版で作る利点は、入手困難な腐食?品を用いて制作される銅版のほうが、技術的に
?札
防止に?果があったためである。
藩札用紙は流通上の利便性のため、耐用年?を上げるために小型で丈夫な厚手の
和紙
であるケ?スが多い。
すかし
や着色紙、?し文字などの?造防止などを取り入れたものもあった。各藩は?造防止のために藩札用紙の確保には神?を使った。
?津?
有馬郡
名?村
(現?
兵庫?
西宮市
)で作られた和紙(
名?雁皮紙
)は、
雁皮
に特殊な土を?き?むことによって?食いの害を防ぐことができるため、全?的に普及した。
藩札は兌換保?の紙幣であり、藩札の交換?象となる物とその量が藩札に明示されていた。一般には、札使いは銀遣い??地域である西日本において特に盛んであり、
銀
との兌換の
銀札
が最も多かった。同じく貨幣との兌換の藩札としては、
金札
、
?札
があった。銀札では、額面に
?
(もんめ)を用いることが多いが、より少額な額面を示す
分
(ふん。?の1/10)を用いることもある。
藩札には貨幣ではなく物品との兌換を明示した預り手形(現在の
商品券
に相?)形式のものもあり、この種のものでは
米札
が多い。特殊な例として、傘札、??札、?札、するめ札や昆布札などもあった。また、振り手形(現在の
小切手
に相?)の形式で、?行藩及び取引先
?替商
の信用の元で不特定多?に流通できるよう藩札用の小型で厚手の和紙で作製したものもあった。
藩領?の特産品の??制を推進するため、これら??品の買上げに藩札を使用した例もある。家臣の?約を目的として、藩士間の贈答用に用いることを義務付けられた、本?の贈答品の購入費用からすれば比較的低額の
兌換紙幣
(音物札)を?行した藩もあった。
明治初年に政府は銀通貨の通用を停止したため、それ以降、新貨幣制度が開始され藩札の?行が禁止される明治4年までに?行された藩札は、金?位あるいは??位の額面である。銀?位の藩札を大量に?行していた西日本諸藩及び東日本諸藩の西日本の飛地領では、それらの?札の額面部分に金?位または??位の加印を施して再?行させた例も多い。
なお、?義の藩札を調査するときには、平成4年3月に史料館所?史料目?第57集として?行された「日本?業史博物館??古紙幣目?」が、全時代に?る藩札を網羅し、また、藩札に印刷?押印された字句を詳細に記?しており、?索?びに同定のための資料として大?有益である。
幕府の??
[
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]
藩札の禁止
[
編集
]
幕府による藩札への??は二?三?している。
?永
2年(
1705年
)に藩札の調査が行われ、それを受けて幕府?行の貨幣の流通が?るとして?永4年(
1707年
)、すべての藩札の使用が禁止された(?永の札遣い停止令)。?際には、幕府の行っていた
貨幣改?
の妨げになるとの思惑であった。
禁止の解除
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]
享保
15年(
1730年
)に領?の石高が20万石以上であれば通用期間25年、20万石以下であれば通用期間15年などの?件付きで藩札の?行が再解禁された。この背景には、
享保の改革
で下落した米の?格があり、諸藩の財政を救?する目的であったといわれている。しかし
??
9年(
1759年
)には新規の藩札?行が禁止され、その後、銀札以外の藩札の流通に制限が加えられた。このような幕府の藩札の取り締まりにもかかわらず、財政難に苦しむ諸藩は幕府に無?で?行を?けた。
幕末?びに明治初期においては、混?する??情勢を背景に、幕府による統率の不徹底や、明治政府の?限未確立もあり、多種多?な、?義の藩札、?びに?義の藩札が?行された。?義の藩札で見ると、現存するものの大半は、文化文政期以降の?行によるもので占められることには注意を要する。
幕府自?は、貨幣流通にこだわり?けたが、幕末の
慶?
3年(
1867年
)に
江??浜通用札
、
江?および?八州通用札
、
兵庫開港札
の三種類の金札紙幣を?行した。
明治政府の??
[
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]
明治
4年(
1871年
)に明治政府が藩札の?行?況を調べたところ、全?の藩の約8割に?たる244藩、14の代官所、9の旗本領が紙幣の?行を行っていた。江?後期頃までは西日本を中心とした銀遣い??下の諸藩の?行が中心であったが、幕末の混?によって幕府の?力な統制が減退?消滅し、諸藩は混?に伴う財政危機を紙幣?行により賄おうとした結果、?東諸藩を中心に新規に?行する藩が?出したためである。明治政府は同年の
?藩置?
の機に藩札回?令を?布し、各藩札を新貨幣?位(
圓
、
?
、
厘
)により?額査定し、?交換相場による藩札回?を始めた。藩札は
1872年
(
明治5年
)4月に?行された新紙幣の
明治通?
と交換する形で回?されていった
[3]
。ただし、藩札は小札が多かったのに?し、新紙幣は十?札が最少だったため、5?以上に相?する藩札だけが新紙幣と交換され、5?未?の小札は新貨?行まで引き換えが見合わされた
[3]
。5?未?のものは新貨(
5?銀貨
等)と交換されることとなったが、新貨?造が間に合わなかったため、?藩札に新?額を押捺して流通させた。この新?額スタンプ(大?省印)は1厘から3?台までは1厘刻みで全て存在し、4?台も1厘刻みだが4?1厘?4?7厘?4?9厘が欠けているので、?計46種となっている。なお1枚の?額が1厘未?と査定されたものも存在し、基本的には2枚で1厘、3枚で1厘など、種類によって定められた枚?で1厘とされ、最小で「23枚で1厘」のものがある。また計算上の?額が8毛台や9毛台など1厘に少し足りないものは?純に「1厘」とされず「2枚で2厘」とされた。これら1厘未?のものは押印されずまとめて交換された。明治7年(
1874年
)には新貨幣の?造が進みようやく交換が開始され、最終的に?理を完了したのは5年後の明治12年(
1879年
)6月であった。
?藩置?後、新通貨が整備されて普及するまでは、
太政官札
?
民部省札
などといった藩札類似の
政府紙幣
、?幕府領に設置された府?のいくつかが?行した札、新政府が各地の商業中心地に開設させた?替?社や通商?社が?行した札などと?び、藩札に円?厘の?位を示した大?省印が加印された藩札が、新貨交換比率が設定された?永通寶?などの?貨と共に使用された。
各藩の?況
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]
蝦夷??羽地方
[
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]
- 弘前藩
??の飢饉
で疲弊した
陸??
弘前藩
の財政を立て直すため、勘定奉行の
乳井貢
が??6年(
1756年
)に導入したのが
標符
という藩札類似のものであった。藩札と異なり標符は、通帳のようになっており商取引が書き?む形式となっている特?があった。
商人は一家一業を原則とし、全ての商品と蓄えられた米や金銀を半ば?制的に藩に納めさせ、改めて標符と商品を下付した。商人はすべての商いを標符で決算され、利益の一割を商人の取り分として?りは藩に納めさせた。また、藩の家臣は?高に?じた銀の額の標符が渡され、買い物?に商人がその標符に取引を書き?む形式を取った。
標符はあまりにも急進的な試みであったため、2年足らずで?止、乳井貢も失脚した。
- 仙台藩
陸??
仙台藩
では幕府の許可を得て、藩?流通限定とした
天明の大飢饉
への救?を名目とした
仙台通?
が天明4年(1784年)11月より作られた。江?時代の地方貨としては初めての物である。仙台通?は?時藩???の要衝であった石?の??場で作られた。「??場」の地名は現在の
石?市
中心部に?っている。また、同時期に紙幣としての藩札も?行された。藩札は、貞享??永?天明?升屋札??替所札などがあげられる。
- ?津藩
陸??
?津藩
では、藩財政窮乏の打開と藩士救?を目的として、元締役 長井九八?の意見具申を容れる形で
元?
13年(
1700年
)に金札、翌年には?札を?行した。しかし、町方、村方には受け入れられず、元?16年(1703年)までに金札、?札共に通用を停止した。その一方で、幕末に松平容保が京都守護職に就任したことに伴って
播磨?
加東郡
?
加西郡
に役知領を有した同藩は、役知領の近隣に?たる
播磨?
加東郡小澤村の?氏の引請による銀札を江?末期頃に?行した。他に?津藩?行の貨幣としては、?永通寶、天保通寶の密??、?津銀判などがある。
- 久保田藩
??3年(
1753年
)から??4年(
1754年
)、
出羽?
久保田藩
は凶作に見舞われ、幕府に願い出て藩札を銀札1?につき?70文の相場で?行した。?初10?、5?、3?、2?、1?の5種類だったが後に、3分、2分の藩札も?行された。?初は順調であったが、凶作による米の値上がりを見?んで商人らが米を?匿するなどして藩札による買い上げを拒否した。また藩は凶作のため正貨で米を買い集めなければならなくなり、兌換の資金が流出してしまった。混?のうちに??7年(
1757年
)に藩札は?止された。
失敗の責任が問われ、家老や銀札奉行などが切腹や蟄居など重い?分が下された。また藩主よりの中下層の藩士が連座についたが、佐竹一族や古くからの家臣は加?されるなど派閥?いの?相も垣間見えた(
佐竹?動
)。
米?藩の事例(額面以上での回?)
[
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]
出羽?
米?藩
では、金札が大半だったが、??13年(1763年)に
上杉家
が京都屋敷を買?してから、銀札も?行された。明治7年(1874年)、新政府による新通貨?足に伴い、回?時の引替率は、金札1?が1円、銀札50?が1円であった(土佐藩の金札1?が33?3厘、薩摩藩の32?2厘、銀札も秋月藩の5?札は4?2厘、?島藩の1?札は8厘などと比べ、破格の?替率であった。)
[4]
。
?一?は新貨幣一
圓
であるため
兌換
率十割(銀札に至っては
額面
の十割二分を超える
[5]
)、しかも?替手?料なし(通常は?パ?セント)にもかかわらず、保持し?けた者が多く全札を回?しきれていない。
上杉家
には多額の?余金が?り、新政府に?上の3万?、?藩士らに分?17万?余、沖??への寄附、?領民の海外留?への??金を費やしてもなお?り、銀行まで作った(米?義社、現在は合?で山形銀行)
[6]
。
?東地方
[
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]
- 岡部藩(半原藩)
武??
岡部藩
(のち
三河?
半原藩
)では、
?津?
の飛地領で、大坂堂嶋御用場の出入り?替商加嶋屋熊七、天王寺屋彦十?が引請人となった銀札を?行した。?津?の豊嶋郡、能勢郡、川?郡、有馬郡に散在する同藩の領地を中心とした地域で通用した。
安政
4年(
1857年
)、飛地陣屋である?井谷陣屋の役人の不正が?端となり、?本的な財政改革を要求する?動が?生した。近隣の
麻田藩
では大坂商人で
西本願寺
家臣の石田敬起(大根屋小右衛門)による改革で藩札は農民側の管理に委ねられて適切に運用されていたため、それに倣った改革が領民から要求された。その結果、藩札は大坂の?替商の??を?たれ、?井谷陣屋の米奉行が?行し、豊嶋郡の領?有力農民が銀穀方として運用する形態が幕末まで?いた。
中部?北陸地方
[
編集
]
- 岩村藩
美濃?
岩村藩
では、金札二朱?一朱、?札一貫文?百文等があった。
- 苗木藩
美濃?
苗木藩
では、元治年間に?行の金札二??一??二分?一分?二朱等があった。
- 浜松藩
遠江?
浜松藩
では、飛地領を有する
播磨?
東部の加東郡?
美?郡
で安政3年(
1856年
)頃、銀札を?行した。札面には、?造防止のためオランダ語の?語(Voordeelig;便利な)が描かれていた。額面は銀五?、一?、三分、二分であった。
近畿地方
[
編集
]
- ?山藩
河??
?山藩
では、
天保
6年(
1835年
)に銀札、翌7年(
1836年
)に?札を?行した。銀札の引替所は池尻村の小谷六左衛門方であった。
- 丹南藩
河??
丹南藩
からは、
文政
4年(
1821年
)に米の?格を銀?位で表示(「米?升代銀??」など)した米銀札を?行した。その他、明治期には、丹南引替役所から?札を?行した。
- 岸和田藩
和泉?
岸和田藩
では、
延?
4年(
1676年
)から藩札(銀札)を?行した。?初よりさまざまな引請人の銀札が?行されており、札遣いが盛んだったことがわかる。享保15年(1730年)の札遣い再開からは、領?の泉佐野の廻船問屋で
加賀?
の
?屋五兵衛
と?び?された豪商の
食野家
(めしのけ)などの引請による銀札が?行された。なお、岸和田藩は食野家から多額の借財を抱えており、藩財政は同家の?い影響下にあった。
- 伯太藩
和泉?
伯太藩
からは、??5年(
1755年
)に領?の?鳥村の?川武左衛門が札元となって?行された。その他、仲村吉次?、大植?左衛門が札元となった銀札が現存している。明治期には、?札が?行された。
- 麻田藩
?津?
麻田藩
は1万石程度の小藩としては例外的に、かなり早期の延?5年(
1677年
)3月から藩札を?行した。これは、麻田藩領の多くが??の中心地であった
大坂
に程近い?津?
豊嶋郡
(豊嶋?)、
川?郡
(高平?)にあったことによるものと考えられる。幕命により
?永
4年(
1707年
)に一旦は?行を中止したが、その後、幕許を得て??3年(1753年)7月に再度?行し、明治維新後まで??した。なお、麻田藩は
備中?
にも飛地領を有し、同地でも藩札を?行した。
- 尼崎藩
?津?
尼崎藩
は、??活動の盛んな西宮、兵庫津を領し、更に大坂、伊丹に?まれるという地理的?件のため、早期に藩札が?行された。尼崎藩札として確?なものは油屋庄右衛門を札元とした
?文
10年(
1670年
)?行の札がはじめである。?永の札遣い停止令を?て、享保15年(1730年)に西宮の町人を札元に登用した銀札を?行した。尼崎藩での銀札の引き請けは、家屋敷?田畑を抵?に多額の資金を無利子で得るという形式をとっていたため希望者が多く、札元は?十人に上った。
明和
6年(
1769年
)に尼崎藩の??の根幹であった西宮と兵庫津を含めた灘筋の村?が幕府領として上知され、藩財政に?する不安から藩札流通にも多大な影響が見られた。このため、庄屋層に管理を託していた?札を回?して、新引替人による統一的な新札?行に切り替えられた。
文政
元年(
1818年
)には引き替えは泉屋利兵衛、?口屋十?右衛門、尼崎引替役所の3か所となった。しかしその後も?度新??札の切り替えが行われ、札元も入れ替わった。
明治初期には銀札は?札に切り替えられ、金札も?せて?行された。明治新政府回?の際の引替率は、金札1?は1円、?札五百文は4?、百文は8厘であった。
また尼崎藩では、明和6年の西宮、兵庫津をはじめとする灘目筋村?の上知に伴って?えられた播磨?の飛地領においても、赤?郡上郡村及び多可郡中安田村に置かれた?所で藩札を?行した。
- 三田藩
?津?
三田藩
は近隣の尼崎藩、麻田藩などと同?にかなり早期の、元?13年(1700年)から藩札を?行した。?永の札遣い停止令を?て、
元文
5年(
1740年
)に、藩財政窮乏の緩和、藩??の?展に??した通貨量?大などを目的として藩札の?行を再開した。
三田藩が陣屋を置いた三田町は、周?の?津?播磨?陸部の?境地?が幕府領、小藩領、?東諸藩の飛地領、旗本領等の錯綜地であったこともあり、商業の一大中心地として?えた。また、酒造好適米の生産地である播磨?東部から酒造の一大中心地である?津?武庫郡西宮町への陸路による輸送の重要な中?点にあたり、後に西宮町を含む灘地方(?津?西部沿岸地域)における酒造業の飛躍的?展に伴って、三田藩領及び周?の米も酒米として利用されるようになると、三田藩が藩領外の商人に?しても自藩領?での藩札の使用を義務付けていたこともあり、?津?西部から播磨?東部にかけてのかなり?い地域で同藩の札は流通した。三田藩では領?のみならず、領外の多くの有力商人?農民をも自藩札の引請人としていた。ただし、三田藩本領、?津?灘地域、播磨?東部地方では?行された札の?柄が異なっており、必ずしも相互の地域で一元的に流通していたわけではない。
なお、三田藩は
丹波?
氷上郡にも飛地領を有し、同地でも藩札を?行した。
- 高槻藩
?津?
高槻藩
では、財政基盤が脆弱で、?産品の
??制
も困難であったため、借入、
?母子講
、御用金といった起債の形で財政難の?策としており、周?の藩のような藩札の積極的な?行は明治元年(
1868年
) - 2年(
1869年
)まで待たねばならない。江?期には、?約を目的として、家中の贈答用に?行された銀札の音物(いんもつ)札のみが?行された。音物札はあらゆる贈答の機?に使用することが義務付けられていた。交付の際に額面の2%の手?料が必要であったが、正銀への交換は無料であった。
- 明石藩
播磨?
明石藩
札は畿?近?の諸藩からは少し?れ、
?延
3年(
1750年
)11月より、この時点で
藩主
であった
松平氏
(親藩、
越前松平家
庶流)によって?行された。このとき?行された札は五拾?、拾?、??、三分、?分の銀札であり、藩の勘定奉行管轄の銀?所が取り扱った。
明治維新
後、?藩置?によって明石藩が明石?を?て飾磨?となった明治5年(1872年)4月から明治6年(
1873年
)12月までの間、新
通貨
に引き替えられた。引替率は、拾?札は3?9厘、??札は4厘、?分札は1厘であった。
また美作?の飛地領においても、小原村の引替?所で藩札を?行した。
- 安志藩
播磨?
安志藩
は、近隣の大藩である
?路藩
が文政3年(
1820年
)に札使いを再開したことに影響を受け、文政5年(
1822年
)に幕許を受けて?札(??札)を?行した。額面は十?、五?、一?、三分、二分であり、後に同額面の銀札を?せて?行した。同藩では、溜池普請、洪水被害を受けた村?への救?が藩札によって行われたことが史料に記されている。同藩が?行した特殊な藩札として、額面が?人足一人、半人の?人足札、三百目から二十目までの銀建ての高額面の札である銀方札座札がある。明治4年(1871年)より新通貨に引き替えられた際の引替率は、銀十?札は1?、?十?札は9厘、??札は銀札、?札共に1厘であった。
- 小野藩
播磨?
小野藩
では江?大火による上屋敷の類?、地震被害等で財政が逼迫し、安政3年(1856年)より、銀札として五文目(?)、一文目、二分、一分の4種を引替?所が?行した。また明治維新後、?札として一貫文、五百文の2種を?行した。?札には?造防止のため
神代文字
が描かれている。明治4年より新通貨に引き替えられた際の引替率は、五?札は1?3厘、??札は3厘、?分札は2厘であった。
- 龍野藩
播磨?
龍野藩
では、最も古いものとしては
文化
2年(
1805年
)8月?行の?札が現存している。文化15年(1818年)には引請人を掛屋の茂右衛門と丈左衛門とし、城下の立町に引替所を置いて藩札の取り扱い業務を行わせた。のち、安政3年(1856年)8月には俵屋?大川屋の引請の札、半田屋??屋の引請の札が?行された。
- 林田藩
播磨?
林田藩
では、近隣の大藩?路藩の札遣いとほぼ同時期の文政2年(
1819年
)11月より藩札(銀札及び??札)を?行した。額面は、??札では、?10?、5?、1?、5分、3分、2分、5厘であった。明治元年(1868年)に銀遣いが新政府により禁止されると、多くの西?他藩と同?に??分?朱を額面とした金札を?行した。
- ?路藩
播磨?
?路藩
は同?の中核を?う典型的な領?型の領地を有しており、幕府領、小藩領、旗本領などが入り組んでいる周?の地域??にまで大きな影響力を有していた。?路藩が領地を有していた播磨平野は綿作の好適地であり、木綿の??で大きな?績を上げていた。?路藩は文政3年(1820年)、?路城下の綿町に切手?所を開設し、
掛屋
、用達に藩札の取り扱いを命じた。翌年3月には木綿の??を取り仕切る綿町?産?所を開設し、後に切手?所を?産?所に?設した。
- 福本藩
播磨?
福本藩
は
鳥取藩
の支藩である。江?時代中期以降は、慶?4年(1868年)に鳥取藩より
?米
を支給されて石高が1万石を越えて再度立藩するまで、
交代寄合
の
旗本
であった。領地は市川流域の神東郡?神西郡北部にあった。?郡の南部は?路藩領であったが、北部は同藩及び分家の旗本2家の領地で占められており、
陣屋
を置いていた福本村及び隣村の粟賀村は同地域の政治??の中心地であった。同藩では、交代寄合であった文政5年(1822年)より立藩後の明治初年にかけて、銀札及び?札(??札)を?行した。切手引替所は福本村に置かれた。
- 三日月藩
播磨?
三日月藩
は、美作?に近い佐用郡を中心に所領を有した。三日月藩札として現存最古のものは、文化14年(
1817年
)に?行した手書き墨書の?札(??札)である。その他、領?の?山で通用させた札、三日月藩勘定場?行の人馬?賃預切手、町?所、生産所、産物?所などが?行した札、明治元年(1868年)に商法方や金方が?行した札など、多種類の札が現存している。
- 三草藩
播磨?
三草藩
は1万石の小藩である。領?の村?は特産品が乏しく、また藩主が江?在府で領?統治も幕府の統制力が?かったため、札遣いの盛んな播磨にありながら、藩札の?行は幕末の安政4年(1857年)とかなり?い。このとき、銀札として五?、一?、三分、二分と、?札(いわゆる??札)として五?、一?、三分、二分、一分の札が?行された。?行高はあわせて980貫目であった。この後に公式の藩札摺り立ては行われていない。これらの札は明治3年(1870年)の引き揚げまで通用した。?行高が少なく、他藩と比べて迅速に引き揚げが行われたため、大?省の円???厘の?位の加印が押された札は?行されていない。
- 山崎藩
播磨?
山崎藩
は播磨?北部の山がちの地域である?粟(しそう)郡に所領を有した。山崎藩では文政元年(1818年)5月より藩札を?行した。その後もさまざまな引請人の札を?行したが、そのうちいくつかの札では、?造防止のために?柄の中に微小文字(「シソウツウヨウ」など)を?し文字として入れたものがある。領?には?山があり、?山勘定場からも藩札を?行した。
赤?藩の事例(改易後の混??理)
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播磨?
赤?藩
の藩札は延?8年(
1680年
)に初めて?行されたが、基本的には領?の通用を藩札のみに限り、正貨の流通を禁じていた(?際には他領にも流れた)。赤?藩の改易で、城明け渡しや藩士の解散で?絶する前に藩札を正貨に交換しようと、商人らが殺到する?動になった。改易の時点で、藩札の?額が九百貫(約2万?、
元?改?
により銀相場上昇)あり、家老の
大石良雄
は藩札を六分替え(額面の6割交換)という、取り潰される藩のものとしては、非常に高い率の銀正貨で回?し、城下の混?を抑えた
[7]
。
?島藩の「?野家文書」では赤?藩の藩札回?に?島本家と三好藩からの多額の援助が記され、「?島藩御?書帳」では赤?藩の?絶後に
鴻池家
からの借財が桁違いに?加している
[8]
。
延?8年の赤?藩藩札が?島藩に?っており、?野本家からの援助があった裏付けとなっている(五?札?一?札?三分札?二分札の銀札があり、額面上部に
大?天
と
銀分銅
の?柄が確認できる。商人でなく大名家の手元にある(債務でない)ため、明治政府に回?されていない)
[9]
[10]
。
一方、
岡山藩
の記?では赤?の「札之高都合三千貫目程之由」と三倍以上有ったと書かれ、赤?藩札を持つ備前商人が「四分六分」の換金率(額面の4割交換)だと言われて赤?城下で喧?同然の?ぎとなり、換金してもらえなかった?に、仕方なく
池田家
で肩代わりしたと記される
[11]
。
?野氏の後に赤?に入封した
永井氏
、
森氏
もまた藩札を?行した。永井氏の札は3年余りとごく短期間の統治のためもあり、現存札は確認されていない。森氏の札は長期にわたって?行されたため、多?な札が?っている。森家赤?藩(2万石)は?野家より?小であり、領地が山に?まれた地形のため、領外との取引を行う商人などを除き、領?での藩札の?一流通が確?に行われていたことは多くの史料によって確認されている。名目上、藩札の?一流通を規定した藩は?多いが、赤?藩ほど徹底していた例は稀である。
中?地方
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- ?島藩
安芸?
?島藩
の藩札は、
1704年
に商人に委託して?行。札元は?次?右衛門(京都:?島藩京大坂借銀方?江??替御用)、三原屋?三?(?島城下:質屋)、天?屋治兵衛(?島城下:?島藩肴御用)。銀札で額面は5??1??5分?3分?2分の5種類があった
[12]
。
- 備後福山藩
備後?
福山藩
では、
?永
7年(
1630年
)に、?時の藩主であった
水野勝成
が領?の殖産興業のために領?の?替商を?行元に藩札を?行したとの記述が文?に?されている
[13]
。これは通?よりも早い?行であるが、元?11年(
1698年
)の
水野氏
?絶により正貨である銀貨との兌換が行われ、?行高(約3500貫)のほぼ全てが回?されたとあり、現物は確認できない。ただし、その?時?行したと思われる藩札とおぼしき紙片もあるが、?食いや磨耗が激しく??の鑑別が困難である。なお、福山藩の現存する最古の藩札は
延?
に?行されたものである。
記?によると水野時代の藩札は銀札で札座(?行所)を城下の商人(銀掛屋)「菊屋」が??し、銀と札との兌換比率は13:10であったとされる。また、この札は信?性が高く(?際、前述の通り全額の兌換が可能な財政的裏付けがあった)藩外でも取り扱われ元?時代までに近隣の藩や大坂でも通用したといわれる。水野氏の?絶後、阿部氏の時代には財政難から藩札が?造されるようになり、
享保
15年(
1730年
)などに?行されているが、こちらの藩札は信用が低く藩が使用を?制することもあった。
備中松山藩の事例(山田方谷の新札切り替え)
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- 備中松山藩
備中?
松山藩
は、
元?
年間に?時の藩主であった
安藤氏
が?行し、次の領主であった
石川氏
もこれに倣った。
延享
元年(
1744年
)に新たに
板倉氏
が入封すると、直ちに五?、一?の銀札を?行したが、??の荒?などによって
表高
5万石に?して??2万石しかなかった同藩財政は逼迫して天保年間には準備金が底を突いた上に更に大量の五?札を?行した。このため、藩札の?値は大暴落して財政を却って?化させる原因となった。これに?して藩執政に就任した
山田方谷
は敢えて藩札の?止と3年間に限って額面?格での引き取りを行う事を表明した。その結果藩札481貫110?(金換算8,019?)が回?され、未?行分の230貫190?(同3,836?)と合わせた合計711貫300?(同11,855?、?時の藩財政の約1/6相?にあたる)が、方谷の命令によって
嘉永
5年(
1852年
)
9月5日
領?の
高梁川
にある近似川原(ちかのりがわら)に集められた藩士?領民の目前で?却?分された。その後方谷は五?、十?、百?からなる「永?」と呼ばれる額面の新しい藩札を?行して、準備金が不正に流用される事の無い?に?しい管理下に置いた。そのため、藩札の信用は回復される一方、その準備金の適切な投資?貸し出しによって裏打ちされた
殖産興業
は成功を?めて、10万?と言われた藩の借財は?年で完?されて、藩札も額面以上の信用を得るという好循環を招いた
[14]
。
四?地方
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- ?島藩
?島藩
は
阿波?
及び家臣で洲本城主の?田氏が統治する
淡路?
を領有していた。?島藩の銀札及び?札は阿波?及び淡路?の??で通用した。古いものでは、延?8年(1680年)の年?が書かれた銀札が現存している。のち、幕府による札遣い禁止を?て、明治期まで札遣いが?けられた。明治4年(1871年)より新通貨に引き替えられた際の引替率は、一?札及び百文札は8厘、三分札及び?分札は2厘であった。
その他、洲本銀札場から銀一貫目から十?までの高額面の銀札が?行された。
九州地方
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- 秋月藩
筑前?
秋月藩
は幕府から?立した藩として公認されてはいたが、
福岡藩
の分家として立藩した
支藩
である?係で、
軍事
?財政面で相互援助が行われていた。このため、藩札も相互に領?流通を認めていた。秋月藩の藩札?行は、福岡藩で?行された翌年の元?17年(1704年)からであるが、各藩に下された札遣い停止の幕命により、わずか4年で回?された。しかし、幕許によって藩札?行が認められた享保15年(1730年)には早くも藩札の?行を再開している。
明治維新
後、新通貨に引き替えられた際の引替率は、五?札は4?2厘、??札は8厘、?分札は2厘であり、福岡藩よりも高い相場であった。
脚注
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]
注?
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]
出典
[
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]
- ^
朝尾直弘、? 達也 編『日本の近世3』中央公論社、1991年、82頁
- ^
日本全史 1991年3月15日 講談社
- ^
a
b
阿達義雄「
明治文?に現われた天保通?
」『新潟?陵女子短期大??究報告』第6?第6?、新潟?陵女子短期大?、1976年、1-19頁、
doi
:
10.32147/00001847
、
ISSN
0386-5630
、
NAID
110000299912
、
2022年8月17日
??
。
- ^
日本銀行貨幣博物館展示および公式web
- ^
金1?=銀60?のため(市場相場はさらに上がる)
- ^
松尾正人『維新政?』
- ^
山本博文『「忠臣?」の決算書』(2012年、新潮社)など
- ^
ただし、長矩および?野大?家、??助の子孫(大石宗家)、三好藩は全て?絶している?、これに反論できる立場の者が皆無である。芝居(『?名手本忠臣?』など)の創作で大野九?兵衛が、藩札交換で準備した金を持ち逃げしたというのは俗?。
- ^
「??スライド?延?赤?藩札」?島市立中央?書館「おカネでみる?島藩」高木久史(2019年)
- ^
長矩の遺品(「口宣案 長矩??五位下??匠頭」「赤?郡佐用郡御年貢納帳」ほか)は
脇坂氏
が持ち去ったため、赤?市にも?島市にもない(兵庫?たつの市「赤??野家資料」?非公開)
- ^
『池田家文書』(岡山大?所?)
- ^
?野氏入城400年記念事業平成29年度?史講座?江?時代の?島~?野家と?島藩~?
- ^
福山史編纂委員?編「福山市史 中?」 1968年(1978年再版)
- ^
ただし、
山田方谷
は「借金を 踏み倒して改革で貯めた十万?」とも述べており、一部商人を切り捨てた可能性もある。山田の項も?照されたい。
?連文?
[
編集
]
- 岩橋勝
編『近世貨幣と???展』名古屋大?出版?、2019年。
?連項目
[
編集
]
ウィキメディア?コモンズには、
藩札
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