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藤原 道雅
(ふじわら の みちまさ)は、
平安時代
中期の
公卿
?
歌人
。
藤原北家
、
儀同三司
?
伊周
の長男。
官位
は
?三位
?
左京大夫
。
小倉百人一首
では
左京大夫道雅
。
??
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]
祖父の
中?白
道隆
に溺愛されて育つが、
長?
元年(
995年
)に道隆は死去、さらに、翌長?2年(
996年
)
?大臣
という高官にあった父?
伊周
が
花山法皇
に?し弓を射掛ける
不敬
事件を起こして
大宰?帥
に左遷され(
長?の?
)、?家の中?白家が?落する中で成長する。
長保
6年(
1004年
)
?五位下
に
?爵
し、翌
?弘
2年(
1005年
)
侍?
に
任官
する。?弘3年(
1006年
)
右兵衛?佐
に任ぜられると、?弘5年(
1008年
)
正五位下
?
右近衛少?
、?弘6年(
1009年
)
?四位下
と
一?朝
後期に武官を務めながら順調に昇進する。
?弘
8年(
1011年
)
三?天皇
の
?位
に伴って、
春宮?亮
に任ぜられ、新
春宮
?敦成親王(のちの
後一?天皇
)に仕える。しかし、長和2年(
1013年
)の4月
[1]
に、三?天皇の
皇子
?
敦明親王
(後一?朝の
皇太子
)の
?者
であった
織部司
挑文師
?小野?明が敦明の母である
皇后
?
藤原?子
の住む
弘徽殿
に?上したところを、敦成親王の?者に拉致させ自邸へ連行させる。自邸において道雅は自ら?明の?を?んで周?の者に打ち踏ませ、瀕死の重傷を負わせた。その後、敦明親王から訴えがあり、道雅は
謹?
?分に?された
[2]
。
長和
4年(
1015年
)
左近衛中?
。長和5年(
1016年
)正月に後一?天皇
?祚
に際して
藤原資平
と共に
?人頭
に任じられたが、間もなく春宮?亮の功?という名目で
?三位
に?せられて、在任8日目で?人頭を更迭されてしまう。更に同年9月に伊勢
?宮
を退下し?京していた
?子?親王
と
密通
し、翌長和6年(
1017年
)これを知った?親王の父
三?院
の怒りに?れて
勅勘
を被った。また、仲を裂かれた?子?親王は病により
出家
してしまった
[2]
。
万?
元年(
1024年
)12月6日に
花山法皇
の
皇女
である
上東門院
女房
が夜中の路上で殺され、翌朝に死?が野犬に食われた姿で?見された
[3]
。この事件は
朝廷
の
公家
達を震?させ、
?非違使
が?査にあたり、翌万?2年(
1025年
)3月に
右衛門尉
?平時通が容疑者として法師隆範を捕縛する。?非違使が尋問するも隆範は口が堅く、7月25日になってようやく隆範は道雅の命で皇女を殺害したと自白する。この自白の連絡を受けて、?力者の
藤原道長
?
?通
親子も驚嘆したという
[4]
。しかし、7月28日にこの殺害事件を起こした
?賊
の首領という者が
自首
を申し出て、この首領に?する
拷問
?施の是非について判?しかねた?非違使別??
藤原?通
から意見を求められた
右大臣
?藤原?資は、自首犯に?して拷問を行った事例はないとして不要の旨を、さらには首領に?する罪?を?非違使で決定すべきでない旨を回答している
[5]
。結局、誰がこの首領を殺人事件の主犯として認定したのか、どのような
刑罰
に?したのか、そもそもこの主犯の氏名は何か、が各種記?に?っておらず、どのような形でこの事件が決着したのか明らかではない
[6]
。なお、この事件の影響によるものか、翌万?3年(
1026年
)に道雅は左近衛中?兼
伊予?守
を罷免され、
右京?大夫
(
正五位上
相?官)に
左遷
されている。
万?4年(
1027年
)には、?刀長?高階順業と
賭博
に興じていたところ激しい口論を始め、ついには道雅の
狩衣
の袖先を引き破った順業の乳父?惟宗兼任と路上で取っ組み合いの
喧?
を始めてしまう。そのため、往?の人?がこの喧?を見物するために大勢集まったという
[7]
。
その後、
後冷泉朝
の
??
2年(
1045年
)左京大夫に?じるも、40年近くに亘って?三位から昇進できぬまま、
天喜
2年(
1054年
)7月10日に出家し、20日
薨去
。
享年
63。
人物
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]
花山法皇の皇女を殺させた、
敦明親王
の?色長
小野?明
を凌辱し重傷を負わせた、博打場で?行した、など?行が絶えなかったため、世上
荒三位
、
?三位
などと呼ばれたという。
その一方で
和歌
には巧みであり、
中古三十六歌仙
の1人としても知られている。『
後拾遺和歌集
』5首、『
詞花和歌集
』2首と、
勅撰和歌集
に合わせて7首が入集
[8]
。
『小倉
百人一首
』には道雅が?子?親王に贈った歌が採られている。
今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
? 『小倉百人一首』第63番
『後拾遺和歌集』の詞書には
伊勢の?宮わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、おほやけも聞こしめして、守り女など付けさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、詠み侍りける
? 『後拾遺和歌集』
とある。
左京大夫
を務めていた晩年には、
八?
の邸宅にて「左京大夫八?山庄障子和歌合」と呼ばれる歌合を主催している。
官?
[
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]
注記のないものは『中古歌仙三十六人?』による。
系譜
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]
『
尊卑分脈
』による。
脚注
[
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]
- ^
『?り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』、2005年9月?行、繫田信一、柏書房、P25
- ^
a
b
『
小右記
』
- ^
『小右記』万?元年12月8日?
- ^
『小右記』万?2年7月25日?
- ^
『小右記』万?2年7月28日?
- ^
繁田[2005: 141]
- ^
『小右記』万?4年7月18日?
- ^
『勅撰作者部類』
- ^
『?人補任』
- ^
a
b
c
『近衛府補任』
- ^
『公卿補任』
- ^
『
中古歌仙?
』
- ^
『
大鏡
』
出典
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]
- 『公卿補任 第一篇』
吉川弘文館
、1982年
- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
- 市川久編『近衛府補任 第一』
?群書類?完成?
、1992年
- 繁田信一
『?り合う貴族たち -平安朝裏源氏物語』2005年、
柏書房
外部リンク
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