草???難事件
(くさなぎのつるぎとうなんじけん)は、
飛鳥時代
の
天智天皇
7年(
668年
)に?生した、
草??(天叢雲?)
の
?難事件
。
記?
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日本書紀
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]
事件は、『
日本書紀
』(
養老
4年(
720年
)成立)において簡潔に記載されている。同書
天智天皇
7年(
668年
)是??によると、
沙門
(僧の意)の
道行
が草??を?み、
新羅
に向かって逃げた。しかしその途中で風雨に遭ったため、道行は迷って?ってきたという。同書では道行の素性に?する記載はなく、その後の道行の?緯も記されていない
。
草??のその後については、事件18年後の
朱鳥
元年(
686年
)6月10日?に記述がある。同?によると、
天武天皇
が病を得た際に占いで草??による?りだと見なされたため、?を
尾張?
の熱田社(現?
愛知?
名古屋市
の
熱田神宮
)に送り置いたという
。
是の?に、沙門道行、草??を?み、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、芒迷(まと)ひて?る。
? 『日本書紀』天智天皇7年是??
戊寅に、天皇の病を占ふに、草??に?れり。?日(そのひ)に、尾張?の熱田社に送り置く。
? 『日本書紀』朱鳥元年6月戊寅?
熱田太神宮?記
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熱田神宮
側の文?として、
鎌倉時代
初期頃の成立
[注 1]
になる『尾張?熱田太神宮?記』では、道行を新羅僧として?話を記載する
(素性を新羅僧とするのは、一?に『日本書紀』の記述の?大解?
)。
それによると、道行は熱田社から神?(草??)を?み出し本?に渡ろうとしたが、
伊勢?
において神?は?りでに?け出して熱田社に還った。道行は再び?んで
?津?
より出港したが、海難のため難波に漂着した。道行は神?を投げ捨て逃げようとしたが、神?がどうにも身から離れず、ついに自首して死罪に?せられたという
。
そして朱鳥元年(686年)6月10日、天武天皇の病が神?の?りと見なされ、神?は熱田社に移されたとしている
。
その他
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大同
2年(
807年
)の成立になる『
古語拾遺
』では、簡潔ながら、外賊が草??を?み逃げたが境を出ることが出?なかったと事件について?れている
。
草?神?者。尤是天璽。自
二
日本武尊催旋之年
一
。留任
二
尾張熱田社
一
。外賊偸逃。不
レ
能
レ
出
レ
境。
? 『古語拾遺』
[6]
考?
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]
草???連年表
年月日
|
出?事
|
天智天皇7年(
668年
)
|
1月3日
|
<
天智天皇
?位>
|
(是?)
|
草???難事件
(事件前後の所在は不明)
|
天武天皇2年(
673年
)2月27日
|
<
天武天皇
?位>
|
朱鳥
元年(
686年
)6月10日
|
天皇に?する草??の?り
草??を熱田社に送置
|
持統天皇4年(
690年
)1月1日
|
<
持統天皇
?位>
|
|
(この間、文武?元明?元明天皇?位)
|
養老
4年(
720年
)
(『日本書紀』編纂時点)
|
草??刀は熱田社に所在
(景行天皇51年8月4日?)
|
事件に?わる
草??(天叢雲?)
は、
三種の神器
の1つであり、古?
熱田神宮
の
神?
とされている。熱田神宮側では、
日本武尊
東征時の神宮創建から現在まで草??は神宮に祀られているとし、この事件も一時的に?が神宮を離れたものとしている。しかしながら、『日本書紀』の?容には疑問点が指摘されており、その?緯を巡って他にも諸?が出されている。
一?として、?難後18年間も宮中に留めおかれたのは不自然であることから、道行が?み出した場所は熱田神宮でなく朝廷であるとして、朱鳥元年が初めての熱田神宮への草??下賜とする?がある。この?では、『日本書紀』に?み出した場所が明記されていないこと、朱鳥元年記事が熱田社に「還し置く」でなく「送り置く」と記すことが指摘される。熱田神宮では草??が正殿(本殿)とは別の社殿に祀られていたことが知られ
[注 2]
、この?も草??が創建後に入ってきたことを表すとされる。下賜の背景には、
壬申の?
における
尾張氏
の協力が考えられている
。
別?として、?難記事と朱鳥元年記事につながりを見ない?もある。この?では、草??は?難後すぐに熱田社に還されたが、天武天皇?位儀式のために一時的に宮中に移されていたと見て、それが熱田社に還されたと推測する
。
そのほか、元?熱田社に?わる草??を天武天皇が尾張氏に貢上させ、漢の斬蛇?になぞらえて皇位?承の神器としたとする?もある。その中で、その後に天武天皇に?して?の?りがあったため、熱田社から朝廷への移動を貢上ではなく?難?話にすり替えたと推測する
[7]
。
なお現在では、草??の本?は熱田神宮に、分身は宮中にあることとなっている。これに?して、『古語拾遺』では分身の作製を上古の
崇神天皇
(第10代)の時のこととするが、上記の一連の事件の存在により、分身による皇位?承を
持統天皇
(天武天皇次代)?位時からとする?がある
[7]
。
?承
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]
熱田神宮の?承では、道行は神?を?み出して、かつての神宮北門の?雪門(せいせつもん)を通ったという。古?、?雪門は不開門(あかずのもん)として閉ざされたままとなっているが、これは不吉の門とされたためとも、門を閉じて神?を再び外に出さないためともいわれる
。
また神宮では、?年5月4日に朱鳥元年(686年)の神?遷座の際に?喜した?を?える?笑人神事(えようどしんじ)を行う。さらに翌5月5日には、「都を離れ熱田に幸(みゆき)すれど、永く皇居を?め守らん」という神?の
神託
に由?して、神輿が?門に渡御し
皇居
を??する神輿渡御神事(しんよとぎょしんじ)も行なっている
。
そのほか、
大阪府
大阪市
の地名「
放出
(はなてん)」について、道行が神罰を怖れ、草??を「放り出した」ことが由?(はなつて→はなて→はなてん)とする?があり、同地の
阿?速雄神社
ではその?承を?えている。
鳥栖八?社
(名古屋市南?鳥栖)の社?では、和銅元年(708年)
ママ
に道行が熱田神宮の草??を?み去った際、
元明天皇
に知られるのを恐れて新しく同地で神?が作られ、熱田神宮別宮の八?宮に奉納されたとする
[10]
。
脚注
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]
注?
- ^
『尾張?熱田太神宮?記』の?末には
?平
2年(
890年
)10月15日に成る旨の記載があるが、これは?託とされ、成立は鎌倉時代初期頃、早くとも平安時代末期とされる (小島鉦作「熱田宮?平?起」『?史大?典』吉川弘文館) (
?田智宏 2014
)。
- ^
明治以前、草??は熱田神宮において正殿ではなく土用殿に祀られた。熱田神宮社?ではこれを室町時代中頃以降とするが、鎌倉時代後期にはすでに別社殿に祀られていたことが知られる。なお、明治以降現在まで草??は正殿に祀られている (
?田智宏 2014
)。
出典
- ^
熱田神社
(國學院大學21世紀COEプログラム「神道?神社史料集成」)。
- ^
a
b
『新修名古屋市史 第1?』 名古屋市、1997年、pp. 514-517
- ^
鳥栖八?社境??明板。
?考文?
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原典
- 『尾張?熱田太神宮?記』
- 熱田神宮所?『??御事 1?』(備前阿?利心範の書?)
書籍
?連項目
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