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興宗
(こうそう)は、
契丹
の第7代
皇帝
。
諱
は
只骨
。
生涯
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第6代皇帝
聖宗
の長男として生まれる。3?で梁王に冊封、
太平
11年(
1031年
)、聖宗の崩御により皇位を?承した。幼年であったため、?初は生母の
欽哀太后
が?政として??を握り、朝政を行っていた。
成人後は欽哀太后を幽閉して??を取り?し、親政を開始した。この頃の契丹は?力衰退の兆しが見え始めていたが、興宗は軍事力を??して
北宋
への?力を?め、?幣を?加させることに成功した。また、新興勢力の
西夏
に?しても軍を送って屈服させ、朝貢させることに成功するなどして契丹の再建を成し遂げた。文化面??政面でも繁?を遂げた契丹は、全盛期を迎えるに至った。
重熙
24年(
1055年
)に40?で崩御し、太子の
査剌
が皇位を?承した。
宗室
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后妃
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子
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- 耶律査剌(洪基、字は涅隣、
道宗
)
- 耶律?信奴(早世)
- 耶律和魯斡(字は阿輦、宋魏王、皇太叔、
宣宗
の父)
- 耶律阿璉(字は訛里本、秦越王、
英宗
の父)
女
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- 耶律跋芹(晋?長公主、
蕭孝穆
の子の蕭撒八の妻、後に
蕭孝忠
の子の蕭阿速の妻、後に蕭窩匿の妻)
- 耶律斡里太(鄭?大長公主、
蕭余里也
の妻)
脚注
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- ^
『
遼史
』聖宗本紀に、「開泰五年二月戊戌、皇子宗?生」との記述がある。
ユリウス?
に換算すれば1016年4月3日となる。
- 先代
- 聖宗
|
- 契丹
/
遼
の第7代皇帝
- 1031年 - 1055年
|
- 次代
- 道宗
|