出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
倭の五王
系譜?天皇系譜
『
宋書
』倭??
|
『
梁書
』倭?
|
| |
|
|
|
| |
|
|
|
?
(421, 425年)
| 珍
(438年)
|
|
?
(443, 451年)
|
| |
|
|
|
| |
|
|
興
(462年)
| 武
(478年)
|
|
|
『
日本書紀
』の天皇系譜
(?字は代?、括弧?は和風諡?)
|
|
興
(こう)または
倭 興
(わ こう、
生?年不詳
)は、
5世紀
中頃(
古墳時代
中期)の
倭
王
。「
倭王興
」とも
。
?
の子?
武
の兄で、「
倭の五王
」の1人。第20代
安康天皇
に比定する?が有力視されるが、
市?押磐皇子
[2]
、
木梨?皇子
[3]
に比定する?もある。
記?
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]
宋書
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編集
]
- 『
宋書
』列?
- 夷?? 倭?の?(宋書倭??)では、父の
?
の死後に世子の興は
宋
に遣使貢?をしたとする
[4]
[5]
。
- また
大明
6年(
462年
)には、
孝武帝
は興を「
安東?軍 倭?王
」に任じるよう詔した。その後、興が死んで弟の
武
が王に立ったとする
[4]
[5]
。
- 倭王武
の上表文には、?と興が
高句麗
を討とうとしたが、その直前に亡くなったと記されている
[注? 1]
。
- 『宋書』本紀
- 孝武帝紀 大明4年(
460年
)12月丁未?では、倭?が遣使して方物を?上したとする(?または興の遣使か)
[4]
。
- また孝武帝紀 大明6年(462年)3月壬寅?では、倭?王の世子の興を「
安東?軍
」となしたとする。
- さらに
順帝
紀
昇明
元年(
477年
)11月己酉?では、倭?が遣使して方物(地方名産物)を?上したとする(興または武の遣使か)。
梁書
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]
- 『
梁書
』列?
- 諸夷? 倭の?(梁書倭?)では、?の死後に子の興が立ち、その死後には弟の武が立ったとする
[6]
。
南史
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]
『
南史
』夷貊? 倭?の?(南史倭??)では、『宋書』列?の?容が記述されている。
高句麗王?百?王?倭王の?軍??遷表
(?色は第二品、?色は第三品。色の濃さは同品?の序列を表す)
年
|
高句麗
|
百?
|
倭
|
317年
|
<
東晋
建?>
|
372年
|
|
?東?軍(
余句
)
|
|
386年
|
|
?東?軍(
余暉
)
|
|
413年
|
征東?軍(
高璉
)
|
|
|
416年
|
征東大?軍(高璉)
|
?東?軍(
余映
)
|
|
420年
|
<
宋
建?>
|
|
?東大?軍(余映)
|
|
421年
|
|
|
(安東?軍?(
倭?
))
|
438年
|
|
|
安東?軍(
倭珍
)
|
443年
|
|
|
安東?軍(
倭?
)
|
451年
|
|
|
安東大?軍(倭?)
(安東?軍?)
|
457年
|
|
?東大?軍(
余慶
)
|
|
462年
|
|
|
安東?軍(倭興)
|
463年
|
車騎大?軍(高璉)
|
|
|
478年
|
|
|
安東大?軍(
倭武
)
|
479年
|
<
南?
建?>
|
|
|
?東大?軍(倭武)
|
480年
|
驃騎大?軍(高璉)
|
?東大?軍(牟都)
|
|
490年
|
|
?東大?軍(
牟大
)
|
|
494年
|
征東大?軍(
高雲
)
|
|
|
502年
|
<
梁
建?>
|
車騎大?軍(高雲)
|
征東大?軍(牟大)
|
征東?軍(倭武)
(征東大?軍?)
|
考?
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]
- 460年記事について
- 『宋書』孝武帝紀の大明4年(460年)記事では、倭?の遣使を?えるが、遣使主?の名前を明らかとしない。これに?して、①?とする?(新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例)
、②興とする?(『宋書』倭??の興の遣使記事と??)
[4]
、③?でも興でもない名前の漏れた倭王とする?がある。
- 477年記事について
- 『宋書』順帝紀の昇明元年(477年)記事では、倭?の遣使を?えるが、遣使主?の名前を明らかとしない。これも武とするのが通?
[4]
だが、興とする?(新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例)
や興でも武でもない名前の漏れた倭王とする?もある。
- 「世子」について
- 『宋書』では興は「倭王世子」と見え、これは?との?柄を示すものと解するのが通?であるが、462年の段階で王位に就いていなかったことを示すのではないかと見て?時の王位?承の不安定さを指摘する?
もある。珍や武と異なり、宋から任命してもらうまでは倭?王を自?しないという態度を示したと思われる。
- 天皇系譜への比定
- 『
日本書紀
』?『
古事記
』の天皇系譜への比定としては、興を
安康天皇
(第20代)とする?が有力視されるが
、一方で
木梨?皇子
や
市?押磐皇子
に比定する?もある
。
- 安康天皇に比定する?は、「武 = 雄略天皇(第21代)」が有力視されることから、武以前の系譜と天皇系譜とを比較することに基づく
[13]
。記紀では允恭天皇(第19代)?安康天皇が相次いで死去する?承が記されており、武の上表文に「奄喪父兄(にわかに父兄を失う)」と見える記述はこれとも??する
。ただし記紀に遣使の記述はなく、興の遣使年次も『日本書紀』の安康天皇の年次と合致するものではない
。『古事記』分注は安康天皇の?年を記さないが允恭天皇の?年(454年)と雄略天皇の?年(489年)の間には?まる。系譜以外の論?が確かでないことから、音韻?系譜の使い分けによる恣意的な比定を批判する?もある
。なお『日本書紀』によると雄略天皇は治世19年に安康天皇の
名代
として
孔王部
とも表記される穴?部を置いており、
森浩一
は『記紀の考古?』第15章「仁?天皇の子供たち」で「ぼくは興王部かとみる」と述べ、「興」は「あな」の漢?「孔」の同音字としている。父と共に
高句麗
を討って
百?
を救い興す意?から「興」が選ばれたと考えられる。漢風諡?「安康」も「あな」「コウ」に由?すると考えられる。また木梨?皇子に比定する?は、有力?承者であった木梨?皇子と、『宋書』の「世子」とのみある表現が合致することによる
。
- 墓の比定
- 倭の五王の活動時期において、大王墓は
百舌鳥古墳群
?
古市古墳群
(
大阪府
堺市
?
羽曳野市
?
藤井寺市
)で?造されているため、興の墓もそのいずれかの古墳と推測される
[15]
。これらの古墳は現在では
宮??
により陵墓に治定されているため、考古資料に乏しく年代を詳らかにしないが、一?に興の墓は
土師ニサンザイ古墳
(現在の東百舌鳥陵墓?考地)に比定される
[13]
。
脚注
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]
- ^
『漢籍倭人考』(所?『史??誌』)
菅政友
著、明治25年(
1892年
)によるものが初出。
- ^
『日本古代史』
久米邦武
著、明治40年 (
1907年
)によるものが初出。
- ^
a
b
c
d
e
『東アジア民族史 1 正史東夷?(
東洋文庫
264)』 平凡社、1974年、pp. 309-313。
- ^
a
b
『倭?? 中?正史に描かれた日本(
講談社?術文庫
2010)』 講談社、2010年、pp. 117-123。
- ^
『東アジア民族史 1 正史東夷?(東洋文庫264)』 平凡社、1974年、pp. 315-319。
- ^
a
b
足立倫行
「「倭の五王」をめぐる論点」『ここまでわかった! 「古代」謎の4世紀(新人物文庫315)』 『?史?本』編集部編、KADOKAWA、2014年、pp. 48-61。
- ^
「ワ」の物語
(百舌鳥?古市古墳群世界文化遺産登?推進本部?議「百舌鳥?古市古墳群」)
- ^
句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已?致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇?壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大?奄喪父兄
?考文?
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?連項目
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外部リンク
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