出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
臼杵 鑑速
(うすき あきはや)は、
??時代
から
安土桃山時代
にかけての
武?
。
大友氏
の家臣。
生涯
[
編集
]
臼杵氏
は
豊後?
大友氏の庶流
?次氏
の流れを汲み、大友氏の一族に?たる。
初めは
大友義鑑
に仕え、元服の際には兄の
鑑?
、
鑑?
同?、義鑑から
偏諱
(?鑑?の字)を賜った上、父?長景からも一字をもらい
鑑景
(あきかげ)と名?る。後に
鑑速
に改名した。
義鑑亡き後はその子?
義?(宗麟)
に仕え、次兄の鑑?と共に外交面で大いに活躍した。義?の
元服
の際の
室町幕府
?軍
?
足利義晴
の一字?領、
豊前?
や
筑前?
を初めとする
守護
職の?承などといった幕府との交?、また
安芸?
の
毛利氏
といった近隣諸?、さらに影響下にある
?人
達との交?などは、
吉岡長?
と鑑速が行なっている。長??後は
薩摩?
の
島津氏
と??交?している。また、軍事面においても、
肥後?
の菊池氏や毛利氏との合?にも積極的に?軍して武功を?げる等活躍した。
天文
19年(
1550年
)7月、肥後
菊池義武
に?して竹迫?宇土?下陣?片志多攻略に??した。
弘治
年間より兄の後を受けて
加判衆
を務め、兄の職であった豊前方分、筑前方分を受け?いだ。また、?次鑑連(
立花道雪
)や
吉弘鑑理
と共に大友氏の「三老」にまで列せられた。
弘治3年(
1557年
)7月の
秋月文種
の攻略?、
永?
3年(
1560年
)8月16日以降、筑前の豪族
宗像氏貞
に?して許斐山城、白山城、?ヶ嶽城に?度の侵攻
[1]
[2]
[3]
、永?10年(
1567年
)7月の
高橋鑑種
と
秋月種?
討伐、永?11年(
1568年
)4月の
立花鑑載
らの謀反??、
肥前?
の
龍造寺隆信
、
筑紫?門
などの諸?人の討伐や、北九州に侵攻した毛利軍との
門司城の?い
、永?12年(
1569年
)5月の
多?良浜の?い
など、大友氏における主要な合?の大半に出陣して武功を?げた三大?の一人となる。
永?
4年(1561年)8月、大友義?は再び
門司城
の攻略を命じる。こうして
吉岡長?
?臼杵鑑速の二家老と
田原親宏
?
志賀親度
?
朽網鑑康
?
吉弘?信
??次鑑連?
田北鑑生
ら六?衆は1万5千余の兵を率いて
豊後
の
大友館
を出陣し、再び門司城を包?した。10月26日、大友軍の再度の門司城?攻?。和布刈神社の裏手から門司山麓に迫った大友軍は、臼杵、田原、?次、?藤、吉弘という大陣容で攻め、臼杵鑑速や
田原親賢
らの?砲隊?百と?次鑑連の弓箭隊8百と連携して
小早川隆景
勢に射ち?み大損害を?えたという
[4]
。 しかし、城を落とすことは出?ず日?となり、大友軍は大里まで引き上げた。
晩年には嫡男の
統景
に役目を?り引退した。
鑑速の存命中は宗麟の義兄?
田原親賢
も勝手な振る舞いはできなかったが、
天正
6年(
1578年
)の
耳川の?い
における大友軍の大敗後、立花道雪は筑前から手紙を送り「
吉岡宗?
、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と嘆いている。また江?期の豊後の三賢人
三浦梅園
は「臼杵鑑速、
吉岡宗?
がいればこんな?いはなかったであろうに」と言っている。『高橋記』にも「才?勇猛の良?」と賞されている。
なお系?には「あきすみ」と書かれている。また、宗麟が
大?氏
滅亡の際に
毛利元就
から?られ、後に
豊臣秀吉
に?上された瓢?茶入(大?瓢??大友瓢?、後の上杉瓢?)を、一時この鑑速が貰い受け所持していた記?がある。
脚注
[
編集
]