美保?事件
(みほのせきじけん)とは、
1927年
(
昭和
2年)
8月24日
に
大日本帝?海軍
で夜間演習中に起こった
艦艇
の
多重衝突事故
である
[1]
[2]
。
美保?沖事件
、
美保ヶ?事件
ともいう。
?要
[
編集
]
日本海軍は、
ワシントン海軍軍縮?約
(大正10年11月締結)の結果として保有主力艦艇の?排水量を制限された
[1]
[3]
。
連合艦隊司令長官
加藤?治
大?は
東?平八?
元帥から激?された「訓練に制限無し」を掛け?として
[4]
[5]
、
1926年
(
大正
15年)11月以?、猛訓練と個艦優秀主義によって?力の劣勢を補おうとした
[1]
[6]
。
翌1927年(昭和2年)8月24日、
島根?
美保?
沖での徹夜の夜間無?火演習中に
川?型?巡洋艦
2番艦「
神通
」(第五?隊3番艦。神通艦長
水城圭次
大佐)と
?逐艦
「
蕨
」(第一水雷?隊、第27?逐隊。蕨?逐艦長
五十嵐?
少佐)が衝突事故を起こし、「神通」は艦首を喪失して大破、「蕨」は沈?した
[7]
[8]
[9]
。
このとき「神通」を避けようとした後?の川?型3番艦「
那珂
」(第五?隊4番艦。那珂艦長
三?基介
大佐)も?逐艦「
葦
」(第一水雷?隊、第27?逐隊。葦?逐艦長
須賀彦次?
少佐)に衝突
[2]
、?艦も大破した
[8]
[9]
。一連の?緯により、事故?生時の神通艦長
水城圭次
大佐は自決した
[10]
[11]
。
これを
美保?事件
と?する
[12]
。
?緯
[
編集
]
編成
[
編集
]
1927年
(昭和2年)
8月24日
、
島根?
美保?
沖に日本海軍?連合艦隊(
第一艦隊
、
第二艦隊
)の主要艦艇が集結
[13]
[9]
。
同町沖で行われた第八回基本演習(夜間無?火演習)において、第五?隊(司令官
?河純一
中?:第1小隊〈
加古
、
古鷹
〉、第2小隊〈
神通
、
那珂
〉)および
第二水雷?隊
(司令官
八角三?
少?:旗艦〈
夕張
〉、第22?逐隊〈
第27?〔皐月〕
、
第28?〔水無月〕
、
第29?〔文月〕
、
第30?〔長月〕
〉、第26?逐隊〈?、楡、栗、?〉、第27?逐隊〈菱、菫、蕨、葦〉、第29?逐隊〈
第11?〔追風〕
、
第13?〔疾風〕
、
第15?〔朝?〕
、
第17?〔夕?〕
〉、第30?逐隊〈
第19?〔睦月〕
、
第21?〔如月〕
、
第23?〔?生〕
、
第25?〔卯月〕
〉)
[14]
[15]
は
乙軍
を編制し、夜間雷?訓練を?施する
[16]
[17]
。
那珂には
伏見宮博義王
(海軍大尉)が
[2]
、同艦水雷長として勤務していた
[18]
[19]
。
この時、本?第一水雷?隊(司令官
高橋?太?
少?:旗艦「
龍田
」)に所?する第26?逐隊(?、楡、栗、?)と第27?逐隊(菱、菫、蕨、葦)は
[20]
[21]
、
第二水雷?隊
(旗艦「
夕張
」)に臨時編入され、前述のように乙軍として行動することになった
[22]
[23]
。
指揮系統の違う部隊を組み?んだ臨時編制に、第一水雷?隊先任?謀
小?治三?
中佐は危機感を?えた
[23]
。小??謀は連合艦隊司令部に意見具申をおこなったが、加藤長官の意向を受けていた連合艦隊?謀長
高橋三吉
少?と連合艦隊先任?謀
近藤信竹
中佐は?令通りの夜間演習を?施した
[4]
[23]
。
?する
甲軍
は、
加藤?治
連合艦隊司令長官率いる第一艦隊の?艦群(
長門型?艦
〈
長門
、
陸?
〉、
伊勢型?艦
〈
伊勢
、
日向
〉)、第二艦隊(司令長官
吉川安平
中?:?艦〈
金剛
、
比叡
)等と?巡4隻(
鬼怒
、
阿武?
、
龍田
、
由良
)で編制されていた
[9]
[22]
。
演習想定は、主力艦隊(甲軍)が舞鶴方面に退却するのを水雷?隊が追?するもので、闇の中を全部消?で秒速27mの大速力を出しながら行う?しい訓練であった
[24]
。
事故?生
[
編集
]
同日(8月24日)午後11時過ぎ、第五?隊第2小隊(神通、那珂)は?艦部隊を?想敵(甲軍)にみたてて接近中、?艦2隻(伊勢、日向)や?巡複?隻(由良、龍田)等から照射を受けた
[25]
。特に龍田の探照燈に捉えられた「神通」は攻?の機?を失ったと判定され、「那珂」とともに右へ旋回する
[26]
。すると第五?隊第2小隊(神通、那珂)は後?していた第五?隊第1小隊(加古、古鷹)および第26?逐隊(?、楡、栗、?)、第27?逐隊(菱、蕨、葦、菫)の一群に突っ?んだ
[27]
。
これにより「神通」と第27?逐隊2番艦「
蕨
」が衝突、ボイラ?を粉?された「蕨」は爆?を起こし、?っ二つに分?されて沈?した(蕨殉職者、五十嵐艦長ほか91名)
[1]
[28]
[29]
。
遺?
は殆ど回?できなかった
[30]
[31]
。「神通」は艦首から1番砲塔直下まで船?下部を失った
[32]
。
一方、2隻(神通、蕨)の衝突を見て避けようとして?舵した後?の「那珂」は、第27?逐隊3番艦「
葦
」(葦?逐艦長
須賀彦次?
少佐)と衝突
[1]
。
「那珂」は艦首を、「葦」は艦尾を大破する(葦殉職者27名)
[33]
[34]
。
「那珂」の損傷は「神通」程ではなかったが、それでも船?艦首下部を失う大きな損傷を受けた
[35]
。「葦」は艦?後部をもぎとられた
[34]
。
事故を受け、衝突現場に居合わせた各艦(加古、古鷹、伊勢、鬼怒、阿武?、由良、龍田)等は協力して沈?艦と損傷艦の救援に?事した
[36]
[34]
。陸?艦載機や
能登呂
?
鳳翔
艦載機も?索に?事した
[37]
。
その後、自力航行可能だった「那珂」は金剛型?艦2番艦「
比叡
」と古鷹型重巡1番艦「
古鷹
」に護衛されて舞鶴へむかった
[38]
。
「神通」は金剛型1番艦「
金剛
」に曳航され
[39]
[8]
、古鷹型2番艦「加古」の護衛下で同港へ向かった
[40]
。「葦」は長良型6番艦「
阿武?
」に曳航され同港へむかった
[39]
[8]
。
?時の舞鶴工作部は
吹雪型?逐艦
複?隻(
第35??逐艦〈吹雪〉
、
第37??逐艦〈初雪〉
)等の建造に追われており、その中で最初に「那珂」を修理した
[41]
。次に「神通」を修理する事になったが、その際に姉妹艦「那珂」に準じた改正が施された
[42]
。スプ?ンバウから凌波性に優れたダブルカ?ブドバウへの?更であり、川?型2隻(神通、那珂)の外見上の特?となっている
[1]
。艦首改造工事に?して「神通」は?急修理を施したうえで?に回航され、翌年3月まで修理に?事した
[41]
。
8月26日、連合艦隊司令長官
加藤?治
大?(?艦
長門
艦上)は新聞記者達に?し「今回の事件に多?の部下と艦とを損傷したことは長官としても恐くの至りである。しかしながらこ?に考へて頂きたいことは我?としてはベストをつくして訓練をやつた、もつとも眞劍な訓練と絶對保安とはなかなか兩立しがたいものである。戰艦も驅逐艦も近來夜間戰?の最新戰術をつくしてやつてをつた。從つて困難な作業はもつとも眞劍に行はれてゐた、一秒間二十八メ?タ?の高速力をだしてアツと思つたせつ那は三十メ?タ?といふ有?であつた、故に一面また今度の遭難は不可抗力といひ得るものである、?遭難者?査については全力を擧げてつとめてをる」とのコメントを?表する
[43]
[44]
。
事故の詳細は、前年に?位したばかりの
昭和天皇
(?時26?)にも海軍次官
大角岑生
を通じて?えられた
[2]
。天皇は侍?武官
住山?太?
を慰問使として派遣した
[2]
。8月30日には海軍大臣
岡田啓介
も?殿し、?過を奏上した
[45]
。
9月1日
、日本海軍は殉職者合同葬儀を?施する
[46]
[47]
[48]
。
9月15日、「蕨」は除籍された
[49]
。10月7日附で
水城圭次
大佐は神通艦長を免じられて
?須賀?守府
附となり、?甲巡洋艦「
吾妻
」艦長
三矢四?
大佐が、吾妻艦長と神通艦長の兼務を命じられた
[50]
。
現在、事件現場付近の美保??台と
境港市
の台場公園に慰?碑が建立されており、
長崎?
佐世保市
の海軍墓地にも蕨と葦の?牲者の殉難者忠魂碑が建立されている。
損害
[
編集
]
- ?巡洋艦 神通 大破
- ?逐艦 蕨 沈? 死者92名
- ?巡洋艦 那珂 中破
- ?逐艦 葦 大破 死者28名
?分
[
編集
]
海軍省
法務局
は業務上過失?艦船覆??業務上過失致死罪で、事故?生時の神通艦長
水城圭次
海軍大佐
を起訴、
?須賀?守府
軍法?議
(判士長
立野?治?
海軍少?
)が審問したが、水城大佐は判決前日の
12月26日
に自宅で自決
[51]
[10]
。告別式は12月28日に
水交社
で行われた
[12]
。この時、
伏見宮博恭王
(?時、軍事?事官)は
鈴木貫太?
軍令部?長や
岡田啓介
海軍大臣の反?(御付武官の差遣が妥?との意見)を押し切り、通常??で告別式に赴いて??、遺族を感激させた
[12]
。
海軍省は特旨により水城の海軍少?進級を計?したが、遺族が?退したために日の目を見なかった
[52]
。ただし、海軍有志の手により水城の慰?碑が建立されている
[53]
。
なお水城自決の一報をアメリカ?在中に?いた
山本五十六
大佐は、
三和義勇
補佐官が「死んでも仕方がない」と?言したことに?し、「死をもって責に任ずるということは我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ人の長としてもお勤めができる」と?しく叱責した
[54]
。
最大の責任者とみなされていた水城大佐が自決したことで、事件?時第27?逐隊司令の倉田弘保中佐が責任を追及されることになった
[55]
。1928年(昭和3年)3月13日、倉田は謹?60日?分を言い渡されたが、?令直前に取り消しとなり、大佐進級後に除隊した
[56]
。
過重な訓練を課した
加藤?治
連合艦隊司令長官
[57]
や
高橋三吉
連合艦隊?謀長は責任を問われなかった
[58]
。また批難や抗議に?し
高橋三吉
?謀長が「訓練を緩めましょうか」と進言すると、加藤長官は「いくら世間から攻?非難あるも構はん、やれやれ。年度の始めに訓示した通りの決意に?りはない。米?には勝たねばならぬのだ」と答え、引き?き猛訓練を行う決意を示したという
[59]
。
1935年(昭和10年)頃、海軍部?に「加藤?治を元帥にしよう」という署名活動があった(?時の連合艦隊司令長官は
高橋三吉
大?)
[60]
。第二艦隊司令長官
米?光政
中?は麾下の重巡洋艦
摩耶
艦長だった
小?治三?
大佐を招き、署名活動についての意見を聞く
[60]
。小?(摩耶艦長)は「軍人が署名活動なんてとんでもない」「加藤大?は美保ヶ?事件の責任者であり、あの時責任を取らねばならぬ人物だった」と返答している
[60]
。同年末、加藤は現役を引退して予備役となった
[60]
。
?像集
[
編集
]
-
慰?塔(境港)(鳥取?境港市岬町49境台場公園水木しげるロ?ド近く)
-
慰?塔由??明?事故時艦隊?(境港)(慰?塔中腹、三浦周行名あり)
-
慰?塔(境港)海軍省下付係留機雷?二等?逐艦12cm砲身(慰?塔中腹、?部撮影可能)
-
平和祈念塔(美保?)(島根?松江市美保?町美保?723五本松公園)
-
平和祈念塔の由?(美保?)(塔の向って左側)
-
美保??台+ビュッフェ(島根?松江市美保?町美保?1338-10レストラン、中に二等?逐艦蕨模型あり)
-
美保??台からの日本海遠景(?岐の島が望め事故現場海域近く)
-
?逐艦蕨及葦殉職者忠魂碑(佐世保海軍墓地、長崎?佐世保市大宮町31?26)
脚注
[
編集
]
- ^
a
b
c
d
e
f
#ハンディ判艦艇??集15p
.34
- ^
a
b
c
d
e
昭和天皇??第四
759-760頁『(昭和二年八月)二十五日 木曜日(美保?事件の第一報/美保?事件の?報)』
- ^
#海を征く
コマ67-68(原本120-123頁)
- ^
a
b
#回想の提督
12-13頁
- ^
#東?元帥と山本伯
コマ13(原本16-17頁)『十 元帥と海軍猛訓練』
- ^
#邦枝、加藤?治
コマ92-95(原本177-183頁)
- ^
#加藤大??
コマ468(原本489頁)『美保關沖に於ける軍艦衝突事故』
- ^
a
b
c
d
#災害篇
コマ191(原本371頁)『○那珂と葦も觸衝す 昨二十四日聯合艦隊夜間演習中午後十一時二十分美保關の北東約二十マイルの地点において第五戰隊軍艦神通と第一水雷戰隊驅逐艦蕨と衝突蕨は約十五分の後沈?し、神通は前部錨鎖庫に浸水あり、軍艦金剛に引かれ舞鶴に回航中、又第五戰隊軍艦那珂は驅逐艦葦と觸衝、葦は船體の最後方の一部を切?せられしも應急修理の上軍艦阿武?にて引航、那珂は損害輕微自力にて舞鶴に回航中である、又那珂?艦中の博義王殿下には御異?あらせられず。』
- ^
a
b
c
d
#邦枝、加藤?治
コマ98-99(原本189-190頁)『八月二十五日の夜が來た。今夜の水雷發射演習を限りに、本年度の大演習は愈?終了することになつたので、聯合艦隊は威風堂?と島根縣美保ヶ關の沖合へ集結した。長門、陸?、伊勢、日向、金剛、比叡の世界に誇るべき第一艦隊が防禦隊となり、神通、那珂、古鷹、加古を初め精?を謳はれた第二艦隊が攻?隊となつて、?方五十隻の艦艇が入り亂れての海戰は、日本海軍なればこそと思はれる?絶極まりないものであつた。
(中略)午後十一時二十分であつた。戰?が開始されて三十分、突然一大音響が海上を壓した。奮戰してゐた驅逐艦
蕨
が巡洋艦神通と激突した瞬間、その傍を猛進してゐた驅逐艦
葦
が更に、巡洋艦那珂と衝突といふ大事件を起したのであつた。蕨は艦體が眞ッ二つとなつたため、一瞬にして艦長五十嵐中佐を初め、?組員百二十名が一人殘らず行方不明となり、葦もまた艦を大破して、二十七名の行方不明者を出すに至つた。』
- ^
a
b
#災害篇
コマ194-195(原本377頁)『水城大佐自殺す(十二月二十七日 東京日日新聞)』
- ^
#近世自殺者列?p
.27『水城圭次 海軍大佐 昭和二年十二月二十六日自殺 享年四十四 長野縣の人、明治三十七年海軍兵學校卒業。昭和二年八月の海軍特別大演習に於ける美保關沖衝突事件の第一責任者として海軍?法會議に付せられたが、憂悶三月終に責任自殺を遂げた。』
- ^
a
b
c
天皇?伏見宮と日本海軍
18-19頁『伏見宮の心情』
- ^
「
昭和2年8月24日(水)海軍公報 第194? pp.40-41
」
アジア?史資料センタ?
Ref.C12070310000 『○艦船所在○八月二十四日午前十時【美保關】(長官)長門陸?伊勢日向、(司令官)鬼怒阿武?由良、(司令官)龍田、(司令官)迅鯨、(長官)金剛比叡、(司令官)加古古鷹神通那珂、(司令官)夕張、(司令官)長鯨、鳳翔 (司令)?梨竹榧、(司令)??楡栗、(司令)菱菫蕨葦、(司令)蓼蓮蓬、(司令)驅二八 驅二七 驅二九 驅三?、(司令)驅一一 驅一七 驅一五 驅一三、(司令)驅二一 驅一九 驅二三 驅二五、(司令)梅楠、(司令)呂六八 呂六四 呂六三、(司令)呂六二 呂六? 呂六一、(司令)呂六七 呂六五 呂六六、(司令)伊五三 伊五二 伊五一 間宮、能登呂』
- ^
#海軍制度沿革(?4、1939)pp
.63-64『大正一五.一二.一(?令二六五)|佐世保防備隊|第二艦隊|第二十二驅逐隊|第二十七號、第二十九號|第二十八號(昭和二、四、一 一?七)/第三十號(昭和二、五、二? 一八?)/第二十九驅逐隊|第十一號、第十三號、第十五號、第十七號/第三十驅逐隊|第十九號、第二十一號、第二十三號、第二十五號』
- ^
#艦艇??逐艦(1)pp
.2-3『驅逐艦改稱新舊名稱對照表』
- ^
#神通蕨那珂葦衝突報告(2)p
.11『軍艦神通ハ昭和二年八月二十四日聯合艦隊第八回基本演習ニ?加シ乙軍第五?隊第二小隊ノ先頭艦トシテ二番艦那珂ヲ率ヒ仝日午後十時美保?錨地ヲ出港…』
- ^
#神通蕨那珂葦衝突報告(3)p
.50『?接及襲?要領』
- ^
#?き日本海に消ゆ
62頁
- ^
昭和2年5月21日(土)官報第116?。?立???書館デジタルコレクション
コマ6(原本561)
- ^
#海軍制度沿革(?4、1939)p
.41『大正一五.一二.一(?令二六四)|聯合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 長門陸?伊勢日向/第二戰隊/第三戰隊 阿武?鬼怒球磨/第一水雷戰隊 龍田 第二十五 第二十六 第二十七 第二十八驅逐隊/第一?水戰隊 由良 迅鯨 第二十四 第二十六?水隊|第二艦隊|第四戰隊 金剛比叡/第五戰隊 加古古鷹神通那珂/第二水雷戰隊 夕張 第五 第二十二 第二十九 第三十驅逐隊/第二?水戰隊 長鯨 第七 第十七?水隊』
- ^
#海軍制度沿革(?4、1939)pp
.63-64『大正一五.一二.一(?令二六五)|佐世保防備隊|第一艦隊|第二十五驅逐隊|梨、竹、?、榧/第二十六驅逐隊|?、楡、栗、?/第二十七驅逐隊|菱、菫、蕨、葦|葦(昭和二、九、五 二八七)/蕨(昭和二、九、一五 二九四)/第二十八驅逐隊|蓼、蓮、蓬』
- ^
a
b
#?き日本海に消ゆ
20頁
- ^
a
b
c
智?小?治三?
108-111頁
- ^
衝突の各艦、舞鶴に入港『東京日日新聞』昭和2年8月27日夕刊(『昭和ニュ?ス事典第1? 昭和元年-昭和3年』本編p50 昭和ニュ?ス事典編纂委員? ?日コミュニケ?ションズ刊 1994年)
- ^
#神通蕨那珂葦衝突報告(7)pp
.7-16
- ^
#?き日本海に消ゆ
36-37頁(龍田は神通が右旋回を終えるまで6分間照射)
- ^
#神通蕨那珂葦衝突報告(3)pp
.46-47『?施?過?要 午後十時演習開始各隊予定ノ如ク行動ヲ開始ス午後十一時六分左翼列ノ第五?隊第二小隊ハ甲軍伊勢型ヲ?見?接探照?ヲ用ヒ之ヲ友軍ニ通報ス爰ニ於テ第二十六及第二十七?逐隊ハ第五?隊第一小隊ヨリ分離進?ス 第二小隊ト?ネ竝進セシ第一小隊ハ其頃艦首ニ長門型ラシキモノヲ?見シテ之ガ艦尾ニ?接運動中十一時二十六分葦ヨリ衝突救助ヲ要スル旨信?ニ接シ反?現場ニ至リ損傷艦ノ救助溺者?索ニ?事ス』
- ^
#?き日本海に消ゆ
46-47頁
- ^
#災害篇
コマ193(原本374-375頁)『○悲?なる蕨の最後(八月二十七日同上)』
- ^
#災害篇
コマ192(原本373)『○?牲者は百二十名死體は一名あるだけ』
- ^
#災害篇
コマ193(原本375頁)『○一個の死體も發見されず』
- ^
#ハンディ判艦艇??集15pp
.32-33(舞鶴修理中の神通??)
- ^
#?き日本海に消ゆ
56-59頁『「那珂」衝突』
- ^
a
b
c
#海を征く
コマ71-72(原本129-130頁)『その時、驅逐艦蘆の艦長だつたのが過般、大角大?と一?に戰死された須賀中?であつたが、須賀君はこの時艦橋に居て巡洋艦のため、後部の三分の一を切り取られたのが判らなかつたといふ。まるで剃刀でさつと斬られたような工合だつたので、一寸も應へなかつたといふのだから全く凄い。これは兩方共が高速で運動して居つたためであると思ふ。全艦隊は爲に演習を中止して、直ちに救助作業をやつたが、その時世間では、海軍の訓練はあまりに猛烈すぎる―と云つて、新聞を始め、色?の批判が出たものである。』
- ^
#ハンディ判艦艇??集15pp
.59-60(那珂損傷??)
- ^
#神通蕨那珂葦衝突報告(1)p
.12『?時遭難地附近ニ在リテ極力短艇等ヲ以テ救難ニ?事シツツアリシ艦艇左ノ如シ 伊勢加古古鷹鬼怒阿武?由良龍田第二十六第二十七?逐隊』
- ^
#?き日本海に消ゆ
71頁
- ^
#神通蕨那珂葦衝突報告(1)p
.13『那珂ハ25日午前2時40分防水??補?工事及防水?出シ方終了自力航行ニ差支ナキヲ確メタル旨報告ニ接シ比叡及古鷹之ヲ護衛シ舞鶴ニ回航セシム25日午後5時無事到着セリ』
- ^
a
b
#?き日本海に消ゆ
73-74頁
- ^
#神通蕨那珂葦衝突報告(1)p
.14『神通ハ損傷最甚シク二十五日午前八時其ノ防水補?作業終了シ金剛ハ之ヲ艦尾曳ニテ舞鶴ニ回航加古之ヲ護衛シ二十六日午前九時無事舞鶴着』
- ^
a
b
#?き日本海に消ゆ
102-103頁
- ^
#軍艦神通艦首形?改正p
.2『別紙?面ニ示ス通リ艦首形?ヲ軍艦那珂ニ準ジ改正』
- ^
#災害篇
コマ193-194(原本375-376頁)『○不可抗力の?事』
- ^
#?き日本海に消ゆ
138-139頁『連合艦隊司令長官』
- ^
昭和天皇??第四
761-762頁『(昭和二年八月)三十日 火曜日(美保?事件に?する海相の奏上)』
- ^
#高松宮日記1?
273頁『九月一日 木曜 晴凉し。窓あけては?しすぎる風入り?る。秋の朝なり。又便?の生活かと思へばつまらなし。何だか元?なき一日なりき。午后二時半より、「わらび」「あし」の殉難者合同葬儀あり、武官(
鮫島具重
中佐、海兵37)を代?せしむ。生花を供ふ。皇族一般の他に、
博義王
(海軍大尉、那珂水雷長)は直?。』
- ^
「
昭和2年8月30日(火)海軍公報 第199? p.9
」
アジア?史資料センタ?
Ref.C12070310100 『故海軍中佐從五位?四等五十嵐?以下百二十名來九月一日午後二時三十分?須賀海兵團舞鶴練習部ニ於テ佛式ニ依リ合同葬儀執行』
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#災害篇
コマ194(原本376-377頁)『秋風冷かに海軍合同葬(九月二日同上)』
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#除籍艦艇??逐艦(3)pp
.9-10『蕨(千?以下)昭和二、八、二四美保關沖ニ於テ沈?、九、一五、除籍』
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昭和2年10月8日(土)官報第235?。?立???書館デジタルコレクション
コマ4
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#?き日本海に消ゆ
179頁
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#?き日本海に消ゆ
181頁
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#?き日本海に消ゆ
185-186頁
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#追悼山本五十六
197-198頁
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#?き日本海に消ゆ
189-190頁
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#?き日本海に消ゆ
191-192,216-217頁
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#災害篇
コマ193-194(原本375-376頁)『加藤司令長官進退伺ひ(八月二十九日 同上)』
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#?き日本海に消ゆ
205頁
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#海を征く
コマ72(原本130-131頁)
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生出、伏見宮元帥
252-253頁『まず兵をされ』
?考文?
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- アジア?史資料センタ?(公式)
(防衛省防衛?究所)
- 『故海軍大佐水城圭次位階追陞ノ件』。Ref.A11113786100。
- 『軍艦 神通 艦首形?改正の件』。Ref.C04015599500。
- 『忠魂碑建設方替助に?する件』。Ref.C04016425900。
- 『陶製?音立像碑?納の件』。Ref.C04016419900。
- 『蕨葦殉職者忠魂碑に?する件(1)』。Ref.C04016420000。
- 『蕨葦殉職者忠魂碑に?する件(2)』。Ref.C04016420100。
- 『蕨葦殉職者忠魂碑に?する件(3)』。Ref.C04016420200。
- 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(1)』。Ref.C04015668100。
- 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(2)』。Ref.C04015668200。
- 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(3)』。Ref.C04015668300。
- 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(4)』。Ref.C04015668400。
- 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(5)』。Ref.C04015668500。
- 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(6)』。Ref.C04015668600。
- 『神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(7)』。Ref.C04015668700。
- 『艦艇/?逐艦(1) 恩給??年加算調査 上? ?考法例 在籍艦艇 昭和9年12月31日』。Ref.C14010003300。
- 『除籍艦艇/?逐艦(3) 恩給??年加算調査 下? ?考法例 除籍艦艇 昭和9年12月31日』。Ref.C14010006100。
?連項目
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外部リンク
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