織田 信?
(おだ のぶひろ)は、
??時代
から
安土桃山時代
にかけての
武?
。
尾張
の
??大名
である
織田信秀
の
庶長子
で、
織田信長
の異母兄。
三河
安祥城
主。
通?
は三?五?、後に大隅守。
生涯
[
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]
信秀の第一子で、生母は
側室
であり、母親の出自は不明である
。『系?纂要』では母親を「家女」としており
[4]
、生母の身分が低かったため「信長御?兄」ながらも織田?正忠家の親族衆の扱いで、しばしば
津田信?
とも表記された。
生年は不明だが、
谷口克?
は、「
天文
3年(
1534年
)生まれの信長よりも5、6?は年長であろう」としている
。
また『
信長公記
』の記述から、男色絡みの恨みで家老の
角田新五
に攻められて切腹した
信時(秀俊)
は、信?の同母弟だったのではないかと考えられている
。
信?は父信秀の西三河進出に?って若い頃から??した。
天文17年(
1548年
)、第二次
小豆坂の?い
では信?(三?五?)は先鋒を務めたが、小豆坂で駿河衆(今川勢)と鉢合わせしてしまい、しばらく?ったが劣勢であったので、信秀本陣があった?木の付近までひとまず退いた。本隊と合流して盛り返した織田勢は、駿河衆を小豆坂まで押し返したが、そこで伏兵(
岡部長?
)に遭って再び苦?。信秀はその後も攻?を?けて二度?退され、味方の損害が多いというので兵を引き上げ、駿河衆が勝?をあげた。織田勢は安祥城へと退き、信秀は信?を安祥城の城主として守備に任せて
?須城
へと?還した
。
天文18年(
1549年
)3月19日、信?の守る安祥城は、
今川義元
の名代
太原雪?
(崇孚)と
朝比奈泰能
らを?とする駿河?遠江?三河の三カ?の大軍に攻められた
[8]
。しかし深入りした(三河衆の)先鋒の
本多忠高
が、弓の名手だった前島?次?に射殺されるなど、寄せ手は死傷者が多かったので、雪?は兵を退いた
[9]
。
同年11月9日、義元は再び雪?を出陣させて、安祥城を攻め落とさせ、信?を生捕りにした
[10]
。信長
[11]
が率いる後詰が
鳴海砦
まで前進していたが、?煙が上がるのをみて落城を知って兵を退いた
。雪?は織田勢の先鋒の
林佐渡守
と
平手政秀
に手紙を送って、「安祥城はすでに落城し、三?五?信?は切腹しようとするところを先程捕らえたが、そちらが捕らえている竹千代(
?川家康
)と人質替えをしよう」と持ちかけると、信長は大いに喜び早速快諾したので、10日、
萬松寺
天王坊に幽閉されていた竹千代は
織田玄蕃
と
織田勘解由左衛門
に付き添われ、信?をつれた岡崎の三河衆とで人質交換が行われた
。
西三河支配の橋頭堡だった安祥城の?落に加えて、松平家の世?ぎの?還により同家の勢いが?したことで、織田家の三河における求心力は大きく後退した。
天文21年(1552年)に信長が織田家の家督を?ぐと、信?は異母弟に仕えることになった
。
年次はよくわからないが、信長に
織田信行
(信勝)が反旗を?した年と同じとして、
弘治
2年(
1556年
)頃
、信?は
美濃
の
?藤義龍
と組んで?洲城を?っ取ろうと謀反を?策した
。「敵が攻め寄せると信長はいつも??しく出陣し、(後詰めに)信?が出陣して?洲の町中を通れば、留守居役の佐脇藤右衛門
[15]
が必ず町まで出てきて接待をする。次の機?にはその時に佐脇を殺害して、混?に?じて?洲城を?っ取り、合?の狼煙をあげるので、すぐに美濃勢は川を渡って近くまで攻め?めばいい。信長の味方のふりをして信?も出?して、合?になったら背後から攻める」と謀議して密約した
[16]
。しかし美濃勢がいつもより?合を?いた?子で川岸付近に接近してきたとの報告を受けた信長は「さては家中に謀叛があるのだな」と見?き、佐脇には城を絶?に出ないように命じ、町人も?構えを警備し、城門を閉めて、信長が?陣するまで人を入れないように?命して出陣した。信長出陣を聞いて、信?は手勢を?らず率いて?洲城に向かったが、信?到着を申し入れても入城を拒まれたため、謀叛が知られたかと不審に思って急いで撤退した。このため美濃勢も退去して、信長も?陣した
[16]
。
信長は信?を赦免しているが、?緯は不明。信行の謀叛の終息後、家臣?すべてに?えられた赦免を受けたと考えても矛盾はないだろう。
以後は二心無く信長に仕え、?時はまだ信長の息子たちも幼く、信秀直系で一番の年長者ということもあって、織田家
連枝
衆の中ではまとめ役的な存在であったという
[17]
。
永?
11年(
1568年
)9月の信長が上洛?に?軍した
。翌年から
元?
元年頃まで京都に常駐して、信長の庶兄という立場から
公家
と?軍
足利義昭
との折衝役を任された
。この頃、受領名を大隅守として、津田三?五?を?した
。
永?12年(
1569年
)3月、信?は
菅屋長?
?
飯尾??
?
大津長治
とともに、岐阜下向の
山科言?
より訪?されている
。
元?元年(
1570年
)9月25日、南
近江
での?井?朝倉氏との?峙において、比叡山を包?するために、信?と
三好?三
(政勝)?
香西越後守
は、?軍義昭の軍勢と一?に、
山城?
の
勝軍城
(勝軍山城、?軍地?山城、北白川城)に置かれた
。
元?3年(
1572年
)10月、武田の?
秋山虎繁
に攻められた
岩村城
の救援に??したが、城は降伏して落城した
。
天正
(元?)元年(
1573年
)4月2日、信長は不和になっていた義昭の籠もる
二?御所
を包?して、上京を?き?った。義昭は和議に?じぜざるえなくなったので、3日、折衝のために信長の名代として信?が交?に臨み、和議を締結させた
。この頃、
吉田兼見
と親しく交わり、何度か邸宅を行き?している
。
天正
2年(
1574年
)7月、伊勢長島攻めに?軍
。信?は諸?(
羽柴秀長
?
?井政澄
?
丹羽長秀
?
氏家直通
?
安藤守就
?
飯沼長?
など多?)と共に中央の陣に加わった
。7月15日、篠橋?大鳥居?屋長島?中江?長島(
長島願?寺
)の5つの攻?目標のうち、篠橋の砦を、信??
織田信成
?
織田信次
?直通?守就?長??政澄?
水野信元
?
?井雅?助
で、攻?した。篠橋?大鳥居の一揆勢は弱り果てて赦免を求めたが、信長は「?人どもを懲らしめるために兵糧攻めにして、年?の罪過??行に?する鬱憤を晴らす」といって拒否した。長島の一揆勢は長期?の備えもなく3ヶ月も籠城して半?が餓死した
。
9月29日、海と陸からの兵糧攻めに堪え兼ね、一揆の指揮をとっていた
下間?旦
は開城を願い出て、信長は今度はこれを許すが、?計であった。降?した一揆勢が多?の船に分?して長島から退去しようとしているところを、織田勢は?砲で?ちかけて狙?し、襲い掛かって、際限もなく川に切り捨てた。騙されたと知った一揆勢のうち?骨のある7、8百人が裸になって川に飛び?み、?刀ひとつで反?して、警備の手薄なところを突破して、散り散りに逃走した
。この一揆勢の思わぬ反?におって、織田家の親族衆が多く討死したが、信?もこのときに?死した
。この頃、42?か43?ぐらいという
。
子孫
[
編集
]
『織田系?』には信?の子は書かれていないが
[26]
、『
?政重修諸家譜
』『系?纂要』には信?には女?がおり、娘の深光院(
桂峯院
)は信長の養女として丹羽長秀に嫁いでいる
[4]
。彼女は
丹羽長重
、
?葉典通
の正室の生母で
[28]
、そうであれば
仁孝天皇
の祖先となり、その血筋は現在の
皇室
にも?がっていることとなる
[29]
。
この他、『系?纂要』は、信?の項目とは別に、信長の庶長子の
織田信正
について、その正室を「大隅守信?女」として前述の娘とは別の恭?を書いている
[30]
。
脚注
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?考文?
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