細川 澄之
(ほそかわ すみゆき)は、
室町時代
後期から
??時代
にかけての
武?
、
室町幕府
29代
管領
。
細川京兆家
13代?主。
生涯
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]
延?
元年(1489年)、
?白
?
九?政基
の二男として誕生した。母は
武者小路隆光
の娘。政基より
九?家
の
家督
を?いだ
九???
は20?ほど年の離れた異母兄である。
延?3年(
1491年
)
2月13日
、2?のとき、?身のため?子の無かった
細川政元
の養子となり、細川京兆家の世子が代??した
?明丸
を幼名として名?る。
明?4年(
1495年
)7月、
足利義澄
に目通りし、家督と定められた
[注 1]
。
文?
元年(
1501年
)5月末、政元から家督を?られた
。このことを、
和泉?
日根?
にいた?父?九?政基は、「抑も細川家の事、?明丸(澄之)に仰せつけ、
安富筑後守(元家)
?
?師寺備後守(元一)
?人を以て諸公事以下申し沙汰すべき由相定め了んぬ」と記している(『政基公旅引付』)
。
しかし、政元の
被官
の中には、
公家
出身の澄之の家督?承に反?する者もいたため、文?3年(
1503年
)、政元は、細川一門の
細川成之
の孫?六?(のちの
細川澄元
)を後嗣とした
。これにより、政元の後?者は、澄之と澄元の二人となった
。政元は、
?津?
と
丹波?
をそれぞれ二人に分?する方針であったようだが、管領家としての?領をいずれにするかで、?衆(家臣?)は二派に分かれて?うことになった
。
永正
元年(
1504年
)、?明丸は
元服
し、母方の?兄弟で
室町幕府
11代
?軍
?
足利義澄
[注 2]
より
偏諱
を賜り、
澄之
と名?る。
烏帽子親
は
細川政賢
であった。
永正2年(
1505年
)5月、
淡路守護
の
細川?春
や
安?氏
、
香川氏
などと共に
?岐?
の
阿波細川氏
を攻めるも
細川成之
や
三好之長
に敗北し、後?者の地位は澄元のものとなった。
永正3年(
1506年
)4月下旬、養父?細川政元は、
丹後?
守護?
一色義有
と?っていた
若??
守護?
武田元信
から助けを求められ、澄之を丹後?に派遣した
。政元は、澄之と澄元に、円滑に家督を?承するため、澄之を丹波?守護に任じて下向させていた
。
澄之は、丹後?
宮津城
を攻めたが、同年9月末になっても城は落ちなかった
。結局、一色攻めは成功せず、丹後?賀屋城(加?城)を攻めていた澄之は、永正4年(
1507年
)5月28日、?京した
。このとき、澄之は、一色氏被官の城??石川直?と共謀し、世上へは、城は?落したと?れた上で、軍を引き上げていた(『多門院日記』)
。
永正4年(1507年)6月23日、
香西元長
の間諜?竹田孫七によって、養父?政元が自邸で暗殺された
(
永正の錯?
)。翌日24日、澄之や香西元長らの軍勢は細川澄元邸を攻め、澄元や三好之長
[注 3]
らを
近江?
に追いやった
。同年7月8日、幕府は、澄之を細川家の後嗣と定めた
。しかし、細川澄元方は態勢を立て直し、もう一人の政元の養子?
細川高?
も澄元方に加わった
。
永正4年(1507年)8月1日、細川高??
政賢
?
?春
らによって、京都の自邸を攻められ、香西元長や
?師寺長忠
らと共に殺害された
。享年19。
澄之政?は僅か40日で崩?したが、澄之が支持されなかったのは
細川家
の血統では無かったためであり、細川一族の
細川政賢
や
細川?春
らからも敵視されていた(『
宣胤卿記
』『多聞院日記』『
瓦林政?記
』)
。
?世の歌
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]
自害する際、澄之は、?父?九?政基と母に書?をしたため、
和歌
を詠んだ
。?を少し添えて、?とともに?き?み、
女房
に託したと?わる
。
「御ふたりより先だち、後生菩提さかさまにとぶらはれ申さん事の口おしさよとて、おくに一首の歌をあそばしたまふ」
梓弓
はりて心は?けれど 引手すくなき 身とぞなりぬる
細川政元暗殺の背景
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]
事件は、澄之を新たな京兆家?主として擁立することで三好之長ら
阿波?
の勢力を排除したい香西元長??師寺長忠ら京兆家被官が中心的な役割を果たしていたとされる。『
??記
』によると、政元の寵臣??師寺長忠と澄元の被官?三好之長が不和であり、長忠は香西元長と相談し、澄元?之長を除こうとしたために永正の錯?が起こったといい、澄之自身は政元の死と?係なく、?なる澄元の?抗馬にすぎなかったとされる。7月25日には、在京していた
六角氏綱
が
近江?
へ??し、京都の人?は恐怖したという(『多門院日記』)。『
不問物語
』によれば、六角氏は澄之と共に澄元や之長を討伐する手?であったが、澄之を裏切ったとされる。
澄之と澄元の一連の?いは、?初、細川京兆家の家督?いであると考えられていた。しかし、澄之の烏帽子親を務めた細川政賢や、細川?春など、細川氏の人間はみな澄元方として??していることから、家督?いではなく、「細川氏とその家臣の?立」であったと考えられる
[11]
。
『不問物語』によれば、澄之の切腹の介錯を務めた
波?伯部盛?
は、
高雄
の尾崎坊にいた自身の孫?
波?伯部正盛
に、澄之の?世の句や、澄之は政元暗殺に加?した不義の人であること、澄之には京兆家?主としての器がないこと、そのため、あえて澄之の「香西元長の
嵐山城
に移動しよう」という提案を?り、京で間接的に(澄元や之長の反?攻勢を利用して)命を絶たせようと考えたことなどを?えたという
[12]
。
細川家の養子となった背景
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]
政元は、
九?政基
と
武者小路隆光
の娘の子である澄之を養子(??の
管領
)とすることで、同じく隆光の娘(
円?院
)を母とする
足利潤童子
?
足利義澄
との結びつきを利用して?力の?化に努めようとしたとする?がある。
ただし、
足利茶?丸
による潤童子殺害によってこの計?が頓挫している上に、次の話から、この構想自?も否定されている。それは、政元が東?(
越後?
)への下向を望んでいたものの、宿老たちから「子供がいないのに東?へ行って、政元が死んでしまったら大?だ」と反?されたため、澄之が養子になったというものである。?際に、澄之が養子になることを記した文書が?見されており、そこには
上原元秀
、
秋庭元重
、
?師寺元長
、安富元家、
香川元景
の署名がなされている
[13]
。
脚注
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]
注?
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]
- ^
文?
2年(
1502年
)6月1日、父?政基の日記に、?明丸(澄之)が、細川家の家督相?人として足利義澄に
見?
したことが書き留められている
。
- ^
義澄の母も武者小路隆光の娘である。
- ^
『大阪府史』では、
三好元長
とあるが、生年からみて、三好之長とした。
出典
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]
- ^
石井進編『中世の法と政治』(吉川弘文館、1992年)
- ^
末柄豊「『不問物語』をめぐって」(『年報三田中世史?究』15?、2008年10月)
- ^
末柄豊「『不問物語』をめぐって」(『年報三田中世史?究』15?、2008年10月)
?考文?
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]
?連項目
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外部リンク
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