水前寺成趣園
?にある細川忠利の像
細川 忠利
(ほそかわ ただとし)は、
江?時代
前期の
大名
。
豊前?
小倉藩
2代藩主、
肥後?
熊本藩
初代藩主。
官位
は
?四位下
?
左少?
。
生涯
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]
生い立ち
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]
細川忠興
(?時は長岡姓)の三男。
幼名
は光千代。
天正
14年(
1586年
)11月に細川家の領?である
丹後?
で生誕したとされる
[1]
。母は
明智光秀
の娘であり忠興の正室であった
玉(細川ガラシャ)
。同母兄に
細川忠隆
[2]
、
細川興秋
。同母姉妹に長、多羅がいる。生まれた時から病弱だったため玉がキリスト?の洗?を受けさせたともいわれているが、諸?ある
[注 1]
。
幼少時、一?には、
文?
3年(
1594年
)から
慶長
3年(
1598年
)に京都の
愛宕山
下坊福?院
に入って勉?に?んでいたとされるが、詳細は不明
[3]
。書?などの一次史料で彼が?史の表舞台に顔を見せ始めるのは
?ヶ原の?い
のあった
慶長
5年(
1600年
)7月からになる
[4]
。
だが、この慶長5年7月という月は、
細川家
と弱冠十五?の忠利にとって苦難が?いた。父?忠興が?津征伐に出征した直後の7月17日、大坂玉造の細川邸で留守を預かっていた母?玉が石田三成の軍勢
[
要出典
]
に急襲され、家臣たちと非業の死を遂げた
[5]
[6]
。19日には
田?城の?い
が始まり、祖父?
細川幽?
が窮地に追い?まれる。
これより前の慶長5年正月、
豊臣秀吉
死後の?時の政局をめぐる混?の中で、忠利は細川家の?人(人質)として江?へ赴いていた。母の死と祖父の窮地のなかで、忠利は父?忠興と連絡を取り合い
[7]
、?津征伐で備えとして宇都宮に陣を敷いていた
?川秀忠
に近侍し、
?川家
の信?を勝ち取っていく
[8]
。始め長岡姓を?していたが、この年の9月に?川家康の命で細川へ復姓し、元服して細川?記忠辰を名?った
[注 2]
。
家督決定
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]
忠利の元服が決まった直後、慶長5年9月15日に
?ヶ原の?い
が勃?する。細川家は大いに活躍し
[9]
、論功行賞の結果、
丹後
18万石から
豊前
小倉
39万石の大大名へと成長する。
その直後、慶長5年12月ごろに忠興は嫡子の細川忠隆を?嫡した。正室
千世
との離婚問題が原因である。一般的には、忠興の正室である玉の死の直前に千世が逃げたことについて忠隆が正室をかばい、忠興の心象を著しく害したのが理由
[9]
と?えられていた。しかし近年では違う?が唱えられている。慶長4年(
1599年
)に??した「?川家康暗殺計?」において?幕とされた
前田利長
が千世と同母兄妹であり、そのことに?連して細川家に嫌疑がかかった。しかし、千世を忠隆は離?しなかった
[10]
。この一件から忠隆の政治的能力を不安視する?があがり、忠興は?嫡せざるをえなかったのだという
[11]
。忠隆は出家して千世とともに祖父?幽?の暮らす京都へ移った。
忠隆が?嫡されたあとの?年は、細川家の家督は次男?興秋が?ぐのか三男?忠利が?ぐのか曖昧なままであった
[12]
。興秋は?ヶ原の?いに父や兄とともに?軍して武功を立て
[13]
、
小倉城代
となっていたが、?川家康?秀忠父子の側近くで仕え、?川幕府やその重臣とのパイプを持っていたのは忠利の方であった
[13]
。
慶長9年(
1604年
)夏頃、忠興が突如病に倒れる。忠興危篤の報がもたらされるなか、?軍家康やその嗣子秀忠は忠利を後?者にするよう忠興にすすめた
[12]
。病から回復した忠興は興秋を忠利の代わりに江?へ人質として送り、その道中で興秋は、やはり出家して祖父?幽?のもとへ出奔してしまう
[14]
[注 3]
。
こうして、忠興の手元に?った唯一の正室腹の男子である忠利は細川家家督に?定した。
慶長14年(
1609年
)、彼は
小笠原秀政
の娘で
家康の孫娘
を母に持つ
千代?
を正室に迎えた。この?組は?軍となっていた秀忠が主導したものであり、千代?はこの際、秀忠の養女となっている
[13]
。
熊本藩主
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]
千代?は慶長14年(
1609年
)
4月24日
、豊前?中津城に輿入れした。
元和
5年(
1619年
)、長男
光利(のち光?と改名)
が誕生。
元和
6年(
1620年
)に父から家督を?られて小倉藩主となる。元和8年(
1622年
)には、慶長12年(
1607年
)に出奔して
大坂城
に入城し、
大坂の陣
を大坂方として?い、?後浪人となっていた
米田是季
を??させ、のちには家老にした。
?永
9年(
1632年
)、肥後熊本藩の
加藤忠?
が
改易
されたため、その跡を受けて小倉から熊本54万石に加?移封された(後任の小倉城主には忠利の義兄弟である
小笠原忠?
が就任した)。忠利は熊本藩の初代藩主となり、父?忠興は?居所として
八代城
に住んだ。?永14年(
1637年
)の
島原の?
にも?陣し、武功を?げている。
?永18年(1641年)、父に先立って死去した。享年55。長男の光利(光?と改名)が跡を?いだ。墓所は
熊本?
熊本市
の妙解寺(のち、
神?分離令
で
?寺
となった)
[15]
。
人物
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]
- 父親の忠興から?養配分を徹底した食事をとるように諭された書?を送られている。?際に忠利が病にかかった時には、忠興から同じ物をたくさん食べないように念を押して忠告され、
?卵
が
痰
によくないこと、
疱瘡
に
鮑
が大毒であることを指摘されている
[16]
。
- 忠利は江?で人質となっていたため?ヶ原の?いでは功績がなく、また2人の?兄を差し置いて世子となったことを?にしていたという。?された手紙
[17]
をみると、?川家や父?忠興はもちろん、?嫡された長兄?忠隆ほか叔父?叔母などに細やかに心遣いをしている?子がうかがえる。
- 武の時代から
幕藩?制
に移りつつあった新しい時代に、妻の?家??川家と個性の?い父?忠興との間の調和に心?しつつも、
細川家
を大名家として保つのに成功した。
- 父の忠興に名刀「大三原」を所望したが、?えられず不?でいるところ、2代?軍
?川秀忠
が一計を案じて忠興を水浴に誘い、忠興が?ぎ捨てた大三原を手にとって、?軍が仲介するなら忠興も文句も言うまい、と?を利かせて忠利に?えたという逸話がある(詳細は
正家#幽?大三原
)。
- 加藤家改易後の熊本藩を任されたように幕府からも信?されており、「いずれ
藤堂高虎
のように江?に常駐するのではないか」という?が立つほどであった。?永11年(
1634年
)には
?勤交代
の改善策を幕閣に提案し、それが採用されてもいる。忠利が死んだ際、
?川家光
は「越中早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と嘆いている。
- 外?大名
でありながら幕府側の代理者として行動することが多かったため、他の大名には煙たがられたという話も?わっている。
- ?川家光の乳母
春日局
は
明智氏
の?者であり、明智氏の血を引く忠利に?しては好意的であったとされる。
- 少年時代に江?に居たため、秀忠の代の幕府の有力な
旗本
たちと幼なじみであったことも、結果的には忠利に有利に?き、旗本たちとの太いパイプを利用して幕府の動向を?んでいた
[18]
。
- 武芸に熱心で、特に?術においては
柳生宗矩
に師事し、大名の中では
鍋島元茂
と?ぶ
柳生新陰流
の代表的な?士の一人である。宗矩も忠利を高く評?し、秘?である「兵法家?書」を?えている。また、晩年の
宮本武?
を招き、客人として遇したことでも知られている
[19]
。
- 忠利は葡萄酒を好んでおり、文?によれば、
豊前
小倉藩
主時代の1627年(?永4年)から 1632年(?永9年)にかけての6年間、家臣に命じて?年造らせていた
[20]
。葡萄をアルコ?ルに漬けた
果?酒
(混成酒)や
リキュ?ル
の類ではなく、ヤマブドウの一種であるガラミを、?大豆の酵母を添加物としてアルコ?ル?酵させた?造酒、いわゆる
ワイン
であることが明らかになっている
[21]
。これは日本最初の?産ワインということになるが、?時は
キリスト?
に?連した?料とみなされたためか、
禁?令
の?化にともない、小倉藩から
肥後
熊本藩
への?封を機にワイン造りを終了させたとみられる
[22]
。
- 遺言により、熊本市の
岫雲院
にて?毘に付されたが、愛養の鷹が二羽殉死したと?えられている。
- ??事業を
?永
元年(
1624年
)から
?永
5年(
1628年
)まで?施した。これは、幕府による?永通?の導入に先立って行われた、大名領主が行った本格的な?貨?造であった。そして、この頃に行われた細川小倉藩での?貨?造は複?の?屋による競?的な請負制をとり、技術面では隣?の萩藩の??職人集?を招聘し、先進的な??技術を導入して行われた。また、こうして?造された細川小倉藩の新?は、その一部が貿易品としてベトナムなどにも輸出され、ベトナムにおいて上質の?貨として?に流通し、需要があった京?と共に、精?範疇に?する「大?」として流通し、使用された
[23]
。
系譜
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]
- 父:
細川忠興
(1563年 - 1646年)
- 母:
明智玉
(1563年 - 1600年) -
明智光秀
の三女
- 正室:
保?院
(1597年 - 1649年) -
千代?
、
?川秀忠
の養女、
小笠原秀政
の次女。
- 側室:金子氏
- 側室:額田氏
- 生母不明の子女
?記
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]
- 山本博文
『江?城の宮廷政治 熊本藩細川忠興?忠利父子の往復書?』(新版)〈講談社?術文庫〉、2004年。
- 春名徹
『細川三代 幽??三??忠利』藤原書店、2010年。
- ?葉?陽『細川忠利―-ポスト??時代の?づくり―』吉川弘文館、2018年
細川忠利が登場する作品
[
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]
- ?藤光?『細川忠利兵法異聞』(郁朋社、2012年)
展??
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]
- 「細川忠利と三宅藤兵衛 ??肥後にやってきた、光秀の孫たち??」、2020年5月16日~2020年7月5日、
熊本?立美術館
[24]
脚注
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]
注?
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]
- ^
安廷苑著『細川ガラシャ』(中公新書、2014年)では、病弱ゆえに洗?を受けたのは忠利の兄の
細川興秋
のほうだと比定しているが詳細は不明。イエズス??士の書簡を集めた1598年出版の『日本書翰集』での母?玉(細川ガラシャ)からの書簡によれば病弱だった三?の次男が洗?を受け、ジョアンと洗?名を授けられたと?えている。ところが次男の興秋は?時?えで五?である。なので、三男の誤りであると?時?え二?の忠利に比定する?究者もいる。また、他のイエズス?士は「(玉の)小さな息子二人が洗?を受けた」ことを記しており、興秋と忠利二人が洗?を受けたとも受け取れる記述になっていて、さらには興秋と忠利とが混同されているような記述もある(『十六?七世紀イエズス?日本報告集』同朋社出版)。だが、安は忠利には洗?を受けた形跡がないとする。
- ^
父?忠興は
大坂夏の陣
後まで長岡姓を?しており、??として
羽柴姓
も名?っていた。
- ^
興秋はのちに
大坂の陣
で
豊臣氏
に?して
大坂城
に入るが、陣の結果をうけて慶長20年(
1615年
)に自害する。
出典
[
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]
- ^
『綿考輯?』?二十八。
- ^
細川?膳家初代。
- ^
『細川忠利 ポスト??時代の?づくり』吉川弘文館、2018年、16頁。
- ^
『細川忠利 ポスト??時代の?づくり』吉川弘文館、2018年、18頁。
- ^
安延苑『細川ガラシャ―キリシタン史料から見る生涯―』中公新書、2014年
- ^
『霜女?書』によれば、母親の玉は江?にいる忠利に形見の品を贈って死んだという。
- ^
『江?城の宮廷政治 熊本藩細川忠興?忠利父子の往復書?』講談社文庫、1996年。
- ^
『細川忠利 ポスト??世代の?づくり』吉川弘文館、2018年、18-20頁。
- ^
a
b
『江?城の宮廷政治 熊本藩細川忠興?忠利父子の往復書?』講談社、1996年。
- ^
前田家と?戚?係にある細川家は疑いをかけられ、その結果として忠利が人質になり江?へ赴くことになった。
- ^
『細川忠利 ポスト??世代の?づくり』吉川弘文館、2018年、20-24頁。
- ^
a
b
『細川忠利 ポスト??世代の?づくり』吉川弘文館、2018年、26頁。
- ^
a
b
c
『江?城の宮廷政治 熊本藩細川忠興?忠利父子の往復書?』講談社。
- ^
このとき、興秋に?係していたとみられる重臣、
飯河豊前
?長岡肥後が忠興の命で誅伐され、それに不?を持った
米田是季
が細川家を出奔している。
- ^
“
北岡自然公園(妙解寺跡?細川家御廟所)
”.
熊本?公式?光サイト もっと、も?っと!くまもっと
. 熊本??(公社)熊本??光連盟.
2023年8月19日
??。
- ^
宮本義己
『?史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』中央??災害防止協?、2002年、142頁。
- ^
山本博文
『江?城の宮廷政治 熊本藩細川忠興?忠利父子の往復書?』(新版)〈講談社?術文庫〉、2004年。
- ^
山本博文「細川家、情報?を制す」『芸術新潮』10月?、新潮社、2007年。
- ^
“
熊本城の?史
”.
2023年8月19日
??。
- ^
“
?産最古の細川家ワイン ?替え機に製造終了 永?文庫?究センタ?が忠利の新史料
”. 熊本日日新聞 (2020年12月10日).
2020年12月23日
??。
- ^
“
400 年前の?産ワイン?造の詳細が明らかに
” (PDF). 熊本大?.
2019年12月16日
??。
- ^
“
日本産ワインは400年前に作られていたことが明らかに
”. 熊本大?.
2017年4月13日
??。
- ^
古賀康士「近世初期細川小倉藩の??事業」『史??誌』125?1?、2016年、p42-68
- ^
“
[2020年度]第1期 細川コレクション細川忠利と三宅藤兵衛 肥後にやってきた、光秀の孫たち
”. 熊本??育委員? (2020年10月1日).
2023年8月19日
??。
?連項目
[
編集
]
外部リンク
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]
細川家
小倉藩
2代藩主 (1620年 - 1633年)
|
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細川家
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小笠原家
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細川家
熊本藩
初代藩主 (1633年 - 1641年)
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加藤家
| |
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細川家
| |
---|