第5師? (朝鮮人民軍)

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第5?兵師?
第5步兵師團
活動期間 1949年
?籍 朝鮮民主主義人民共和?
軍種 朝鮮人民軍陸軍
兵科 ?兵
主な?? 朝鮮??
識別
NATO兵科記?
5

第5?兵師? (だい5ほへいしだん、 朝鮮語 : 第5步兵師團 )は、 朝鮮人民軍 の正規 師? の一つ。 朝鮮族 主?の部隊であった 中?人民解放軍 第164師が直接の前身で、その源流は 朝鮮義勇軍 第3支隊に遡る。 1945年 以降、 中?共産? の指揮下で ?共?? を?い、 1949年 7月に 朝鮮民主主義人民共和? へ移動して朝鮮人民軍に編入された。 1950年 6月25日 に勃?した 朝鮮?? の初期には朝鮮半島東海岸を進?した。

前史 [ 編集 ]

李相朝
 
朱?海

1942年以降、 延安 から北 ?州 に派遣され地下工作を行っていた 朝鮮?立同盟 李相朝 (金?明)は、1945年8月20日、 ハルビン市 において朝鮮?立同盟北?特別委員?を組織した [1] 。さらに、1か月足らずで300人の朝鮮人?年を集め、9月25日、ハルビン保安?隊朝鮮?立大隊を編成した [2] 。李相朝を大隊長兼政治委員とし、大隊本部、警衛小隊、三個中隊合わせて兵力約500名からなる部隊であった [3] 。李相朝はソ連軍ハルビン衛戍司令部に武器??の支給を掛け合ったが、? 東北抗日連軍 の中?人幹部 李兆麟 中?語版 が衛戍副司令であったためこの要請は快諾された [3] 。?立大隊は日本製武器で武?し、? ?州?軍 第4軍管?司令部に駐屯して訓練を行った [3]

1945年11月19日には 瀋陽市 から 朱?海 ら19人が合流 [2] [3] 。翌11月20日、 中?共産? 松江省委員?とともにハルビンを撤?した [2] 。11月25日、ハルビン近郊の 賓? へ移駐した?立大隊は朝鮮義勇軍第3支隊に?展した [2] [4] 。支隊長は李相朝、政治委員は朱?海で、その他の支隊幹部は副支隊長に李?山( 金昌? )、?謀長に金延、政治部主任に李根山、供給?長に?鍵( ?載然 )といった面?であった [3] 。隷下に3個大隊が編成され、それぞれの大隊長には王輝、柳登、金?龍が任命された [3] 。第3支隊は中共東北局の 陳雲 の指導を受け、引き?き賓?に駐屯しながら諸機?を警備 [3] 。12月以降は 延?? に退避してきた 松江省 政府の警護と周?土匪の討伐に?事した [3]

1946年3月25日、中共東北局は「朝鮮義勇軍暫定改編に?する方案」を公表した。この方案により朝鮮義勇軍各隊は中?の地方部隊として中共の直接支配下に置かれ、朝鮮人幹部の朝鮮半島への??も進められることになった [5] 。第3支隊は 東北民主連軍 松江軍??立第8?に改?し、松江軍?司令 ?鶴亭 中?語版 の直接指揮を受けた [3] 。?時の兵力は約2000名であった [3] 。4月28日にはソ連軍の撤?に伴いハルビンを再占領し、?日本領事館に?本部を置いてハルビン衛戍任務に?たった [3] 。松江公安?隊政治委員のチョエンパ(中?人)は、軍??で最も信?された部隊であり、中共東北局の中心であるハルビン [注? 1] の守備を??し、重要な役割を果たしたと回想している [2]

以降2年ほど、第8?は土匪討伐を除けばほとんど前線に赴く機?がなく、もっぱら兵力の?充に努力した [3] 。とは言え、近隣で最も朝鮮族人口の集中する 牡丹江市 では 金光? が別に朝鮮族部隊を編成しており、?該地域からの募兵ができなかった第8?の兵力は多い時でも3000名に達しなかった [3] 。1946年秋には李相朝、金延、李根山が入北し、支隊長に李?山、?謀長に?鍵、政治部主任に鄭京浩が昇格した [3]

1948年3月、第8?は 長春市 の攻略作?に?加するため前線へ向かう [3] 。同時期に朱?海が東北行政委員?朝鮮民族事務?長に?任、鄭京浩も入北して 朝鮮民主? 中央副委員長となり、張福が政治部主任に昇格した [3] 。第8?は吉南軍?第72?、牡丹江地?朝鮮族部隊とともに 煙筒山 中?語版 に移動し、これらの部隊を集成して?立第11師が新設された [3] 。第72?、第8?、牡丹江地?部隊はそれぞれ?立第11師の第1?、第2?、第3?に改編された [3] 。吉南軍?第72?は朝鮮義勇軍第7支隊を母?として 吉林省 樺甸? で編成された部隊で、????が豊富であった [3] 。牡丹江朝鮮族部隊は前述の通り?東北抗日連軍出身の金光?が編成した部隊で、約2400名の兵力だったが、????はなく幹部の大半は中?人であった [3]

?立第11師の幹部も師長の 王?明 中?語版 、政治委員の 宋景華 中?語版 、?謀長の康干生 [注? 2] 、政治部主任の王海?らはみな中?人で、朝鮮人は副師長に李?山、政治部副主任に張福が就くに留まった [3] 。隷下の3個?の幹部にも中?人が多く、朝鮮人からは朝鮮義勇軍第5支隊?導隊長の朴松波が第3??謀長、第5支隊幹部の朴正?が第3?政治部主任、第7支隊出身の金鳳文が第2?政治部副主任、第3支隊?謀長の?鍵が第2?長に任命された [3] 。1948年5月に開始された 長春包?? は10月に大勢が決し、?立第11師も長春に入城、??東軍司令部に師?司令部を置いて長春衛戍任務に?たることとなった [3] 。1949年初頭、?立第11師は人民解放軍東北軍?第164師に改?され、隷下の各?も第490?、第491?、第492?となった [3]

1949年5月、朝鮮人民軍への編入が第164師幹部に?示されたが、それに伴って中?人幹部の異動が課題となった [7] 。?時、大隊長級の5割超、連隊長以上の7割超が中?人幹部により占められており、一度にこれを入れ替えようとすれば指揮空白が生じるためである [7] 。結局、異動を複?回に分けて行い朝鮮人幹部で穴を埋めたが、そのために?が?まり入北の方針は半ば公然のものとなった [7] 。5月末には人民軍の軍官10人余りが長春にやって?て第164師の中下位幹部に正規化訓練を施した [7] 。これは人民解放軍の今後の正規化の準備であると?明されたが、人民軍への編入の準備であることは明白であった [7] 。?時、第164師の兵力は約8000名に過ぎず、?備も貧弱であったため、人民軍の編成に基づいた砲兵の組織と兵力の?充が急がれた。 興京? 朝鮮族中隊の全員が編入された他、延?で新兵約3000名が補充された [7]

1949年7月20日以降、第164師は1日おきに出?する貨物列車で分散して入北した [7] 。機密保持のために封印列車として運行されたため用便が問題となり、車輛の片隅に穴を開けた缶を二つ置いて解決したと?えられる [7] 咸鏡北道 羅南 に到着した第164師は人民軍第5師?に改編された [7]

朝鮮?? [ 編集 ]

第5師?幹部(1950年6月25日時点)
第5師? 師?長 金昌? 少?
文化副師?長 張福 ?佐
砲兵副師?長 朴松波 ?佐
後方副師?長 金粒
?謀長 趙? ?佐
第10連隊 連隊長 朴正? 大佐
文化副連隊長 鄭吉雲 中佐
?謀長 桂宇燮 中佐
第11連隊 連隊長 金鳳文 大佐
文化副連隊長
?謀長 鄭範 中佐
第12連隊 連隊長 王輝 大佐
文化副連隊長 金道龍 中佐
?謀長 尹明煥 中佐
砲兵連隊 連隊長 車均燮 大佐

第5師?は、それまで羅南で人民軍第2師?が駐屯していた?日本軍 第19師? 兵?に移動した [8] 。師?長に金昌?(李?山) [注? 3] 、文化副師?長に張福、砲兵副師?長に朴松波、後方副師?長に?鍵が任命された [7] 。?謀長は?初空席で朴松波が代行した [7] 。?鍵は後方副師?長任命に不?を抱き、師?を離れ後に?道警備旅?長となった [7] 。それに代わって第164師供給副部長だった金粒が後方副師?長に就いた [7]

また、隷下の各連隊を見ると、第10連隊は連隊長が朴正?、文化副連隊長が鄭吉雲、?謀長が桂宇燮。第11連隊は連隊長が金鳳文、?謀長が鄭範。第12連隊は連隊長が王輝、文化副連隊長が金道龍、?謀長が尹明煥。砲兵連隊は連隊長が車均燮であった [7] 。1950年春、 第6師? 第15連隊長だった趙?が第5師??謀長へ?任した [11] [注? 3] 。6月10日、第5師?は機動訓練作?命令によって召集され、列車で 38度線 近傍の東海岸 襄陽 へ向けて南下した [8]

東海岸において韓?軍 第8師? 李成佳 師?長)に?する攻勢を?任することになったのは、第5師?第10連隊、38度線警備第1旅?( ?白龍 旅?長)、 第766部隊 ?振宇 部隊長)、海軍第945陸?隊 [注? 4] であり、第10連隊は第1警備旅?の指揮下に入った [13] 江陵 付近に布陣する韓?第8師?に?し、人民軍は第1警備旅?の7個?兵大隊が第1梯隊として38度線を突破するとともに、第766部隊及び第945陸?隊が江陵南方に奇襲上陸し、これを???殲滅することを企?していた [14] 。第10連隊は第1警備旅?に後?する第2梯隊として起用される計?であった [14]

一方で、第5師?第11連隊及び第12連隊は中部地域において人民軍第2軍?(金光?軍?長)の第2梯隊として控置されることになった [15] 。中部地域で攻勢に?加した部隊は他に第2師?( 李?松 師?長)、第12師?( 全宇 師?長)、第603モ?タ?サイクル連隊である [15] 。第1梯隊の第12師?が 洪川 方面へ攻?を開始した後、これに後?して ?城 ? 原州 方面へ?果を?大することを期待された [15] 。これにより韓?軍の?援を遮?し、第2軍?の第1段階目標である原州? 三陟 線への進出を達成する計?であった [15]

6月25日、38度線全域に渡って人民軍は南侵を開始し、朝鮮??が勃?した。東海岸では第1警備旅?の攻?が停?した後、6月27日4時より第10連隊も前線に投入された [16] 。以降、第5師?は東海岸沿いを順調に進?するが、7月上旬にアメリカ海軍が東海岸を封鎖したことにより2個連隊は?陸を300キロメ?トルも迂回することを余儀なくされ、 盈? に到達するまでに約1800名の損害を被った [8] 。7月17日以降三度に渡り 盈?の?奪 を繰り返し、第12連隊は連隊?謀長の尹明煥が?死、兵力をほとんど喪失した [8] 。第5師?は米海軍の艦砲射?に?されつつ7月末には 浦項 に到達したが、 浦項の?い でも一進一退の末に多大な損害を被った [8] 。9月に後退?を開始時点で、師?の兵力は約3000名にまで減少していた [8]

その後は 中?人民志願軍 の??まで山岳地?で逼塞していたが、1951年春に ?南浦 で新設された第4軍?の隷下に入り西海岸へ移動、停?まで大きな??を??しなかった [8] 。後に中?東北部に移り住んだ第5師?の除隊軍官に聞くと、朝鮮??で最も印象的な??として米海軍の艦砲射?を?げる者が多いという [8] 。朝鮮??の?功により第10連隊は近衛連隊の??を得た [3] 。この部隊は吉南軍?第72?、ひいては朝鮮義勇軍第7支隊が前身である [3]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ ハルビンには、中共東北局や東北民主連軍?司令部などが置かれていたため、東北部における共産?の心?部であった。
  2. ^ 金中生は?謀長を"태웅"としているが [3] 、赤木に?って康干生とする [6]
  3. ^ a b 師?長 [9] ないし?謀長 [10] として馬相喆の名を?げる資料もある。
  4. ^ ??、この部隊は第549陸?隊としても知られてきたが、近年ロシアが公開した??日報で第945陸?隊と確認された [12]

出典 [ 編集 ]

?考資料 [ 編集 ]

  • 赤木完爾 『朝鮮??:休?50周年の???半島の?と外から』慶應義塾大?出版?、2003年。  
  • 安成浩「1945-1948年における中?共産?の朝鮮人政策」『?際文化?』第15?、神?大??際文化??、2006年、1-15頁。  
  • 김중생『朝鮮義勇軍의 密入北과 6.25戰爭』(eBook)명지出版社、2017年(原著2000年)。 ISBN   8931107447  
  • 朱?福 『朝鮮??の??:元人民軍工兵?校の手記』悠思社、1992年。  
  • (PDF) 6?25戰爭史 1 戰爭의 背景과 原因 , 大韓民??防部軍史編纂?究所, (2004) , http://www.imhc.mil.kr/user/imhc/upload/pblictn/PBLICTNEBOOK_201306250610261360.pdf 2019年7月5日 ??。  
  • (PDF) 6?25戰爭史 2 北韓의 全面南侵과 初期 防禦戰鬪 , 大韓民??防部軍史編纂?究所, (2005) , http://www.imhc.mil.kr/user/imhc/upload/pblictn/PBLICTNEBOOK_201509140304490130.pdf 2019年7月5日 ??。  
  • 李海燕『?後の「?州」と朝鮮人社? 越境?周??アイデンティティ』 御茶の水書房 、2009年。