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「私塾立命館」があった京都御所?の西園寺邸跡
私塾立命館
(しじゅくりつめいかん)は、
西園寺公望
が
明治
2年(
1869年
)に
京都御所
?の私邸に開設した家塾である。
?要
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賓師
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私塾立命館の賓師として迎えられたのは、?時の著名な
漢?
者たちであった
[1]
。西園寺公望は、「?師には
朱子?
者、
水??
の
儒者
をむかえ、文章家として聞こえた人もあった。(略)京都にいる漢?者のえらい所をぬき集めたという形だった」と述べている(木村毅編『西園寺公望自?』)。?際に、賓師として確認されているのは、
江馬天江
、
???邨
、
松本士?
(松本?)、
富岡??
、
神山鳳陽
(四?)らである。明治3年(
1870年
)、???邨が西園寺の詩文?に招かれたとき同席していた者には、
尊攘運動
に加わって
岩倉具視
の知遇をえていた
山中?逸
、
江馬天江
の?兄で、
池田屋事件
で投獄される
板倉槐堂
(淡海竹洲)、
本草?者
山本亡羊
の子で
漢方?
だった
山本秀五?
(秀夫)や
浜崎廉太?
(直全)らがあったほか
谷口?山
らも?加していたとされるから、この中にも賓師として迎えられたものがあったと思われる(「?邨公手?日記」)。
塾の性格と規模
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西園寺公望自身が、「大いに
勤王
家を養成するという抱負」で塾を設立したと述べている通り、私塾立命館は他の公家家塾とは異なり、初めから一般的な?育機?としての性格を備えていた。そのため、開設?初は平?な詩?の場に過ぎなかったのが、塾の?が各地に?がるにつれ、多くの若者が集まって?外の時事問題を議論する場へと?化、ついには校?を?築するほどまでに成長している(木村毅編『西園寺公望自?』)。西園寺自身の回想によると、西園寺および門客?家臣以外にも、諸藩からもかなりの塾生が集まっていたようである。塾の評判が高くなるにつれてさらに多くの若者が集まるようになり、ついには100人程度までにふくれあがったことが知られている。
塾の閉鎖とその背景
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明治3年
4月23日
(
1870年
5月23日
)、塾のあり方に不?を感じた京都府?(
太政官
留守官
)が差留命令を下し、私塾立命館はわずか1年弱で閉鎖されることになる(開設は明治2年
9月23日
(1869年
10月27日
)
[2]
。このとき、西園寺自身はフランス留?の準備で
長崎?
にいたため、何もできないまま閉塾を受け入れるほかなかった。後に私塾の閉鎖について感想を求められた西園寺は、「立命館の諸生が高談放論するのを、革命思想とでも勘ちがいして、ぬきうちに止めよと云ってきたらしく、塾はよほど盛んになっていて惜しかったけれど、?校にした」と述べている。
塾に?する閉鎖命令は、太政官が
京都留守官
に出した「京都大?校取り建て中止」の通達とも深く?係している。
明治維新
後の
東京
では「
昌平?
」を再興し、?制中央機?として「
大?校
」を設置することが決定していた。これにより京都にあった「大?校」(
皇?所?漢?所
)は必要なくなったして、1869年11月に?止通達が出されたのである。?に京都大?校建て替え準備に入っていた京都大?校?係者たちは、この通達を事?上無視し、通達翌月には「
京都大?校代(?大?校)
」として大?校開校を?行した(京都留守官の通達では「京都?校」とされた)。東京の太政官は?成事?として「京都大?校代」の存在を認め、京都留守官の管轄の下で?校は存?されたが、結局は?官の引き?きなど諸般の事情により、1870年(明治3年)7月には?止されてしまう。?時「京都大?校代」は寺町今出川西入ル(現在の
同志社大?
構?南東端)に位置し、京都御所?の「私塾立命館」とは目と鼻の先であった。京都留守官が威信をかけて設立した「京都大?校代」がわずか300人ばかり?生しか集められずに開校から8ヶ月余りで?止に追い?まれたのに?し、わずか徒?10分程度のところにある一私塾が100人もの塾生を抱えきれず?築までして??しているということが、京都留守官の逆鱗に?れたことは想像に難くない。のちに西園寺公望は、私塾立命館への「差留命令」が京都留守長官の「嫌疑」か「妬心」から出たものに違いないと述べるとともに、しばらくは閉塾に?じるが、再興の時期を待ちたいと賓師に宛てた手紙のなかで述べている。その年の12月、西園寺公望は留?先
フランス
へ出?。明治13年(
1880年
)まで日本を離れることになる。
明治時代に入り、西園寺家が
東京
に移った後、かつて私塾が置かれた西園寺邸跡には「
白雲神社
」が建立され、現在に至っている。
私塾立命館閉鎖後
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西園寺公望と中川小十?
中川は、
戊辰??
以?西園寺に仕えていた
丹波?
の
?士
中川家に生まれた。叔父で
東京女子高等師範?校
校長を務めた中川謙二?の?めで13?の時に上京。西園寺の取り立てで貴族院議員として活躍する一方、西園寺の意思を引き?いで?展した立命館大?の運?にも?力。中川は西園寺の薨去まで側近として仕えた。
「立命館」扁額
1905年(明治38年)、西園寺公望が自ら筆をとって立命館に?えたもの。「立命館」の三文字を大書、以下 七十五文字のゆかりを附記した。1909年(明治42年)の火災で消失してしまったため現存せず、??が?わっているのみである。
フランス留?から??した西園寺は、
東洋自由新聞
社長を?て政界入りするが、その間も?育に?する情熱を失うことはなかった。明治13年(
1880年
)には
岸本辰雄
、
宮城浩?
、
矢代操
らが
?法?
系の
明治法律?校
を設立するのを援助したほか、明治27年(
1894年
)
文部大臣
に就任すると
井上毅
らが作った「
?育勅語
」に反?し、明治天皇から「?育勅語」改定の許可を得て、第二の?育勅語の草案作成にも取り組んでいる。結局、西園寺の大臣退任により?育勅語の改正?現には至らなかったが、「もっとリベラルの方へ向けて?育の方針を立つべきものだと思った」と回想している(白柳秀湖『西園寺公望?』)。また文部大臣として、
東京帝?大?
に?して「自由」な校風の帝?大?を作ろうと「
京都帝?大?
」の創設を?現している。京都帝?大?の創設には、終生側近として仕える
文部省
官僚
?
中川小十?
が初代事務局長としてその中心的役割を?っている。この他、明治34年(
1901年
)、「女子を先ず人として?育する」の理念のもと
成?仁?
が創設する
日本女子大?
の設立?起人にも名を連ねている。
立命館草創の地?京都法政?校設立、京都市上京?
京都法政?校への?承
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西園寺文部大臣秘書官として京都帝?大?創設の中心に?わった中川小十?は、大?創設?務が一段落すると官界を去り、??界に身を移した。しかし、京都帝?大?が制度上?制高等?校卒業生しか受け入れることができず、西園寺公望が提唱した「能力と意欲のある人に?として(?育の)機?を?えるべき」という?育理念からもかけ離れている?態に限界を感じ、自ら私?を興すことを思い立つ。中川は政財界の主要人物や?界人脈から後援を得るとともに、西園寺公望の?弟?
末弘威?
らの協力を得て、
上京?
東三本木通
にあった料亭「
?輝?
(??
吉田屋
)」を間借りして3年制の
夜間?校
を設立した。これが「
京都法政?校
」である。京都法政?校は、西園寺公望の?育への理想を?現する形で設置が進んだ京都帝?大?の補完的役割を?うという名目で設置された。事?、講義のほぼ全てが京都帝?大??授により行われていたほか、京都法政?校を母?にのちに設立される「
財?法人立命館
」の寄付行?には、財?解散時には所有財産の全てが京都帝?大?に寄付されることなどが明記されていた。
京都法政?校はその校名が示すとおり、?初は法律科と政治科との2?科を置くのみであった。しかし、ゆくゆくは??科?文?科などを置いて?合?園とすることを視野に入れており、京都法政?校という名?が??を反映するものでなかった(詳細は「
京都法政?校
」を?照)。1904年(明治37年)には大?部に??科が設置され、???容が法政?校としての域を越えると、??を?現する新たな名?が必要になった。そこで西園寺公望が京都帝?大?設立に託した、政治?力から一線を?したリベラルでアカデミックな?風という理念の源流にある「私塾立命館」の名?の?承を申し出、西園寺がこれを快諾した。このとき西園寺は「立命館」の大書に75文字のゆかりを付記した扁額を、自らしたためて寄贈した。
- 立命館 - 往年余興一校 名曰立命館 及余?泰西 校?名存 頃者京都法政大??員? 請襲用其名 余喜名乃得? 乃書遍額以?之 孟子曰妖?不貳 修身以俟之 所以立命也 蓋?問乃要在于比矣 明治三十八年四月 侯爵 西園寺公望
(往年、余は一校を興し名づけて立命館という。泰西に遊?するに及んで、校?し名存す。この頃京都法政?校?員?り、その名を襲用することを請う。余は名の?を得ることを喜び、すなわち扁額を書してもってこれを?う。孟子いわく、??貳わず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なりと。蓋し?問の要はここに在り。)
1905年(明治5年)、西園寺公望から「私塾立命館」の名?の?承を許された「京都法政?校」は、1913年(大正2年)に「財?法人立命館」を設置するとともに、大?名を「
私立立命館大?
」、中?校名を「
私立立命館中?校
」と改?した。西園寺は公人として特定の私?に肩入れすることをよしとしなかったが、最後まで立命館?園の?展に有形無形の支援を?けた。
「立命館」の由?
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立命館大?衣笠キャンパス(京都市北?)にある石碑「立命館 その由?の碑」
「立命」は
中?
の『
孟子
』の一節『?壽不貳 修身以俟之 所以
立命
也』から採られた。これは、「人間の?命は、天命によって決められている。修養に努めてその天命を待つのが人間の本分の全うである」という意味である。
脚注
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]
- ^
立命館大?西園寺公望?編纂委員? 編「西園寺公望? 別?2」p.384
岩波書店
ISBN 4-00-008796-7
C3023
- ^
岩井忠熊『西園寺公望―最後の元老』岩波書店、2003年
?考文?
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?連項目
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外部リンク
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立命館大?
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立命館アジア太平洋大?
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設置校
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?連校
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?設置校
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??連法人(合?)
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?史
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