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石破 二朗
(いしば じろう、
1908年
〈
明治
41年〉
7月29日
-
1981年
〈
昭和
56年〉
9月16日
)は、
日本
の
?務
?
建設
官僚
、
政治家
。
正三位
?
?一等瑞?章
。
?議院議員
(2期)、
鳥取?知事
(第39代)。
鈴木善幸?閣
において、
自治大臣
(第28代)兼
?家公安委員?委員長
(第38代)を務めた。
自由民主?幹事長
や
農林水産大臣
などを務めた
石破茂
の父。
略年譜
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人物像
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人柄?性格
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]
- ?貧と努力の人である。
- 農本思想
の持ち主である
[19]
。
- 儒?
精神を?ぶ。
- 東京
生活中?週末?省、病弱の夫人を見舞い、故?の
神社
?詣、父祖の墓?りを欠かしたことはなかった。?院選の時、?私は
鳥取?
の人間である。鳥取に住み、鳥取に
墓
をつくる?と述べた
[20]
。
- 故?
を忘れず義と理に厚い
[21]
。
- 古
武士
的性格である
[22]
。
評?
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]
- 元鳥取?八頭地方農林振興局長の井上正太?によると、
- 二朗さんの生家は、
殿部落
の市谷寄りにあり、前庭には古い
?
の木がありました
[23]
。私の家とは二百米位の距離なので、子供の頃はよく遊びにいきました
[23]
。“二朗さん遊ばああ”と?をかけると、じょう口のあたりに、二朗さんの祖父の
常七
じいさんが、よく腰を下していて、“二朗や、正たんが遊びに?たぜ、早(はよ)う出んかいや”と大?で呼んで下さったものです
[23]
。その家もとうになくなりましたが
?
の木だけは今も?っており、知事になられたときも、大臣になられたときも、?土訪問の晴れ姿を見ていました
[23]
。
- …思い出は?きませんが、最後に二朗さんの生家の隣りの老婆の語った思い出話を一つ記して終りとします
[24]
。
- 「私がここに嫁に?た頃、六つか七つ位だった二朗さんが“この嫁さんはなんちゅう色の?い嫁さんだあ”と言われたので大?恥(はず)かしゅうござんした
[24]
。その二朗さんが大きうなって高知から?っておられたときのことです
[24]
。その年は二朗さんげの
西瓜
がたいへんようできて、お父さんが私に?ってきてくれといわれ、私の?家の方に?りに行った時です
[24]
。
- その時二朗さんが“あばさんわしが車を曳いてやる”といって草履ばきで荷車を曳き、安井から新興寺まで上り?り切れました
[24]
。そうしたら“あばさんは?家(さと)によって?りない”といって一人で空車を曳いて?ってごされたが、ほんに感心な人でしたぜ
[24]
」と。
- ?石破知事は自分が
農家
の生れということもあってのことかと思いますが、農林漁民に?して非常な愛情を注いでおられたことをひしひしと感じさせられたものでした
[25]
。
昭和三十六年
に私が米子地方農林振興局長をしていた?時、管?の普及員を集めて“自分のおやじは珍らしいもの好きで、人より先に
?
を栽培したり
養?
をはじめたりしたものだが全部失敗してしまった
[26]
。大?他人がよいことをやったのを見て二番目位を行くのが失敗がなくてよいと思うので、君等もよう心得て
百姓
の指導に?ってくれ
[26]
。”と言はれたことを肝に銘じております
[26]
。
- 昭和四十七年
頃であったと思いますが、
倉吉市
大河?部落の約百ヘクタ?ルの分?造林が完成し、部落公民館で祝賀?が開かれ、知事のお伴をしたことがありました
[26]
。公民館といっても木造の古い建物でしたがその時かれこれ百三十人位の
農家
の人を前にしてされた??の一部に次のようなことがありました
[26]
。
- “?は私も
八頭郡
の
山家
の出身でして、子供の頃よく
おじい
に連れられて山に木を植えに行ったものでした
[26]
。おやじに言わせると、おじいの植えかたは技術が下手で杉の根もとのところが曲ってしまうということでしたが、それでもおじいは私に、こうやって木を植えておくとお前が分家するときに役に立つだけえなあと言って私をだまくらかして手?わせたものでした
[26]
。その後その山も他人の手に渡ってしまいましたが、とにかく木を植えるということはええことだと今でも思っております”十年も前の何げない知事の??が何故か私の?裏に?きついて忘れることができません
[26]
」という。
- ?石破さんといえば、われわれ?
?務省
の後輩では“こわい人”で通っていた
[27]
。剛直そのもので?厚などとは程遠いお人柄で剛球をビシビシ投げ?む?腕投手の感があった
[28]
(中略)めったなことに笑わない、いつも
あご
を引いてきびしい表情で??を探求せずばやまないといった感じを受けた
[28]
…?という。
長男茂との?係
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]
その他
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]
太宰治
、
永井荷風
の著作物を好む
[29]
。
宗?
は
?土宗
。
交友?係
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]
田中角?
元
首相
は友人である。
安田貞?
境港市
長(第3代)が石破に「あなたは元?である限り、本??政を??願うことが?民のためになると思う
[30]
。それほどあなたを高くかっておるが東京では(自民?の)
田中派
に?しておることが?然としませんね
[30]
」と言った時「君は田中という人を知らんからだ
[30]
。?は自分が初めて
鳥取?知事
に立候補して現職知事(
遠藤茂
)との
一騎討ち
のきびしい選?を?い?落の決まる夜娘2人が東京の家で
ラジオ
の報道をはらはらした心持ちで聞いておるときに田中さんは心配だろうと娘たちと一?に
炬?
にあたって一喜一憂してくれたのだ
[30]
。?選がきまったら「これでお二人とも安心だね」と言って?ったそうだ
[30]
。これに心を打たれるではないか
[30]
。付け?刃でできることではない
[30]
」と述べた。
1955年
(昭和30年)に自由?時代の田中から
東京都知事選?
に出馬するように請われたが、「
東京都知事
にはならない、鳥取?知事に請われればなる意志がある
[31]
」と答えた。田中は「何故日本で一番小さい鳥取?の知事を望むのだ
[31]
」とたずねると「私は
鳥取?
人である、鳥取に生まれ育ち、そして死ぬのである
[31]
。小さくとも我が?は鳥取?である
[31]
」と明快に答えた。田中は「君が
?土
を思う至情に打たれた
[31]
」と述べている。
受章?
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]
家族 親族
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]
石破家
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]
脚注
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]
- ^
a
b
c
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.704
- ^
a
b
c
d
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.705
- ^
a
b
c
d
e
f
g
h
i
j
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.706
- ^
a
b
c
d
e
f
g
h
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.707頁
- ^
a
b
c
d
e
f
g
h
i
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.708
- ^
a
b
c
d
e
f
g
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.709
- ^
a
b
c
d
e
f
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.710
- ^
第12回?? 衆議院 行政監察特別委員? 第6? 昭和26年10月30日
- ^
a
b
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.711
- ^
a
b
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.712
- ^
a
b
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.713
- ^
a
b
c
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.714
- ^
石破二朗回想?刊行? 1982
, pp.714-715
- ^
a
b
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.715
- ^
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.716
- ^
a
b
c
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.717
- ^
a
b
c
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.718
- ^
a
b
c
d
e
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.719
- ^
石破二朗回想?刊行? 1982
, pp.14-15
- ^
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.15
- ^
石破二朗回想?刊行? 1982
, pp.15-16
- ^
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.16
- ^
a
b
c
d
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.258
- ^
a
b
c
d
e
f
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.61
- ^
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.509
- ^
a
b
c
d
e
f
g
h
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.510
- ^
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.613
- ^
a
b
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.614
- ^
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.670
- ^
a
b
c
d
e
f
g
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.546
- ^
a
b
c
d
e
石破二朗回想?刊行? 1982
, p.697
- ^
a
b
c
d
e
f
g
『因幡人事興信?』(い)之部三二
- ^
『
回想?
石破二朗
追想篇
』 707頁
- ^
『
回想?
石破二朗
追想篇
』705頁
- ^
『人事興信?. 10版(昭和9年) 上卷』カ一?六
?考文?
[
編集
]
- 石破二朗回想?刊行? 編『石破二朗 : 回想? 追想篇』石破二朗回想?刊行?、1982年。
ASIN
B000J76QVG
- 森納
『? 因伯の?師たち』 90頁
?連項目
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編集
]
外部リンク
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]
?議院外務委員長 (1979年-1980年)
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