白 仁天
(はく じんてん、ペク?インチョン、
朝鮮語
:
백인천
、
1943年
11月27日
[1]
- )は、
韓?
出身の元
プロ野球選手
(
捕手
、
外野手
)?
コ?チ
?
監督
、
解?者
。
韓?人プロ野球選手の草分けであり、?が短く、??も多かった
[2]
。日韓で
首位打者
に輝いた韓?プロ野球界の重?。
??
[
編集
]
現役時代
[
編集
]
中華民?
江蘇省
無錫?
で生まれ、
蘇州
で幼?期を過ごし、
1945年
に
8.15光復
後に??。その後、
米軍政朝鮮
の
ソウル
で育つ。7人きょうだいの3番目として誕生し、兄の影響で小?生の時から?日のようにキャッチボ?ルをするようになる
[3]
。
京東高校
に進?した
1959年
には
イ?ヨンミン打?賞
を受賞し、2年次の
1960年
6月
にはソウル運動場野球場が開場して以?、高校生では初めて本?打を記?。同年
10月
には
日本
に遠征試合の時、
神宮
でも本?打を記?したが、?後の高校生が神宮で記?した2本目の本?打であった。同年の京東高の成績は32勝2分で、超高校級の野球チ?ムであった。3年次の
1961年
には捕手となり
[3]
、野球以外でも
1月
に開かれた冬季?育大?
スピ?ドスケ?ト
1500m部門で2分49秒18の記?で1位を占めた??がある
[4]
。
京東高校卒業後は
明治大?
の
島岡吉?
監督に誘われて留?を希望していたが、?時の
日韓?係
[5]
や
?兵制度
を終えていないことが理由でかなわなかった。
1962年
に
韓?農業銀行
へ入社し、同年
1月
に
台?
で開催された第4回
アジア野球選手?大?
韓?代表の捕手に選出された。最終日となった
1月9日
の
フィリピン
?に1番打者で出場し、3-0と韓?リ?ドで迎えた4回裏1死3?の?況で2点本?打を放ち、これが大?唯一の本?打であったチ?ムは、5-1で勝利して
台?
と同率2位を入った
[6]
。試合が行われた台北松山球場は開場以?、外?人として白が初めて本?打を放った。アジア野球選手?からの?路に立ち寄った
東京
で、
東映フライヤ?ズ
と電?的に?契約を結ぶ
[7]
。韓?政府要人の口添えもあって、ようやく入?を果たす
[7]
。?時の野球協約では、入?時に外?籍でも出生時に
日本?籍
を持っていた選手を外?人扱いとしない規定だった事から、日本人扱いとなる。日本で野球の勉?をするというつもりであったが、入?時の?れ?みは「韓?球界が生んだ最?捕手」であり、韓?側では外?在勤者として兵役を免除した。?日してみたものの、3ヶ月ほどは日本食が食べられず、
刺身
も?いてもらったり煮てもらったり、いろいろと先輩の
張本?
らのフォロ?を受けながら、だんだんと慣れていったという
[3]
。同年には
大韓?育?
大韓民?最優秀選手賞を受賞。
2年目の
1963年
6月26日
に主力捕手の相次ぐ故障離?によって、一軍から?がかかる
[7]
。本?地球場の場合は二軍の捕手は一軍の練習を手?いに行くため、その日もミットだけ持って行った
[7]
。
水原茂
監督に「おい、白。打ってみなさい」と言われたが、普段の白はバットを振ったりすると怒られるため、バットを持って?ていなかった。張本に借りて打ったら、水原が「おまえ今日、試合出るよ」と言った
[7]
。同日の
南海
?(神宮)での0-7と劣勢の7回、スタメンの丸山公巳に代わって捕手として出場し、ついに念願の日本プロ野球デビュ?を果たした
[7]
。最初に投手が投げた時、球はミットに入っていたが、白は入ってないような?がして、ハッと後ろを見た
[7]
。審判がびっくりして「おい、白。何しとんの?」と言ったため、白は「いや、なんでもない」と言ってから、足を後ろにずらして、スパイクで審判の足を蹴った
[7]
。そしたら「あいた!何しとるの?』と反?があり、夢ではないことを自分で確かめた
[7]
。白は後に「なんでそこまでやったか言うたら、僕は日本のプロ野球、1試合でも出ればやめてもいいと。出るのが夢で、目標だったからですよ」と振り返っているが、同年は1試合でやめるどころか、20試合に出場
[7]
。武器は?打、インサイドワ?クに難があったものの、打?を買われて先?マスクも??した
[3]
。
3年目の
1964年
後半には
安藤順三
に代わり正捕手の座を獲得し、
1965年
には116安打?14本?打を記?。評?の高い打?を活かしクリ?ンアップとして起用されたが、同年に水原から冗談めかして「お前が捕手をすると試合に負ける」と言われて、外野手に?向を命じた
[3]
。?後はシベリアで抑留された??もある水原が、異?の地で孤軍奮?する白に?を配ったものかもしれないが
[3]
、白も「捕手に限界を感じていたから、うれしかった。もともと僕の取り柄は打?と足です」と語っている
[3]
。?型こそ?時の捕手らしく、ずんぐりむっくりであったが、足もさることながら、敏捷な動きも魅力であった
[3]
。「目標は
??叔功
(南海)さん」とパ?リ?グ屈指の韋?天を目指した白は、外野手として打?に集中していく
[3]
。??阻止率.458は、
森昌彦
(
巨人
)と?んで?リ?グトップを記?している。
1967年
には初の
規定打席
に到達し(11位、打率.280)、
1968年
に打線の3番を任されるまでに成長を遂げた。
1970年
5月23日
の
近?
?(
後?園
)で新人の
太田幸司
と??したが、際どい球で三振と判定されたことに激高し、元ボクサ?でアクションジャッジで有名であった
露崎元?
球審と大立ち回りを演じ暴行で退場となる。2日後の
25日
に同球審より暴行傷害の罪で刑事告訴され、これはプロ野球史上初の出?事であったが、3日後の
28日
に和解が成立。?時の新聞報道によると、暴力行?を反省した白は、露崎に謝罪するため自宅を訪問したが不在であった。この時露崎は、白の訪問とすれ違う形で警察に出向き、白を刑事告訴するための手?きをしていた。
この頃には入?時の兵役免除の方針も?更となったことから、東映は駐日大韓民?大使館などに?きかけ、
大韓民??軍
の兵役免除を??してもらうよう要請したが、結局??命令が出たため、同年
12月
に
日本
に妻子を置いたまま韓?に??。翌
1971年
5月1日
に復?。?際兵役に就いたのかについては、再?日直後に口ごもりながら「軍隊には行かなかった。兵役?査も受けなかった」と述べ、約5ヶ月間、父親が??を始めた牧場の手?いと?調を崩していた母親の看病をしていたとし、日本へ?るのが開幕1ヶ月後になったのは、期限切れ
査?
の再?行手?きを韓?側がなかなかしてくれなかったためと?明した。大韓民?政府が「軍隊に行かず日本で野球をしている」という韓??の批判をかわすため、白を一時??させて表向きは大韓民??軍に所?していた?に見せかけ、日本へ?すにしても開幕に合わせて?したのではあまりにも露骨なため、時期をわざと?らせたのが?相といわれている。なお同年の成績は前年からは大きく下落したが、「事情が事情だけに今回は特例」という球?側の情?酌量で、年俸は現?維持に据え置かれた
[8]
。この年の1年だけ
江本孟紀
とチ?ムメイトになったが、江本によると、白は若手を集めて軍隊仕?みの
匍匐前進
の特訓をさせるなど
鬼軍曹
のような人で、
大杉勝男
とロッカ?ル?ムで喧?し張本が?めたが、江本は「プロ野球界で俺が見聞きした喧?の中でダントツナンバ?ワンの迫力だった」という
[9]
。また江本が1年目のキャンプのフリ?バッティングに登板し、大杉と白に10球連?でボ?ルを投げた際には、大杉と共に「バカ野?」「アホか」「ストライク入らん奴がプロのピッチャ?か」と貶され、しまいにバットとボ?ルが飛んできたという
[9]
。
1972年
にはリ?グ3位の打率.315?19本?打の好記?を?すが、チ?ムが「日本ハムファイタ?ズ」になった翌
1975年
に
東田正義
との交換トレ?ドで、
太平洋クラブライオンズ
へ移籍。同年は打率.319で
首位打者
を獲得し、日本プロ野球史上初の「
規定打席ちょうどの首位打者
」となった。出場を調整しての戴冠ではなく、捻挫と肉離れ、死球禍による左手?指の骨折などの故障を?ながら到達した規定打席であったが
[3]
、
ベストナイン
にも選出された。
1977年
に
安木祥二
と共に、
長谷川一夫
、
倉持明
と交換トレ?ドで
ロッテオリオンズ
に移籍。首?陣と衝突して引退を決意するも、
1979年
、新任の
山?一弘
監督に?得されて現役を?行すると、プロ18年目でのキャリアハイを迎える
[3]
。シ?ズンを通して安定感を維持して、最終的に自己最高の打率.340、特に初球は打率.472、得点?打率.391と、持ち前の積極的で勝負?い打?も??を?揮、「もっとも充?したシ?ズン」と振り返る1年となった
[3]
。
1981年
には近?バファロ?ズへ移籍し、同年限りで退?。20年の長きにわたり日本球界で活躍し、??、?日したときからの「いつか韓?で野球を?める」という目標を達成するためであった
[3]
。
1982年
に?足した
韓?プロ野球
の
MBC?龍
に
選手兼任監督
(
指名打者
)として入?し、打率.412をマ?クして初代
首位打者
を獲得。この記?は現在まで韓?プロ野球史上シ?ズン最高打率で、韓?プロ野球史上唯一の
4割打者
である。
3月の開幕?初は5番を打ったが、4月からは4番に座ると、マルチヒットを連?し4月以降で3割台などを??することなく4割を維持し?け、打率.412でゴ?ル
[10]
。250打?103安打19本?打、71試合での達成で、?力者の貫?を示した
[10]
。
?足1年目でシ?ズン運?も手探りのため、1チ?ムが年間80試合をこなすのに
3月
から
10月
まで試合を分散させ、スケジュ?ルが?であったことが38?の年?には優しかった
[11]
。
プロ元年の開幕?である同年
3月27日
の
三星
?(
東大門
)に5番?指名打者で先?出場し、6回の裏には追?のセンタ?越えソロ本?打を打ちながら、延長10回裏に故意四球で出?した後、李鍾道がサヨナラ??本?打を打った。サヨナラのホ?ムを踏んだ白は試合終了後のインタビュ?で、日本時代に味わった蔑視と悲しみを思い出したのか、しきりに?を流した。この時に劇的な逆?勝ちに感激したファンがグラウンドに?入し、韓?球界では?代屈指の名インタビュ?で?く知られている。?時の白は?39?で、6球?の監督の中で最も若かった。?足時のコ?チは2人であったが、後期から打?と守備を?化するために二?手出身の韓東和をコ?チに迎え入れ、MBCは元年6球?の中で唯一3人のコ?チが所?した。
1983年
に
姦通罪
で
逮捕
されたため
[12]
、シ?ズン途中で監督職を解任され、選手としては同球?から放出された。?放後は
三美ス?パ?スタ?ズ
に選手兼任打?コ?チとして移籍し、離婚して告訴も取り下げて復?したが、感?が低下して力が蘇ることはなかった。
1984年
引退。
引退後
[
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]
引退後の5年間(
1985年
-
1989年
)は
ゴルフ
用品?連事業を行ったが、MBCの後身であるLG監督(
1990年
-
1991年
)、三星監督(
1995年
-
1997年
)、
延世大?校
打?インストラクタ?(
1998年
)、
ハンファ
打?インストラクタ?(
1999年
、
2001年
)、三星打?インストラクタ?(
2000年
)
SK
打?インストラクタ?(
2002年
)、
ロッテ
監督(2002年 -
2003年
)と各球?で指導者を?任。LG監督1年目の1990年にはリ?グ優勝、4連勝でシリ?ズ優勝に導き、KBOリ?グ最優秀監督賞を受賞。三星監督時代には練習態度が不良であると目した二?手の
姜起雄
と激しい意見の相違を起こし、姜を最終的に現代にトレ?ドした。このトレ?ドは姜の野球への情熱を?らせる事になり、姜はトレ?ドを拒否するとともに、現代選手?への?加を電?拒否。結局、1997年
2月17日
に現代が任意?退公示をし、現役から引退した
[13]
。
3年目の1997年シ?ズン中に
?出血
で倒れて一時休養後に復?したが、?調が?らずシ?ズン途中で監督職から退いた。ロッテ監督時代には2年目の
李大浩
にダイエットを指示し、アヒル?きをした李大浩は
膝
軟骨
の損傷を受け、二軍に降格した
[14]
。李大浩はこの時期が野球人生で一番辛かったと回想している。捕手不足という理由でエ?ス投手の
孫敏漢
を捕手に?業させようとしたが、孫は拒否。これに白はハンファの捕手であった
蔡相秉
との1:1のトレ?ドをしようとしたが、球?社長と?長の反?により失敗した
[14]
。
2003年は成績不振でシ?ズン途中解任され、再び現場に復?することはなくなった。?任後は個人事業を?みながら解?者の活動を?行するが、
2007年
に突如健康が?化して休養。
2008年
より
巨人
のホ?ムゲ?ム韓?放送?を確保した
SBSスポ?ツチャンネル
と3年間の??解?委員契約を結び、
李承燁
が在籍していたことから視察のため、?年巨人の春季キャンプを訪れていた。
2009年
、日本の
外務省
の外郭??である日韓文化交流基金よりプロ野球を通じた日韓交流と友好親善への功績が評?され、同??より日韓の文化交流に貢?のあった韓?人に贈られる「日韓文化交流基金賞」を受賞した。同年には?誌「
野球小僧
」のインタビュ?を受け、「日本プロ野球では日本人扱いとなっているが、韓?籍で韓?の?校を卒業しているため通算成績を外?人扱いにしてほしい」と語っている。
エピソ?ド
[
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]
- 1967年
7月19日
の近??(後?園)で逆?サヨナラ3ラン本?打を打つも前の走者を追い越してしまい本?打を取り消され、おまけに延長?の末、チ?ムは負けてしまった。
- 白をよく可愛がっていた張本?が守備練習中にお世?にも上手いと言えない白の一?守備を褒めたところ、三?手から送球が?たにもかかわらず白はクルリと回ってお?を言ってしまい、顔にボ?ルが直?してしまった。
- 東映時代、ある試合で南海の
野村克也
の
ささやき?術
への?抗策として、耳栓をして打席に入った。しかしそれを見た野村から、投手との勝負が二の次になって勝機ありと見られ、結局?野フライに打ち取られた。
- 現役時代、選手生活の傍ら、
?浜市
保土ケ谷?
天王町
で
?肉
店「白」を??
[15]
。
詳細情報
[
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]
年度別打?成績
[
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]
年
度
|
球
?
|
試
合
|
打
席
|
打
?
|
得
点
|
安
打
|
二
?
打
|
三
?
打
|
本
?
打
|
?
打
|
打
点
|
?
?
|
?
?
死
|
?
打
|
?
飛
|
四
球
|
敬
遠
|
死
球
|
三
振
|
?
殺
打
|
打
率
|
出
?
率
|
長
打
率
|
O
P
S
|
1963
|
東映
日拓
日本ハム
|
20
|
19
|
19
|
0
|
3
|
0
|
1
|
0
|
5
|
0
|
0
|
0
|
0
|
0
|
0
|
0
|
0
|
4
|
0
|
.158
|
.158
|
.263
|
.421
|
1964
|
92
|
264
|
250
|
25
|
63
|
12
|
1
|
6
|
95
|
23
|
9
|
4
|
3
|
0
|
8
|
0
|
3
|
34
|
5
|
.252
|
.284
|
.380
|
.664
|
1965
|
116
|
378
|
356
|
43
|
95
|
14
|
2
|
14
|
155
|
44
|
9
|
9
|
4
|
3
|
11
|
0
|
4
|
28
|
14
|
.267
|
.294
|
.435
|
.730
|
1966
|
126
|
382
|
363
|
42
|
95
|
13
|
1
|
4
|
122
|
23
|
18
|
5
|
3
|
0
|
12
|
0
|
4
|
30
|
16
|
.262
|
.293
|
.336
|
.629
|
1967
|
128
|
431
|
396
|
43
|
111
|
17
|
4
|
10
|
166
|
51
|
13
|
4
|
12
|
3
|
15
|
0
|
5
|
24
|
13
|
.280
|
.313
|
.419
|
.732
|
1968
|
117
|
397
|
382
|
52
|
113
|
13
|
3
|
15
|
177
|
51
|
9
|
4
|
2
|
1
|
9
|
0
|
3
|
21
|
8
|
.296
|
.316
|
.463
|
.780
|
1969
|
109
|
472
|
454
|
68
|
132
|
17
|
9
|
12
|
203
|
46
|
13
|
5
|
0
|
2
|
13
|
1
|
3
|
31
|
18
|
.291
|
.314
|
.447
|
.761
|
1970
|
127
|
540
|
496
|
67
|
137
|
30
|
2
|
18
|
225
|
64
|
28
|
10
|
2
|
4
|
36
|
1
|
2
|
39
|
13
|
.276
|
.325
|
.454
|
.779
|
1971
|
107
|
448
|
421
|
47
|
100
|
11
|
4
|
11
|
152
|
38
|
17
|
9
|
0
|
0
|
26
|
2
|
1
|
37
|
16
|
.238
|
.283
|
.361
|
.645
|
1972
|
126
|
529
|
486
|
67
|
153
|
33
|
3
|
19
|
249
|
80
|
20
|
13
|
4
|
2
|
35
|
3
|
2
|
32
|
16
|
.315
|
.362
|
.512
|
.874
|
1973
|
96
|
312
|
291
|
27
|
72
|
13
|
0
|
6
|
103
|
20
|
8
|
6
|
2
|
1
|
16
|
2
|
2
|
22
|
5
|
.247
|
.290
|
.354
|
.644
|
1974
|
114
|
457
|
418
|
63
|
109
|
20
|
1
|
15
|
176
|
42
|
24
|
5
|
5
|
3
|
22
|
1
|
9
|
19
|
18
|
.261
|
.310
|
.421
|
.731
|
1975
|
太平洋(NPB)
|
102
|
403
|
379
|
57
|
121
|
18
|
2
|
16
|
191
|
53
|
13
|
6
|
2
|
3
|
17
|
0
|
2
|
18
|
11
|
.319
|
.349
|
.504
|
.853
|
1976
|
121
|
498
|
469
|
54
|
135
|
17
|
2
|
17
|
207
|
59
|
15
|
10
|
3
|
2
|
23
|
1
|
1
|
33
|
22
|
.288
|
.321
|
.441
|
.763
|
1977
|
ロッテ(NPB)
|
126
|
490
|
452
|
50
|
127
|
11
|
2
|
16
|
190
|
56
|
6
|
6
|
1
|
4
|
30
|
2
|
3
|
33
|
11
|
.281
|
.327
|
.420
|
.748
|
1978
|
58
|
181
|
171
|
19
|
44
|
7
|
0
|
3
|
60
|
11
|
5
|
0
|
1
|
1
|
7
|
1
|
1
|
12
|
9
|
.257
|
.289
|
.351
|
.640
|
1979
|
124
|
443
|
415
|
47
|
141
|
25
|
4
|
18
|
228
|
71
|
3
|
5
|
1
|
1
|
21
|
2
|
5
|
25
|
20
|
.340
|
.378
|
.549
|
.927
|
1980
|
76
|
182
|
167
|
11
|
36
|
1
|
2
|
5
|
56
|
21
|
0
|
1
|
0
|
5
|
7
|
1
|
3
|
17
|
4
|
.216
|
.253
|
.335
|
.588
|
1981
|
近?
|
84
|
214
|
194
|
19
|
44
|
11
|
0
|
4
|
67
|
23
|
2
|
2
|
2
|
0
|
14
|
0
|
4
|
12
|
6
|
.227
|
.292
|
.345
|
.638
|
1982
|
MBC
|
72
|
298
|
250
|
55
|
103
|
23
|
1
|
19
|
185
|
64
|
11
|
3
|
0
|
3
|
42
|
10
|
3
|
17
|
5
|
.412
|
.497
|
.740
|
1.237
|
1983
|
三美
|
35
|
135
|
121
|
6
|
23
|
6
|
1
|
1
|
34
|
17
|
1
|
0
|
1
|
1
|
11
|
0
|
1
|
9
|
4
|
.190
|
.261
|
.281
|
.542
|
1984
|
10
|
35
|
32
|
6
|
9
|
2
|
0
|
3
|
20
|
10
|
1
|
0
|
0
|
0
|
3
|
0
|
0
|
3
|
2
|
.281
|
.343
|
.625
|
.968
|
NPB
:19年
|
1969
|
7040
|
6579
|
801
|
1831
|
283
|
43
|
209
|
2827
|
776
|
212
|
104
|
47
|
35
|
322
|
17
|
57
|
471
|
225
|
.278
|
.316
|
.430
|
.746
|
KBO
:3年
|
117
|
468
|
403
|
67
|
135
|
31
|
2
|
23
|
239
|
91
|
13
|
3
|
1
|
4
|
56
|
10
|
4
|
29
|
11
|
.335
|
.418
|
.593
|
1.011
|
- 各年度の
太字
はリ?グ最高、
赤太字
はKBOにおける?代最高
- 東映(東映フライヤ?ズ)は、1973年に日拓(日拓ホ?ムフライヤ?ズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイタ?ズ)に球?名を?更
- 表中の太平洋(1975年 - 1976年在籍)は、NPBの太平洋クラブライオンズ
- 表中のロッテ(1977年 - 1980年在籍)は、NPBのロッテオリオンズ
年度別監督成績
[
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]
- レギュラ?シ?ズン
- MBC?龍は、1990年にLGツインズに球?名を?更
- ※1 1982年、1983年は前後期リ?グ制での各期の順位。
- ※2 公式?1位とのゲ?ム差。
- ※3 開幕から16試合消化時点で、上述の家庭?の不祥事で逮捕され、これを理由に解任。
- ※4 開幕から56試合消化時点の6月23日、上述の?出血で休養。その後、同年8月1日復?するが?調が回復せず、29試合消化後、9月23日正式に?任。
- ※5 開幕から62試合消化時点で、成績不振で解任された前任監督の禹龍得(ウ?ヨンドゥク)の後を?いで就任。
- ※6 開幕から92試合消化時点で、成績不振で解任。
- ポストシ?ズン
年度
|
球?
|
ステ?ジ
|
??相手
|
結果
|
星取表
|
1990年
|
LGツインズ
|
韓?シリ?ズ
|
サムスン?ライオンズ
|
4勝
|
○○○○
|
タイトル
[
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]
- NPB
- KBO
表彰
[
編集
]
- NPB
記?
[
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]
- NPB初記?
- 初出場:1963年6月26日、?
南海ホ?クス
12回?(
明治神宮野球場
)、7回表に
捕手
として出場
- 初先?出場:1963年6月27日、?南海ホ?クス13回?(明治神宮野球場)、8番?捕手として先?出場
- 初安打:同上、6回裏に
三浦?弘
から?野安打
- 初??:1964年3月28日、?
東京オリオンズ
1回?(
後?園球場
)、8回裏に二?(投手:
中西勝己
、捕手:
醍?猛夫
)
- 初打点:1964年3月31日、?南海ホ?クス4回?(
大阪スタヂアム
)、8回表に
高橋?一?
から適時打
- 初本?打:1964年8月2日、?南海ホ?クス21回?(後?園球場)、2回裏に高橋?一?から左越2ラン
- NPB節目の記?
- 1000試合出場:1972年6月30日、?ロッテオリオンズ11回?(後?園球場)、1番?
中堅手
として先?出場 ※史上159人目
- 100本?打:1972年7月2日、?ロッテオリオンズ14回?(後?園球場)、8回裏に
木樽正明
から左越ソロ ※史上67人目
- 1000安打:1972年10月10日、?
阪急ブレ?ブス
26回?(平和台球場)、2回表に
石井茂雄
から中前安打 ※史上81人目
- 150本?打:1976年5月29日、?
近?バファロ?ズ
前期10回?(
藤井寺球場
)、1回裏に
井本隆
から先制ソロ ※史上43人目
- 1500試合出場:1976年10月6日、?南海ホ?クス後期13回?(大阪スタヂアム)、5番?中堅手として先?出場 ※史上52人目
- 1500安打:1977年7月13日、?
日本ハムファイタ?ズ
後期2回?(
川崎球場
)、6回表に
野村?
から左前安打 ※史上32人目
- 200本?打:1979年10月4日、?阪急ブレ?ブス後期10回?(
西京極球場
)、3回表に
佐藤義則
から左越2ラン ※史上32人目
- NPBその他の記?
背番?
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]
- 68
(1962年)
- 41
(1963年 - 1966年)
- 7
(1967年 - 1974年)
- 6
(1975年 - 1976年)
- 9
(1977年 - 1978年)
- 2
(1979年 - 1980年、1982年 - 1984年、1990年 - 1991年)
- 22
(1981年)
- 80
(1996年)
- 77
(1997年)
- 90
(2002年 - 同年途中)
- 71
(2002年途中 - 2003年)
脚注
[
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]
?連項目
[
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]
外部リンク
[
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]
監督?
|
---|
|
---|
- 朴永吉
1982-1983.7.5
- 姜秉徹
1983.7.6-1986
- 成基泳
1987
- 魚友洪
1988-1989
- 金振?
1990-1990.8.28
- 都偉彰
1990.8.29-1990終(代行)
- 姜秉徹
1991-1993
- 金用熙
1994-1998.6.16
- 金明星
1998.6.17-2001.7.24
- 禹龍得
2001.7.24-2002.6.21
- 金用熙
2002.6.22-2002.6.24(代行)
- 白仁天
2002.6.25-2003.8.5
- 金容哲
2003.8.6-2003終(代行)
- 楊相汶
2004-2005
- 姜秉徹
2006-2007
- ジェリ??ロイスタ?
2008-2010
- 梁承虎
2011-2012
- ?斗祚
2012アジアシリ?ズ(代行)
- 金始眞
2013-2014
- 李鍾雲
2015
- 趙原佑
2016-2018
- 楊相汶
2019-2019.7.18
- 孔弼聖
2019.7.19-2019.10.1(代行)
- 許文會
2020-2021.5.10
- ラリ??サットン
2021.5.11-2023.8.28
- 李鍾雲
2023.8.29-(代行)
|
|
---|
- 白仁天
1982-1983.4.25
- 兪百萬
1983.4.26-1983.6.8(代行)
- 韓東和
1983.6.9-1983.6.18(代行)
- 金東燁
1983.6.19-1983
- 魚友洪
1984-1985.6.17
- 韓東和
1985.6.18-1985.6.22(代行)
- 金東燁
1985.6.23-1987.7.10
- 兪百萬
1987.7.11-1988(代行)
- 裵聖瑞
1989
- 白仁天
1990-1991
- 李廣煥
(
朝鮮語版
)
1992-1996.7.23
- 千普成
1996.7.24-1999
- 李光殷
(
朝鮮語版
)
2000-2001.5.15
- 金星根
2001.5.16-2002
- 李廣煥
(
朝鮮語版
)
2003
- 李順喆
2004- 2006.6.5
- 梁承浩
(
朝鮮語版
)
2006.6.6-2006終(代行)
- 金在博
2007-2009
- 朴鍾?
2010-2011
- 金杞泰
2012-2014.4.23
- 趙啓?
(
朝鮮語版
)
2014.4.24-5.11(コ?チのまま代行)
- 楊相汶
(
英語版
)
2014.5.13- 2017
- 柳仲逸
2018-2020
- 柳志炫
2021-
|
|
業績(
NPB
)
|
---|
|
---|
1950年代
| |
---|
1960年代
| |
---|
1970年代
| |
---|
1980年代
| |
---|
1990年代
| |
---|
2000年代
| |
---|
2010年代
| |
---|
2020年代
| |
---|
|
業績(
KBO
)
|
---|
|
---|
1980年代
| |
---|
1990年代
| |
---|
2000年代
| |
---|
2010年代
| |
---|
2020年代
| |
---|
|
---|
1980年代
| |
---|
1990年代
| |
---|
2000年代
| |
---|
2010年代
| |
---|
2020年代
| |
---|
|