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異斯夫
(いしふ、生?年不詳)は、
6世紀
の
新羅
の?軍であり、王族の一員。姓は金、
諱
は
苔宗
。
日本書紀
では
伊叱夫?智干岐
、あるいは
伊叱夫?知奈末
という名で紹介されている。17代王
奈勿尼師今
の4世孫であり(『
三?史記
』列??異斯夫?)、22代
智?麻立干
から24代
?興王
に仕えた。『
三?遺事
』では
朴伊宗
の名で現れる。
生涯
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智?麻立干
の6年(
505年
)に初めて軍主の職位が設けられて異斯夫が着任し、
512年
には
伊飡
(2等官)の位に上り、何瑟羅州(現在の
江原道
江陵市
)の軍主となった。そして
于山?
(
鬱陵島
)を攻めて服?させた。
529年
には卓淳?の熊川で
近江毛野
を攻?して追い?い、
531年
には久?牟羅から百?軍を敗退させた。法興王の19年(
532年
)には、古の居道(きょどう、コド)の計略を用いて
伽耶
を滅ぼした
[1]
。
541年
3月には兵部の令(長官)に任ぜられ、?外の軍政を統括した。
550年
には
百?
と
高句麗
との攻防の間隙を縫って、??間の係?地であった道薩城(
忠?北道
槐山郡
)及び金峴城(忠?北道
?川郡
)を奪い取った。この直後に高句麗兵が反?をしてきたが持ちこたえ、逆に追?して高句麗兵を大敗させてもいる。
562年
9月には反?を起こした伽耶(大伽耶)を討伐する軍の主?となり、副?の
斯多含
とともに伽耶を再び服?させることに成功した。
これらのような?軍としての華?しい活躍の一方で、
545年
7月には?史編纂を上奏したという文化面での貢?も?えられる。
?興王
は異斯夫の進言を容れて、
545年
に
居柒夫
らが新羅にとって初めての?史を編纂することとなった。
于山?討伐の計略
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『三?史記』新羅本紀?智?麻立干紀及び『三?史記』列??異斯夫?は、ほぼ同文で異斯夫の
于山?
討伐の?緯を?える。于山?(鬱陵島)は溟州(江原道)の東海に浮かぶ島?であり、陸?きではないために往?の容易でないことを恃みにして新羅に服?していなかった。何瑟羅州軍主となった異斯夫は、于山?の人?が勇猛ではあるが思慮の?いことを見てとって、力攻めにするのではなく計略によって服?させようとした。そこで木造の獅子像を?多く作って船べりにならべ、船を于山?の岸?につけて、「もしお前達が服?しないのであれば、この?を解き放ってお前達を踏み殺させよう」と呼ばわった。于山?の人?は恐れをなして降伏した。
同?の話が『
三?遺事
』紀異?智哲老王?にも?わっており、こちらでは、于陵島(
鬱陵島
)討伐を
伊飡
(2等官)の
朴伊宗
に命じたと記されている。
伽耶討伐の計略
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『三?史記』列?では異斯夫?の直前に居道?を記しているが、居道は第4代
?解尼師今
の時代の人であり、新羅の隣?の于尸山?(
蔚山?域市
)?居柒山?(
釜山?域市
東萊?
)を滅ぼすために、多くの馬を集めて兵士に?け回らせるという遊?を?年繰り返し、于尸山??居柒山?の人?に見慣れさせた。??の人?がこの馬遊びに慣れてしまって兵馬が近寄っても不審としなくなった頃を見計らって、居道は??を急襲して滅ぼした。異斯夫?には、異斯夫がこれと同じ計略(馬遊び)を用いて伽耶を滅ぼしたと?えている。
脚注
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- ^
異斯夫が伽耶を滅ぼした記事について、『三?史記』列??異斯夫?では
智?麻立干
時代(在位:500年 - 514年)のことと記しているが、新羅本紀?法興王紀には
法興王
19年(
532年
)に
金官?
の王
金仇亥
が新羅に投降してきたとしている。
?考文?
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