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濃宜 水通
(のぎ の みなみち)は、
奈良時代
の人物?
儒?者
。
姓
は
公
。
官位
は
外
?五位下
?
信濃介
。
??
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]
平城宮木簡によると、
天平?字
8年(
764年
)に、直講
正八位上
として
大?寮
の宿直をつとめたことが見える
[1]
。
天平神護
3年(
767年
)2月、
??天皇
が臨幸し、大?の
?奠
(せきてん)を行った際に、問者(座主が訓?する?容に?して質問する者)となって、昇?されている。この時の官職は
大?少允
。なお、
彌永貞三
の?によると、この?奠は、天皇が出御した唯一の事例で、
吉備?備
が
唐
よりもたらした儀式にのっとったものだという
[2]
。
翌
神護景雲
2年(
768年
)7月に、地方官の
信濃介
に就任する。その翌年、補佐役の信濃
員外介
として、
弓削大成
が任命されている
[3]
。
官?
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注記のないものは『
?日本紀
』による。
脚注
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]
- ^
『平城宮木簡』四 - 3753
- ^
岩波書店『?日本紀四』152頁注一七
- ^
『?日本紀』神護景雲3年8月19日?
?考文?
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?連項目
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外部リンク
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