濃宜水通

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

濃宜 水通 (のぎ の みなみち)は、 奈良時代 の人物? 儒?者 官位 ?五位下 ? 信濃介

?? [ 編集 ]

平城宮木簡によると、 天平?字 8年( 764年 )に、直講 正八位上 として 大?寮 の宿直をつとめたことが見える [1]

天平神護 3年( 767年 )2月、 ??天皇 が臨幸し、大?の ?奠 (せきてん)を行った際に、問者(座主が訓?する?容に?して質問する者)となって、昇?されている。この時の官職は 大?少允 。なお、 彌永貞三 の?によると、この?奠は、天皇が出御した唯一の事例で、 吉備?備 よりもたらした儀式にのっとったものだという [2]

神護景雲 2年( 768年 )7月に、地方官の 信濃介 に就任する。その翌年、補佐役の信濃 員外介 として、 弓削大成 が任命されている [3]

官? [ 編集 ]

注記のないものは『 ?日本紀 』による。

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ 『平城宮木簡』四 - 3753
  2. ^ 岩波書店『?日本紀四』152頁注一七
  3. ^ 『?日本紀』神護景雲3年8月19日?

?考文? [ 編集 ]

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]

  • 木簡庫(天平?字八年木簡) [1]