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久我 長通
(こが ながみち)は、
鎌倉時代
後期から
南北朝時代
の公卿。
後中院太政大臣
と?す。
?一位
太政大臣
。父は太政大臣
久我通雄
、母は
源仲基
の娘。子は太政大臣に至った
久我通相
。
??
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]
以下、『
公卿補任
』、『
尊卑分脈
』、『
園太?
』、『
花園天皇宸記
』の記事に?って記述する。
- 弘安
9年(
1286年
)2月29日、?爵。
- 弘安11年(
1288年
)1月5日、?五位上に昇?、同年4月7日侍?に任ぜられ、同年11月25日には正五位下に昇?。
- 正?
3年(
1290年
)9月5日、?四位下に昇?。
- 正?5年(
1292年
)2月27日、左少?に任ぜられる。
- 正?6年(
1293年
)1月5日、?四位上に昇?、同年4月8日には左中?に?任。
- 永仁
2年(
1294年
)1月6日、正四位下に昇?、同年3月27日には信濃介を兼ねる。
- 永仁5年(
1297年
)閏10月5日、
?三位
に?され左中?は元の如し(同年に祖父
通基
は?一位に?され、父通雄は?大臣となった)。
- 永仁6年(
1298年
)10月10日、正三位に昇?。
- 永仁7年(
1299年
)3月24日、但馬?守を兼ねる。
- 正安
3年(
1301年
)11月18日、?二位に昇?、同年12月6日、左中?は元の如し。
- 正安4年(
1302年
)9月25日、
?議
に任ぜられ、左中?と但馬?守は元の如し。改元後の12月22日、
?中納言
に?任。
- 延慶
元年(
1308年
)11月8日、正二位に昇?。
- 延慶2年(
1309年
)8月10日、?大納言に?任。
- 正和2年(
1313年
)9月6日、?大納言を?任。以後、前?大納言の?態が?いた
[1]
[2]
。
- 元亨
3年(
1323年
)9月28日、正の大納言に還任
[3]
[4]
。
- 正中
元年(
1324年
)同年中に
大納言
を?したか。
- 元?
元年(
1329年
)9月26日、
?大納言
に還任し、
左大?
を兼ねる。
- 元?2年(
1330年
)2月26日、
?大臣
に任ぜられ左大?は元の如し
[5]
直後の3月5日には着陣?賀を?ませずに?大臣と左大?を?した。同日に?一位に昇?。
- 元?3年/
元弘
元年(
1331年
)2月1日、
右大臣
に任ぜられ、同年11月8年には
春宮傅
を兼ねる。
- 正慶
元年/元弘2年(
1332年
)7月13日、右大臣と春宮傅を?した。
- 元弘3年(
1333年
)6月12日、還任宣下があり右大臣に還任。
- 建武
元年(
1334年
)2月22日、右大臣を?し、同年12月17日には
刑部卿
に任ぜられる。
- 建武4年/
延元
2年(
1337年
)7月20日、刑部卿を?した。
- ??
3年(
1340年
)12月27日、太政大臣に任ぜられる。
- ??4年(
1341年
)1月18日、??院別?と
源氏長者
になる。
- ??5年(
1342年
)2月29日、太政大臣と??院別?を?した。
- 文和
2年(
1353年
)8月27日、
赤痢
のため薨去。
系譜
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]
- 父:
久我通雄
(1257-1329)
- 母:源仲基の娘
- 妻:
園基?
の娘
久我家相?問題
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]
岡野友彦の指摘や同時代の『園太?』、『花園天皇宸記』の記述からうかがえるように、長通は父通雄から義絶されていたようである。
?長
元年(
1311年
)に誕生した異母弟通定を父通雄が偏愛して久我家の家督を通定に?ろうとしたために義絶された、と考えられている。しかし、元?元年(
1329年
)12月に通雄は薨去し通定への家督相?を確定させることができなかったのである。
最終的には「久我長通??」
[6]
を長通は認めて、通相に所領や洛中の邸宅9箇所
[7]
を相?させることができたのである。
村上源氏の嫡流を確立
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]
岡野友彦
が主張しているように、久我家が村上源氏の嫡流としての地位を確立できたのは?ら長通の努力に負うところが大きい。祖父通基と父通雄の時代、村上源氏の諸家から?一位に?されたり大臣に任ぜられる者が相次いだ。一?にすると次のようになる。こうした中で通光と通雄の時に相?問題が?生したために、久我家が他の村上源氏諸家に比して絶?的に優位な立場にあったとは言いがたい?態であったと見ることができる。
- 堀川具?
:建長2年(1250年)に?大臣
- 中院通成
:文永6年(1269年)に?大臣
- 堀川基具
:弘安6年(1283年)に?一位、正?2年(1289年)には太政大臣
- 土御門定?
:正?5年(1292年)に?一位、永仁4年(1296年)に?大臣、そして正安3年(1301)には太政大臣
- 中院通?
:永仁5年(1297年)に?一位
- 堀川具守
:正安元年(1299年)に?一位、正和2年(1313年)には?大臣
- 中院通重
:正和5年(1316年)に?一位、元?元年(1319年)には?大臣
- 六?有房
:文保2年(1318年)に?一位、元?元年(1319年)には?大臣
また、大臣昇進の場合はいずれも?大臣または太政大臣への昇進であって右大臣?左大臣はない。これは?時、??家が5つに分立し各?家の嫡男が若年で右大臣?左大臣に昇進することが多かった上に、西園寺家からも右大臣?左大臣が出たために、他の大臣家から右大臣?左大臣に昇進する機?が少なかったこととも?係がある。前?大臣から太政大臣への任官がしばしば見られることと同?である。
このような?況の中で、長通は村上源氏の中では院政期の
雅定
以?の右大臣就任となったのである。さらに長通以後、通相、具通といずれも右大臣を?て太政大臣へと至るのである。
脚注
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]
- ^
『園太?』延慶4年2月23日の?にあるように父通雄から義絶されたことが原因と考えられる。
- ^
『公卿補任』によれば、同年11月には前年に誕生した通定が?爵され侍?に任ぜられている。
- ^
『公卿補任』によれば勅により還任したとある。
- ^
『花園天皇宸記』9月29日の?には、父通雄に義絶されていたが正大納言に還任した、とある。これは義絶していたのを悔い返したのか、と不審に思う記述がある。
- ^
『公卿補任』の同日の?によれば淳和???院別?を兼ねていたか。
- ^
『久我家文書』所?、??元年(
1350年
)8月13日の日付あり。
- ^
千種町方4町、源氏町方4町、小六?方4町、土御門高倉方4町、中院方4町、三?御匣、河崎北泉、六?朱雀大光明寺、春日西洞院方4町。方4町とあるのは、南北朝から室町時代にかけての通例で「四方が1町」の意味のようである。
?考文?
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]
- 『
公卿補任
』(新訂?補?史大系)
吉川弘文館
?板勝美
、?史大系編集?(編) ※
正安
4年(
1302年
)に長通が
?議
となった時以降の記事。
- 『
尊卑分脈
』(新訂?補?史大系)吉川弘文館 ?板勝美、?史大系編集?(編) ※「久我長通」の項。
- 『園太?』 ?群書類?完成? 岩橋小?太??木一馬??川高明?厚谷和雄校訂
- 『花園天皇宸記』 ?群書類?完成?
- 『
久我家文書
』 國學院大?所?
- 岡野友彦
『中世久我家と久我家領?園』
?群書類?完成?
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皇親太政大臣
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白鳳時代
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奈良時代
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- ?人親王
(知太政官事)
720-735
- 鈴鹿王
(知太政官事)
737-745
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人臣太政大臣
|
奈良時代
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平安時代
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鎌倉時代
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南北朝時代
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室町時代
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??時代
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安土桃山時代
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江?時代
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明治時代
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