久我長通

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久我長通
時代 鎌倉時代 - 南北朝時代
生誕 弘安 3年( 1280年
死? 文和 2年/ 正平 7年 8月27日 1353年 9月25日
別名 後中院太政大臣
官位 ?一位 太政大臣
主君 ?山上皇 後宇多天皇 伏見天皇 後伏見天皇 後二?天皇 花園天皇 後醍?天皇 光?天皇 光明天皇 崇光天皇 後光?天皇
氏族 村上源氏 久我家
父母 父: 久我通雄 、母: 源仲基 の娘
兄弟 久我長通 久我通定
?議 園基? の娘
久我通相
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久我 長通 (こが ながみち)は、 鎌倉時代 後期から 南北朝時代 の公卿。 後中院太政大臣 と?す。 ?一位 太政大臣 。父は太政大臣 久我通雄 、母は 源仲基 の娘。子は太政大臣に至った 久我通相

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以下、『 公卿補任 』、『 尊卑分脈 』、『 園太? 』、『 花園天皇宸記 』の記事に?って記述する。

  • 弘安 9年( 1286年 )2月29日、?爵。
  • 弘安11年( 1288年 )1月5日、?五位上に昇?、同年4月7日侍?に任ぜられ、同年11月25日には正五位下に昇?。
  • 正? 3年( 1290年 )9月5日、?四位下に昇?。
  • 正?5年( 1292年 )2月27日、左少?に任ぜられる。
  • 正?6年( 1293年 )1月5日、?四位上に昇?、同年4月8日には左中?に?任。
  • 永仁 2年( 1294年 )1月6日、正四位下に昇?、同年3月27日には信濃介を兼ねる。
  • 永仁5年( 1297年 )閏10月5日、 ?三位 に?され左中?は元の如し(同年に祖父 通基 は?一位に?され、父通雄は?大臣となった)。
  • 永仁6年( 1298年 )10月10日、正三位に昇?。
  • 永仁7年( 1299年 )3月24日、但馬?守を兼ねる。
  • 正安 3年( 1301年 )11月18日、?二位に昇?、同年12月6日、左中?は元の如し。
  • 正安4年( 1302年 )9月25日、 ?議 に任ぜられ、左中?と但馬?守は元の如し。改元後の12月22日、 ?中納言 に?任。
  • 延慶 元年( 1308年 )11月8日、正二位に昇?。
  • 延慶2年( 1309年 )8月10日、?大納言に?任。
  • 正和2年( 1313年 )9月6日、?大納言を?任。以後、前?大納言の?態が?いた [1] [2]
  • 元亨 3年( 1323年 )9月28日、正の大納言に還任 [3] [4]
  • 正中 元年( 1324年 )同年中に 大納言 を?したか。
  • 元? 元年( 1329年 )9月26日、 ?大納言 に還任し、 左大? を兼ねる。
  • 元?2年( 1330年 )2月26日、 ?大臣 に任ぜられ左大?は元の如し [5] 直後の3月5日には着陣?賀を?ませずに?大臣と左大?を?した。同日に?一位に昇?。
  • 元?3年/ 元弘 元年( 1331年 )2月1日、 右大臣 に任ぜられ、同年11月8年には 春宮傅 を兼ねる。
  • 正慶 元年/元弘2年( 1332年 )7月13日、右大臣と春宮傅を?した。
  • 元弘3年( 1333年 )6月12日、還任宣下があり右大臣に還任。
  • 建武 元年( 1334年 )2月22日、右大臣を?し、同年12月17日には 刑部卿 に任ぜられる。
  • 建武4年/ 延元 2年( 1337年 )7月20日、刑部卿を?した。
  • ?? 3年( 1340年 )12月27日、太政大臣に任ぜられる。
  • ??4年( 1341年 )1月18日、??院別?と 源氏長者 になる。
  • ??5年( 1342年 )2月29日、太政大臣と??院別?を?した。
  • 文和 2年( 1353年 )8月27日、 赤痢 のため薨去。

系譜 [ 編集 ]

久我家相?問題 [ 編集 ]

岡野友彦の指摘や同時代の『園太?』、『花園天皇宸記』の記述からうかがえるように、長通は父通雄から義絶されていたようである。 ?長 元年( 1311年 )に誕生した異母弟通定を父通雄が偏愛して久我家の家督を通定に?ろうとしたために義絶された、と考えられている。しかし、元?元年( 1329年 )12月に通雄は薨去し通定への家督相?を確定させることができなかったのである。

最終的には「久我長通??」 [6] を長通は認めて、通相に所領や洛中の邸宅9箇所 [7] を相?させることができたのである。

村上源氏の嫡流を確立 [ 編集 ]

岡野友彦 が主張しているように、久我家が村上源氏の嫡流としての地位を確立できたのは?ら長通の努力に負うところが大きい。祖父通基と父通雄の時代、村上源氏の諸家から?一位に?されたり大臣に任ぜられる者が相次いだ。一?にすると次のようになる。こうした中で通光と通雄の時に相?問題が?生したために、久我家が他の村上源氏諸家に比して絶?的に優位な立場にあったとは言いがたい?態であったと見ることができる。

  • 堀川具? :建長2年(1250年)に?大臣
  • 中院通成 :文永6年(1269年)に?大臣
  • 堀川基具 :弘安6年(1283年)に?一位、正?2年(1289年)には太政大臣
  • 土御門定? :正?5年(1292年)に?一位、永仁4年(1296年)に?大臣、そして正安3年(1301)には太政大臣
  • 中院通? :永仁5年(1297年)に?一位
  • 堀川具守 :正安元年(1299年)に?一位、正和2年(1313年)には?大臣
  • 中院通重 :正和5年(1316年)に?一位、元?元年(1319年)には?大臣
  • 六?有房 :文保2年(1318年)に?一位、元?元年(1319年)には?大臣

また、大臣昇進の場合はいずれも?大臣または太政大臣への昇進であって右大臣?左大臣はない。これは?時、??家が5つに分立し各?家の嫡男が若年で右大臣?左大臣に昇進することが多かった上に、西園寺家からも右大臣?左大臣が出たために、他の大臣家から右大臣?左大臣に昇進する機?が少なかったこととも?係がある。前?大臣から太政大臣への任官がしばしば見られることと同?である。

このような?況の中で、長通は村上源氏の中では院政期の 雅定 以?の右大臣就任となったのである。さらに長通以後、通相、具通といずれも右大臣を?て太政大臣へと至るのである。

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ 『園太?』延慶4年2月23日の?にあるように父通雄から義絶されたことが原因と考えられる。
  2. ^ 『公卿補任』によれば、同年11月には前年に誕生した通定が?爵され侍?に任ぜられている。
  3. ^ 『公卿補任』によれば勅により還任したとある。
  4. ^ 『花園天皇宸記』9月29日の?には、父通雄に義絶されていたが正大納言に還任した、とある。これは義絶していたのを悔い返したのか、と不審に思う記述がある。
  5. ^ 『公卿補任』の同日の?によれば淳和???院別?を兼ねていたか。
  6. ^ 『久我家文書』所?、??元年( 1350年 )8月13日の日付あり。
  7. ^ 千種町方4町、源氏町方4町、小六?方4町、土御門高倉方4町、中院方4町、三?御匣、河崎北泉、六?朱雀大光明寺、春日西洞院方4町。方4町とあるのは、南北朝から室町時代にかけての通例で「四方が1町」の意味のようである。

?考文? [ 編集 ]