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源 光長
(みなもと の みつなが)は、
平安時代
末期の
美濃源氏
の
武?
。
源光信
の子。
土岐光長
とも記される。通?は「出羽判官」。
生涯
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美濃源氏
の豪族
土岐氏
の?領となり
[1]
、
平氏政?
下においても源氏の流れを汲む在京の武者として?非違使、左衛門尉を務めた
[3]
。
治承
4年(
1180年
)5月、
以仁王
による?兵の企てが露見し間もなく王に
配流
の命が下されると
源兼綱
と共に?非違使?の兵を率いて三?高倉邸に追捕に向かった(
以仁王の?兵
)。しかし
源?政
の知らせを受け王はすでに逃げ出しており、代わりに邸に居た家人の
長谷部信連
と合?
[4]
となり、信連および
家司
、
女官
らを捕縛した(『
吾妻鏡
』)。
その後、美濃?
近江
??で起きた
平家
に?する大規模な反?では光長ら美濃源氏もその中心的存在として蜂起し、翌
養和
元年(
1181年
)、近江を??した後に美濃へと攻め?んだ追討軍に敗れ「居城」を落とされる(
美濃源氏の?兵
?
近江攻防
)。そして同年3月には反?への加勢により
解官
され、
伊豆?
へと配流されたが、そこで
源?朝
の知己を得ることとなった(『
尊卑分脈
』)
。一方、『
玉葉
』や『
吉記
』の養和元年3月六日?には光長の解官とともに以仁王生存?の流布によって世情が不安となっていたことを紹介しており、光長は?に配流となったのではなく、以仁王?係者として追跡を受けたことにより自ら伊豆?へ逃れたようである
。
?永
2年(
1183年
)7月、
北陸道
より進軍した
木曾義仲
に?い入京し、8月の
除目
で伯耆守に任じられる。しかし、義仲と
後白河院
の?係が?化すると院方に付き、同年11月の
法住寺合?
では
多田行綱
らと共に院方の主力として御所の防衛に?たったが、激?の末に子の光?共?討ち取られ
梟首
された
。その後、土岐氏の?領は三男?
光衡
が?承した。
系譜
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脚注
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]
- ^
平治の?
以後、
?房
流美濃源氏の人物で主だった活動が史料上にみえるのは光長のみである。ただし『尊卑分脈』では土岐氏の嫡流を光信 -
光基
= 光衡とし光長を含めていない。
- ^
『尊卑分脈』。治承4年4月に?非違使、右衛門少尉であった(『
山槐記
』同年4月15日?)。
- ^
この?いで光長の??5、6人が負傷した。なお、同じく追捕にあたった兼綱(?政の甥)には兵の損害に?する記述はない。
?考文?
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- 久保, ?文「婦中の中世」『婦中町史 通史編』婦中町、1996年、202-245頁。
?連項目
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