湯川秀樹

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湯川 秀樹
1949年
生誕 1907年 1月23日
日本の旗 日本 東京府 東京市 麻布?
(現: 東京都 港?
死? ( 1981-09-08 ) 1981年 9月8日 (74??)
日本の旗 日本 京都府 京都市 左京?
居住 日本の旗 日本
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆?
?籍 日本の旗 日本
?究分野 物理?
?究機? 京都帝?大?
大阪帝?大?
東京帝?大?
プリンストン高等?究所
コロンビア大?
京大基礎物理??究所
出身校 京都帝?大?
主な業績 中間子 理論の提唱
主な受賞? 恩賜賞 1940年
ノ?ベル物理?賞 1949年
ロモノ?ソフ金メダル 1964年
プロジェクト:人物?
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ノ?ベル賞 受賞者 ノーベル賞
受賞年: 1949年
受賞部門: ノ?ベル物理?賞
受賞理由: 陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想

湯川 秀樹 (ゆかわ ひでき、 1907年 明治 40年) 1月23日 - 1981年 昭和 56年) 9月8日 [1] )は、 日本 物理?者 理論物理? )。 ?位 は、 理?博士 大阪帝?大? ? 1938年 )。 京都大? ? 大阪大? 名??授。 京都市 名?市民 1943年 (昭和18年) 文化?章 位階 ?等 ?二位 ?一等旭日大綬章

京都府 京都市 出身 [2] 原子核 ?部において、 陽子 中性子 を互いに結合させる ?い相互作用 の媒介となる 中間子 の存在を 1935年 に理論的に予言した。 1947年 イギリス の物理?者 セシル?パウエル 宇宙線 の中から パイ中間子 を?見したことにより、湯川の理論の正しさが?明され、これにより 1949年 (昭和24年)、日本人として初めて ノ?ベル賞 を受賞した。

生涯 [ 編集 ]

生い立ち [ 編集 ]

1907年 (明治40年) 1月23日 東京府 東京市 麻布? 市兵衛町(現: 東京都 港? 六本木 )に 地質? 者? 小川琢治 (?姓 ?井)と小雪の三男として生まれる。のちに 湯川スミ に入?し湯川秀樹と改姓する。

1908年(明治41年)、1?の時に父?琢治( 和歌山? 出身)の 京都帝?大? ?授 就任に伴い、一家は京都府京都市に移住する。このため、麻布の家には誕生後1年2ヶ月しか住んでない。

1?から大?までは京都、大?を出て一時 大阪 西宮 にいたこともあるが、人生の大半は京都で過ごしたことになる(ただし、ノ?ベル賞受賞の?象となった中間子論を?表したのは、湯川が大阪帝?大?に勤めていた時であり、?時は西宮の 苦?園 で生活していた)。

湯川は自?に「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故?ということになるのかもしれない」と記している [2]

母方の祖父? 駒橘 は元 紀州藩 の藩士であり、また湯川家自?が先祖代? 和歌山? 出身であるため“和歌山出身”と紹介されることもあるが、本人は京都市出身と?している。

和歌山?出身の?業家? 松下幸之助 の?里に「松下幸之助君生誕の地」の石碑があり、題字は同?ということで湯川の筆によって書かれたが、湯川本人は和歌山で暮らした??はない。

5、6?の頃、祖父?小川 駒橘より 漢籍 の素?を習った。駒橘は 漢? の素養が豊富で、明治以後は 洋? を?び、晩年までずっと『 ロンドン?タイムズ 』を購?し?けた人物であるという [3] 。湯川は自?に「私はこのころの漢籍の素?を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな?穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に?する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の?につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の?書を容易にしてくれたのは事?である。」と記している [4]

京都市立京極小?校 卒業後、1919年( 大正 8年)、 京都府立京都第一中?校 に入?する。中?時代の湯川はあまり目立たない存在であり、あだ名は「?兵衛」だった [5] 。また、物心ついてからほとんど口を利かず、面倒なことは全て「言わん」の一言で?ませていたため「イワンちゃん」とも呼ばれていたが、案外『 イワンのばか 』から取ったのではないかと自分で考えた時期もあった [6] 。この無口さが理由で父の琢治から「何考えているのやらわからん」と疎んじられ [6] 、他の兄弟に比べて能力を低く見られ、大?進?は諦めさせて ?門?校 へでもやろうかと考えられていた時期もあった [7] 。京都一中の同期には?者の子供が多く、後に?者になった者も多かったという [8] 。同じくノ?ベル物理?賞を受賞した 朝永振一? は一中で1年上、三高?京大では同期だった [9]

ノ?ベル賞受賞とその前後 [ 編集 ]

1929年(昭和4年)、 京都帝?大?理?部 物理?科卒業。同大? 玉城嘉十? ?究室の副手となる。1932年(昭和7年)、京都帝?大?講師。1933年(昭和8年)、 東北帝?大? で日本??物理??年?が開催された時に 八木秀次 と知り合い、?時 大阪帝?大?理?部 物理?科(は?見理化??究所)の初代主任?授に就任した八木に?んで大阪帝?大?講師を兼?することになる。

?え子の間では、?が小さく講義はかなり難解であったと?えられている。この頃、大阪胃腸病院(1950年に湯川胃腸病院と改?)の院長: 湯川玄洋 の次女 湯川スミ (本名は澄子)と結婚し、湯川家の ?養子 となり、小川姓から湯川姓となる。

大阪帝?大?に移籍後、全く成果が出ない湯川を八木はさらに勉?に努めるよう注意した上で、「本?なら朝永君( 朝永振一? )に?て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依?されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉?してくれなければ困る」とまで叱責した。 ?山龍雄 によれば、八木は口の?いことで有名だったという [10]

1934年(昭和9年)に 中間子 理論構想を、翌1935年(昭和10年)に「 素粒子 の相互作用について」を?表し、中間子(現在の π中間子 )の存在を予言する [11] 。未知の新粒子の存在を主張する??に?し、?米諸?の科?者の多くは否定的であり、 量子論 の開拓者である ニ?ルス?ボ?ア 1937年 の訪日の際、「君はそんなに新粒子がつくりたいのかね」と湯川を批判したという [11] 日中?? の激化に伴い?米諸?から孤立しつつあった日本の科?者は海外からなかなか評?されなかった。しかし、中間子によく似た重さの新粒子(「 ミュ?粒子 」)が宇宙から地球へと降り注ぐ「 宇宙線 」のなかから見つかったと カ?ル?デイヴィッド?アンダ?ソン が?表したことで、湯川の中間子論は世界的に注目されるようになった [11] [注? 1]

湯川は1939年の ソルベ??議 に招かれた。?議自?は 第二次世界大? 勃?で中止されたものの、渡米して アインシュタイン らと親交を持った [12] 。こうした業績が評?され、1940年(昭和15年)に ?士院恩賜賞 を受賞、1943年(昭和18年)には最年少で 文化?章 受章した。 太平洋?? 末期の1945年6月には、 日本海軍を中心とする原爆開?プロジェクト(F?究) の打ち合わせに招請されたが、開?が本格化する前に日本は敗?を迎えた。 ?島市への原子爆?投下 について解?を求める新聞社の依?を湯川は?ったが、?後は日本を占領したアメリカ軍から事情を?かれている。こうした?緯を記した日記が2017年12月、京都大?の湯川記念館史料室により公開されている [13]

1947年(昭和22年)に セシル?パウエル 等が?際にπ中間子を?見したことで1949年(昭和24年) 11月3日 ノ?ベル物理?賞 を受賞した [14] 。これはアジア人としては作家の タゴ?ル や物理?者の チャンドラセカ?ル?ラマン に次ぐ3人目の受賞者だったが、日本人として初めての ノ?ベル賞 受賞だった [14] 。ニュ?スは敗??占領下で自信を失っていた日本?民に大きな力を?えた [14] [注? 2] 。なお、2000年に湯川のノ?ベル賞選考?連文書を調査した岡本拓司は、推薦?の大半が外?の推薦者から出されていた点などを?げ、「ノ?ベル賞の?史の中でもまれなほど、?究成果との?係が明瞭であるように思われる」と述べている [15]

?後は非局所場理論?素領域理論などを提唱したが、理論的な成果には?がらなかった。一方、 マレ??ゲルマン クォ?ク 理論については「電荷が 1 / 3 とか 2 / 3 とか、そんな中途半端なものが存在する?がない。」と否定的であった。

またその一方で、 反核運動 にも積極的に携わり、 ラッセル=アインシュタイン宣言 マックス?ボルン らと共に共同宣言者として名前を連ねている。上記のように、?中には 荒勝文策 率いる京大グル?プにおいて、日本の原爆開?に??したことが確認されている。

後期 [ 編集 ]

妻?スミと(1954年)

1956年(昭和31年) 原子力委員長 正力松太? の要請で原子力委員になる。正力の原子?を外?から購入してでも5年目までには?用的な 原子力?電所 を建設するという持論に?して、湯川は基礎?究を省略して原?建設に急ぐことは??に禍根を?すことになると反?、1日で委員を?めようとしたが、 森一久 らになだめられ踏み止まった。その後も正力との?立は深まり、結局?調不良を理由に翌1957年には在任1年3か月で?任した。

1956年(昭和31年)1月、宮中 歌?始 召人 として臨み「春?み藪かげの道おほかたは すきとほりつつ消えのこる雪」を詠んだ。1970年(昭和45年)、京都大?を退官し京都大?名??授となる。晩年には生物?にも?心を抱き、特に生命現象における情報の役割に?心を抱いた。また、 江?時代 後期の思想家 三浦梅園 への傾倒を深めた。 揮毫 を?まれると、しばしば『 ?子 』の「秋水」の最後の一句から「知魚樂」(魚ノ?シミヲ知ル)と書した。

1966年には ノ?ベル平和賞 の候補者に推薦されていたことが、ノ?ベル財?の公表した候補者リストにより判明している [16]

京都大?退官後の1975年(昭和50年)に 前立腺癌 を?症し、手術を受ける。手術により癌の進行は抑えたが、その後は自宅で療養を?けながら?術活動を行っていた。米ソ??の緊張激化を受け、第4回科?者京都?議の?起人の一人となって1981年(昭和56年)6月、15年ぶりに開催を?現する。このときすでに健康?態が?化しており、?議には車椅子姿で出席して核?絶を訴えた。3か月後の同年9月、 急性肺炎 から 心不全 を??し、京都市 左京? の自宅で死去する。74??。墓所は京都市 東山? 知恩院 にある。邸宅は?後40年を?て2021年9月に京大に寄付された。大?は整備し?究者や?客者向けの施設に活用を公表している。

?島平和公園 にある若葉の像の台座には、湯川による短歌「まがつびよ ふたたびここにくるなかれ 平和をいのる人のみぞここは」 [注? 3] が刻まれている。

?術的業績 [ 編集 ]

?い力の理論?中間子 [ 編集 ]

湯川秀樹(1951年)

4つの力(重力、電磁力、?い力、弱い力)( 基本相互作用 )のうちの?い力をどのように定式化すればよいか、?時問題になり、いろいろな試みがなされたが、成功しなかった。

湯川は、電子の200倍の質量を持つ中間子を、力の媒介粒子(ボ?ズ粒子)と?定して、核力である?い力を導くことに成功した。さらに、?い力からフェルミの弱い力を導いた。中間子論は、弱い力、?い力、?方を含む理論として、?時は最も基本的な 場の理論 であるとみなされた。また、力を粒子が媒介することをも明瞭に示し、場を生み出す粒子という考えを定着させた。

ただし、電子が?い力を?えるという考えを ハイゼンベルク が湯川以前に提示している。しかし、電子は以前から存在が知られ、理論としても失敗だったので、場を?う粒子という考えは、確立されていなかった。ハイゼンベルクやボ?アは、?察されていない素粒子で場を?明する湯川に否定的であった。ボ?アは湯川に、ハイゼンベルクは朝永にこのことを告げている。

以上の理由で、湯川の、?い力を生み出す中間子論は素粒子論の扉を開いたと、?時評?された。湯川は、?い力の中間子論でノ?ベル賞をもらったが、これに驚き、自身のこれ以後の仕事を、場の量子論で自ら見出した問題の解決に力を注いだ。しかし、この?究は成功しなかった。

因果律の破れの提起 [ 編集 ]

超多時間論と非局所場-湯川の丸 [ 編集 ]

ミンコフスキ?空間上での閉曲面での確率振幅を定義すると、因果律が破れると言う問題を湯川は提起し、この問題に生涯をかけた(この問題を湯川の丸○と言う。湯川がこの問題を提起後、ディラックも同じ問題を提起している) [注? 4]

朝永の寄?はあったが、この問題はいまだに解決されていないと超??性を世界で最初に提起した 宮?弘成 は主張している。物理?は湯川の基本問題を回避して、現象論に走ったと。

湯川以前は一定時間で確率振幅は定義されていた [17]

師匠?弟子?同僚および?係者 [ 編集 ]

京都大?基礎物理??究所 (湯川記念館)前にある湯川の胸像
ここでは??での著名な人物を?げる。
  • 岡潔 :多??複素??論の建設者で、?論の基になる?念を示す。湯川や朝永は授業を聞き、非常に刺激的だったと述べる。難問は?件を付けず、一?に解かねば解けないと主張。
素粒子物理?
  • 朝永振一? :同期。互いに刺激を受け、?究面でも密接な?係があり、ライバル。業績は、超多時間論、繰り?みなど多岐にわたる。?い力(中間子)の現象論的な式を湯川に述べる。
  • 小林稔 :湯川秀樹博士の中間子論建設に協力する。湯川記念館、基礎物理??究所の設立、英文論文誌 Progress of Theoretical Physics 創刊に?力。
  • 坂田昌一 :2中間子論、無限?散を防ぐC中間子、坂田モデル( クォ?ク の原型)、2ニュ?トリノ。
  • 谷川安孝 :2中間子論の原案を提唱。
  • 武谷三男 :3段階論で、方法論を活?に論じる。 南部陽一? が武谷方法論に影響され、デ?タからモデルを創るという方法を取るようになるなど、多くの影響を?えた。
  • ?山龍雄 ゲ?ジ理論 の先?者の一人。
湯川の因果律の破れの重要性を主張する?者
  • 宮?弘成 超??性 を世界で最初に提起した。湯川の因果律の破れの問題を、今の物理は放棄し、現象論に走ったと主張する。
生物物理?宇宙物理
  • 寺本英 :生物物理、?理生物?の開拓者。
  • 林忠四? :宇宙物理?者、林フェ?ズの?見。

孫弟子には、現在活躍する?多くの理論物理?物性物理?宇宙物理?天文??理生物?者が含まれている。

家族?親族 [ 編集 ]

湯川秀樹歌碑(京都市上京? 梨木神社 ?、鳥居の傍らに建っている)

年譜 [ 編集 ]

?術的表彰 [ 編集 ]

?? [ 編集 ]

距離の?位 [ 編集 ]

  • 湯川の業績に因み、 核力 の到達距離の目安となる 1fm = 10 −15 m を、1 yukawa と呼ぶ案が提案されたが普及には至らなかった。 フェムトメ?トル ?照。

主な著書 [ 編集 ]

?著 [ 編集 ]

物理
  • 『β線放射能の理論』岩波書店〈科?文?抄 第7〉、1936年。  
  • 『量子力?序?』弘文堂書房、1947年。  
  • 『素粒子論序?』 上?、岩波書店、1948年。  
  • 『物理講義』原治編、 講談社 、1975年。  
    • 物理講義 講談社?術文庫 、1977年10月。 ISBN   978-4-06-158195-1 https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000149813  
  • 江?洋 編『理論物理?を語る』日本評論社、1997年9月。 ISBN   4-535-78252-0  
  • 「湯川秀樹 物理講義」を?む 小沼通二 監修、講談社、2007年1月。 ISBN   978-4-06-154293-8 https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000148572  
  • 『非局所場の理論』 井上健 ??解?、?日新聞社、1952年。  
物理思想
  • 『最近の物質?』弘文堂〈?養文庫 第18〉、1939年。  
    • 『最近の物質?』講談社?術文庫、1977年2月。  
  • 『存在の理法』岩波書店、1943年。  
  • 『目に見えないもの』甲文社、1946年。  
  • 『理論物理?講話』朝日新聞大阪本社、1946年。  
  • 『自然と理性』秋田屋〈新?芸叢書 第2〉、1947年。  
  • 『思考と?測』アカデメイア?プレス、1948年。  
  • 『思考と?測』リスナ?社、1949年。  
  • 『物質?と世界?』弘文堂、1948年。  
  • 『極微の世界』岩波書店、1950年。  
創造論
自?
?的世界
  • 『自己?見』?日新聞社〈現代日本のエッセイ〉、1972年。  
    • 『自己?見』講談社〈講談社文庫〉、1979年8月。  
  • 湯川秀樹(述)『天才の世界』市川?久??聞き役、小?館〈100万人の創造選書 6〉、1973年。  
    • 『天才の世界』小?館、1982年10月。  
    • 『天才の世界』三笠書房〈知的生きかた文庫〉、1985年9月。 ISBN   4-8379-0067-4  
    • 湯川秀樹(述)『天才の世界』市川?久彌?聞き役、光文社〈光文社知?の森文庫〉、2008年12月。 ISBN   978-4-334-78520-8  
  • 湯川秀樹(述)『天才の世界 ?』市川?久?聞き役、小?館〈100万人の創造選書 13〉、1975年。  
    • 『天才の世界 ?』三笠書房〈知的生きかた文庫〉、1985年12月。 ISBN   4-8379-0081-X  
  • 湯川秀樹(述)『天才の世界 ??』市川?久?聞き役、小?館〈小?館創造選書 28〉、1979年8月。  
    • 『天才の世界 ??』三笠書房〈知的生きかた文庫〉、1986年6月。 ISBN   4-8379-0111-5  
  • 『科?者のこころ』朝日新聞社〈朝日選書 89〉、1977年6月。  
    • 『科?者のこころ』(オンデマンド版)朝日新聞社〈朝日選書 89〉、2003年6月。 ISBN   4-925219-52-9  
  • 外的世界と?的世界 岩波書店 、1976年12月。 ISBN   4-00-000284-8 https://www.iwanami.co.jp/book/b264377.html  
エッセイ

選集?著作集 [ 編集 ]

  • 『湯川秀樹選集 第1?』甲鳥書林、1955年。  
  • 『湯川秀樹選集 第2?』甲鳥書林、1955年。  
  • 『湯川秀樹選集 第3?』甲鳥書林、1955年。  
  • 『湯川秀樹選集 第4?』甲鳥書林、1955年。  
  • 『湯川秀樹選集 第5?』甲鳥書林、1956年。  
  • 『湯川秀樹自選集1』朝日新聞社、1971年。  
  • 『湯川秀樹自選集2』朝日新聞社、1971年。  
  • 『湯川秀樹自選集3』朝日新聞社、1971年。  
  • 『湯川秀樹自選集4』朝日新聞社、1971年。  
  • 『湯川秀樹自選集5』朝日新聞社、1971年。  
  • 佐藤文隆 編『湯川秀樹著作集 1 ?問について』岩波書店、1989年5月。 ISBN   4-00-091421-9  
  • 位田正邦 編『湯川秀樹著作集 2 素粒子の探究』岩波書店、1989年6月。 ISBN   4-00-091422-7  
  • 田中正 編『湯川秀樹著作集 3 物質と時空』岩波書店、1989年8月。 ISBN   4-00-091423-5  
  • 牧二? 編『湯川秀樹著作集 4 科?文明と創造性』岩波書店、1989年9月。 ISBN   4-00-091424-3  
  • 豊田利幸 編『湯川秀樹著作集 5 平和への希求』岩波書店、1989年7月。 ISBN   4-00-091425-1  
  • 小川環樹 編『湯川秀樹著作集 6 ?書と思索』岩波書店、1989年4月。 ISBN   4-00-091426-X  
  • 加藤周一 編『湯川秀樹著作集 7 回想?和歌』岩波書店、1989年10月。 ISBN   4-00-091427-8  
  • 位田正邦 編『湯川秀樹著作集 8 ?術篇I』岩波書店、1989年11月。 ISBN   4-00-091428-6  
  • 田中正 編『湯川秀樹著作集 9 ?術篇II』岩波書店、1989年12月。 ISBN   4-00-091429-4  
  • 谷川安孝 河?六男 編『湯川秀樹著作集 10 ?文?術論文』岩波書店、1990年2月。 ISBN   4-00-091430-8  
  • 渡?慧 編『湯川秀樹著作集 別? ?談?年譜』岩波書店、1990年1月。 ISBN   4-00-091431-6  

共著?編著?共編著 [ 編集 ]

  • 菊池正士 、共著『原子核及び元素の人工?換』 上?下?、岩波書店、1938-1940。  
  • 『?話 人間の進?について』 小林秀雄 、新潮社(のち全集に??)、1948年。  
  • 『科?と文? ?談』 潁原退? 、白井書房〈人間美?叢書〉、1949年。  
  • 小林稔共 編『原子核論』共立出版〈近代物理?全書 第9? / 湯川秀樹等編〉、1949年。  
  • 井上健、など『物理?の方向』三一書房、1949年。  
  • 『? 理論物理?講話』 鈴木坦 共著、朝日新聞社、1949年。  
  • 『素粒子論』小林稔共編、共立出版〈近代物理?全書〉、1951年。  
  • 『?理の場に立ちて』 坂田昌一 ? 武谷三男 共著、?日新聞社、1951年。  
    • 『素粒子の探求 ?理の場に立ちて』勁草書房〈科?論?技術論?書 6〉、1965年。  
  • 『宇宙線及び中間子論』小林稔?井上健共編、共立出版〈近代物理?全書〉、1955年。  
  • 『物理?通論』 上?、 田村松平 共著、大明堂、1955年。  
  • 『京都 わが幼き日の…』 井島勉 ? 川端?之助 共著、中外書房、1960年。  
  • 『素粒子』 片山泰久 ? 福留秀雄 共著、岩波書店〈岩波新書〉、1961年。  
  • 『物理?通論』 中?、田村松平共著、大明堂、1961年。  
  • 『物理?通論』 下?、田村松平共著、大明堂、1962年。  
  • 朝永振一? 坂田昌一共 編『平和時代を創造するために 科?者は訴える』岩波書店〈岩波新書〉、1963年。  
  • 物理の世界 片山泰久 ? 山田英二 共著、講談社〈講談社現代新書〉、1964年。 ISBN   978-4-06-115407-0 http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1154079  
  • 『新しい世界の?記』 7?、湯川秀樹監修、 市川禎男 など?、?習?究社、1965年。  
  • 板倉聖宣など 編『少年少女科?名著全集』 19?、?土社、1965年。  
  • 梅原猛 桑原武夫 ? 末川博 『現代の?話』雄渾社、1966年。  
  • 『人間にとって科?とはなにか』 梅棹忠夫 、中央公論社〈中公新書〉、1967年。  
    • 『人間にとって科?とはなにか』梅棹忠夫、中央公論新社〈 中公クラシックス 〉、2012年。  
  • 『生きがいの創造 創造への?話』市川?久?、雄渾社、1967年。  
  • 谷川安孝など 編『つきあい 湯川博士還?記念文集』講談社、1968年。  
  • 『日本文化の創造 日本人とは何か』 上田正昭 、雄渾社、1968年。  
  • 朝永振一? 坂田昌一共 編『核時代を超える 平和の創造をめざして』岩波書店〈岩波新書〉、1968年。  
    • 『核時代を超える 平和の創造をめざして』岩波書店〈岩波新書〉、1995年6月。 ISBN   4-00-411106-4  
  • 谷川徹三 『?談 宇宙と心の世界』??新聞社〈??選書〉、1969年。  
  • 湯川秀樹 編『?問の世界 ?談集』岩波書店、1970年。  
  • ?日新聞社 編『現代?問論』 坂田昌一 ? 武谷三男 共著、勁草書房、1970年。  
  • 『物理の世界 ?理の世界』 北川敏男 ?談、中央公論社〈中公新書 250〉、1971年。 ISBN   4-12-100250-4  
  • 湯川秀樹 編『半日閑談集』講談社、1971年。  
    • 『半日閑談集 湯川秀樹?談集1』講談社文庫、1980年12月。  
  • 『人間の再?見』市川?久??梅原猛鼎談、角川書店〈角川選書〉、1971年。  
  • 『物理?者群像 ?談』 朝永振一? 、仁科記念財?、1972年。  
  • 湯川秀樹責任編集『平和の思想』末川博?編集、雄渾社〈??と平和シリ?ズ 6〉、1973年。  
  • 湯川秀樹 編『科?と人間のゆくえ ?半日閑談集』講談社、1973年。  
    • 『科?と人間のゆくえ 湯川秀樹?談集2』講談社文庫、1981年1月。  
  • シュレ?ディンガ? 『シュレ?ディンガ?選集1』湯川秀樹監修、共立出版、1974年。  
  • シュレ?ディンガ?『シュレ?ディンガ?選集2』湯川秀樹監修、共立出版、1974年。  
  • 『人間の?見 湯川秀樹?談集』講談社、1976年。  
    • 『人間の?見 湯川秀樹?談集3』講談社文庫、1981年2月。  
  • 朝永振一? 豊田利幸共 編『核軍縮への新しい構想』岩波書店、1977年8月。  
  • ?田盛和 著、 久保亮五 編『統計物理?』湯川秀樹監修、岩波書店〈岩波講座現代物理?の基礎 5〉、1978年4月。 ISBN   4-00-010085-8  
  • 寺田寅彦 中谷宇吉? ?湯川秀樹『田園?感 他?立春の卵 他?ある航海 他』向?社〈向?社現代?養選書 9??筆 Ⅱ〉、1984年10月。 ISBN   4-7952-6659-X  

論文 [ 編集 ]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 1936年、アンダ?ソンとその指導?生である セス?ネッダ?マイヤ? は、電子の207倍の質量を持ち、電子と同じ負の電荷とスピン1/2を持つ素粒子(ミュ?粒子)を?見したが、これは?初、湯川が「 ?い相互作用 の理論」で提唱した中間子が?出されたものだと考えられ、「ミュ?中間子」と?された。これは、湯川の提唱する新粒子とは異なる粒子であった [11]
  2. ^ 物理?者の 佐藤勝彦 は、子ども時代をふりかえり、?米の科?者がめぐまれた環境のなかで?究しているのに?し、日本という貧しい?にあって、紙と鉛筆とみずからの頭?のみで新粒子を言い?てた湯川はヒ?ロ?であり、あこがれの存在だったと述べている [14]
  3. ^ 「まがつび」とは「禍つ火」すなわち原子爆?のことである。
  4. ^ 湯川の因果律の問題を空間的なものに制限し因果律を回避し、湯川の考えを生かしたのが 朝永振一? の超多時間理論である。これにより場の量子論は、相?論的に共?な形に書き換えられた。湯川は、この問題を非局所場として扱ったが、成功したとはいいがたい。
  5. ^ 湯川春洋の回想記に『湯川家に生きた子と母』(編著、どりむ社、2008年)がある。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 湯川秀樹 』 - コトバンク
  2. ^ a b 『旅人 ある物理?者の回想』、p.10
  3. ^ 『旅人 ある物理?者の回想』、p.44
  4. ^ 『旅人 ある物理?者の回想』、p.49
  5. ^ 『旅人 ある物理?者の回想』、p.92
  6. ^ a b 本田靖春 『現代家系論』p.104( 文藝春秋社 、1973年)
  7. ^ 本田靖春『現代家系論』p.102(文藝春秋社、1973年)
  8. ^ 『旅人 ある物理?者の回想』、p.87
  9. ^ 『旅人 ある物理?者の回想』、p.88
  10. ^ 「適塾」No.15 (1982)『湯川博士と大阪大?』
  11. ^ a b c d 佐藤(2020)pp.34-37
  12. ^ 湯川秀樹博士について 兵庫?西宮市?湯川記念事業(2017年12月22日??) [ リンク切れ ]
  13. ^ 湯川秀樹、原爆?究記す/終?前後の日記公開/?後の平和運動 ?み知る記?にも 『日本??新聞』夕刊2017年12月22日
  14. ^ a b c d 佐藤(2020)pp.37-38
  15. ^ 岡本拓司「 日本人とノ?ベル物理?賞 : 1901年-1949年 」『日本物理??誌』 2000年 55? 7? p.525-530, doi : 10.11316/butsuri1946.55.525
  16. ^ Nomination Database - ノ?ベル賞公式サイト
  17. ^ 原治、「 非局所場理論 」 日本物理學會誌 1982年 37? 4? p.275-277, doi : 10.11316/butsuri1946.37.275
  18. ^ 『世界文學』1947年4月?、p.60
  19. ^ Hideki YUKAWA (1935). “On the Interaction of Elementary Particles. I” . Nippon Sugaku-Buturigakkwai Kizi Dai 3 Ki (日本物理??、日本???) 17 : 48-57. doi : 10.11429/ppmsj1919.17.0_48 . https://doi.org/10.11429/ppmsj1919.17.0_48 .   ノ?ベル賞受賞論文
  20. ^ ?立???書館. “ 博士論文『On the interaction of elementary particles』 ”. 2023年4月1日 ??。
  21. ^ 京都市名?市民 湯川秀樹氏 ”. 京都市 . 2022年9月6日 ??。
  22. ^ "Yukawa; Hideki (1907 - 1981)" . Record (英語). The Royal Society . 2012年10月8日??

?考文?  [ 編集 ]

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]

先代
小谷正雄
日本物理???長
第11代:1955年 - 1956年
次代
有山兼孝