南北大東島と沖大東島の位置
沖大東島
(
)
は、
大東諸島
に所?する島である。別名
ラサ島
(
、
英
:
Rasa Island
)
[注? 1]
。行政??は全島が
沖??
島尻郡
北大東村
に?する。
島の??
[
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]
沖大東島は
南大東島
の南、約160キロメ?トル、
那覇市
の南東約408キロメ?トルにある、周?約4.34キロメ?トル、面積約1.19平方キロメ?トルの隆起サンゴ礁の島である
[2]
[3]
。島の形は
北大東島
と似た三角形をしており、最高所は島?北部にあって標高31.1メ?トルである。南東部から北、そして南東部から北西に向かってやや標高が高い地域となっており、島の中央部は周?から10メ?トルから15メ?トル標高が低い凹地となっている
[4]
[3]
。また島の海岸線は?崖となっており、周?は
サンゴ礁
で?まれている
[4]
。
沖大東島の?候は、?前の?測記?によれば年平均??は24.0度。年間降水量は1296.6ミリメ?トルである。寒暖の差は小さく、夏季はにわか雨が多いものの降水量は比較的少ない
[5]
。また7月から10月は台風シ?ズンであり、
ラサ島?業所
によるリン?山が稼?していた?前期、7月から10月にかけては?石の輸送等が困難となることが多かった
[6]
。
島の形成とリン?石?床
[
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]
沖大東島は
フィリピン海
北西部にある沖大東海嶺の最高部である。フィリピン海には沖大東海嶺の他、南大東島、北大東島がある大東海嶺、そして大東海嶺の北側には奄美海台があり、それぞれ
琉球海溝
に直交するように北西から南東方向へ
九州?パラオ海嶺
まで延びている
[3]
[7]
。沖大東海嶺は島弧を形成する地?が沈降したものと考えられており、基盤は
白?紀
後期の
深成岩
などによって形成されている。沖大東海嶺は
始新世
には?い海であったと考えられ、?海性の石灰岩が?く堆積した。その後
鮮新世
になると遠洋性である石灰質の
泥岩
が堆積している
[3]
[8]
。
フィリピン海プレ?ト
の移動に伴って沖大東海嶺は北西方向へと移動している。フィリピン海プレ?トは沈み?み?である琉球海溝に近づくと屈曲し、その影響で「海溝周?隆起?」と呼ばれる隆起?が形成される。沖大東島、そして南大東島、北大東島はそれぞれ、プレ?トの移動によって海溝周?隆起?に差し掛かったため隆起して陸化した
[9]
。南大東島、北大東島は約160万年前から200万年前に海溝周?隆起?に入って陸化したものと考えられているが、沖大東島はそれよりも?く、約50万年前から60万年前に海溝周?隆起?に入って陸化したと見られている
[10]
。
南大東島、北大東島は
環礁
が隆起した隆起環礁であり、中央部に礁湖の跡である明確な凹地が形成されている
[11]
。一方、沖大東島は中央部に凹地があるものの周?の高地との高低差は10メ?トルから15メ?トル程度で、元?、環礁のような礁湖があったものと推定されているが、その規模は小さく水深も?かったと考えられている。しかし礁湖が無いサンゴ礁の隆起地形である隆起卓礁とするのは、礁湖の跡である凹地が形成されているため不適切であり、隆起環礁と隆起卓礁の中間的性質の隆起準卓礁に分類されている
[12]
。
隆起が進む中で沖大東島では
海岸段丘
が形成され、
更新世
の4つの段丘面が確認できる。これははっきりとした段丘面が形成されていない南大東島、北大東島の地形との大きな違いのひとつである。沖大東島で海岸段丘が?達したのは、南大東島、北大東島と比べて海山部分の傾斜が緩やかであったからと考えられている。急斜面の南大東島、北大東島では隆起に伴って段差が生じにくいのに?して、傾斜が緩やかであるため段丘面が形成されたのである
[13]
。
陸化が進む中で沖大東島では多くの海鳥が生息するようになった。海鳥の糞が堆積して
グアノ
が生成され、更にグアノ中のリン酸が石灰岩と反?することによってリン?石が形成されていった
[14]
[15]
[16]
。沖大東島では1911年から1944年にかけて約160万トンのリン?石が採掘された
[17]
。1978年の調査によれば、リン?石の?存推定埋?量は約350万トンである
[18]
。
そして1911年から1944年にかけてのリン?石採掘によって沖大東島の地形は大きく改?された。元?、島の中心部は標高約15メ?トル程度で比較的平坦であったものが、大きな??を生じて最底部からは海水がしみ出すようになっており、また島?の地形全?も表層のリン?石採掘によって岩石が林立した凹凸が激しい地形となっている
[19]
[20]
。
生物相
[
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]
植物相
[
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]
沖大東島の植物相の調査報告については、1912年、
ラサ島?業所
によるリン?石採掘が始まった直後にリン?石の採掘?況等の視察を行った、
盛岡高等農林?校
?授山田玄太?の報告書?の記述
[21]
。そして1989年の
琉球大?
?授の宮城康一によるもの
[22]
。その他、1903年の沖??知事
奈良原繁
による大東諸島視察時のものが知られている
[23]
[24]
。
1903年の奈良原知事率いる調査?の報告書では、海岸部の?崖のすぐ?側は荒れた草地であるが、その?には
アダン
林、そして
ビロウ
林となっているとしている
[23]
[25]
。1912年の山田?授の報告によれば、海水が掛かる場所にはほとんど植物がみられず、わずかに
スベリヒユ
などが見られるのみであり、その?側には
クサトベラ
林やアダン林が?がり、島の中心部にはビロウの純林が?がっていた。なお、アダン林とビロウ林の間には
アカテツ
、
アコウ
、
ムクイヌビワ
など?葉樹が生育していた
[26]
[24]
。
島の中心部に?がっていたビロウの純林は、?なお暗く下草はほとんど見られなかった。密生している場所ではビロウは一坪に約1本半の割合で生えており、高いものでは14.5メ?トルになったという
[27]
[28]
。
1912年の山田の調査によれば、
種子植物
42種、
シダ植物
2種を確認し、植物の種類ははなはだ少ないとしている
[29]
[30]
。宮城康一の分析によれば、沖大東島の原植生は島が小さいこと、湖沼や?地?のような水系を持たないことから貧弱なものではあったが、基本的には
南大東島
、北大東島の植生と似たものであったと考えられる
[31]
。
ラサ島?業所によるリン?石採掘は島の植生を激?させていく。1925年に沖大東島を視察した記?によれば、かつて鬱蒼たるビロウ林に覆われていたが、リン?石採掘が進むにつれて伐採されて?業所の事務所付近に点在するのみになっており、西海岸を除いて樹木が稀であると報告されている
[32]
。そして1944年、ラサ島?業所によるリン?石採掘最終期には、島?には高さ5メ?トル以下のビロウが13本?っているのみで、職員住宅と海岸部に多少の草地があるものの、?りはリン?石採掘後の凸凹した岩石が連なり、草木が見られない?態となっていた
[33]
。
1989年の宮城康一の調査によれば沖大東島では41種の植物が確認された。植物相は貧弱であり、確認された植物の多くが海岸部に生育するもので、また?化移入種は15種と30パ?セントを超えた。沖?にある
鳩間島
、
屋嘉比島
、
久場島
といった約1平方キロメ?トルの、沖大東島とほぼ同面積の島と比較してみると、種の?は少なく、?化移入種の割合は高い。?化移入種の割合が高い理由は?前のリン?石の採掘による植生の破?や土?の減少、そして?後は射爆場となって爆?の影響を受けるなど、大きな人?的な攪?を受けたことが原因と考えられている
[34]
。
また1989年の調査によればビロウ、ムクイヌビワが確認できず、これらの種は人?的な攪?が原因で沖大東島では絶滅したものと考えられている
[30]
。島?には樹林?は皆無で、草本性の植物の中にわずかにクサトベラ、アダンなどの低木が見られるのみである
[24]
。
動物相
[
編集
]
前述した1912年の山田玄太?の報告によれば動物の種類は少なく、爬?類、哺乳類は全く見られない。つまり南大東島、北大東島に生息している
ダイトウオオコウモリ
は沖大東島には生息していなかったと考えられる
[35]
[36]
。
また島?には
メジロ
が多く、人間を恐れないので容易に捕まえることが出?た。また季節によっては
アホウドリ
などが飛?して繁殖していたという
[35]
[36]
。
昆?類はチョウ、ガ、バッタ、トンボなどが見られ、人間に伴うと考えられる蠅や蚊、ノミも見られた。一方島?では
ヤシガニ
が生息しているが、美味であるため?獲され、ラサ島?業所開所約1年にしてその?が減少していたという
[37]
[36]
。
?見と命名
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編集
]
沖大東島についての記?としては、1543年にスペイン人、ベルナルド?デ?ラ?ト?レがマル?アブリゴ(Mal Abrigo)と命名している
[38]
[39]
。その後、オランダ人のアジア方面の進出が盛んになる中でアムステルダムと呼ばれるようになった
[40]
。また18世紀後半に北アメリカ大陸北西部の太平洋岸を探?したことで知られる、アメリカ合衆?の
ジョン?ケンドリック
にちなんで、ケンドリック島と書かれた資料もあり、これはケンドリックが航海中に沖大東島を通りかかったことによるものと考えられている
[39]
。
1807年、フランスの軍艦カノニエル?が「ラサ島」と命名した。なお、もともと難破したイギリス船がラサ島の名付け親であるとの?もある。ラサの語源ははっきりしていないが、
スペイン語
などラテン語系の言語では「ラサ」とは平らなという意味であり、沖大東島の比較的平坦な地形から名付けられたとする?が有力である
[41]
。なお、ラサ島という名?は正式名?が沖大東島と決定された後も使用され?けている
[41]
。
日本領への編入
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]
1885年、
北大東島
、
南大東島
の?島は日本領に編入される。しかし同じ大東諸島に?しながら、この時沖大東島の日本領編入は行われなかった
[42]
。その後、南方への?心が高まっていく中で南北大東島の開拓への動きが見え始めた1891年に、アメリカ船籍の船、キットセップが大東諸島付近で遭難して南大東島に?組員が漂着した。漂着後、船長以下4名が
カッタ?
に?って沖?本島に?り着いて救援を要請し、要請を受けて沖??は南大東島に救援船を派遣する。この事件をきっかけとして沖??は
海軍省
に南方探?を目的とした軍艦派遣を要請した
[43]
[42]
。
沖??側の要請は受け入れられ、1892年8月に海軍艦船
海門
が派遣された。那覇に?航した海門の艦長
柴山矢八
に?し、沖??側は南北大東島や
尖閣諸島
に?する島?は?に探?が行われているとして、未調査のラサ島と
南波照間島
を優先的に探?するよう要請した
[41]
[44]
。しかし海門は那覇を出港するとまず南大東島へ行って7名が上陸して調査を行わせ、その後ラサ島に向かって3名を上陸させて約1時間半の調査を行った後、再び南大東島に?って上陸調査中の7名を?船させると、北大東島は上陸すらせず洋上からの視察で終え、?途についた
[44]
[45]
。
この短期間の海軍艦船海門による大東諸島「探?」について、
笹森儀助
は職務を忘れ、探?の精神をおろそかにしたものであると痛烈に批判した
[46]
。なお、わずか1時間半の上陸であったが
山下源太?
大尉ら上陸者は、「ラサ島探見報告」を艦長の柴山に提出した。山下らはラサ島は台風による高波の影響からか沿岸部に草木が無いものの、?陸部は草木が鬱蒼と生い茂り?くのも困難であること、そして
アホウドリ
の群れが?作りしていて小鳥は人間を恐れる?配が全くないこと。また、水源は無さそうで漂流民やその他人が住んだ形跡は全くないと報告した
[47]
[48]
。
1898年9月、
南鳥島
の開?を行っていた
水谷新六
がラサ島を探?している。水谷の目的はアホウドリの羽毛採取であった
[49]
[50]
。1899年6月、今度は
宮古島
で
人頭?
の?止に向けて活躍した
中村十作
がラサ島を探?する
[51]
。
中村は1900年6月、
?務省
にラサ島の借用願いを提出した。提出を受けた?務省はラサ島についての情報が全く無くて困惑した。そこで?務省は海軍省
水路部
に尋ねてみたところ、水路部からは1892年の海門による調査等の資料が?けられた。島の?在を確認した?務省は、沖??にラサ島を沖??
島尻郡
に編入する手?きを行いたいが意見を聞きたいとの照?文を送付した。?務省からの照?文に?し、沖??知事
奈良原繁
は「沖??の管轄として島尻郡に編入すべきである」と回答した
[52]
。
1900年9月11日、?務大臣の
西??道
は、中村十作による借用願いが提出された所?未決定の島であるラサ島の所?を決定すべきであるとして、正式に日本領として沖??島尻郡に編入し、島名を「沖大東島」とする案件を閣議に諮った。西?の提案は了承され、新たに沖大東島と名付けられた島は沖??島尻郡に?することが閣議決定された
[53]
。閣議決定を受けて西??務大臣は沖??に訓令を?し、それを受けて?は10月17日、沖大東島を正式に沖??島尻郡に編入する告示を行った
[53]
。
なお、沖大東島の日本領編入のきっかけとなった中村十作の借用願いは返?扱いとなったため、借用は行われなかった
[54]
。
奈良原?知事の視察
[
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]
奈良原繁
1903年、沖??土地整理事務局はこれまで不正確であった大東諸島の形?、面積を?測することになった
[55]
。6月15日、沖??土地整理事務局の長官である?知事奈良原繁自ら調査?を率い、島尻
郡長
、事務官、測量員、漁業?係の視察者らが
那覇港
から大東諸島へと向かった
[56]
。
6月17日朝、沖大東島沖に到着し、調査員は艀に?って沖大東島に上陸した。島?の草地ではおびただしい?の海鳥が産卵し、雛を育てていたという。11時から測量を行い、午後3時半には測量を終え、撤?作業の後、午後7時には沖大東島を離れた
[57]
。
測量の結果、島の面積は北大東島の約12分の1に過ぎないとした。北西部が最も標高が高く、そこから北東方向と南東方向に丘陵地が延びていて、その間は比較的平坦になっていた。また海岸部は全て?崖となっていて、海岸線にはサンゴ礁が?達していた
[58]
。
リン?石?山時代
[
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]
リン?山が操業していた1938年頃の沖大東島全景。
日本領編入後の沖大東島はリン?山として開?が始められて?展し、一企業による??、統治が行われた。?前期は大東諸島の南大東島、北大東島とともに町村制は施行されず、沖??からは??や??の??事務に?わる吏員が派遣された。また1927年に衆議院議員の選??は?えられたものの、?前は沖??議?議員の選??は無かった
[59]
。
水谷新六と玉置半右衛門の開?願い
[
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]
沖大東島が正式に日本領に編入された後、南鳥島の開?事業を行っていた
水谷新六
が沖??に開?願いを提出し、1901年5月11日に認可が下りた
[60]
。水谷は南鳥島で鳥類の捕獲事業を行っていたが、?獲によって鳥類は激減していて撤退を考え始めていた
[61]
。1901年9月、水谷は羽毛採取を目的として沖大東島へ向かったものの、船が台?、フィリピン方面に漂流してしまい、結局沖大東島に?り着けずに?還した
[49]
[53]
。
開?願いは?年間開?に着手しない場合取り消されることになっており、水谷の場合も1903年6月6日に認可が取り消された
[60]
。1902年頃には、1893年頃に沖大東島を?見して借地?を得ているとする人物が、資金と人材を集めようとした詐欺事件が起きている
[62]
。1903年8月には?浜市の木村萬四?という人物が沖大東島と北大東島で開墾と牧畜業を行いたいと、25年間の?島の開??を申請したとの新聞報道がなされた
[63]
。
1906年、
玉置半右衛門
が開墾と羽毛採取の目的で沖大東島の15年間の開??を取得した
[64]
[65]
。玉置は1899年10月に南大東島、北大東島?島の開??を取得していた
[60]
。1906年?時、南大東島の開墾にかかり切りの?況で、北大東島はほとんど手つかずのままであった。つまり?際問題として開??取得時の玉置には沖大東島の本格開?に着手する余裕は無かった
[66]
。
それでも玉置は開??を取得した後、沖大東島の調査のために調査船を派遣した。調査船には水谷新六の甥が水夫として?船していた。後述のような事情から水谷の甥は水谷新六から沖大東島の岩石や土砂を持って?るように依?を受けていた
[67]
。
ラサ島?業所操業まで
[
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]
ラサ島?業所を設立した恒藤規隆
水谷新六はリン資源開?、確保をライフワ?クとしていた
恒藤規隆
から沖大東島の岩石や土砂の入手を依?されていた
[68]
[69]
。恒藤はリン資源?見を目指して全?各地を調査していた。その中で1902年に部下を南鳥島に派遣して、高品位の
グアノ
を?見していた
[70]
。
南鳥島で鳥類の捕獲事業を行っていた水谷新六は、グアノの?見後、グアノ採掘へと事業?換する。採掘されたグアノは全?肥料取次所で肥料として製造販?した
[71]
[72]
。全?肥料取次所で技術指導を行っていたのが恒藤であった
[73]
。南鳥島でのグアノ?見、全?肥料取次所での肥料製造などを通じて恒藤は水谷新六と知り合った。南鳥島でのグアノ?見以後、南方の島?でのリン資源探査に意欲を高めていた恒藤は、水谷が南方の島?でしばしば鳥類の捕獲を行っていることを知り、捕鳥のついでに岩石を持って?るよう依?していた
[74]
。中でも?い興味を持ったのが沖大東島であった。水谷から沖大東島の話を聞くと、機?があったら岩石や土砂を持ち?って?るように?んでいた
[75]
。
水谷の甥は
股引
に沖大東島の石を入れて持ち?った。恒藤は沖大東島の石を一目見てリン?石であると判?した
[67]
。ラサ島でのリン?石?見後、恒藤の他、肥料商の
九鬼紋七
、沖大東島の開??を握っていた玉置半右衛門、そして水谷新六が?業?を主張した
[76]
。さらに1909年には
東沙諸島
の開?から撤退した
西?吉治
が沖大東島開?に?り出そうと?策するなど泥沼の?いとなった
[77]
。
そのような中で恒藤は1907年8月に沖大東島へリン?石の資源調査?を派遣し、1910年10月には日本産業商?を設立して理事長に就任する
[78]
。そして日本産業商?設立直後の11月には第二回の資源調査隊を派遣した
[79]
。
??での?利問題が解決しない中、沖大東島のリン資源に外?資本が食指を伸ばしだした。外?を背景に恒藤は?利獲得に奔走し、1911年初頭に沖大東島の開??の掌握に成功する。2月28日にはラサ島燐?合資?社を設立して社長に就任する
[80]
。社長就任後の4月、恒藤は自らが陣頭指揮を執って沖大東島に第三回の資源探査を行った
[81]
。探査の結果、予想を上回る有望なリン?石?床を確認したため、5月1日にラサ島?業所を創業した
[82]
。
ラサ島?業所の盛衰
[
編集
]
ビロウ森の伐採。
ラサ島?業所の操業開始後、??な困難が立ちはだかった。まず?山本?の開?とともに、孤島である沖大東島で?山??を進め?石を輸送するために?橋の建設を進めたものの、8月から9月に台風が襲?してほとんどの建設?み設備が破?された。また??者たちは慣れない?熱?の?候と台風被害によってその多くが離島を希望するに至り、現場の判?で??者たちの離島を認めざるを得なかった
[83]
。結局1912年2月からは沖??で??者の募集を開始し、沖大東島では沖??出身の??者が主力になっていく
[84]
。
台風の被害からの復?が終わり、1911年末からリン?石の輸送が始まったものの、肥料?社各社が沖大東島のリン?石の不買同盟を結成したため、?石は?れなかった。この問題は社長恒藤の決?で自社で沖大東島産のリン?石を原料とした肥料製造を開始したことによって突破口が開かれ、?石が?れるようになった
[85]
[86]
。そして1913年5月にはラサ島燐?株式?社が設立された
[87]
。
株式?社化の後、??な困難が立ちはだかりながらもリン?石の産出量は?大していった
[88]
。まず大きな課題となったのは水の問題であり、その他、台風による船舶の遭難、腸チフスの流行、そして??者が暴動寸前の不??態になるなど??問題も?生した
[89]
[90]
。
1916年3月には台風襲?にも耐えられるコンクリ?ト製の突堤が完成した。島?には倉庫、?電所、診療所、宿?などの施設整備も進んだ。また1915年6月には無線電信局が開局されて外部との情報のやりとりが可能となり、同年、中央?象台から?象機器の貸?を受けて?象?測も始められた
[91]
。
ラサ島?業所事務所。
1914年の
第一次世界大?
開?後、船舶不足によってリン?石の輸入が?るようになった。その上、空前の好景?となって肥料の?り上げ自?も好調で、沖大東島のリン?石は?産されていった
[92]
[93]
。1918年にはラサ島?業所は18万トンあまりのリン?石を採掘し、?山??者も約2000名と最盛期を迎えた
[92]
[91]
。面積1平方キロメ?トルあまりの?い沖大東島に約2000名の?山??者たちが生活し、?山??に?事する?況は、長崎?の
端島
と同?の海上に浮かぶ一つの?業空間であった
[94]
。
地方自治が敷かれなかった沖大東島は、ラサ島燐?株式?社やその後進企業の運?下に置かれた。?校、病院、船便、通信、郵便といった業務は企業が?っていて、??面も?社が?行する「物品交換券」が流通するなど?社のコントロ?ル下に置かれた。治安を守る巡査も?社側からの依?を受けて那覇署から
請願巡査
が派遣されていた。島で?く??者たちは??、??を納め、男子には?兵もあったが、地方自治が行われていなかったため沖大東島に?入の手?き自?が出?ず、全ての島民は出稼ぎ者扱いであった
[95]
。
第一次世界大?後の?後不況の影響で、肥料の消費は減退して?格も暴落する。その結果、ラサ島?業所は生産?制の縮小を余儀なくされる
[96]
。その後大正末期には地下に新たな有望なリン?石?床が?見され、生産高もいったんは盛り返す
[97]
。しかし不況の??による?社の??難はより?しさを?していき、その上、採掘?件が良い?石が減少したため、1928年末には休山となった
[98]
[99]
。
その後、?時?制が?化されていく中で日本??は長い不況から?していく。しかも?際?係の緊張が高まってリン?石の輸入に不安材料が出てきた。そのような情勢下で1933年、ラサ島?業所は操業を再開する
[100]
[101]
。再開後のラサ島?業所は、リン?石の輸入が困難となっていく中で
農林水産省
から?産を?く要請されるようになり、重要産業にも指定されて物資の供給や人材の確保において優遇措置が講じられた
[102]
。なおラサ島?業所の操業再開後の1937年、沖大東島は3748円で
ラサ工業
に?い下げられている
[注? 2]
[106]
。
しかし優遇措置を受けていたとはいえ、?時下の人員不足は深刻でリン?石採掘に必要な人員を?えるのは無理であった
[107]
。しかも肝心のリン?石の品位も低下していった
[101]
。その上、?況の?化につれて海上輸送が困難となっていった
[108]
。それでも1938年から1944年にかけて、ラサ島?業所は日本領?トップの約32万トンのリン?石を採掘した
[108]
。
ラサ島守備隊
[
編集
]
1940年に開設された中央?象台沖大東測候所。
1935年9月から1938年4月まで、海軍水路部の移動?測班が南大東島で?象?測を行った。その結果、大東諸島での?象?測の重要性が認められて、1938年には南大東島と沖大東島に?象?測所の新設が決定された
[109]
。1940年1月、中央?象台が管轄する沖大東測候所が開設された。1942年8月には海軍の望?が建設され、海軍軍人8名と?測員9名が常駐するようになる
[110]
。その後沖大東島の海軍兵力として1944年11月には見張要員29名と他の任務を?う2名の計31名が新たに?島した
[111]
。
大本?
は大東諸島を軍事的要衝と判?して防衛?制の?化を?った
[112]
。1944年3月24日、大本?は第85兵站警備隊を
?兵第36連隊
に編入の上、大東諸島への展開を命じた。南大東島には?兵第36連隊の連隊本部と第1、第3大隊、大東島支隊。北大東島には第2大隊。そして沖大東島には第4中隊が配備されることになった
[113]
[114]
。
1944年2月25日、沖大東島はアメリカ軍による艦砲射?の攻?を受けた。4月16日には荷役作業中の船が?水艦による攻?を受け、ほぼ全?組員が死亡する。そのような緊迫した情勢下、4月26日に陸軍のラサ島守備隊が上陸した
[110]
。
進駐してきたラサ島守備隊は、ラサ島?業所の全面的なバックアップのもとで?固な陣地を造り上げていった
[115]
[116]
。9月29日には初の空襲を受け、危?性が高まる中で、4月以降始まっていたラサ島?業所の?業員の順次退島に拍車がかかることになった
[110]
。
リン?石を採掘するラサ島?業所は食糧?産の鍵であり、全面撤退の決定はなかなか下りなかった。しかしラサ島のリン?石は品位が低下していて外?産の優良な?石と混ぜなければ利用できず、しかも海上輸送が困難となったために島?には採掘された?石が貯まってこれ以上貯?が出?ない?況となっており、結局1944年末に全面撤退の決定が下りた
[117]
。1945年1月22日、ラサ島?業所の?業員は全員沖大東島を離島して、ラサ島?業所は閉山となった
[118]
。
ラサ島?業所の閉鎖後、アメリカ軍は艦砲射?や空襲を加えてきた
[119]
[120]
。3月11日には補給船が?島したが、その補給船が最後となり、終?後まで補給は完全に絶たれた
[121]
。補給が?たれた後、ラサ島守備隊はサツマイモの栽培や魚を獲るなどして持久作?を取ることになった
[122]
。
その後も米軍による空襲は??的に?けられた
[123]
。米軍が投下した不??を海中で爆破して魚を?絶させる漁は、守備隊員たちから「
トル?マン
給?」と呼ばれるようになった
[124]
。補給が?たれる中、何とか持久作?を?けてきた守備隊であったが、8月頃には
脚?
患者が?え始めていた
[125]
。
8月15日の終?後、25日になって正式な降伏命令がラサ島守備隊のもとに?けられた
[126]
。10月12日には米軍が沖大東島に上陸し、武?解除、そして10月14日にはラサ島守備隊は撤?した。ラサ島守備隊員の?死者は7名であった
[127]
。撤?後、沖大東島はラサ島?業所の操業開始以前の無人島に?った
[128]
。
?後の沖大東島
[
編集
]
?後、沖?を統治した米軍軍政は、肥料となるリン?石を産出する沖大東島、北大東島を擁する大東諸島に着目し、「沖?の?庫」の筆頭に位置付けていた。1946年6月、米軍軍政?局は大東諸島に沖大東島、北大東島のリン?石調査を名目とした調査?を派遣した
[129]
。
リン?石の調査が目的とされた調査?であったが、?際には大東諸島の政治行政、??面の多岐に渡っての調査を行った。この調査中の1946年6月12日、沖?民政府の指示により大東諸島に村制が施行された
[129]
。大東諸島の村制施行に伴って沖大東島は北大東村に?することになった。なぜ北大東村に?することになったかについては資料が?っていないが、地理的な?点からではなく産業面、すなわちリン?石の産地である北大東島、沖大東島とも、リン?石資源再開?を行うことを考慮したものと推測されている
[130]
[131]
[132]
。なお、
沖?返還
後の1973年8月18日、沖大東島は北大東村字ラサと字の?域設定が行われた
[131]
。
1950年の
朝鮮??
開?後、?くず需要が高まる中で沖大東島に、放棄されたラサ島?業所の機械類やレ?ル、そしてラサ島守備隊が?したスクラップ類を回?するため、スクラップ業者がやって?るようになった。1954年にはスクラップ回?のために沖大東島に向かった12名の??者が、派遣先の??不振のため迎えの船を出せずに置き去りにされた事件が起きている
[133]
[134]
。
沖大東島射爆場
[
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]
1956年4月16日、沖大東島はアメリカ海軍の艦?地射爆?訓練及び空?地射爆?訓練を行う
沖大東島射爆?場
となった。利用?件としては訓練は月15日以?、年間180日以?とされている。1972年の沖?返還後も基地利用は??している
[135]
。なお沖?返還後、沖大東島はいったん?有地とされたが、1937年にラサ工業に?い下げられた事?が確認されたため、1973年10月12日に民有地に訂正されている
[136]
。ラサ工業には基地使用のための借地料が支?われているが、1984年度の借地料は3億3000万円であった
[137]
。その後借地料は公表されないようになったが、1991年の北大東村?局者の推定によれば約5億円である
[138]
。
1979年1月、ラサ工業株式?社はラサ島をリン?山として再開?するとともに、採掘終了後は石油備蓄基地とする計?を策定する。同年7月、
?島大?
の沖村雄二?授を?長として、ラサ工業と防衛施設?合同でラサ島のリン?石調査が?施された。調査の結果、リン?石の埋?量は約350万トンと推定された
[18]
[139]
。そのような中でラサ工業とラサ島が?する
北大東村
は、射爆場としての契約解除とラサ工業側への返還を求めたが、
日本?政府
は基地契約解除と返還に同意せず?現しなかった
[140]
。沖大東島は
アメリカ軍
の射爆場として、一般人の立ち入りが禁止されている?況が?いている
[141]
。
1989年5月、北大東村、
南大東村
共同で沖大東島の現況ならびに漁業調査が行われ、?村の職員、
沖??議?
議員3名、漁業?係者、
琉球大?
?授ら、66名が?加した。島?に海鳥は見られず、ラサ島?業所時代の遺構としてはコンクリ?ト製の?橋、貯水槽の?骸、そしてわずかにトロッコの敷設跡が?っている程度で、射爆場の爆?による穴や?莢、そして不??も見られた。その一方、島の周?は魚影が豊富で豊かな水産資源に?まれていることも把握された
[142]
[143]
。
2012年 地??海?に記載される名?として、沖大東島南西部沖合の小島(
岩礁
)が
南西小島
と命名された
[144]
[145]
。
2015年10月6日、日米?政府は
日米合同委員?
において米軍が
射爆?場
として使用している沖大東島とその周?水域?空域を
自衛隊
が恒常的に共同使用することに合意した。
?地艦砲射?
のほか、
着上陸
訓練の模擬訓練なども?討されている。
[146]
出身者
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脚注
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]
注?
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]
- ^
ラサ島の?みについては、1915年6月4日付官報第851?p.98において、「ラサジマ」とのルビが振られていることから「ラサじま」とする
[1]
- ^
1913年に?足したラサ島燐?株式?社は、1934年3月に「ラサ工業株式?社」に社名を?更した
[103]
。その後?生産業との合?によって1941年9月には「?生産業株式?社」、1944年6月には「東??工株式?社」と社名を?更する
[104]
。?後、1949年3月に「ラサ工業株式?社」の社名に?った
[105]
。
出典
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]
?考文?
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]
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?連項目
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外部リンク
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