永雄 策?
(ながお さくろう、
1884年
(
明治
17年)
1月28日
-
1960年
(
昭和
35年)
2月10日
)は、
日本
の
???者
。
東???調査局
主事、
拓殖大?
?授、
近畿大?
?授、
富士短期大?
大世?院?授。?門は
植民政策?
。
東京帝?大?
???博士
。
主に
大正期
から
?後復興期
にかけて活動を展開した。
京都府
竹野郡
の名士の家に生まれ、
第五高等?校
を?て
東京帝?大?法科大?
を卒業。出版社への短期間の勤務を?み、大?時代の?で
??
の
東???調査局
に入ると、後に主事となりこれを運?する側に立った。この際、高校時代から?わりのあった
大川周明
を採用させたことが、結果として?史的に重要な意義を持つ。
それからは審査役の身分で
大連
の??本社へ渡り、?地の?育機?において植民政策の講師を務める。こうして?育の道を?み始め、?年後に「植民地鐵道の世界經濟的及世界政策的?究乃至植民地?道の外的?究」を?表して東京帝?大?より???博士の?位を取得。?門分野と?深い拓殖大?の?授へと?身を果たし、?問として?達段階にあった植民政策?の隆興に?わった。
東京帝?大????部
の?紛により、植民政策の講座を??していた
矢?原忠雄
が?職した際は、この後を襲って母校の?壇に立った。しかし、立て?けに起きた
平賀??
では
河合?治?
を擁護する側に立ったため、1年あまりで講師の職を?すこととなる。間もなく
第二次世界大?
に突入すると、自らの信念に立って
大東?共??
の構想を推し進めた。
?後は永雄の活動が
GHQ
から問題視され、早?に
公職追放
の?象となる。これを受けて大?を?職し、5年近くにわたって不遇をかこったが、それでも意欲を失うことはなく、多くの時間が生まれたことを利用して
フィヒテ
の著作である『ドイツ?民に告ぐ』の?注作業を始めた。そしてこれを
法政大?出版局
、次いで
講談社
から刊行し、10年がかりで?究の成果を生み出した。富士短期大?にて?授へ就任し、追放が解除されると、
立正大?
の講師や近畿大?の?授に招かれた。
個人的な信?としては、?後社?が
日本?憲法
の下にあることに?する憂?の至情が募り、日本憲法確立同盟を結成。
保守派
の論客としての活動を始め、
紀元節
の復活などを主張した。だが、その思いが達成されることはないまま、?年後に76年の生涯を閉じた。
生涯
[
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]
?年期まで
[
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]
1884年
(
明治
17年)
1月28日
、永雄文右衛門?すゑ子(?姓?多根)夫妻の三男として
京都府
に生まれる
。原籍を京都府
竹野郡
下宇川村
字中浜に置く
。
明治維新
前後の下宇川村は農業と漁業で生計を立てる者が多?を占めたが
、永雄家は?酒を世業とし、この地域の豪商として知られていた
。父の文右衛門は二度にわたって村長を務めている
。
1898年
(明治31年)、
京都市
の英漢塾へ入り、
1900年
(明治33年)には
大阪府第三中?校
に編入?した
[注? 1]
。
1903年
(明治36年)、
熊本?
の
第五高等?校
へ進む
。同校には1つ年下の弟である節?も通い、夏季休暇中は?年?省して
宮津?
の近くで過ごした
。同級生には
大川周明
、
高田保馬
、
松村武雄
、
赤松智城
、
?原貞雄
らがいた
。とりわけ大川とは懇意であり、
1906年
(明治39年)に彼の主導で行われた五高ストライキ事件へ加わったこともある
。
1907年
(明治40年)7月、第五高等?校を卒業し、それから間もなく
東京帝?大?法科大?
政治?科に入?
。
東???調査局時代
[
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]
1911年
(明治44年)7月に同大?を卒業し、
1913年
(
大正
2年)4月、
東京???誌社
に入社する
[注? 2]
。同年秋頃、母校の恩師である
高野岩三?
から
??
の
東???調査局
を主宰していた
松岡均平
に紹介され、局員に採用された
。
1914年
(大正3年)10月に東京???誌社を?職し、
1915年
(大正4年)4月から??の?託として調査局への勤務を始めた
[注? 3]
。?初の調査局にはケルン商科大??授?チ?ズを始め、後に
クルップ社
の社長や駐米大使となるウイ?ドフェルトらのドイツ人顧問が在籍していたが、永雄が?き始めたのはそれまで所?していた彼らが?した時期にあたり、バウチフェルトというドイツ人の他には、?か月前に入職したばかりの
上海市
顧問である石井成一くらいしか新進の局員がいなかった
。永雄によれば、?時の???裁?
中村雄次?
は、調査局を無用視していたという
。松岡はこれを??させることを目的にして、永雄を採用したようである
。永雄は、五高以?の知己である大川を松岡に推薦し、調査局へと導いた
。
1916年
(大正5年)より、同社の正式な職員となった
。同年、新たな
農商務大臣
に
後藤新平
の?同者である
仲小路廉
が就任した
。後藤は??の初代?裁を務めていた際に調査局を設立する構想を打ち出しており、この考えは退任後すぐに?現された
。そのため、仲小路は同?に農商務省?に臨時産業調査局を設置し、永雄と大川が派遣されて同局資料課に入った
。またこの年には、
ロックフェラ?財?
から
添田壽一
などの名の知れた?者へ依?された「?州大?後の日本の??事情調査報告」の原稿を書き上げた
。
1917年
(大正6年)5月、農商務省臨時産業調査局の?託となり、一時的に??を?職
。
1919年
(大正8年)、前年に
原?閣
が成立したことで???裁に
野村龍太?
が再任されたが、これを機に8月付で大川と共に農商務省臨時産業調査局を?し、??東???調査局へ復職した
。二人の出向時は
第四高等?校
のドイツ語?官を務めていた石川?雄が調査局で?いていたが、復職と前後して
大連
本社の調査課長へ?出した
。それに伴い、同年10月から
1923年
(大正12年)4月まで調査局主事兼資料課長となり、大川は編輯課長に就任した
[注? 4]
。翌
1920年
(大正9年)1月には調査局長へとのぼった
。同年、
日本銀行
調査局長?
田中?三?
および
神?高等商業?校
?授?
瀧谷善一
と協議の上、全???調査機?連合?を設立し、東???調査局がその理事長機?を務めることとなった
。
1922年
(大正11年)、「?米諸?に於ける??調査機?の組織?究及び殖民政策の?究」を目的に、ヨ?ロッパへの出張を命じられる
。これを受けて
5月8日
に日本を出?し、6月に
フランス
の
マルセイユ
に到着
。2週間あまり
パリ
に?在した後、
ドイツ
の
ベルリン
へ向かった
。ここに2年ほど居住しながら他の大陸諸?や
イギリス
へと足を運び、
1924年
(大正13年)5月に
アメリカ合衆?
へ渡って視察を?け、天洋丸に?船して
7月19日
に
?浜市
へと??した
。この留?で得た知見を全???調査機?連合?東京支部?で講演するなどし
、同年中に調査局の業務へ復?
。
1926年
(大正15年)7月、??の大連本社に審査役として?勤する
。そのため
?州
へ渡ることとなったが、この間も余暇を割いて?究を?け、?位論文の執筆に取り組んだ
。
1928年
(昭和3年)7月、これを完成させて
東京帝?大????部
に提出し、
?授?
の審査を待つこととなる
。
1929年
(
昭和
4年)4月からは?州法政?院講師として植民政策の講義を受け持った
。
1930年
(昭和5年)6月、その任を解かれて??待命として扱われる
。同年
5月21日
、2年前から審査を受けていた?位論文が通過し、
8月1日
に
?位記
の授?へと至った
。こうして?表された「植民地鐵道の世界經濟的及世界政策的?究乃至植民地?道の外的?究」により、東京帝?大?
???博士
の?位を得た
[15]
。
12月15日
、『植民地鐵道の世界經濟的及世界政策的?究』と改題の上、
?位令
第7?に?って
日本評論社
より公刊された
[注? 5]
。
拓殖大?時代
[
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]
1931年
(昭和6年)4月、
拓殖大?
講師になり、「植民史」の講義を??する
。この?身により、同年6月に長年勤めた??を退職した
。
1933年
(昭和8年)4月、同大??授に昇任し、?せて「?際??論」も受け持った
。
1934年
(昭和9年)、
?州?
大同?院
において「日??係の根本問題」を講義した
。
1935年
(昭和10年)には、4月頃に拓殖大??細??究?の?長、10月に?州移住協?の理事へそれぞれ就任
。
1936年
(昭和11年)6月、
陸軍?理?校
の?託として植民政策を講じる
。
1937年
(昭和12年)4月からは
宇都宮高等農林?校
講師を兼務する
[注? 6]
。同年5月、?州移住協?常務理事へ昇格して?蒙開拓と移住の事業に力を注ぎ
[注? 7]
、
11月9日
に至って拓殖大??州農業移民?究?を?足させ自ら?長に就いた
。この??の顧問には、拓殖大??務理事?
大?公望
、同?授??山楚一を据え、?外からは
?蒙開拓?少年義勇軍
?
日本?民高等?校
校長の
加藤完治
や
京都帝?大?
?授の橋本傳左衛門を招いた
。こうして?行された??式には、大?の全?生が?加したらしい
。この行事を?える
大?新聞
の記事リ?ド文には、「多年の宿望、必須の農?部建設の第一?とも言うべき本?」と記されている
。また、同?究?における講義の記?と寄稿を編集して
1938年
(昭和13年)9月に
地人書館
より出版した『滿洲農業移民十講』は、直後の10月に再刊されている
。これは、植民政策の分野が高まりを見せていた影響で、?材として購求されたという分析がある
。
1937年(昭和12年)12月、東京帝?大????部の?授として植民政策の講義を行っていた
矢?原忠雄
が、『
中央公論
』に寄せた論文を?端とする
矢?原事件
によって依願免官を余儀なくされた。この結果欠員が生じたため、急遽永雄が代役の講師を委?される
。非常勤ながら翌1938年度にこれを引き?き務めたものの
、その後も
治安維持法
違反の疑いで??された
大?兵衛
や、自由主義思想家を自認していたが故に??外から攻?を受けた
河合?治?
らの?分問題が?生し、?部?の混?は一向に?まる?配を見せなかった
。このように?授?が自治能力を失っている中で、同年末に
東大?長
へ選出された
平賀?
は
1939年
(昭和14年)の年明け早?に?動への介入を決める
。それは
文官分限令
第11?第1項第4?に基づき、派閥?立の?係にあった河合と
土方成美
の??授を休職させるというものだったが
、あくまで「異例中ノ異例」として認められた措置であり、それぞれの側に?した人?の反?は大きかった(
平賀??
)
。
文部大臣
への上申がなされて間もなく、?派合わせて13名の?官と1名の非常勤講師が?意を表明する事態に?展し、永雄は河合の側へ同調する形でこの中に名を連ねた
。これは?部長
舞出長五?
の??に不?を抱いたためとされ、「辭職理由の心覺え書」と題した文章を知人へ送付し、その?容は新聞にも?載された
[26]
。のち、
2月25日
になって永雄は東京帝?大?から解?され、1年あまりで母校の?壇を去ることとなった
。
同年4月、拓殖大?
?門部
の?授を兼任し、?門部長に任命された
。7月、同大?弁論部長として?生を引率し、
福島?
、
山形?
、
秋田?
への弁論旅行に立つ
。
1940年
(昭和15年)5月、同大??究所の所員を兼務
。
1941年
(昭和16年)5月、?州移住協?の常務理事を任期?了で退任し、理事となった
[注? 8]
。
1942年
(昭和17年)6月に拓殖大??究所第一部長へ昇格し、11月から
1946年
(昭和21年)3月まで大?の評議員を務めた
。
1944年
(昭和19年)5月、
愛鷹山
拓南訓練所で「大?家創造と植民政策」および「植民と移民」について講義した
。
?後
[
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]
1945年
(昭和20年)、日本が
第二次世界大?
に敗れたことで、??協力者とされた人?の
公職追放
が行われることになる。永雄は?州移住協?が刊行していた月刊誌『開拓』の編集責任者だったため、こうした??からG項「その他の軍?主義者
[29]
」に該?し、12月を以て追放?象に指定された
。
1946年
(昭和21年)4月、拓殖大?と拓殖?門?校の?授を兼任するが、すぐ5月に「終?後の?情に鑑み」てこれらを?職した
[注? 9]
。職を失い、基本的には自宅で閑居していたようだが
、
1947年
(昭和22年)の9月から10月にかけて漁業地の開拓準備のため、
北海道
へ視察に出向いたことが確認できる
。
追放中の
1949年
(昭和24年)7月初旬、
ヨハン?ゴットリ?プ?フィヒテ
の代表的な著作である『ドイツ?民に告ぐ』の??作業に着手した
。同書は
1807年
から翌
1808年
にかけて、
ナポレオン
占領下のベルリンでフィヒテが?週日曜日に行った講演の記?であり、ドイツ?民文化の優秀さを?調しつつ、それを全?的に?めることがドイツを再興する上で重要だと述べた?容となっていて、ドイツ?民に大きな影響を?えた
[32]
。
1950年
(昭和25年)
7月31日
、永雄は1年をかけておおよその?出を終え、
1953年
(昭和28年)
5月10日
になってようやく出版に至った
。この作業にあたっては、永雄と入れ替わる形で1931年(昭和6年)に調査局へ入り、後に三菱???究所常務理事となる佐倉重夫の助言を得たという
。また、伊藤武雄や大?兵衛の協力を仰ぎ、
法政大?出版局
から?行する運びとなったらしい
。ただ永雄は、改訂の余地があると考え、折を見て?討を進めた
。
1951年
(昭和26年)4月に
富士短期大?
が創立されると、追放中の身ながら?授に就任し、??政策を講じた
。そして6月に追放解除となるや、
1952年
(昭和27年)4月に
立正大?
講師、
10月15日
に
近畿大?
商??部
?授へ招聘される
[36]
。特に後者は死去するまで在職し、移植民論を始め、??政策原理や貿易政策および世界???を??していた
。なお、この講義は?月一回だった
。
1953年
(昭和28年)4月、富士短期大?大世?院?授となる
。
1954年8?9月、「フィヒテ?逸國民に告ぐと日本國憲法の廢止」と銘打った論文を?誌『桃李』41?42?に?載
。これは『駒?哲?』の第1?と第2?にも分けて?載されたが
[38]
、この頃から講演活動を熱心に行う
。その一例として、
1955年
(昭和30年)
1月20日
から
2月13日
にかけて、自宅に東京大?の?生など20名を招いて『ドイツ?民に告ぐ』の講義を行ったことが?げられる
。3月に入り、
駒澤大?
?究?誌の顧問へ就いた
。そして
日本?憲法
下の社?に?するかねてよりの憂?慨世の念が?じ、日本憲法確立同盟の設立を構想する
。
5月4日
に趣意書を起草し、
5月21日
に
丸山鶴吉
、
池田?
、
大津敏男
、
菅原裕
、
村尾次?
、
三?信吾
、
長尾郡太
、
木下義介
、
井上孚?
らと協議に及んだ
。翌
1956年
(昭和31年)
4月7日
に至り、
虎ノ門
の共??館講堂で日本憲法確立同盟の結成大?を開催した
。こうして同??の?務理事となり、機?誌『?究彙報』を創刊して??に自ら執筆した論文を寄せた
。
1957年
(昭和32年)には
紀元節
復活運動を開始した
。
1958年
(昭和33年)7月、校正を?けていた『ドイツ?民に告ぐ』の「改譯?註解」版を
講談社
より上梓し、10年弱にわたったフィヒテの?究を成し遂げた
。しかし、ほぼ時を同じくして
直腸癌
に倒れ、
?立東京第二病院
に入院した
。開腹手術を受けて11月に退院し、再び?前通りの活動を展開する
。
1959年
(昭和34年)2月、「紀元節奉祝の原理」という論文を執筆し、直後に行われた憲法?布70周年記念?へ世話人の立場で顔を見せる
。この席で
神道
思想家の東京帝?大?名??授?
?克彦
に尋ね、
孔子
と
老子
の思想が同じだという自?に確信を得た(但し、?の?門は
法?
である)
。
1960年
(昭和35年)、
?岡?
への講演旅行を終えた後に病?が急?
。
2月10日
午前8時45分、
東京都
世田谷?
北?
の自宅において、
尿毒症
と
?出血
のため死去
[36]
。?76??。雄邦?から送られたばかりの
喜?
祝いの祝着を身につけて眠っていた
。
2月13日
に自宅で葬儀が?まれ
[36]
、一周忌を前にした翌
1961年
(昭和36年)
2月5日
、
豊島?
駒?
の
染井?園
に埋骨された
。また、故?の京都府
竹野郡
丹後町
(現
京丹後市
)墨吉の浦への分骨が行われた
。
業績?評?
[
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]
?論
[
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]
???者として
植民政策?
を?門に扱い
、その?術的な?展に大きく寄?した
。そもそも、日本における?問として植民政策が公に認識されるようになったのは、
1909年
(明治42年)
5月24日
の勅令第百四十一?によって「殖民政策講座」が
東京帝?大?法科大?
の?科へ追加されたことに求められる
。これは、
日?
?
日露
の???の結果として植民地を保有する?況となり、同分野が社?に必要とされたためである
。しかし、それが故に?系的に整理された?問とは言い難く、同講座の?任?授へ就任した
新渡??造
によって探究が進められた
。永雄はこの後を受けて、?系だっていなかった植民政策?の?、政策科?的な側面を積極的に?承しつつ?展させていったと評?される
。具?的には、博士?を取得した?位論文からも分かるように、??という?象から?自に構想を?げたものだった
。
しかし、長い?後社?において、永雄へ言及した例は?少ないのが?情でもある
。池田憲彦の分析では、
1978年
(昭和53年)1月から翌
1979年
(昭和54年)5月まで『
週刊朝日
』上で連載された『?????調査部』で
大川周明
を
東???調査局
へ入職させた人物として、僅かに引き合いに出された程度だという
。これだけでは永雄が?者として成し遂げた業績は確認できず、現在では忘れられた政策家?活動家だと述べられている
。その一方で、昭和史で決定的な位置を占めている大川と?んだ道は基本的に同質であり、永雄の世界政策的な認識などから、全く遜色ないどころかリアル?ポリティクスの把握においては、彼に優越していたとの考察を行っている
。?際、共に?員として
富士短期大?
へ勤務した
村尾次?
は次のように永雄のことを褒め?えている。
先生は?門とする植民政策に於いて卓越せる?究者であつたばかりでなく、?世?民に志深い?の?者であった。
?
村尾 1960
, p. 158
矢?原忠雄への批判
[
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]
永雄が?した?究業績は、同じく植民政策?を?門とした
矢?原忠雄
の??としばしば比較され、決定的な相違点を認められる
[45]
。矢?原は「植民、植民地、及び植民政策」を基本の用語に据え、どのように植民の事象を捉えるべきか明示しているが、特に植民地を「植民的活動の行わるる地域」と定義づけ、植民政策の主?は植民者とその母?たる社?群(本?)にあるとしている
。その上で、後者の主?は「?家たると公私??たるとを問わない」とも書いた
。一方の永雄はツエプフル
[
誰?
]
の「世界??的及び世界政策的自?をもつ?家の外部的行政地域」という植民地の定義に基づき、?自に植民地?道の要素を加えることで植民政策を論じた
。矢?原はツエプフルの主張に限界があると考えていたため、永雄はこうした解?を批判したのである
。
具?的には、矢?原が植民と移民の本質的?別を否定したことに?し、「何が故に植民という?念が最も基礎的であるのか。植民の行われる地が植民地であるのか。植民に?する政策が植民政策であるのかということについては、一言も?明していない」と反論し、これでは定義になっていないと?じた
。つまり、例えば相??の日本人が移住した
ハワイ
と
?州
はこの論理では植民政策上同じ地域となり、更には流民と植民も同一視されてしまいかねず、政策が何を意味するのか疑念が生じるという?である
。新渡??造もこの?念を明確に分けていたこともあり
、そのため永雄は、矢?原が植民を政策的に受け止めていないと見做すに至った
。こういった批判は、1944年(昭和19年)9月に
有斐閣
より刊行した『日本植民政策の動向』で舌鋒?く展開されたが、その背景には矢?原の?者然とした傍?的な態度を嫌ったことがあると言われる
。
?者の議論に大きな乖離が見られた理由として、それ以前の視座が全く異なっていた点が指摘されている
。池田は、日本?家という具?ではなく、抽象的な現象の普遍性を重視していた矢?原と、世界人ではなく日本人として?究を行うべきだと述べた永雄の差異に言及した
。そして、永雄が主張していた植民的な?展を促す?民的な自?というものを、矢?原が理解できなかったことに素因を求めている
。これは、「獲得したる植民地は、一日も速やかに之を喪失し得るに至らしむるのが、之が植民地に?する統治?運用の最高政策であると信ずる」というような永雄の記述に基づいた解?であり、新渡?も永雄も植民地を?奪?象とは考えていなかったと結論づけた
。だからこそ永雄は矢?原の??に反?し、「植民地に?する政策の否定者」と論難するに至ったのである
。
いずれにしても、新渡?の後任として
東京帝?大????部
(法?部より分離)で行われていた「殖民政策講座」の???授に就いた矢?原は、官?における植民政策?の?威的存在となっていった
。その講義をまとめて1926年(大正15年)6月に有斐閣より出された『植民及植民政策』の?容は、永雄が拓殖大?で行っていたそれとは大幅に異なる?述がなされており、定本として用いられていたのも事?と言える
。そうした?況は、矢?原の筆禍事件に伴う?職によって?動するが、同講座を引き?いだ人物が永雄だったことは、一種の因?めいた?過と呼べる
。矢?原は最後の講義にあたり、「?問本?の使命は?行家の?行に?する批判であり、常に現?政策に追?して
チンドン屋
を勤めることではない」と述べているが
、彼の?想などからは永雄がそのチンドン屋の典型に該?するという見方もある
。
人物
[
編集
]
人物評
[
編集
]
若年期から
岡田虎二?
へ師事し、その人柄に心?して一生涯「岡田先生」と仰ぎ、全く?わることがなかった
。それは遺稿集に??された「岡田虎二?先生の追憶」からも見ることができ、?えに基づいた丹田呼吸法によって集中力を養っていた
。加えて、?朝冷水浴を行って健康を維持していたとも述べられている
。また、芸術への造詣が非常に深く、この上なく愛していたと言われる
。そうした永雄の?子は、
村尾次?
が次のように回想している。
特に陶器は明代を尊び、彫刻では日本古?像に傾到〔
ママ
〕し、書は
?舟
を喜び、和歌は
万葉
をよく記憶していた。作歌は先生の最も自負するところであった。先生は日本の?統を限りなく尊敬し、?くがごとき憂?の情熱を?して?の日本をとり?さうとした。
?
村尾 1960
, pp. 158?159
この論評を示すかのように、永雄は村尾へ贈った自身の?注本『獨逸國民に告ぐ』に以下の三首を墨書しており、これらが遺詠として死去した年の『富士論叢』(永雄が?後に?授を務めた富士短期大?の
紀要
)に?載されている
。
- 「胸の火は 雪もて消ちつ ことわりを ことこまやかに 語りきかせむ」
- 「わが魂を 彼等の魂に うちつけて 火花いでよと うちみまもれる」
- 「追放の 日永のひまの 徒然に つづりつづけし ふみならなくに」
職場に視点を移すと、1920年(大正9年)に
東???調査局
へ入り、後年に
朝日新聞社
へ移って主筆?
?方竹虎
の下で副主筆となった
嘉治隆一
は、永雄が主事を務めていた時期の同局の雰??について、以下の通り書き記している。
永雄〔策?〕主事の自慢が二つあった。一つはこの調査局は大?の?究室よりも手?がよくて、而も、別にうるさい制約がないこと、?つて、思切つてよく勉?してほしい。もう一つは、この調査局には
岡上
〔守道〕、
佐野
?君もいるが、他方には
大川周明
氏一派の復古思想家もいる、いわば左右混交だが、思想は思想として、日常生活においては、お互に十分相手の立場を尊重しながら、喧?をしないのみならず、社務の遂行にあたつては十分に協力してほしいこと、こんな二つの点であった。
?
?場 2007
, p. 210
更に、ノンフィクション作家の
草柳大?
は、著作の一つである『?????調査部』で調査局に?れた際、大川周明を推薦した人物として永雄を取り上げている
。そして後の述?という形で「おれは?士なんだが、間違って?者になった」なる?言を紹介している
。これについて池田憲彦は、?時の列?諸?から侮られることのない?家として、近代日本をいかに構築するかを?問上の?然とした?心事項に据えていたことが、この?容に?がってくると考えている
。つまり、個人的な感傷を除いて事?認識に徹するという、課題への政策科?的な接近方法が永雄の基本的見地であり、
小日本主義
のようなものは現?離れした?言としか受け取れなかったのだろうとする
。しかし、こうした主張の根?そのものが公職追放の?象とされたのも事?だという
。
?後に
フィヒテ
の『ドイツ?民に告ぐ』を?出する作業へ?入した背景には、「ドイツ人とはドイツ語を話し解する人?」というフィヒテの主張への共感があった
。だからこそ、日本人も日本語によって思惟し、日本語的に行動するものだと考えた
。そして、日本語として全くこなれていない
日本?憲法
を放置していては、日本人が日本人でなくなると危?した
のが、永雄が憲法問題へ熱心に取り組んだ理由だとされる
。
妻に貞子を娶るが、1929年(昭和4年)
3月9日
に「二旬にも足らざるかりそめの病」のため、死別している
。前年に?位論文を書き上げて
東京帝?大????部
へ提出した際、これが通過した?には策?の母?すゑ子と貞子の母?つる子の?前に捧げようと話していたが、?際に?位を取得した時は策?一人となっていた
。このため、公刊された博士論文の前書きには、右の二名に加えて貞子にも捧げるものだという記載がある
。
大川周明との?わり
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]
大川周明
とは
第五高等?校
時代の同級生であり、?からぬ間柄にあった
。共に浪人した??を持ち、
東京帝?大?
では永雄が修業年限4年の法科、大川が同3年の文科に在籍していたが、大川が病?の影響で1年?れたため、1911年(明治44年)に?って卒業している
。キャリア的な側面で言っても、大川を編輯課長として
東???調査局
に入れることで世間に出す契機を作ったのは永雄だった
。
しかし、大川が
北一輝
との交流を通してその思想に染まっていったことで、次第に永雄の批判が向くようになる
。?後、大川の死から2年と?たずに?表した「
日本改造法案大綱
と大川周明博士」と題する論文においては、「一度親交あつた人のことを書く場合には??をはなつと誤解せらる恐れある」としながらも、「さればとて書かねば、史?は永遠に湮滅することになる」と?って議論を始めている
。この中で、
1921年
(大正10年)頃に大川が調査局で口癖のように語っていた主張を、「詩人的空想の夢遊病的?言としか、値ぶみせなかった。石井成一君や佐倉重夫君も私と同意見であつたと信ずる」、「詩人的空想の夢遊病的革命家大川君」などの表現で批判している
。池田憲彦はこの点について、大川と比べて現?の近代??史を知っていたが故に、北の述べる??政策が現?的には難しいものと見?いていたのだと評した
。
大川を調査局へ推薦したことにより、北の思想が軍人の間で?まる端?を開いた?緯について、同論文の中で「私が日本改造法案大綱の思想を愚劣視し、冷笑の態度をとつて居るうちに大事は進行してしまつた。私はいまに至つて私の責任の重大を痛感して居る」と振り返っている
。そして、日本改造法案大綱が流布する前は「世論に惑はず政治に拘はらず〔
ママ
〕
[注? 10]
」を旨とした
軍人勅諭
の原則がよく守られていたものの、??の雰??が一?してク?デタ?の動きが活?になってしまったと述べている
。つまり、永雄は?家機構の根幹が自己管理能力を喪失していたと考えたらしい
。
だが、池田は永雄による大川への批判はあたっていると認めつつも、北と大川の二人を中心に?史が展開していたかのような錯?を?える可能性を指摘する
。その上で、これは永雄の身近に大川がいたため、そうした視点から昭和史を見過ぎたことに起因するのではないかという考察を加えている
。
著作
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?位論文
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]
- 「植民地鐵道の世界經濟的及世界政策的?究乃至植民地?道の外的?究」、東京帝?大?〈博士?位論文〉[報告番?不明]、1930年8月1日、
NAID
500000494887
。
?著
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- 『歐米諸國經濟調査機關の施設及批判』
南滿洲?道株式會社
東亞經濟調査局
〈經濟資料第拾卷第拾壹號附?〉、1924年11月。
- 『植民地鐵道の世界經濟的及世界政策的?究』
日本評論社
、1930年12月。
- 『日本植民政策の動向』
有斐閣
、1944年9月。
- 永雄策?先生遺稿出版?編纂 編『日本人の肉眼』
講談社
、1961年5月。
共著
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]
編著
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]
- 永雄策? 編『滿洲農業移民十講』橋本傳左衛門、
加藤完治
、永雄策?監修、
地人書館
、1938年9月。
?書
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- アダム?スミス
『富國論』赤城正?〈アカギ叢書 98〉、1914年12月。
- フィヒテ
『獨逸國民に告ぐ』(飜譯?註解)
法政大?出版局
、1953年5月。
- フィヒテ『獨逸國民に告ぐ』(改譯?註解)講談社、1958年7月。
脚注
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]
注?
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- ^
松尾 2004は「大阪府立八尾中?
」、村尾 1960は「大阪府八尾中?
」とする。しかし、後身校である
大阪府立八尾高等?校
の沿革によると、永雄が編入?した際は「大阪府第三中?校」であり、在?中に「大阪府八尾中?校」、次いで「大阪府立八尾中?校」へと改?している
[6]
。
- ^
東京???誌社への入社は
拓殖大?
人事課所?の履?書では1913年、永雄策?『日本人の肉眼』(
講談社
、1961年5月)では1911年となっているが、松尾( 2004)では?者を提示した上で1913年とする見解を採用している
。
- ^
??への入社は
拓殖大?
人事課所?の履?書では1915年、永雄策?『日本人の肉眼』(
講談社
、1961年5月)では1913年となっているが、松尾 (2004)では?者を提示した上で1915年とする見解を採用している
。
- ^
調査局主事兼資料課長への就任は
拓殖大?
人事課所?の履?書では10月、永雄策?『日本人の肉眼』(
講談社
、1961年5月)では11月となっているが、松尾 2004では?者を提示した上で10月とする見解を採用している
。
- ^
これについては、題名が長大に過ぎることが理由であるが、事前に?部の許可を得ている
。
- ^
宇都宮高等農林?校講師への就任は
拓殖大?
人事課所?の履?書では1937年、永雄策?『日本人の肉眼』(
講談社
、1961年5月)では1934年となっているが、松尾 2004では?者を提示した上で1937年とする見解を採用している
。
- ^
?州移住協?常務理事への就任は
拓殖大?
人事課所?の履?書では5月、永雄策?『日本人の肉眼』(
講談社
、1961年5月)では3月となっているが、松尾( 2004)では?者を提示した上で5月とする見解を採用している
。
- ^
?州移住協?理事への就任は
拓殖大?
人事課所?の履?書では5月、永雄策?『日本人の肉眼』(
講談社
、1961年5月)では3月となっているが、松尾( 2004)では?者を提示した上で5月とする見解を採用している
。
- ^
拓殖大?の?職は
拓殖大?
人事課所?の履?書では1946年5月、永雄策?『日本人の肉眼』(
講談社
、1961年5月)では1945年9月となっているが、松尾(2004)では?者を提示した上で1946年5月とする見解を採用している
。池田は、これを公職追放の受け止め方に起因するものと推測しつつ、あくまで大?側に?された記?が正しかろうと述べている
。
- ^
勅諭の原文とは送り?名などで若干の差異が見られるが、ここでは永雄の文章をそのまま記載した。
出典
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?考文?
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