毛利 秀就
(もうり ひでなり)は、
江?時代
前期の
大名
。
毛利氏
15代?主。
長州藩
初代藩主。
毛利輝元
の長男
。母は
?玉元良
の娘?
二の丸殿
(?泰院)
。
毛利就隆
の兄
。正室は
結城秀康
の娘?
喜佐?
(
?川秀忠
の養女?龍昌院)
。子に松?丸
、
綱?
(四男)
、登佐?(越前
松平光長
正室)
、竹?(
鷹司房輔
室)ほか
。
毛利元就
の嫡曾孫にあたる。
生涯
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]
幼年の?主
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]
文?
4年(
1595年
)
10月18日
丑の刻(午前1時から午前3時頃)
[8]
[9]
、
毛利輝元
の長男として、
安芸
?島城
で生まれた(
異?あり?後述
)
。幼名は
松?丸
。氏神は?島城下の
白神大明神
。
輝元は長く?子に?まれなかったため、?弟の
毛利秀元
を養嗣子に迎えていたが、秀就が生まれると、秀元には別家を立てさせている。
慶長
4年(
1599年
)9月、
豊臣秀?
を
烏帽子親
とする形で
元服
し、その
偏諱
を受けて、
秀就
と名?った
[注? 1]
。また、秀?の
近侍
となり、
豊臣姓
を?えられれた
。
慶長5年(
1600年
)9月、
?ヶ原の?い
では、父?輝元は
大坂城
西の丸に、秀就は大坂城本丸の豊臣秀?の側にいた。だが、
西軍
が敗れると、父とともに大坂城を退去した
。
敗?により、毛利家は
長門
?
周防
2か?29万8千石
[注? 2]
に減封され、輝元に代わって秀就が形式的な?主となった。しかし、幼年のため、
幕府
からは輝元と共同での?主と見なされていたようである。また、輝元が法?のまま?質的な?主として君臨し?け、秀就との二頭?制が敷かれた
。
慶長6年(
1601年
)、はじめて
江?
に赴き、
?川家康
と面?した
。
慶長8年(
1603年
)、江?外?田に屋敷を?領する
。
慶長9年(
1604年
)、築城が始まった
萩城
に、築城者である輝元とともに入城した
[注? 3]
。
慶長13年(
1608年
)、
大御所
?家康の命によって、家康の次男?
結城秀康
の娘の
喜佐?
を
正室
に迎え
、
越前松平家
の一門となり、
松平長門守
を?した
。
慶長15年(
1610年
)、領?の新たな?地が行なわれ、53万9268石余を幕閣に申告したが、?地時に
一揆
が?生したこと、東軍に功績のあった隣?の
?島藩
主?
福島正則
とのつりあいなどを理由に、幕府は?地高の7割に相?する36万9千石を、毛利家の表高として公認した。この表高は幕末まで?わることはなかった。
慶長16年(
1611年
)
12月
、江?での
?人
としての勤めを終えて幕府から??を許され、初めて領?に入った。その際に、幕府より10万石の役儀を免ぜられ、
馬
、
小袖
、
銀子
などを?領している
。これらの幕府の?置に?し、輝元は
福原?俊
への書?で感謝の意を漏らしている
。
慶長18年(
1613年
)
1月
、再び江?に赴いて2代
?軍
?
?川秀忠
に謁見し、翌年まで?田の毛利邸に?在した
。
大坂の陣
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]
慶長19年(
1614年
)
10月11日
、?川家康が
駿府
を?して
大坂城
攻?の途に上ると、同年
10月18日
に輝元の命を受けた
神村元種
が密かに
下野
小山藩
主?
本多正純
と?見し、秀就の弟?就隆も出陣すべきかを協議した。その結果、就隆だけでなく輝元、秀就、秀元も出陣することで意見が一致したため、正純は
10月24日
に輝元へ出陣を要請した
。さらに秀忠が
11月10日
に伏見に到着すると、秀忠に?軍する
酒井忠世
、
土井利勝
、
安藤重信
は江?にいる秀就と秀元に早?に西上するよう要請した
。
11日
、輝元は
萩
を?し、
17日
に
?津?
兵庫
に着陣したが、病により家康から??許可を得て、秀就が到着し次第、??することとなった。家康の要請により、
21日
夕刻に輝元は秀就に?し、急遽西上することを督促した
。
12月6日
、秀就は秀元と共に
大坂
に到着して、
茶臼山
に布陣した家康や西宮の輝元と?見した後に、大坂へ布陣した。秀就は
大坂冬の陣
に??し、これが秀就の初陣となった
。
同年
12月19日
、?川方と豊臣方の間で講和が成立し、毛利家も大坂城の
堀
の埋め立て
普請
を手?う事となったが、秀忠は
?山忠俊
と
板倉重宗
を秀就のもとに派遣し、堀の埋め立ては急ぐよう通達。また、普請が終われば秀就の??が認められることとなった。
27日
、秀就は
毛利元?
と
毛利元景
に秀忠からの通達を連絡し、翌
28日
には元?と元景に?印の法度を出し、堀の埋め立て普請助役に?する注意事項を?えた。
慶長20年(
1615年
)
1月23日
、堀の埋め立てが完了し、
1月
下旬には秀就も秀元と共に??した
。
しかし、慶長20年(1615年)
4月10日
付けの本多正純の
奉書
が
4月17日
に輝元と秀就宛てに?いた。?容は、?川方と豊臣方が手切れとなった際には?津?の兵庫、西宮、尼崎付近へ出陣する準備を命じるものであり、一方で、出陣命令を受けるまではもし家康が上洛したとしても?許で指示を待つようにというものであった。輝元と秀就は、奉書を受け取った17日に直ちに秀元を毛利軍の先鋒とし、
??元?
、毛利元?、
毛利元宣
、
毛利元?
らを?軍させると決定した。
4月18日
、家康が
二?城
に、
21日
に秀忠が
伏見城
に入ったことで本多正純は毛利家へ出陣を要請した。
4月28日
、秀元が先鋒としてまず出陣し、
5月4日
に秀就は
吉川?正
や??元?をはじめとする毛利の主力を率いて周防?
三田尻
を出航した。
5月10日
、秀就は兵庫を?て西宮に着陣したが、?に
5月8日
に大坂城が?落して
大坂夏の陣
は終?しており、家康も二?城へと凱旋していた。そこで、伏見から秀就を出迎えた福原?俊の意見に?って、
5月11日
に伏見で
本多正信
に面?し、進退についての指示を求めた。
正信は早?に家康に謁見することを秀就に?めたため、
5月12日
に毛利秀元と吉川?正を伴って二?城で家康に謁見し、大坂城攻?に間に合わなかったことを謝罪した。しかし、家康はそもそも毛利へ出陣命令を出すことが?れたことが原因であるとして不問としたため秀就は安堵し、伏見の毛利邸に暫く?在した
。
家康は秀就が遠?から急行した?を謝して、同年7月には暇を出し、秀就は直ちに毛利秀元や吉川?正をはじめとする毛利の全軍を率いて??した
。
??での政務
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]
元和
9年(
1623年
)
9月10日
、秀就が江?から??して萩城に入城すると、輝元から家督?渡の儀式を行われ、正式に秀就へと家督が?渡された
。これにより、秀就が??で藩主を務めるも、藩政は後見人の秀元、
益田元祥
、
?水景治
らが??、秀就に?力はほとんどなかった。
?永
2年(
1625年
)、秀元が中心となって、一門を含めた家臣?の大幅な知行地の入れ替えを行った。知行地の入れ替えの例としては、
毛利元?
が周防?
熊毛郡
三丘
から
佐波郡
右田へ、
毛利元景
が周防?玖珂郡?杜から長門?
豊浦郡
阿川
へ、
毛利元包
が長門?豊浦郡阿川から周防?
吉敷郡
吉敷へ、
福原元俊
が周防?吉敷郡吉敷から長門?
厚?郡
宇部
へ、??元匡が周防?佐波郡
右田
から熊毛郡三丘へ移動していることが?げられる。また、家臣?の削減も行っており、元和8年(
1622年
)の分限帳と?永4年(
1627年
)の分限帳を比較すると、約160人が減少している。しかし、これらの施策には秀元の思惑の影響が多大にあったことが指摘されており、例えば知行地の入れ替えでは秀元と懇意であった毛利元?と毛利元包が防長??の要衝である右田と吉敷に移動しているのに?して、秀元と折り合いの?かった
福原?俊
の子である福原元俊は民家も少なく土地も?せていた宇部への移動となっている。また、秀就と?戚?係にあった?玉家が輝元の遺言を名目として突如暇を出されているが、これも?玉景唯が秀元と不仲であったことが?係しているとされる
。
?永3年(
1626年
)、大御所?秀忠、?軍?
家光
父子の
上洛
に付き?い、
後水尾天皇
の二?城
行幸
に供として加わり
右近衛?少?
に任ぜられた
。
しかし、秀就は次第に秀元と?立し、?永8年(
1631年
)に秀元が後見人を?任してからは不和が深刻になる。?永11年(
1634年
)に秀元が?立を?策したり、
江?城
普請を拒否したりしたことから、事態を憂慮した幕府の仲裁で?永13年(
1636年
)に秀元と和解し、?立は終息した
[28]
。秀元の後見人?任後の?永9年(
1632年
)は義兄弟の
吉川?正
が後見人となっているが、?際の藩政は重臣たちに任せているため、秀元の?任で藩主を中心とした?力は確立したとされる
。
慶安
4年(
1651年
)
1月5日
、秀就は萩城において、57?で死去した
。死後、跡を四男の
綱?
が?いだ。
出生について
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通?では、秀就は文?4年(1595年)10月18日に?島城で生まれたとされているが、異?として
天正
19年(
1591年
)1月20日に長門厚東郡四ケ小野村(現在の
山口?
宇部市
小野地?)の
財?就久
の屋敷で出生したとの?がある
[30]
[31]
[32]
[33]
。これは、布引敏雄が指摘しており、宇部市小野地?に?る古文書に「秀就は小野村で生まれた」との記述があることから小野?土史懇話?の?員が調査したもので、厚東郡小野村の領主であった財?家の文書や?承から、財?就久の屋敷が出生地であると結論づけた。
この?によると、輝元の正室?
南の大方
を非常に恐れていた側室の二の丸殿は、?妊が??すると秘密裏に財?家に匿われて、そのまま密かに出産したとされる
[34]
。また、出生後の?置について、
小早川隆景
に相談した記?も?見された(財?家文書)。財?屋敷跡がある同地には、秀就の誕生時に使われたという「産湯の池」や暗殺を逃れるための「穴?」などが?るほか、村人たちが秀就の成長を高良神社で祈願したとの?承も?っている
[35]
。
人物
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]
秀就は大大名である毛利輝元の息子として苦?せずに育ったため、若い頃の素行は?く、?晩夜?くまで遊んでいたために?間は?不足?態で、書類の決裁などの政務もまともに行えない?態であった
。また、初めて領?入りした時にはあまりにも威?的な態度を取ったために、秀就が?ると聞くと
百姓
たちは山へ逃げてしまうほどだった
。家臣たちや秀元が?めても行動が一向に改まらないため、父の輝元は秀就を叱ったがその?果はなく、?川家康が病に倒れた時に江?下屋敷で遊び?け、その行動が
駿府
の
町人
の?にまでなっていた
。
一方、秀元はかねてより?望が高く、3代?軍??川家光の
御伽衆
として信?されるほどであり、この?望の差が後に見るような秀就と秀元の軋轢を深刻にする要因の一つにもなっている
。また、領?が
越前
北ノ庄藩
主?
松平忠直
が
配流
された
豊後?
に近いにもかかわらず、娘を忠直の嫡子?
松平光長
に嫁がせたことは評判が?く、「不調法な?談」とされたが、それでも「毛利殿は生まれつき不調法だから構わない」という理由で許可された(つまり幕閣にも?く扱われていた)、と?時
豊前
小倉藩
主だった
細川忠利
は父の
細川忠興
に書き送っている
。
父とは?照的に、元養兄にして後見人でもあった秀元や、弟の就隆、姻族の
越前松平家
とは軋轢があった。秀元は成人してもなお秀就を?んじ、?軍の
御伽衆
であることをかさに着て、秀就との間にしばしば深刻な確執を引き起こし、幕府の仲裁も受けている。また、秀元が息子の
光?
の正室に秀就の娘を所望したが、秀就が?ったために仲が??になったとされる。
他方で、
?山藩
祖の就隆は同母弟であるが、長州藩がたびたび
手?普請
を命じられたために、就隆の?山藩に援助を求めたものの、?山藩の財政難を理由に?わられたので就隆と??となり、これが長州藩と?山藩との軋轢の初めとなる。
越前松平家は以後、毛利家の後見的位置にあったが、かなりの緊張?係が存在したようで、
元?
12年(
1699年
)には
毛利元重
の?遇をめぐって、毛利家と越前松平家が衝突寸前になる事件が起こっている。
??
[
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]
系譜
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]
- 父:
毛利輝元
(1553-1625) -
毛利隆元
の長男
- 母:
?泰院
(1572-1604) -
?玉元良
の娘
- 正室:
喜佐?
(1601年 - 1655年) -
?川家康
の孫、
結城秀康
の次女、
?川秀忠
の養女
- 生母不明の子女
- 男子: (? - 1624年) - 系?に記載のない人物、
高野山
安養院過去帳に基づく
。元和9年
11月22日
(
1624年
1月12日
)に死去、法名は月照院幻珪霞夢
- 女子: (? - 1625年) - 系?に記載のない人物、高野山安養院過去帳に基づく
。?永2年
10月13日
(
1625年
11月12日
)に死去、正心院日性大姉
- 女子: (? - ?) - 系?に記載のない人物、高野山安養院過去帳に基づく
。法名は?性院妙心信女
- 男子: (? - ?) - 系?に記載のない人物、高野山安養院過去帳に基づく
。法名は?知院露?珠泡大童子
偏諱を?えた人物
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| この節は
??可能
な
?考文?や出典
が全く示されていないか、不十分です。
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"毛利秀就"
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NDL
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·
ジャパンサ?チ
·
TWL
(
2017年5月
)
|
脚注
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]
注?
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]
- ^
秀元と同名になるのを避けるため、2文字目は?祖父の
毛利元就
より1字を取った
。
- ^
慶長5年の?地による石高。慶長10年(
1605年
)の毛利家御前帳にも同?の石高が記載。
- ^
完工は慶長13年(
1608年
)だが、
慶長
9年(
1604年
)12月には入城している。
出典
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?考文?
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?連項目
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]
長州藩
初代藩主 (1600年 - 1651年)
|
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(藩祖)
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萩藩
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山口藩
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