樺山善久

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樺山善久
時代 ??時代 - 安土桃山時代
生誕 永正 10年( 1513年
死? 文? 4年 11月24日 1595年 12月24日
改名 鍋千代( 幼名 )、幸久、善久、玄佐( 法?
別名 太?、助太?
官位 安芸
主君 島津氏
氏族 樺山氏
父母 父: 樺山?久 、母: 本田兼親 の娘
兄弟 女( 島津忠俊 室)、 善久 、豊?丸
正室: 御隅 島津忠良 の次女)
忠副 忠助 、娘( 島津家久 室)
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樺山 善久 (かばやま よしひさ)は、 ??時代 から 安土桃山時代 にかけての 武? 薩摩? 守護大名 島津氏 の庶流 樺山氏 の8代?主。

生涯 [ 編集 ]

樺山氏は島津宗家4代 忠宗 の子である 資久 を祖とする家で、 日向? 樺山(現? 宮崎? 北諸?郡 三股町 )を領したことから樺山姓を名?った一族である。善久は 永正 10年( 1513年 )、その7代目である 樺山?久 の子として誕生、島津宗家に仕えて、 島津忠良 の次女?御隅を正室とした。また 和歌 を好み、 近衛稙家 に?褐して 古今?授 を受け、 飛鳥井雅綱 から 蹴鞠 を習った。

天文 8年( 1539年 )に主君? 島津貴久 市? の平良へ出陣した湯田口合?の際、手負いと成りながらも敵?の小野左近を討ち取る功をなし、 大隅? 向島?(のちの ?島 )の松浦(現? 鹿?島市 ?島松浦町 )と二?(現?鹿?島市 ?島二?町 )を賜った(後に藤野(現?鹿?島市 ?島藤野町 )に?封)。

天文17年( 1548年 )に 本田氏 が領?で??を起こすと、島津忠良から盃を受け自ら家臣100人を率いて生別府(おいのびゅう、現 鹿?島? 霧島市 ?人町小浜)へ出陣し ?水城 を攻め落とした。その折、城から逃亡した 本田?親 が城?の書院に「立訓し ?の柱もわすれなよ ?り?てあふ 世あるやと」と書き付けたのを見つけると、善久は「流れ出て 浮ふ?もなき 水?の あとはかなくも ?をくかな」と返歌を?み、それを書いた短冊を矢に結わえて、逃亡する本田勢へと追い付くとその矢を放った。これに感心した 島津義久 から褒美を受けている。

永? 5年( 1562年 )、 北原氏 の?臣である 白坂下?介 が北原家再興を願い出た際は、善久が主君?島津貴久と下?介の仲介役を務めた。 元? 元年( 1570年 )に大隅の小浜、堅利の替えとして?川へと移り住んだ。 天正 11年( 1583年 )、義久が病を患うと、 日向? 高岡の 法華嶽?師寺 へ17日間籠って平癒の?の和歌を百首詠んでいる。 文? 元年( 1592年 )、 文??慶長の役 において 島津義弘 朝鮮 に渡海した際に、善久は老年のために出陣が許されなかった事に憤り、「君か? 名のため取りし 梓弓 八十余りの 身こそつらけれ」との歌を詠んでいる。

文?4年( 1595年 )に死去。享年83。長男の忠副は 弘治 3年( 1557年 )に 蒲生氏 ? 菱刈氏 との?い(?頭の?い)で討ち死にしたため、次男の 忠助 が跡を?いだ。

?考文? [ 編集 ]

  • 本藩人物誌 』 鹿?島?史料集(13)(鹿?島?史料刊行委員?)
  • 『鹿?島?史 別?』(鹿?島?)