出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 宗衍
(まつだいら むねのぶ)は、
江?時代
中期の
大名
。
出雲?
松江藩
6代藩主。
官位
は
?四位下
?
出羽守
、
侍?
、
左近衛?少?
。雲州松平家6代。
生涯
[
編集
]
享保
14年(
1729年
)5月28日、5代藩主?
松平宣維
の長男として誕生
[1]
。幼名は幸千代
[1]
。母は
中務卿
邦永親王
の王女?岩宮。なお、生まれた日を18日とする?もある
[1]
。
享保16年(
1731年
)10月13日、父?宣維の死により家督を?いだ
[1]
。また、幸千代が幼かったこともあり、幕府は
福井
、
明石
、
前橋
といった
越前松平家
一族に後見を命じ、藩政は
家老
による
合議制
が取られることになった
[2]
。
享保の大飢饉
(1731年末より1732年)やその後も災害、
享保大一揆
が?生し、藩財政は窮迫することになる
[2]
。
?保
2年(
1742年
)12月11日に幸千代は
元服
し、8代?軍?
?川吉宗
から
偏諱
を授かって宗衍と名?り
[2]
、?四位下に?位され、侍?に任官、のち出羽守を兼任した。
成長した宗衍は
延享
4年(
1747年
)に家老による合議制を?止し、「御直捌」(おじきさばき)
[3]
:233
と呼ばれる藩主
親政
を行うこととした
[1]
[2]
[4]
。
中老
小田切?足
(小田切備中)を補佐役に登用し、
御趣向の改革
(ごしゅこうのかいかく、
延享
の改革)と呼ばれる積極的な財政振興策を執った
[1]
[2]
。改革は一部成功するものの、相次ぐ天災、藩?で改革に?する反?派が力を盛り返したため、
??
2年(
1752年
)に改革は停止されて?足は失脚した
[1]
。??5年(
1755年
)11月26日に、宗衍は左近衛?少?に?任している(出羽守は元のまま)。
??10年(
1760年
)、幕命により
比叡山延?寺
山門の修築の普請手?いを命じられる。重臣たちはこの普請手?いの失敗で藩領半減も?悟していたが、小田切?足や
朝日茂保
を仕置役に任命することで?りなく成就している
[3]
:229
。もっとも、普請手?いは?り切ったものの、藩財政が窮乏を究めていたのも事?であり、周?からは「雲州?(松江藩の藩主)滅亡」とまで?されたと言う。
明和
4年(
1767年
)11月27日、財政窮乏の責任を取り、次男の
治?
に家督を?って?居した
[1]
[2]
。この時、治?の後見役に?時還?も過ぎていた朝日茂保を指名し、仕置役への復?を命じている
[3]
:229
。同日、出羽守から主計頭に?任した。
安永
6年(
1777年
)11月28日、入道して南海を?す
[1]
[2]
。天明2年(1782年)10月4日に死去した
[2]
。享年54。
天?寺
(
東京都
港?
虎ノ門
)に葬られたが、後に
月照寺
(島根?松江市)に移葬されている
[2]
。
御趣向の改革
[
編集
]
「趣向」とは、財政再建の企?や新規政策の意であり、宗衍は小田切?足を始めとして「趣向」を持った中級、下級藩士を?多く登用した。
改革の?容は、小田切?足が??3年(
1753年
)に記した『報?』に詳しく書かれており、40箇?の政策が記されている
[3]
:233
。以下に代表的な策を?げる。
- 資金調達策
-
- 才?
- 「才?」は?時の言葉で資金調達の意味。
- ?時の松江藩は地元商人から融資を受けていたが、財政?況の?化に伴い、その融資も停止していた。そこで、
年貢
を?保にして、
大坂
、
京都
、
尾道
などの金融商人の融資を受けた。
- 泉府方の設置
[3]
:234
- 泉府方は、藩?の金融機?。
- 藩?の
豪商
や
豪農
から出資を募り、資金を1割5分の利息で貸し付け、利潤を藩と資金提供主とで折半する。
- 義田方
[3]
:234
- 年貢を一括して先納した場合、一定期間免?するという制度。
- 新田方
[3]
:234
- 新田方は新田を開?する役所。開?した新田は一定期間の免??と共に?却された。
- 産業振興策
-
- 木苗方(きなえかた)
- 商品作物の?究、普及を行い新作業を興す役所。
- ハゼノキ
、
?用人?
、
木綿
、
煙草
といった特産品の栽培が行われるようになった。
- 木?方(きのみかた)
[3]
:234
- ハゼノキの栽培と、ハゼの?から
和?燭
を製造する役所。
- 和?燭は
??
であり、藩?の需要を?たすにとどまらず、他藩へ輸出され大きな利益となった。
- 釜甑方(ふそうかた)
[3]
:234
- ??6年(
1756年
)頃に設置された
鍋
、
釜
、
包丁
といった?製品を作って??する役所。
- もともと中?山地の
たたら製?
は、日本全?の?需要の大半をまかなえる規模であったが、原材料のままではなく、加工品として付加?値を加えて販?した。
- 文?政策
-
- 文?所の開設
[3]
:234
- ?延
元年(
1748年
)、
荻生?徠
の弟子である
宇佐美?助
を江?藩邸に招いて文?所を開設した。
- 文明館の設立
- ??8年(
1758年
)に
藩校
である文明館(松江市母衣町)を設立した。
改革の頓挫は、資金不足、
債務超過
の?態になったためと考えられている。
泉府方は?足3年目で元利償還への不安から資金回?が行き詰まっている
[3]
:236
。
人物?逸話
[
編集
]
?居してからの宗衍は奇行を繰り返したため、以下のように奇行にまつわる逸話が多い。
- 家臣に命じて色白の美しい肌の女を連れて?させては、その女性の背中に花模?の
刺?
を彫らせて薄い白色の着物を着せた。着物からうっすらと透けて浮き上がってくる背中の刺?を見て喜んだといわれる。刺?を入れられた女性は「文身
(いれずみ)
侍女」と呼ばれて江?の評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に?えようとした。しかし誰も?じず、仕方なく1000?を?えるからとしても誰も?じなかったという
[5]
[6]
。
- ?溝正史
の
時代小?
シリ?ズ『
人形佐七捕物帳
』の1編「女刺?師」に登場する松平相模守は腰元の背中に刺?を彫らせて喜ぶが、このモデルとなったのは宗衍だと考えられている
[7]
。
- 江?の赤坂にある藩邸の一室に、天井から?まで妖怪やお化けの?を描いた化け物部屋を造り、暑い夏の日は一日中そこにいた。見聞集『江?塵拾』、『?代江?百化物』でも「雲州松江の藩主松平出羽守」の名前が?がっている
[8]
。
- ??者が全員、裸で茶を?む裸茶?を開催している
[6]
。
- 『
赤蝦夷風?考
』などの著書で知られる?師??世家(???者)である
工藤平助
との交流の話が?る。
- 松浦?
の?筆『
甲子夜話
』正篇?之五十一には、
松平南海
が退屈を紛らわすために長身力士の
釋迦ヶ嶽雲右エ門
を化物に扮?させて、芝高輪(現?
高輪
)の貧乏?者をからかった旨の記述がある。
- 月照寺
にある宗衍の廟所に??碑があり、大?の石像が土台となっている。この石?が夜な夜な松江の街を徘徊したという??があり、後年、松江に?在した
ラフカディオ?ハ?ン
が?筆『知られざる日本の面影 (
Glimpses of Unfamiliar Japan
』(
1894年
)で紹介している。
- ?居後の宗衍の奇行を題材にして
谷津矢車
が小?「雲州下屋敷の幽?」(『
オ?ル讀物
』2016年12月??載)を執筆している
[9]
。
系譜
[
編集
]
- 父:
松平宣維
(1698-1731)
- 母:光子 -
邦永親王
王女
- 正室:常 -
松平明矩
娘
- 室:歌木 - 大森氏
- 生母不明の子女
出典?脚注
[
編集
]
雲州松平家
松江藩
6代藩主 (1731年 - 1767年)
|
---|
堀尾家
| |
---|
京極家
| |
---|
雲州松平家
| |
---|