松平宗衍

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松平宗衍
時代 江?時代 中期
生誕 享保 14年 5月28日 1729年 6月24日
死? 天明 2年 10月4日 1782年 11月8日 [1]
改名 幸千代(幼名)、宗衍、南海(法?)
戒名 天隆院殿仁?義?南海大居士
墓所 東京都 港? 虎ノ門 天?寺
島根? 松江市 外中原町の 月照寺
官位 ?四位下 出羽守 侍? 左近衛?少?
幕府 江?幕府
主君 ?川吉宗 家重 家治
出雲 松江藩
氏族 雲州松平家
父母 松平宣維 、岩宮
松平明矩 娘常 、歌木
治? 衍親 蒔田定? 、五百、幾百ら
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松平 宗衍 (まつだいら むねのぶ)は、 江?時代 中期の 大名 出雲? 松江藩 6代藩主。 官位 ?四位下 ? 出羽守 侍? 左近衛?少? 。雲州松平家6代。

生涯 [ 編集 ]

享保 14年( 1729年 )5月28日、5代藩主? 松平宣維 の長男として誕生 [1] 。幼名は幸千代 [1] 。母は 中務卿 邦永親王 の王女?岩宮。なお、生まれた日を18日とする?もある [1]

享保16年( 1731年 )10月13日、父?宣維の死により家督を?いだ [1] 。また、幸千代が幼かったこともあり、幕府は 福井 明石 前橋 といった 越前松平家 一族に後見を命じ、藩政は 家老 による 合議制 が取られることになった [2] 享保の大飢饉 (1731年末より1732年)やその後も災害、 享保大一揆 が?生し、藩財政は窮迫することになる [2]

?保 2年( 1742年 )12月11日に幸千代は 元服 し、8代?軍? ?川吉宗 から 偏諱 を授かって宗衍と名?り [2] 、?四位下に?位され、侍?に任官、のち出羽守を兼任した。

成長した宗衍は 延享 4年( 1747年 )に家老による合議制を?止し、「御直捌」(おじきさばき) [3] :233 と呼ばれる藩主 親政 を行うこととした [1] [2] [4] 中老 小田切?足 (小田切備中)を補佐役に登用し、 御趣向の改革 (ごしゅこうのかいかく、 延享 の改革)と呼ばれる積極的な財政振興策を執った [1] [2] 。改革は一部成功するものの、相次ぐ天災、藩?で改革に?する反?派が力を盛り返したため、 ?? 2年( 1752年 )に改革は停止されて?足は失脚した [1] 。??5年( 1755年 )11月26日に、宗衍は左近衛?少?に?任している(出羽守は元のまま)。

??10年( 1760年 )、幕命により 比叡山延?寺 山門の修築の普請手?いを命じられる。重臣たちはこの普請手?いの失敗で藩領半減も?悟していたが、小田切?足や 朝日茂保 を仕置役に任命することで?りなく成就している [3] :229 。もっとも、普請手?いは?り切ったものの、藩財政が窮乏を究めていたのも事?であり、周?からは「雲州?(松江藩の藩主)滅亡」とまで?されたと言う。

明和 4年( 1767年 )11月27日、財政窮乏の責任を取り、次男の 治? に家督を?って?居した [1] [2] 。この時、治?の後見役に?時還?も過ぎていた朝日茂保を指名し、仕置役への復?を命じている [3] :229 。同日、出羽守から主計頭に?任した。 安永 6年( 1777年 )11月28日、入道して南海を?す [1] [2] 。天明2年(1782年)10月4日に死去した [2] 。享年54。

天?寺 東京都 港? 虎ノ門 )に葬られたが、後に 月照寺 (島根?松江市)に移葬されている [2]

御趣向の改革 [ 編集 ]

「趣向」とは、財政再建の企?や新規政策の意であり、宗衍は小田切?足を始めとして「趣向」を持った中級、下級藩士を?多く登用した。

改革の?容は、小田切?足が??3年( 1753年 )に記した『報?』に詳しく書かれており、40箇?の政策が記されている [3] :233 。以下に代表的な策を?げる。

資金調達策
才?
「才?」は?時の言葉で資金調達の意味。
?時の松江藩は地元商人から融資を受けていたが、財政?況の?化に伴い、その融資も停止していた。そこで、 年貢 を?保にして、 大坂 京都 尾道 などの金融商人の融資を受けた。
泉府方の設置 [3] :234
泉府方は、藩?の金融機?。
藩?の 豪商 豪農 から出資を募り、資金を1割5分の利息で貸し付け、利潤を藩と資金提供主とで折半する。
義田方 [3] :234
年貢を一括して先納した場合、一定期間免?するという制度。
新田方 [3] :234
新田方は新田を開?する役所。開?した新田は一定期間の免??と共に?却された。
産業振興策
木苗方(きなえかた)
商品作物の?究、普及を行い新作業を興す役所。
ハゼノキ ?用人? 木綿 煙草 といった特産品の栽培が行われるようになった。
木?方(きのみかた) [3] :234
ハゼノキの栽培と、ハゼの?から 和?燭 を製造する役所。
和?燭は ?? であり、藩?の需要を?たすにとどまらず、他藩へ輸出され大きな利益となった。
釜甑方(ふそうかた) [3] :234
??6年( 1756年 )頃に設置された 包丁 といった?製品を作って??する役所。
もともと中?山地の たたら製? は、日本全?の?需要の大半をまかなえる規模であったが、原材料のままではなく、加工品として付加?値を加えて販?した。
文?政策
文?所の開設 [3] :234
?延 元年( 1748年 )、 荻生?徠 の弟子である 宇佐美?助 を江?藩邸に招いて文?所を開設した。
文明館の設立
??8年( 1758年 )に 藩校 である文明館(松江市母衣町)を設立した。

改革の頓挫は、資金不足、 債務超過 の?態になったためと考えられている。

泉府方は?足3年目で元利償還への不安から資金回?が行き詰まっている [3] :236

人物?逸話 [ 編集 ]

大???の?る??碑

?居してからの宗衍は奇行を繰り返したため、以下のように奇行にまつわる逸話が多い。

  • 家臣に命じて色白の美しい肌の女を連れて?させては、その女性の背中に花模?の 刺? を彫らせて薄い白色の着物を着せた。着物からうっすらと透けて浮き上がってくる背中の刺?を見て喜んだといわれる。刺?を入れられた女性は「文身 (いれずみ) 侍女」と呼ばれて江?の評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に?えようとした。しかし誰も?じず、仕方なく1000?を?えるからとしても誰も?じなかったという [5] [6]
    • ?溝正史 時代小? シリ?ズ『 人形佐七捕物帳 』の1編「女刺?師」に登場する松平相模守は腰元の背中に刺?を彫らせて喜ぶが、このモデルとなったのは宗衍だと考えられている [7]
  • 江?の赤坂にある藩邸の一室に、天井から?まで妖怪やお化けの?を描いた化け物部屋を造り、暑い夏の日は一日中そこにいた。見聞集『江?塵拾』、『?代江?百化物』でも「雲州松江の藩主松平出羽守」の名前が?がっている [8]
  • ??者が全員、裸で茶を?む裸茶?を開催している [6]
  • 赤蝦夷風?考 』などの著書で知られる?師??世家(???者)である 工藤平助 との交流の話が?る。
  • 松浦? の?筆『 甲子夜話 』正篇?之五十一には、 松平南海 が退屈を紛らわすために長身力士の 釋迦ヶ嶽雲右エ門 を化物に扮?させて、芝高輪(現? 高輪 )の貧乏?者をからかった旨の記述がある。
  • 月照寺 にある宗衍の廟所に??碑があり、大?の石像が土台となっている。この石?が夜な夜な松江の街を徘徊したという??があり、後年、松江に?在した ラフカディオ?ハ?ン が?筆『知られざる日本の面影 ( Glimpses of Unfamiliar Japan 』( 1894年 )で紹介している。
  • ?居後の宗衍の奇行を題材にして 谷津矢車 が小?「雲州下屋敷の幽?」(『 オ?ル讀物 』2016年12月??載)を執筆している [9]

系譜 [ 編集 ]

出典?脚注 [ 編集 ]

  1. ^ a b c d e f g h i j 笠谷和比古 「松平宗衍」『朝日日本?史人物事典』 朝日新聞社 、1994年。  
  2. ^ a b c d e f g h i 本陣??#第六代松江藩主 松平宗衍/マツダイラムネノブ ”. 出雲市芸術文化振興財?. 2017年10月25日 ??。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 童門冬二 野島透 ?矢? 『?史に?ぶ地域再生: 中?地域の?世家たち』 吉備人出版 、2008年。 ISBN   9784860692087  
  4. ^ 松江の?史#近世 ”. 松江?光協?. 2017年10月25日 ??。
  5. ^ 奈良本辰也 『武士?官吏: 仕事と暮らし』 平凡社 、1979年、41頁。  
  6. ^ a b 山本敦司『江?の財政再建20人の知?: 藩財政破綻の危機を?り越えた?世家群像』 扶桑社 、1998年、100頁。 ISBN   978-4594025724  
  7. ^ 末國善己 「解?」『完本 人形佐七捕物帳』 八、 春陽堂書店 、2021年。 ISBN   978-4394190172  
  8. ^ 香川雅信『江?の妖怪革命』 河出書房新社 、2005年、105頁。 ISBN   978-4309224336  
  9. ^ 佐藤知?子. “ No.112 谷津矢車「雲州下屋敷の幽?」(オ?ル讀物 2016年12月?) ”. 文?金魚 . 2017年8月18日 ??。