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杵屋六三?

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杵屋 六三? (きねや ろくさぶろう)は、 長唄 三味線方の名跡。近世中期以?、13代を?える。

初代 [ 編集 ]

(生年不詳 - 享保 19年 3月14日 1734年 4月22日 ))

3代目杵屋勘五? の三男。 元? 年間に名?る後に杵屋吉之丞が名?る。

上記に?して。?年日は3月18日(墓誌)。3代目杵屋勘五?と云うと幕末の 11代目杵屋六左衛門 の後名となり、錯?をおこす危?がある。杵屋宗家3代勘五?とすべきと思う。

1714年 山村座 番付 に名がある。詳しいことは不明である。

2代目 [ 編集 ]

?永 7年( 1710年 ) - ?政 3年 7月28日 1791年 8月27日 ))俳名は「天滴」。

初代の子。唄方の ?士田吉次 らとともに活動。江?風長唄の基礎を作る。俳句をよくし俳名から俗に「天滴六三?」と言われる。

1749年 森田座 に初めて名を見る。長唄中興の名人で「長唄の節を一?せり。又一人三絃(大薩摩の類)曲?をしこれがため見物の評ありしもこの天滴より始まる」と『名人忌辰?』にある。 1749年 に立三味線となる。 1765年 に中村座へ移り、 初代?士田吉次 とコンビとなり??の曲を作る。 1768年 に吉次は 市村座 に移りコンビ中?、 1766年 9月に吉次は中村座へ?り復活したが11月に又市村座へ去りコンビは完全に解消した。長唄は???明和までは上方唄の影響が?く三下りを主?としていたが、吉次?六三?の出現により二上り、本調子等華やかな曲想となり飛躍した。芝光圓寺に葬られた。82?と?えられている。

主な作曲に「姿の鏡?寺小町」「釣狐春?菊」「白妙」「春調 娘七種 」「おさな獅子」「賤女?拍子」「秋?籠」

3代目 [ 編集 ]

9代目杵屋六左衛門 の前名。

4代目 [ 編集 ]

安永 9年 1月10日 1780年 2月14日 ) - 安政 2年 11月30日 1856年 1月7日 ))

幼名?長次?。江?板橋宿の旅?奈良屋の次男として生まれる。 初代杵屋正次? に師事し ?政 10年( 1798年 )に 中村座 で初舞台。 文化 5年( 1808年 )4代目六三?を襲名。演奏、作曲ともに優れる。 7代目市川團十? に評?され、作品を多く手がける。 天保 11年( 1840年 杵屋六翁 と改名する。「 ?進帳 」「 ?女 」「 老松 」「 吾妻八景 」「 松の? 」などを作った。

現在?承されている曲⇒調松風。心猿秋月。?女。正札付根元草摺。後朝の傾城。?朝。猿まわし。鳶奴。かさね道成寺。末?。猿舞。老松。小倉山。不動。馬追。西王母(桃李の)。?入娘。廓三番?。江ノ島(筆も及ばじ)。天神。?三奴。藤娘。座頭(ひょっくり)。月の?。吾妻八景。六玉川琴柱の雁。蝶鶴比翼の?引。菊玉本。初子の日。春の色。俄獅子。蓬?。四つの詠。?進帳。五人?子【常磐津に?承】。?士の島台。源氏雪月花。吉野天人。雁の文。織殿。十二段。刈り?(翁草ともいう)。?【月やあらぬ】。千?の松。千代の春。?船。松の?。四季の蝶。二見潟磯の濡衣。女?花。

娘は志賀山流の13代目家元の5代目 志賀山せい

5代目 [ 編集 ]

(生年不詳 - 嘉永 元年?( 1848年 ?))

4代目の?子。2代目杵屋長次?が 1840年 に5代目六三?を襲名。

初名を六太?と云。本?の附木店に住んでいたので、本?の長次?と云われた。 1829年 冬に2代目杵屋長次?を?いだ。 1840年 に5代目杵屋六三?を襲名。嘉永初年死去。

?承されている曲⇒唐女。島台(色も?わらぬ)。

戒名は「本?院種要信士」。

6代目 [ 編集 ]

(生年不詳 - 安政6年 8月6日 1859年 9月2日 ))

4代目の養子。六之助が 1850年 に6代目六三?を襲名。作曲には「豊の春」「業平吾妻下り」がある。

杵屋六翁は5代目の死去により、娘のたきに門弟杵屋六之助を養子とし 1850年 冬に6代目六三?を?がせた。所がたき( 初代杵屋六 )は 1851年 9月23日 死去した。六翁は後妻との娘( 2代目杵屋六 )を6代目と再婚させた。この夫婦には?子が無かったのではなという人を養女にして 4代目芳村孝三? (旗本出身)を?養子にした。6代目は1859年8月6日死去。6代目は通?「池の端?」と呼ばれ、芝居より門弟の育成に努めた。

?承されている曲⇒追羽根。冬至梅(梅開冬至梅)。室の八重?。豊の春。龍神乙?。別れ霜(おしゅん)。

戒名は「?冷院和鳴信士」。

7代目 [ 編集 ]

天保 3年( 1832年 ) - 明治 12年( 1879年 9月17日

6代目六三?の高弟で 初代杵屋六四? の門弟。 文久 3年( 1863年 )に4代目杵屋長次?を襲名、同年冬には6代目家の養子になり7代目六三?を襲名した。 明治 7年( 1874年 )には?居し2代目 杵屋六翁 を襲名。明治9年( 1876年 )には?岡に?居。

墓所は?岡駿河町感?寺。戒名は「好音院六翁日遊居士」。大薩摩名 大薩摩?一。

?承されている曲⇒島台(蓬?の)。祝いの島台。木下蔭【明治7年10月守田座上演の際7代目作の曲を8代目が改訂したと?えられている。8代目作曲とする本もある】。

8代目 [ 編集 ]

(天保12年( 1841年 ) - 明治39年( 1906年 1月16日

本名、大槻金太?。7代目六三?の門弟。11?の時に入門。16?の時猿若町守田座初出勤。初め 杵屋六太? 、杵屋長次?と?する。 1874年 に8代目六三?を襲名し、 1893年 に?居名3代目杵屋六翁を襲名。作曲には「王政復古」がある。妻は 杵屋てる 、長女は 3代目杵屋ろく 、次男は9代目。俗に「御成道の六三?」という。

この妻「てる」は?師大野平左衛門の娘で長唄の名人として名高い。作曲は三十余曲あり、「王政復古」は北白川宮の御命で特にテルが作曲した由。但し唄本は8代目六三?作曲として版行したとのこと。(池の端派古老、杵屋小六、外の談)

8代目作品で?承されている曲⇒「閨の?」。「木下蔭(7代目の項?照されたし)」。

西日暮里啓運寺。戒名は「?光院六翁日照居士」。

9代目 [ 編集 ]

慶? 2年( 1866年 ) - 明治39年( 1906年 9月20日

本名、山中新太?。8代目杵屋六三?の次男。山中家の養子となる。8?の時父に手ほどきを受け11?で新宿座初出勤。杵屋長次?となり 1893年 5月に9代目杵屋六三?を襲名。「浪花町の六三?」と呼ばれた。新富座、明治座の立三味線を勤める。 3代目杵屋?? 談によれば大きな芸の人であった由。 1906年 6月閑院宮邸に伺候「?進帳」を演じたのが最後となり、同年9月20日死去。41?。?世「秋の雨旅の衣を濡らしけり」。

作曲⇒熊野(六四?と異曲)。二人羽衣。和歌三神。自?車兵。不忍池の浮島等。妻せいは?山左衛門の娘で、<しん>という一人娘がいたが長唄の道へ進まなかった。

戒名は「絃好院明?日新信士」。

10代目 [ 編集 ]

(安政4年( 1857年 ) - 大正 9年( 1920年 9月29日

江?の生まれ、本名、大槻金次?。9代目六三?の義理の叔父。前名は杵屋金次?、杵屋六太?。9代目六三??後途絶えていたのを一門で協議し 1917年 11月に10代目六三?を襲名。

墓所は谷中本?寺。戒名は「是?院法金日?信士」。

11代目 [ 編集 ]

1890年 9月7日 - 1967年 11月13日

本名、山崎忠之助。18?で六二?の名で明治座に出勤、 1917年 に4代目杵屋六太?を名?って立三味線となる。 1923年 に11代目六三?を襲名した。妻のたねは10代目六三?の一人娘である。後には 長唄協? の理事も務めている。作曲には「木場の面影」などがある。

墓所は谷中本?寺。戒名は「練達院伎芸日忠居士」。

12代目 [ 編集 ]

1931年 8月20日 - )

東京の生まれ、本名、山崎好一。11代目六三?の長男。 3代目今藤長十? の弟子。前名は杵屋六太?。 1967年 12月に12代目六三?を襲名。

13代目 [ 編集 ]

1951年 - )

東京生まれ。 1969年 に杵屋六哲?を襲名。 1990年 に3代目 杵屋?三? となった後、 2002年 に12代目六三?の娘と結婚して13代目六三?を襲名する。

出典 [ 編集 ]

  • 「長唄稽古手引き草」町田嘉章(1923年2月、邦??究?)
  • 「近世邦?年表」
  • 「歌舞伎年表」
  • 「???明和期長唄正本」
  • 「長唄??紙」野口由紀夫(1958年7月、芳村家元)
  • 「長唄の心得」小谷?楓(1925年7月)
  • 「長唄を?く」(1928年3月、法木書店)
  • 「名人忌辰?」?根只誠(1925年11月、六合館)
  • 「現代邦?名鑑長唄編」(1966年9月、邦?と舞踊社)