李 相和
(イ?サンファ、
朝鮮語
:
李相花
、
1901年
4月5日
-
1943年
4月25日
)は
朝鮮
の
詩人
。
本貫
は
慶州李氏
[1]
。
?
は
無量
(ムリャン、無量)、
想華
または
?火
(サンファ、尙火)、
白?
(ペガ、
伯牙/白啞
)
[2]
。
兄は?立運動家で、
大韓民?臨時政府
において軍務部長秘書室補佐官を務めた
李相定
。弟はバスケットボ?ル選手で社??者の
李相佰
と作家の
李相旿
。
略?
[
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]
慶?北道
大邱市
西門路生まれ。幼い頃に父を亡くしてからは、伯父の世話で私塾に通い、?み書きや
漢文
を修めた。14?のとき、上京し、
中央?校
の中等課程に入り、修了した他後、故?に?った。
1918年
の夏、李は旅に出る。
金剛山
から
江原道
一?をさすらい、家に?ったのは6ヶ月後であった。この旅は李にとって、生きる意味、人生を考える旅であったらしい。「我が?室へ (
나의 寢室로
)」(1923)はこの放浪の旅の中で完成させたものと述べている。
1919年
3月1日、李が18になる年に
三?一運動
が起こる。李はこの運動に呼?し、
白基萬
と共に同月8日、大邱で?立運動を起こした。その後、
朝鮮?督府
の??を逃れて
ソウル
に?れ、同?の友人である、
延禧?門?校
に通う
??家
の
朴泰元
のところに身を寄せる。この頃から、祖?の運命に悲?し、酒に?うようになった。
1919年陰?10月、人に?められるまま、
公州
の名門である
徐漢輔
の娘、
徐順愛
と結婚する。?は李には密かに思いを寄せていた女性がいた。
慶?南道
出身の
孫畢蓮
という女性で、?立運動の同士でもあり、李はこの女性とかなり親しい?係であったという。
1923年
、渡日し、
東京
の
アテネ?フランセ
に通う。李は東京に留?することが目的ではなく、
フランス
へ行く足がかりにするためであった。
朝鮮?督府
から要視察人物とされていたため、ソウルからフランスへ行くことはできなかった。アテネ?フランセで
フランス語
を?びながら機?をうかがっていたが、その年の9月に
?東大震災
が?生し、東京に住む朝鮮人が大
迫害
を受け、李も留?どころではなくなってしまう。翌年
1924年
春に??することになった。東京にいた頃、
柳?華
という女性と?人の仲になったという。柳?華は後の
1926年
肺病にかかり、李の膝に顔を伏せて死んだ。
ソウルに?った李は、嘉?洞の
翠雲亭
に住み、詩作に?頭した。「金剛 頌天」「逆天」「別離」などはこの頃の作品である。また、この頃、李は相?の酒豪であったと言われる。
1925年
、
KAPF
の設立に?加する。
1927年
、故?の大邱に?る。李は常に官憲に監視され、やがてそうした?力が李の精神を?し、酒と女に溺れ?落していく。
1934年
まで、1篇の詩も?表されなかった。
1935年
、
中?
に渡り、?立運動を起こしている兄の相定に?った。そのまま、1年ほど中?を遊?し、
1936年
に??した。??した李を、朝鮮?督府は
スパイ
容疑で逮捕、20余日にわたり
拷問
した。この拷問で李の身?は極度に衰弱し、その後、回復することもなかった。
1936年から40年まで、
嶠南?校
で?育や文化活動に取り組む。
1940年
からは再び筆を執り、『
春香?
』の英?や『?文?史』、『フランス詩』などの評?を出す予定をしていた。しかし、それらを完成させることもなく
1943年
、衰弱しきった李は床に伏せ、陰?3月21日朝8時、夫人の傍で息を引き取った。李の遺骸は
慶?北道
達城郡花園面別里1?の
月城李氏
の墓地に埋葬された。1943年、
白基萬
や
徐東辰
など同?の友人らの提議で、朝鮮?督府の目を避けるため「詩人白?李公諱相和之墓」とだけ刻まれた墓碑が建った。?後、
金素雲
の提唱で大邱市の
達城公園
に「?火詩碑」が建てられた。
作品
[
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]
·
빼앗긴 들에도 봄은 오는가?
(奪われた野にも春は?るのか)
只今은 남의 땅― 빼앗긴 들에도 봄은 오는가?
(今は他人の土地- 奪われた野にも春は?るのか)
나는 온몸에 햇살을 받고
(私は全身に日の光を浴びて)
푸른 하늘 푸른 들이 맞붙은 곳으로
(?い空、?の原野が付いているとこへ)
가르마 같은 논길을 따라 꿈 속을 가듯 걸어만 간다.
(分け目のような田圃道に沿って夢の中を行くように?いていく 。)
입술을 다문 하늘아, 들아,
(口をつぐんでいる空よ、 野原よ 、)
내 맘에는 내 혼자 온 것 같지를 않구나!
(私の心には私一人で?たようではないね!)
네가 끌었느냐, 누가 부르더냐. 답답워라, 말을 해 다오.
(君が集めたのか 、 誰が歌っていたか 。 息苦しく、話をしてくれて。)
바람은 내 귀에 속삭이며
(風は、自分の耳にささやきながら)
한 자욱도 섰지 마라, 옷자락을 흔들고.
(一ジャウクも立ったな、?を振って。)
종다리는 울타리 너머 아씨같이 구름 뒤에서 반갑다 웃네.
(ヒバリは垣根越しアシのように雲の後ろで嬉しいと笑う。)
고맙게 잘 자란 보리밭아,
(ありがたくよく育った?畑、)
간밤 子正이 넘어 내리던 고운 비로
(夜に自?を超え、降っていたきれいな雨で)
너는 삼단 같은 머리털을 감았구나, 내 머리조차 가뿐하다.
(君は?の??の毛を閉じたよ、 私の頭さえ?い。)
혼자라도 가쁘게나 가자.
(一人でも苦しそうに行こう。)
마른 논을 안고 도는 착한 도랑이
(乾いた田んぼを抱えている善良な溝が)
젖먹이 달래는 노래를 하고, 제 혼자 어깨춤만 추고 가네.
(赤ん坊をあやす歌を歌って、 自分一人で肩ダンスばかり踊ってしまうのね。)
나비 제비야 깝치지 마라.
(蝶,燕だカプチな。)
맨드라미 들마꽃에도 人事를 해야지.
(ケイトウ、野花にも??をしなければならない。)
아주까리 기름을 바른 이가 地心 매던 그 들이라 다 보고 싶다.
(ヒマシ油を塗った人がジシムメたその野原なので全部見たい。)
내 손에 호미를 쥐어 다오.
(私の手にくわを握ってくれ。)
살진 젖가슴과 같은 부드러운 이 흙을
(太った乳房のような柔らかいこの土を)
발목이 시도록 밟아도 보고, 좋은 땀조차 흘리고 싶다.
(足首がすっぱくなるほど踏んでも報告、 良い汗を流したい。)
江가에 나온 아이와 같이,
(川?に出た子供と一?に、)
짬도 모르고 끝도 없이 닫는 내 昏鴉
(間も知らずに最後もなしに追い?まれる私の魂よ)
무엇을 찾느냐, 어디로 가느냐, 웃어웁다, 答을 하려무나.
(何を?すか、 どこに行くのか、 おかしい、 答えをしなさい。)
나는 온몸에 풋내를 띠고,
(私は全身にプッネを?びて、)
푸른 웃음 푸른 설움이 어우러진 사이로
(?い笑い、?い悲しさが調和しな仲に)
다리를 절며 하루를 걷는다. 아마도 봄 神靈이 지폈나 보다.
(足を引きずって一日を?く。 おそらく春神?がつけたようだ。)
그러나, 只今은― 들을 빼앗겨 봄조차 빼앗기겠네.
(しかし、今は- 野原を奪われ、春さえ奪われね。)
年譜
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]
- 1901年4月5日、
慶?北道
大邱市
西門路に生まれる。
- 1915年、
ソウル
の
中央?校
に入?。桂洞32番地の??漢宅に下宿。
- 1918年、中央?校を修了し??。
金剛山
など
江原道
一?を旅する。
- 1919年、
三?一運動
に?加。??を逃れてソウルに?れる。
西大門?
冷洞92番地、
??家
の
朴泰元
のところに下宿。
- 1919年陰?10月、
公州
の
徐漢輔
の娘、順愛と結婚。
- 1922年、『
白潮
』の同人になる。同誌創刊?に「末世の?嘆」という詩を載せて文壇にデビュ?する。
- 1923年、渡日。
東京
のアテネ?フランセに通い
フランス語
を修める。
- 1924年、??。ソウル、嘉?洞の
翠雲亭
に住み、白潮派の人達と交遊を深める。
- 1926年、
傾向派
に同調し始める。
- 1926年、長男、龍熙が生まれる。
- 1927年、??。
- 1934年、
朝鮮日報
の慶北?局を??。
- 1934年、次男、忠熙が生まれる。
- 1935年、中?に渡り、兄の相定に?う。
- 1936年、??。
スパイ
容疑で朝鮮?督府に拘束され。
- 1936年、
嶠南?校
の講師を勤める(~1940)
- 1940年、『
春香?
』を英?(未完)。
- 1943年4月25日午前8時、自宅にて死去。
脚注
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