木下 延俊
(きのした のぶとし)は、
安土桃山時代
から
江?時代
前期にかけての
武?
、
大名
、
茶人
。
豊後?
日出藩
初代藩主。初名は勝忠
[1]
とも云う。官位は
?五位下
右衛門大夫
で、
通?
も右衛門大夫。
??
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]
天正
5年(
1577年
)、
木下家定
の三男として
尾張?
で生まれた。
家定は
豊臣秀吉
の正室
高台院
(
北政所
、おね)の兄で、
杉原定利
の子。秀吉に召し抱えられて
若??
小浜
領主となり、後には
備中
足守藩
主になった。木下姓を?するが、秀吉と血のつながりはない。延俊の母は
杉原家次
の娘、
雲照院
(おあこ)で、同母兄弟に
木下利房
、
小早川秀秋
がいる。
歌人
木下長嘯子として知られる
勝俊
は異母兄で、ほかの兄弟も異母兄弟とする系?がある
[15]
。
正室は
細川藤孝(幽?)
の娘?加賀
[5]
[16]
。
延俊は高台院が最も寵愛した甥であった
[17]
。父や兄弟らと同じく秀吉に仕え、天正16年(
1588年
)11月
[3]
、12?の時に
?津?
駒林(駒ヶ林)で500石の知行を?えられた。長兄2人は
若??
の領主であったため、父が
大坂城
の留守居に入る場合には、家定が城主を務める
?路城
の城代を任されていた。
文?
元年(
1592年
)、?五位下?右衛門大夫に?任された。文?3年(
1594年
)、
伏見城
の築城普請を分?し、
播磨
三木郡
で2万石を?えられた
[3]
。
慶長
5年(
1600年
)、
石田三成
が?兵した時、延俊は?路城にあったが、義兄
細川忠興
の助言でただちに
駿府
へ家臣を派遣した。そして二心無き旨を
?川家康
に誓って、交通の要である?路城を?じるなど、?初より東軍に?した
[3]
[18]
。叔父の播磨
三木城
主
杉原長房
[19]
が
田?城の?い
に?加したことや、兄弟等との混同によってしばしば西軍であったと誤解した資料があるが、これは間違いである。
また、延俊の弟の秀秋は、家臣
?葉正成
を介して家康に?路城に下がって情勢を見極めたい旨を申し出て許されていた。心ならず
伏見城の?い
に?加した後も依然として去就を定めきれずにいた秀秋は?路城に入ろうと思ったが、延俊はこれを嫌い、一旦西軍に加わった秀秋との?係を?つとして、小早川勢の受け入れを拒否したという逸話もある
[22]
。
日出若宮八幡神社
?ヶ原の?い
の後の10月18日、延俊は忠興に?って、
小野木重勝
が幽?の籠もる
田?城
を攻めた報復としてその居城の
福知山城
を攻?し、投降させた。これらの功により、慶長6年(
1601年
)、加?されて
豊後
速見郡
3万石に移封され、翌年ここに
日出城
を築いて
日出藩
の初代藩主となった。
日出若宮八幡神社
はキリシタンでもある日出代官の
毛利重政
(兵橘)によって破?されていたが、慶長7年(1602年)には再び御神?を迎えて復興した
[23]
[24]
。元和6年(1620年)には石?籠を、?永2年(1625年)と?永11年(1634年)には鳥居を寄進した。慶長12年(1607年)に祖母
朝日殿
と妻の法名に?連する名前の松屋寺を建造し、?渦で失われた井手八幡宮の再建などを行った。
慶長11年(
1606年
)、延俊は江?城普請に?加して虎ノ門の石垣工事を指揮した
[25]
。同19年(
1614年
)の工事にも加わり合計3度の江?城普請に自ら?加した。また、この年の冬の
大坂の陣
にも?川方として出陣し、同20年(
1615年
)の夏の陣にも?陣した。
慶長18年(
1613年
)6月20日、暑さ負けの病になった時に、
高台院
から?を3種と酒、補血?心作用があるとされた
?
を贈られている。服?と食養生を兼ねた?餌療法といえる
。
延俊は忠興の三男
忠利
と親しく、忠利の舅??軍
?川秀忠
の?えも良くて、
元和
5年(
1619年
)の?軍上洛に供奉し、同6年(
1620年
)の大坂城普請で助役に登用され、
?永
3年(
1626年
)の
後水尾天皇
の京都二?行幸にも?列した。同9年(
1632年
)、
肥後
熊本藩
主
加藤忠?
の改易では隣藩
?葉一通
と共に
八代城
に在番し、同14年(
1637年
)には
島原の?
にも出兵した。
?永19年(
1642年
)正月、
江?
にて死去した。享年66。高輪の
泉岳寺
に葬られたが、日出の菩提所松屋寺にも分骨された。同寺には4名の
殉死
者の墓もある
。なお、延俊の?後、遺領のうち2万5,000石を三男(嫡男)
俊治
が?いで2代藩主となり、速見郡立石5,000石は四男
延次(延由)
に分け?えられた。
慶長日記
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]
延俊は通?『慶長日記』と呼ばれる日記を?しており、慶長18年(
1613年
)の元旦から大晦までの1年間が1日も欠かさず記されたもので(?際の記載は延俊本人ではなく家臣の
祐筆
)、?時の大名の生活や翌年に迫った大坂の陣に至るまでの?史的背景を詳しく知ることができる。そこには、江?で第2代征夷大?軍?
?川秀忠
より馬や鷹狩りの獲物を?領し、そして
本多正信
ら幕府重臣や
古田織部
、
蜂須賀至?
らとも面?、また駿府では初代?軍だった大御所??川家康に謁見している記述などがある。京都では叔母?
高台院
より贈り物をもらい、さらに訪れた?家では母?雲照院の食事?入浴の記述もある。ほか、
織田有?
およびお忍びで大阪で
豊臣秀?
にも御目通りしている記述が見られる。また、この中には
新免無二
が登場し、延俊に兵法を?えたことも記されている。
系譜
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脚注
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]
?考文?
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]
?連項目
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外部リンク
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木下氏
日出藩
初代藩主 (1601年 - 1642年)
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