朝鮮半島南部の前方後円形墳

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朝鮮半島の前方後円形墳(長鼓墳)の1つ。左に前方部、右?に後円部と石室。日本列島の前方後円墳同?に周堀を有する。
朝鮮半島南部の前方後円形墳の位置(大韓民国内)
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
朝鮮半島南部の前方後円形墳
前方後円形墳(長鼓墳)の分布

本項では 朝鮮半島南部の前方後円形墳 、すなわち 朝鮮半島 南部の 大韓民? (韓?) 全羅南道 ? 全羅北道 に分布する、日本列島の 前方後円墳 と同じ墳形の古墳について解?する。

これらの古墳は、日本側では「前方後円墳」?「前方後円形墳」、韓?側では「前方後円墳(前方後圓墳)」のほか?器の チャング (チャンゴ/杖鼓/長鼓)になぞらえ「 長鼓墳 (チャンゴブン/장고분)」などと表記される。日本列島の前方後円墳との間には類似点?相違点が存在することから、以下本項では「 前方後円形墳 」の表記で?別して解?する。

?要 [ 編集 ]

朝鮮半島 西南部の ?山江 流域では、日本列島に特?的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10?基の古墳の存在が知られる。これらは 5世紀 後半から 6世紀 前半(朝鮮半島の 三?時代 、日本の 古墳時代 中期-後期)の築造とされ、 3世紀 中頃から 7世紀 前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、?時の日本列島と朝鮮半島の政治的???的?文化的?係を表す事例として注目される。

古墳の構造は、前方後円形という?形こそ各古墳で共通するものの、墳形の寸法や外表施設?埋葬施設の点では個?で相違し?一的ではない。?掘調査では、外表施設として一部の古墳に周堀?段築?葺石? 埴輪 ?木製品が存在することや、埋葬施設として一部に九州系 ?穴式石室 の要素が存在することが判明し、これらは日本列島の前方後円墳とも共通する。しかしそれら墳丘?施設は列島のものの模倣に近く、また副葬品には (日本)系? 百? 系? 大加耶 系の文物が混在する点で、特定地域に限らず??な地域との交?を反映した多義的な?相が認められている [1]

前方後円形墳の分布する?山江流域は、文?史?的には史料が乏しく?時の情勢が不明な地域になるが、考古?的には?時の倭?百??加耶のいずれとも異なる?自の在地系勢力( 馬韓 ?存勢力)が存在した地域とされる。そしてこの在地勢力が百?の支配下に入る時期( 6世紀 中頃)の前段階において、在地系の高塚古墳と列島系の前方後円形墳の2つの墓制が展開した [1] 。しかし?山江流域は日本列島と連?する地域ではないほか、一?では列島からの大量移住の形跡もなく、各前方後円形墳自?も1世代のみで築造を終焉するため、このような列島系の墳形が築造された背景は依然詳らかでない。現在も、被葬者としては在地首長??倭系百?官人??倭人?の3?に大きく分かれて議論が?くトピックになる。

一? [ 編集 ]

全ての座標を示した地? - OSM
全座標を出力 - KML
(凡例)
1)前方後円形墳の判?には諸?あるが、本一?表では高田貫太「?山江流域における前方後円墳築造の?史的背景」 [2] ?載の13基を採用した。
2)「墳丘長」欄は、柳?一男 『筑紫君磐井と「磐井の?」』?載の一?表 [3] での墳丘長の値を底本とし、近年の調査結果を加味し記載。
3)「時期」欄は、?掘調査で判明した推定築造時期を記載。
4)「?掘調査」欄は、?掘調査が行われた年次を記載。
5)「文化財指定」欄は、大韓民?における文化財指定名??指定?分を記載。
6)「朝鮮語版」欄は、ウィキペディア朝鮮語版における?該項目のリンクを記載。
7)「文化財?」欄は、大韓民? 文化財? ホ?ムペ?ジにおける?該項目のリンクを記載。
8)「大百科」欄は、『 韓?民族文化大百科事典 』(韓??中央?究院)オンライン版における?該項目のリンクを記載。
朝鮮半島南部の前方後円形墳の一?
名? 所在地 座標 墳丘長 築造時期 ?掘調査 文化財指定 朝鮮語版 文化財? 大百科
名? ?分
高敞七岩里古墳 全羅北道 高敞郡 孔音面七岩里 北緯35度23分7.45秒 東?126度30分56.67秒 55m 5c後 2015年 なし
光州月桂洞1?墳
(光州月溪洞1?墳)
光州?域市 光山? 月?洞 北緯35度12分49.80秒 東?126度50分30.59秒 45m 6c前 1993年
1995年
월계동장고분
(月溪洞長鼓墳)
光州?域市記念物 第20? [リンク] [1] [2]
光州月桂洞2?墳
(光州月溪洞2?墳)
光山?月?洞 北緯35度12分51.41秒 東?126度50分32.39秒 35m 6c前
光州明花洞古墳
(明花洞長鼓墳)
光山?明花洞 北緯35度7分33.92秒 東?126度43分25.59秒 33m 6c前-中 1993年
1994年
명화동장고분
(明花洞長鼓墳)
光州?域市記念物第22? [リンク] [3] [4]
?光月山里月桂1?墳 全羅南道 ?光郡 法聖面月山里 北緯35度21分25.49秒 東?126度30分23.75秒 39m -- 未調査 靈光月山里月溪古墳群
(靈光月山里月桂古墳群)
全羅南道記念物 第189? [リンク] [5]
潭陽古城里1?墳
(潭陽古城里月城山1?墳)
潭陽郡 水北面古城里 北緯35度17分2.83秒 東?126度55分1.71秒 24m -- 未調査 潭陽고성리月城山古墳群
(潭陽古城里月城山古墳群)
全羅南道記念物第187? [リンク] [6]
潭陽聲月里月田古墳
(潭陽?月里月田古墳)
潭陽郡古西面?月里 北緯35度12分48.41秒 東?126度58分32.87秒 38m -- 潭陽성월리月전고분
(潭陽聲月里月田古墳)
全羅南道文化財資料第221? [7]
咸平新?1?墳 咸平郡 月也面??里 北緯35度13分15.23秒 東?126度36分24.83秒 51m 5c末 1991年
1992年
咸平예덕리신덕古墳軍
(咸平禮德里新德古墳群)
全羅南道記念物第143? [リンク] [8] [9]
咸平馬山里1?墳
(咸平馬山里杓山(瓢山)1?墳)
咸平郡鶴橋面馬山里 北緯35度3分17.35秒 東?126度32分47.10秒 46m -- 咸平마산리古墳群
(咸平馬山里古墳群)
全羅南道記念物第122? [リンク] [10] [11]
咸平長鼓山古墳
(咸平長年里長鼓山古墳)
(咸平竹岩里古墳)
咸平郡孫?面竹岩里 北緯35度6分38.56秒 東?126度28分55.46秒 66m -- 未調査 咸平죽암리古墳
(咸平竹岩里古墳)
全羅南道記念物第152? [12] [13]
?岩チャラボン古墳 ?岩郡 始終面泰澗里 北緯34度50分58.76秒 東?126度36分44.76秒 37m
(48m)
6c初 1991年
2011年
2015年
靈巖태간리자라봉고分
(靈巖태간리자라峰古墳)
全羅南道記念物第190? [14] [15]
海南龍頭里古墳 海南郡 三山面昌里 北緯34度31分59.19秒 東?126度35分26.54秒 40m 6c中 2008年 海南용두리古墳
(海南龍頭里古墳)
全羅南道記念物第121? [16] [17]
海南長鼓山古墳
(海南方山里長鼓峰古墳)
海南郡北日面方山里 北緯34度27分24.61秒 東?126度41分8.13秒 76m -- 2020-
2021年
海南방산리장고봉古墳
(海南方山里장고봉古墳)
全羅南道記念物第85? [リンク] [18] [19]

以上のほか、光州堯基洞古墳(光州?域市光山?堯基洞)など?基の古墳でも前方後円形の可能性が指摘されている [4] [5]

また近年の?見報道??表として、次のものがある。

  • 2013年 - 康津永波里古墳(全羅南道 康津郡 康津邑永波里、墳丘長67メ?トルか) [6]
  • 2013年 - 羅州佳興里新興古墳(全羅南道 羅州市 多侍面佳興里、5世紀中頃か) [7]
  • 2015年 - 高敞七岩里古墳付近で2基 [8]

特? [ 編集 ]

分布
上記一?表のように、朝鮮半島西南部の 全羅南道 ? 全羅北道 (一部)における ?山江 流域??光地域?高敞地域?海南半島に10?基が分布する。この地域では、在地系古墳として 羅州市 の羅州潘南古墳群?羅州伏岩里古墳群などが知られ、前方後円形墳はその外?部に1基ずつ距離をおいて位置する [9] 。ただし、光州月桂洞1?墳?2?墳のみ2基が隣接して築造されている。
築造年代
?掘調査が行われていない古墳もあり築造年代は確?ではないが、?ね 5世紀 後半から 6世紀 前半の期間に?まるとされる [9] [1] 。日本列島の前方後円墳の期間( 3世紀 中頃- 7世紀 前半頃)に比して短期間の築造になる。この期間は朝鮮半島では 三?時代 、日本列島では 古墳時代 中期-後期に相?する。
墳丘
墳丘は前方後円形で、日本列島の前方後円墳と平面形を?ね共通する。墳丘長は約30メ?トルから最長76メ?トル(海南長鼓山古墳)で、日本列島の同時期の前方後円墳に比すと中規模クラスになる [1] 。しかし墳丘表面が急斜するなど、?面形において日本列島のものとは大きな差異が認められる [10] 。また、前方後円形墳同士でも形?は異なり、特に光州月桂洞1?墳?2?墳と光州明花洞古墳では、前方部が扇?に?がる特?を有する [10] 。墳丘自?の築造方法は、日本列島の工人の手法ではなく在地系工人の手法になる [10] [1] 。そのため、日本列島の前方後円墳と同一でなくむしろ模倣に近いと指摘される [10]
円筒形土製品
光州月桂洞出土品。?立光州博物館展示。
円筒形土製品(複製)
光州月桂洞古墳群?光州明花洞古墳?羅州新村里9?墳出土品。 ?立?史民俗博物館 展示。
外部施設
外部施設として、一部の古墳では墳丘表面に周堀? 葺石 ?段築の存在が知られ、これらは日本列島の前方後円墳と共通する [10] 造出 はいずれの古墳も有していない。
光州月桂洞1?墳?光州明花洞古墳??岩チャラボン古墳では、 円筒埴輪 ? 朝顔形埴輪 に類似した土製品が出土している [11] [1] 。これらの器形や、墳丘周?に?べる使用法は、列島の埴輪とも一致する [11] [1] 。また光州月桂洞1?墳??岩チャラボン古墳の周堀からは、列島のものと似た木製品が出土している [11] 。しかし、以上の土製品?木製品は列島の出土品と作製法?形?の点で大きな相違があり、墳丘築造同?に在地系工人による模倣と指摘される [10] [11] [1]
なお円筒埴輪?土製品の使用は、前方後円形墳に限らず在地系古墳においても見られている [11] [1]
?部施設(埋葬施設)
日本列島の前方後円墳と同?に後円部中央に埋葬施設1基を有し、石室は多くで ?穴式石室 が採用されている(ただし?岩チャラボン古墳は 竪穴式石室 [11] [1] 。?掘調査がなされた古墳のうちで、海南龍頭里古墳?咸平新?1?墳は、日本列島の北部九州?有明海沿岸部の古墳と?ね同じ工法で、?壁に ベンガラ を塗ることにも共通性が見られる [11] 。海南長鼓山古墳においても同?に北部九州の要素が部分的に認められるが、全?的には北部九州とは異なる?特の構造になる [11] 。光州月桂洞1?墳?2?墳の場合は大部分が破?されているが、やはり九州系石室の要素が存在する [11] 。一方これらに?し、?岩チャラボン古墳は百?系の石室とされる [11] 。なお光州明花洞古墳でも石室の調査がなされているが、破?が著しいため系譜はわかっていない [11]
石室?の埋葬棺は、咸平新?1?墳や光州月桂洞1?墳?2?墳では百?系?飾木棺の使用が推測されている [11] 。また光州明花洞古墳??岩チャラボン古墳においても木棺の使用が推測される [11] 。これら木棺の使用は、北部九州にはほとんど見られない埋葬法になる [11] [1] 。石室?施設での列島系要素は少なく、石屋形?(光州月桂洞1?墳)や石室?壁のベンガラに見られる程度である [11] 。咸平新?1?墳では埋葬施設から多?の副葬品が見つかっているが、特に倭系文物では銀?三角?式????り環頭 大刀 、百?系文物では?身具がある [11] 。全般的には、副葬品に?しては各地域の文物の混在が認められる [1]
なお、上記の北部九州系の?穴式石室は前方後円形墳に限ったものではなく、全南地方の在地系古墳や慶南地方(慶?南道)の古墳においても一部で確認されている [12]
在地系古墳との比較
?山江流域では、前方後円形墳と同時に羅州を中心として在地系古墳が?まれており(羅州潘南古墳群?羅州伏岩里古墳群など)、2つの墓制が存在したことが知られる [13] [1] 。その中で、5世紀中頃までは低墳丘に複?の甕棺?木棺を埋葬する複合梯形墳が採られた [13] [1] 。5世紀後半から方形?円形の高塚古墳に?わり、墳丘には複?の?穴式石室が設置された [13] [1] 。これらと前方後円形墳とは、?穴式石室の使用、葺石?埴輪?土製品の使用、百?系?身具の使用、木棺の使用などにおいて共通点が存在する [13] [1] 。一方で、墳形や、1古墳における埋葬施設の?の点では明らかに相違し、立地においても在地系高塚古墳の外?部に前方後円形墳が分布するという違いがある [13] [1]

背景 [ 編集 ]

朝鮮半島では、 4世紀 後半から 高句麗 が南下政策を採り、 475年 百? の漢山城(漢城: ソウル特別市 )が高句麗によって?落する。これを受けて百?は都を475年に 熊津 忠?南道 公州市 )、さらに538年に 泗? (忠?南道 扶餘郡 )に遷した。前方後円形墳が?まれた5世紀後半から6世紀前半という期間は、百?がこの熊津に都を置いた時期に?ね相?する。この間に百?は勢力回復のため半島南部を志向し、上?唎?下?唎?娑陀?牟婁を 512年 に(『日本書紀』ではヤマト王?による任那四?の割?と記述)、 516年 までに己汶、 522年 までに?沙(多沙津)を領有する [14] [15]

?山江流域に限定した場合、文?史?的には史料に乏しいためこの期間の?態は明らかでない。今日の2000年代以降の?史?科書においても、この地域を日本側では加耶諸?の領域に、韓?側は百?の領域に含めており日韓??で見解に相違が存在する [16] 。この相違は『日本書紀』神功皇后49年( 369年 ? [注 1] )3月?での加羅七?平定??ならびに朝鮮半島南部を支配したという組織(いわゆる 任那日本府 )の?の主?についての見解の違いに起因するものであったが、この地域の考古?的な?態解明が進んだことによって日本?百?のいずれの直轄的支配も見直されつつある [17] [12] 。考古?的には、?山江流域は 原三?時代 馬韓 ? 弁韓 ? 辰韓 )の馬韓諸?の1つで、三?時代にも百?に?合されるまで (日本)? 百? ? 加耶 のいずれにも?さない在地勢力(馬韓?存勢力、一?に慕韓)であったと考えられるようになってきている [16] [17] [12] 。そして5世紀後半から6世紀前半に在地系の高塚古墳や列島系の前方後円形墳が築造されたのち、6世紀中頃には百?系の 陵山里古墳群 型石室が?まれ馬韓勢力のうちで最も?く百?の支配下に入ったものとされる [17] 。なお、512年に百?が領有したという上?唎?下?唎?娑陀?牟婁を?山江流域に比定する?がある [16] [18]

日本列島では、3世紀中頃に 前方後円墳 が?生し、この「前方後円形」を首長墓の基本規格とする政治?制いわゆる「 前方後円墳?制 」が漸次形成された [19] 。4世紀半ばからは大陸王朝が弱?化し、列島?半島それぞれで中央集?化が進むが、その過程で、列島では5世紀に入ると巨大前方後円墳が創出され、5世紀後半の雄略大王( 雄略天皇 )の頃には前方後円墳の分布域は最大を迎える。6世紀前半の??大王( ??天皇 )の頃には半島との交流が特に活?化するが [20] 、この間、ヤマト王?は半島への政治的影響力を?め、半島においても前方後円形墳が造?されるに至る [19] [20] 。ただし、6世紀後半までは列島での?半島外交は一元化されておらず、ヤマト王?のほか葛城?吉備?筑紫など各地方豪族によって多元的外交が行われたとされる [16] [14] 。そのうち筑紫勢力(九州勢力)については、半島の九州系?穴式石室の展開との?係がうかがわれ、 磐井の? 527年 - 528年 (または 530年 - 531年 [注 2] ))を契機とした筑紫勢力の衰退との?連を推察する?もある [12]

考? [ 編集 ]

?究史 [ 編集 ]

朝鮮半島の前方後円形墳に?する?究は、古くは?前に日本の谷井?一? 有光?一 らによって存在可能性が指摘されたことに遡る [21] 。?後に至り、 1972年 に韓?の?龍潭?尹世英らにより松鶴洞の古墳について前方後円墳の可能性が指摘され、再び認識されるようになった [21]

本格的に注目を浴びるようになったのは 1983年 で、韓?の姜仁求によって 慶?南道 固城の松鶴洞1?墳 [注 3] を初めとする慶?道?全羅道? 京畿道 の古墳36基で前方後円形の可能性が指摘された [21] 。1980年代後半から古墳の測量調査が進み、さらに1990年代からは?掘調査も開始され、前方後円形の古墳が存在することは確?となった [21] 。現在では上記10?基が前方後円形として認められ、考古?的に全容が明らかになりつつある。

これらの前方後円形墳は、?見?初は韓?側において日本列島の前方後円墳の起源になる古墳として注目されていた [22] 。しかしその後の調査によって築造年代が5世紀中頃以降であることが明らかとなり、逆に列島から導入された文化であることが確?とされている [22] 。ただし具?的な?緯に?しては明らかとなっておらず、被葬者の比定は在地首長??倭系百?官人??倭人?の3?に大きく分かれ [22] [23] [24] [1] 、現在も活?な議論が?いている。

現在の諸? [ 編集 ]

在地首長?
?山江流域の在地系首長が、一定の主?性を保ったまま、それまでの形式に代えて前方後円形を採用したとする? [24] [1] 。百?が漢山城?落ののち南方を志向したことを受け、?山江流域首長が百??倭と一定の交流を取りながら自立を維持するため、百?に?するアピ?ル(牽制)として倭の形式を採用したと推測する [24] [1] 。また九州系の?穴式石室が存在することから、九州へ渡った?山江流域出身者が媒介となり、北部九州と連携しようとしたとする [24] 。羅州地域の在地系古墳との??については、在地系グル?プ間で交流相手が異なった結果の相違であるとして、?存性を?定する [13] [1] 。そのほか、倭との交流に?係なく百?の?迫に?抗するためのモデルとして前方後円墳を模倣したとする?、?山江流域はすでに百?の支配下にあったが漢城?落に伴ってその支配が緩まったとする?も提唱されている [24]
この?に?して、前方後円形墳の多くが在地系譜のない地域に突如出現すること等が反論として?げられる [23]
百? 武寧王 (在位: 502年 - 523年 )の陵。円墳で、 木棺 には日本列島産の 高野? を使用。
倭系百?官人?
  • 主な論者:朱甫?、 山尾幸久 、西谷正、朴天秀、柳?一男
大加耶征服を見据えた百?が?山江勢力の牽制のため派遣した、倭人(北部九州?有明海出身者)の墓とする? [24] [1] 。前方後円形墳の分布の分散性、前方後円形墳における百?系?倭系要素の混在、『日本書紀』にある倭系百?官僚の存在が根?として?げられる [24] [1] 。例えば『日本書紀』雄略天皇23年4月?には、百?文斤王( 三斤王 )の死去により 東城王 が??するに際し、筑紫?軍士500人が護衛に遣わされたと見える [25] 。また同書??天皇6年?などには、下?唎?守(?唎?守)の ?積臣押山 の名があるが、これも倭系百?官僚とする?がある [25] 。そのほか、欽明天皇紀によれば 紀臣奈率?麻沙 ?物部施?麻奇牟?物部連奈率用奇多?許勢奈率奇麻?物部奈率歌非?物部奈率奇非などの倭系と見られる百?人官僚の名が知られる [25] 。そしてこのような官人の墓に比定する根?として、前方後円形墳は在地系譜のない地域に突如1代に限って出現することから、外部からの??的派遣が指摘される [23] 。羅州地域の在地系古墳との??については、外部勢力により交通路の遮?や外?部からの?迫のため前方後円形墳が配置されたとして、敵?性を?定する [13] [1]
この?に?して、在地系古墳と前方後円形墳の間に共通点が多く存在することや [26] 、各前方後円形墳が?時の百?王陵( 武寧王陵 の場合で20メ?トル)を上回る規模を持つこと [16] 、?時の?山江流域の百?への??自?が不明であること等が反論として?げられる [27]
??天皇 (在位: 507年 ?- 531年 ?)の?陵とされる。前方後円墳。
倭人?
  • 主な論者:東潮、洪潽植
日本列島から移住した倭人の墓とする? [24] [1] 。その中で、?山江流域を『 宋書 』倭??に見える「慕韓」と?定し、この慕韓が倭の影響下にあったと推測する?などがある [23]
この?に?して、倭人の大量移住の痕跡が見られないこと、慕韓は考古?的に??がなく形式的呼?と見られること、?山江流域と倭の間の交通路に大加耶?新羅が勢力を張っていたため倭の割?は困難であること等が反論として?げられる [23]
その他
  • 林永珍は、?山江流域から北部九州に移住した集?が、情勢の?化に伴い再び?山江流域に?ったと推測する [24] 。しかし考古?的な裏付けには至っていない [23]
  • 都出比呂志 は、前方後円墳を墓制の頂点とするヤマト王?の政治秩序として「 前方後円墳?制 」を提唱する中で、朝鮮半島南部の前方後円形墳についても、雄略大王期の中央集?化や??大王期の朝鮮半島進出?交流を築造の背景として推測する [20]
    一方、これらの前方後円形墳では倭系に限らず在地系?百?系?加耶系の習俗も多重する点 [28] 、円墳?方墳なども含めた墓制全?でなく前方後円墳だけの「切り出し」である点 [29] 、6世紀にはすでに前方後円墳自?がヤマト王?の序列を表す意義を喪失したと見なせる点で [30] 、そのような「政治秩序」の流入とする解?には批判もある。

脚注 [ 編集 ]

注?

  1. ^ 神功皇后紀では、神功皇后55年(書紀紀年では西?255年)に肖古王( 近肖古王 を指す、西?375年?)が死去したとあることから、紀年は120年分繰り下げて修正される ( 田中俊明 & 2009年 , pp. 50?51)。
  2. ^ ??天皇紀での天皇晩年の編年は、『百?本記』の?える辛亥の?( ???欽明朝の?? )により3年繰り上げられたとする?がある。その場合、書紀の527年から528年という紀年は?際には530年から531年の出?事になる(「磐井の?」『日本古代史大?典』 大和書房、2006年)。
  3. ^ 松鶴洞1?墳は、?掘調査により築造時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものと判明したため、前方後円形?は否定されている。しかし 森浩一 は、調査前の墳丘が明らかに前方後円形をなしていたことから、?塚(福岡?筑紫野市)のように前身古墳を取り?んで後身古墳が築造された可能性を指摘する。

出典

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  15. ^ 田中俊明 & 2009年 , pp. 76?77.
  16. ^ a b c d e NHK "任那日本府"の謎 & 2009年放送/2010年書籍化 .
  17. ^ a b c ??韓?考古? & 2013年 , pp. 306?308.
  18. ^ 田中俊明 & 2009年 , p. 78.
  19. ^ a b 都出比呂志 「前近代?家論の再生のために-日本古代の?家形成過程-前方後円墳?制の提唱(全??シンポジウム)」『日本史?究』 1990年。
    都出比呂志『古代?家の胎動 -考古?が解明する日本のあけぼの-(NHK人間大?テキスト)』日本放送出版協?、1998年。
    都出比呂志「古墳と東アジア」 『京都府埋?文化財論集 第6集』 京都府埋?文化財調査?究センタ?、2010年。
    都出比呂志『古代?家はいつ成立したか(岩波新書1325)』岩波書店、2011年。
  20. ^ a b c 都出比呂志『古代?家はいつ成立したか(岩波新書1325)』岩波書店、2011年、pp. 102-104, 132-137。
  21. ^ a b c d 西谷正 & 2002年 , pp. 4?7.
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  27. ^ 『?見??? 日本の古代II 騎馬文化と古代のイノベ?ション』 KADOKAWA、2016年、pp. 161-171。
  28. ^ 高田貫太 & 2017年 , pp. 278?283.
  29. ^ 森下章司 『古墳の古代史 -東アジアのなかの日本(ちくま新書1207)』 筑摩書房、2016年、pp. 167-170。
  30. ^ 杉山晋作 「6世紀に朝鮮半島へ渡った日本列島人たち」『文化遺産の世界 21?』 ?際航業株式?社文化事業部、2006年。

?考文? [ 編集 ]

(記事の執筆に使用した文?)

  • 事典類
    • 岡田裕之「前方後円墳」『日本古代史大?典』 大和書房 、2006年。 ISBN   978-4479840657  
    • 柳?一男「前方後円墳」『東アジア考古??典』 東京堂出版 、2007年。 ISBN   978-4490107128  
    • 「前方後圓墳(前方後圓墳)」 韓?民族文化大百科事典 』オンライン版、韓??中央?究院 (朝鮮語)
  • その他文?
  • 番組

?連文? [ 編集 ]

(記事の執筆に使用していない?連文?)

  • 森浩一 『韓?の前方後円墳 -松鶴洞一?墳問題について-』 社?思想社 、1984年。 ISBN   4390602756  
  • 『幻の加耶と古代日本』 文藝春秋編、文春文庫、1994年。
  • 『前方後円墳と古代日朝?係』 朝鮮?? 、2002年。 ISBN   4886212514  
    前?:『朝鮮?報 第179輯』 朝鮮??、2001年。
    • 西谷正 「韓?の前方後円墳をめぐる諸問題」
    • 柳?一男 「全南地方の?山江?穴式石室の系譜と前方後円墳」。
    • 田中俊明 「韓?の前方後円形古墳の被葬者?造墓集?に?する私見」。
    • 山尾幸久 「5、6世紀の日朝?係 -韓?の前方後円墳の一解?-」。
  • 朴天秀『海を渡った日本文化 -古代の韓半島と日本列島-』 ?脈社 、2006年。 ISBN   4860611829  
  • 『古代日本の異文化交流』 勉誠出版 、2008年。 ISBN   978-4585104391  
    • 朴天秀 「?山江流域における前方後円墳からみた古代の韓半島と日本列島」。
    • 柳?一男 「韓?の前方後円墳と九州」。
    • 土生田純之 「前方後円墳をめぐる韓と倭」。
    • 鈴木英夫 「韓?の前方後円墳と倭の史的動向」。
    • 近藤浩一 「?山江流域慕韓?の?究史的?討」。
  • 小田富士雄 「韓?の前方後円形墳」『古代九州と東アジア 1』 同成社 、2012年。 ISBN   978-4886216168  

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外部リンク [ 編集 ]