服部氏

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服部連 (服部氏=はとりうじ、はとりべうじ、はっとりうじ)は、「 服部 」を連、 または 苗字 とする 日本 氏族 。「はとり」は「はたおり」(機織)の音約であり、元は機織り( 服部 )を職掌とした 品部 を指す。なお、 促音 を交えた「はっとり」は更に後世のものである [1]

服部連(服部氏) [ 編集 ]

服部氏
氏姓 服部連
始祖 天御?命
天御中主命 の十一代孫)
出自 大和國 山?郡
伊豆國
種別 神別
本貫 大和? 山?郡 服部? [注 1]
凡例 / Category:氏

出自 [ 編集 ]

新撰姓氏? 』には 大和? [2] ?津? [3] 河?? [4] に「服部連」があわせて3氏見え、それぞれ神別とされる。

大和?服部連 [ 編集 ]

大和? 天神系の服部連は 天御中主命 の十一世孫にあたる 天御?命 が祖と記されている [2]

そもそも『 新撰姓氏? 』は および 畿? に住む 1182氏 を、その出自により「 皇別 」?「 神別 」?「 諸蕃 」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由?、分岐の?子などを記述するものであるが、主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたもので、現存する『新撰姓氏?』は、目?だけの抄記(?き書き)であって本文は?っていないが、『新撰姓氏?』の?象とする範?は 京(左京?右京)と 五畿 ?に住む姓氏に限られており 、行政?分では 奈良? の全域、 京都府 の南部、 大阪府 の大部分、 兵庫? の南東部となり、伊豆?は含まれていない。

大和國 山?郡 (現在の奈良?天理市など) の服部神社( 村屋坐彌?都比賣神社 境??社)にも?承が?わっている [5] 。同社は、かつて大字大安寺カキノモリに?座していたが、南北朝時代に兵火にかかり、天正元年( 1573年 )に 村屋坐彌?都比賣神社 境?に遷座したとされる [5]

?津?服部連 [ 編集 ]

?津? 神別系の服部連は、『 新撰姓氏? 』によれば、 ?之速日命 十二世孫の麻羅宿?が 允恭朝 に織部司に任じられ、諸?の 織部 を管掌したことから 服部連 と?されたと?わる [3]

この麻羅宿?を 伊豆?造 若多祁命の孫であるとし、古代 伊豆? を支配した 伊豆?造 一族を出身とする?も存在する [6]

大阪府 高槻市 宮之川原元町の 神服神社 では?之速日命、麻羅宿?を祭神としており、同府 豊中市 服部元町 ?座の 服部天神宮 とも?係が深い。

河??服部連 [ 編集 ]

河?? 天神系の服部連も同?に ?之速日命 の後裔とされる [4]

伊豆?服部連

播磨?風土記 ?容郡 中川里?には、執政大臣である服部彌蘇連と 因幡?造 族の阿良佐加?との子である宇奈比??久波比?の姉妹が登場し、「伊豆宿?系?」 [6] ではこの二人と麻羅宿?が兄妹とされる。

伊勢國奉織 [ 編集 ]

大和國から伊勢國へ天照大御神が着座されて以降、伊勢神宮( 皇大神宮 )にほど近い 伊勢? 飯高郡 (現 三重? 松阪市 )には 神服織機殿神社 神服部氏(かんはっとりうじ) があり、和妙、荒妙の神御衣(かんみそ)を天皇に奉織していたといわれる [7] 雄略帝 代に ?? から 漢織??織 また衣織(きぬぬい)の兄媛?弟媛(えひめ?おとひめ)ら4名の 織? を奉り、これより機殿の技が向上し、機織がますます盛んになったとされる [7] 。 機殿神社には上下二社あり、下機殿?神服織機殿神社は皇大神宮の神御衣(かんみそ)のうち「和妙」( ?にぎたえ)を奉織する皇大神宮の所管社である。皇大神宮の神御衣?和妙を奉織する機殿(八尋殿)の守護神であり服部神部の祖神と?わる 天御?命 (あめのみほこのみこと)、奉織工の祖先? 天八千??命 (あめのやちちひめのみこと)を祀る。

系譜 [ 編集 ]

加理波夜須多祁比波預命
賀茂?主 三島溝?耳神 長子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
多祁美加?命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天足別命
(武乳速命、速?和?命、天見通命、麻刀方命)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天御?命
(天??命、伊刀麻命、 天御中主命 十一世孫)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
?忍多?命
(?忍男命)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
意保名豆命
(押勝命)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
由多祁命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦振根命
武甕槌命 十五世孫)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
波刈?命
(葉刈命、 崇神朝
武磐?命
(五十功根命、川原忌寸祖)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
磐表主命
(磐表廣根命)
美加?比?命
中臣連 上祖 神聞勝命 妻)
 
 
 
 
 
 
 
古美呂伎命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若多祁命
神功皇后 ?政期 伊豆?造
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田?乃直
仁?朝 ?大日下部、 日下部直
?蘇足尼 麻目古乃直
(同朝定賜 壬生部 、大生部直)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
波背古乃直 麻羅足尼
允恭朝 服部連 祖)
久波比? 宇奈比?

大和?服部氏 [ 編集 ]

大和國山?郡 服部(波止利)

?立公文書館 にある『 新撰姓氏? 』815年(弘仁6年)に記される?承では、服部連について神別の?に 大和? ?津? がそれぞれが記されている。

大和?の神別では、服部氏の祖神は、 天御中主命 の十一世孫にあたる 天御?命(アメノミホコノミコト)

伊賀?服部氏 [ 編集 ]

服部氏
(千賀地氏)
源氏車に矢? げんじぐるまにやはず
矢車 やぐるま
本姓 ? ? 桓武平氏 忠正流
家祖 服部家長
種別 武家
出身地 伊賀? 阿?郡 服部?
主な根?地 伊賀?阿?郡服部?
伊勢?
著名な人物 服部正成 (2代目 服部半?
服部小平太 (?川家臣)
服部康成 (陸?弘前藩家老)
支流、分家 阿波氏 (武家)
旗本服部家(武家)
大服部家(武家)
小服部家(武家)
服部?書家(武家)
服部伊織家(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

出自 [ 編集 ]

伊賀? 阿?郡 服部?( 府中村 服部、現? 三重? 伊賀市 服部町 服部川 あり)が?祥地とされ、 小宮神社 神主 と?わる(『 延喜式 』?『 伊賀考 』等?)。

服部氏の系譜は諸?があり、『 平家物語 』によると 桓武平氏 忠正流 とされ、その一族なる 服部六?時定 (服部家長と同人物?)なるものが、源氏方の 伊豆右衛門少尉有綱 を討ち取ったとされる記述があったり、 ?和源氏 義綱流 とも?していたりする。

それ以外の?としては 楠木氏 伊予橘氏 )、あるいは 忌寸 の末流とされる(秦氏?については『 三?地誌 』?『 永閑記 』によると「 服部氏を秦氏の裔とするは、非なり 」と記されている)。

しかしながら、服部氏の系譜はいずれも確?が明確ではないので信憑性に乏しい。 伊賀地方 土豪 神官 も兼務とされる)の出であると思われる。

?要 [ 編集 ]

服部氏族のうち桓武平氏流を?する服部氏の祖は、 平安時代 武? ? 服部家長 ?左衛門尉 )『 源平盛衰記 』であり、伊賀平?左衛門尉家長とも?される。家長は平氏側につくも、 壇ノ浦の?い で?死したとされる。しかし家長は生き延びており、出身地の伊賀へ?ったが生地の阿?郡服部?荒木を避け、?れ里であった花垣?余野に一族??と移り住んだ。家長は「千賀地」と名?り、長男と次男を伊賀北西部と南部に住ませたという [8] 。しかしながら、これらはあくまで異?であり信憑性に乏しい。

一般的に知られる服部半?の家系の由?については、 ??時代 に千賀地保長( 半?保長 )が服部姓に復し服部保長と?したという。保長は、はじめ?軍 足利義晴 に仕え( 北面武士 就任の?もある)、のちに三河へ移り住み 松平?康 ? ?忠 に仕えた。以後服部家は代?松平氏( ?川氏 )に仕えている。保長の子である 服部正成 ?川家康 に仕え、譜代家臣として 伊賀衆 伊賀同心 を率い活躍した。正成や配下が居住した?町付近の江?城の門は「 半?門 」と呼ばれ、現在も 皇居 に現存している。

しかし、正成の祖である千賀地家の家格から、伊賀同心らは正成を格下と見て?いたがらなかったという。正成の死後、跡を?いだ長男 服部正就 と伊賀同心もそれらの確執が元で?立し、正就は些事を咎められ 改易 となった。次に跡を?いだ正就の弟 服部正重 は金山奉行である 大久保長安 の娘?であったが、長安の死の直後に起きた大久保家の不正蓄財疑惑( 大久保長安事件 )の影響か、些事を咎められ 改易 となった。しかし、正重は身柄を預けられた 村上藩 で以後29年間を 村上家 ? 堀家 に仕えた。村上藩が一時?藩になると正重は息子と 甲州 に?棲していたが、兄?正就と 松平定勝 の長女?松尾の次男であり桑名藩 久松松平家 に仕えていた 服部正辰 が彼らを探し出し、 桑名藩 へ招かれると、?時の桑名藩主であった 松平定綱 に上席 家老 の身分で召し抱えられた。以降、服部半?の家系は桑名藩の家老職家(大服部家)として存?する。

明治時代には、桑名藩家老であった十二代 服部半?正義 が三重?の?長等を務め、?の?展に?くした。

系譜 [ 編集 ]

庶流 [ 編集 ]

現在も?く庶流として、 阿波氏 がある。『 三?地誌 』には 阿波越後守 の名が見え、この系統は現在も 阿波氏館 (下ノ館)に居住している。

その他の服部氏 [ 編集 ]

本願寺 配下の服部氏は、前述の服部氏とは別系統で、 伊勢? 奄芸郡 が?祥とされる。??時代の「服部?」?主の 服部友貞 が有名。 尾張? 河?を領して 伊勢 長島城 の城主も務めたが、 1568年 織田信長 の謀略にかかり討ち取られ、服部一門は 長島一向一揆 に?加し 織田氏 に抵抗し?けた。長島一向一揆崩?後、 服部正友 ら服部一門が織田氏の許可を得て復?し、市江島(現在の ?富市 )を開墾。 江?時代 には 尾張藩 の元で大 庄屋 として存?し、子孫として 服部擔風 などを輩出した。

陸? 弘前藩 の服部氏は、 ?ヶ原の?い の時に 津??信 に仕えた 服部康成 大垣城 攻めで功を上げ、筆頭 家老 となったのが始まりである。系譜の詳しいことは不明だが、 本多政重 が米?藩や加賀藩に送りこまれ幕府と折衝をもった点、 服部正成 の庶子との?承がある点から家康による津?藩監視の密命を?びた可能性も指摘される。

服部? [ 編集 ]

その他 [ 編集 ]

芥川賞 受賞作家で 東京都知事 をつとめた 石原?太? は自身の家系について 佐野眞一 との?談の中で

うちの本家はそもそも石原ではなく 服部 なんです。そんな大家でもないけれど、元は、落魄 (らくはく) した士族です。先祖は武田の??でそれが 松山 に流れて服部姓を名?った。弓の名人だったらしく、? (いくさ) で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが (笑) 、それで七つ矢車の家紋を許された。?代、服部勘助を名?った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以?石原姓を名?った ? 石原?太?、 [9]

と述べている。?太?の祖父 石原信直 (警察官)は 服部信義 の二男である [10]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 「波止利」とも。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 太田亮 「服部」『姓氏家系大?典』第二?、?民社、1944年、4795-4803頁。
  2. ^ a b 新撰姓氏? , p. 38.
  3. ^ a b 新撰姓氏? , p. 41.
  4. ^ a b 新撰姓氏? , p. 44.
  5. ^ a b 服部神社(村屋坐彌?都比賣神社 境??社) ”. 2024年3月10日 ??。
  6. ^ a b 篠川賢「 伊豆?造再論 」(pdf)『日本常民文化紀要』第20?、成城大?、1999年3月、85-109頁、 CRID   1050845762401328512   閲覧は自由
  7. ^ a b 機殿神社 神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ) ”. 2024年3月10日 ??。
  8. ^ 「伊賀天正の?」(?山高治/新風書房)
  9. ^ 佐野 2003 , p. 28.
  10. ^ 佐野 2003 , p. 29.

?考文? [ 編集 ]

史料
  • 新撰姓氏?
  • 『延喜式』
  • 『伊賀考』
  • 『三?地誌』
  • 『永閑記』
  • 『平家物語』
  • 『源平盛衰記』