?我 ひとみ
(そが ひとみ、
1959年
(
昭和
34年)
5月17日
- )は、
1978年
(昭和53年)8月に
新潟?
佐渡郡
?野町
(現、
佐渡市
)から母親の
?我ミヨシ
とともに北朝鮮(
朝鮮民主主義人民共和?
)に拉致された
日本人
女性
[2]
[3]
[4]
[5]
。
北朝鮮工作員
による
拉致被害者
[2]
[3]
[5]
。
1980年
(昭和55年)8月に
アメリカ人
?走兵の
チャ?ルズ?ジェンキンス
と結婚し、2人の子をもうけた
[4]
[6]
。
2002年
(平成14年)10月、24年ぶりに
日本
への??が?い、
2004年
(平成16年)7月には夫と娘の日本行きが?現した
[4]
。現在も
佐渡島
在住。
人物?略?
[
編集
]
母の?我ミヨシとひとみ(1960年代)
?我ひとみは、1959年(昭和34年)5月17日、?我茂?ミヨシの長女として新潟?佐渡郡?野町に生まれた
[1]
[2]
。?野中?校では
バドミントン部
に所?した
[2]
。
1975年
(昭和50年)3月に中?を卒業し、4月には
佐渡?合病院
付?准看護?院(?
金井町
)および
新潟?立佐渡高等?校
定時制課程
?根分校(?
佐和田町
)に入?した
[3]
[7]
。准看護?院の?員は、ひとみはひたむきに頑張っていたと語っている
[3]
[7]
。病院勤務は
1977年
4月から始まり、夜間高校に通いながら
准看護師
として?いた
[3]
[7]
[注? 1]
。子ども相手の仕事は特に好きで、上手にあやしながら手?てを施していたという
[3]
。
1978年
4月から、ひとみは
外科
外?に配?となった
[3]
。親しい友人だけには外科は苦手だと語ったが、?刻や無?欠勤は一度もなかったという
[3]
。高校へは、仕事を終えると午後6時からの授業に間に合うように夕食もとらず、病院から約10キロメ?トルの距離を
バス
で通?した
[9]
。授業の後は
バスケットボ?ル部
の練習があり、病院の寄宿?に?ると、だいたい午後11時を過ぎていた
[9]
。彼女はふだんは病院の寮で暮らし、週に一度、
土曜日
に?野町の?家に?り、
日曜日
に寮に?るという生活をしていた
[2]
。定時制高校の
卒業?書
を授?される前に彼女は拉致されてしまった
[9]
。
拉致
[
編集
]
拉致事件
が起こったのは、1978年(昭和53年)8月12日土曜日のことであった
[2]
[3]
[10]
。その日、ひとみは午前の診察を終え、夕方に?宅した
[3]
。そして、仕事を終えて?宅した母と少し話した後の午後7時頃、2人は400メ?トルくらい離れた?貨屋まで買い物に出た
[2]
[3]
[7]
[11]
。母のミヨシは前掛け姿のままで、
台所
には水に浸したままの
赤飯
用の
もち米
が置いてあった
[3]
[7]
。中?1年生だった妹は、2人はすぐに?ると思っていたという
[3]
[7]
。ひとみはその時、母と2人きりで話したいという?持ちがあったので、自分も買い物に行くと言った妹と少し言い?いになった
[12]
[注? 2]
。
2人が
盆
に?前の供えるものや
アイスクリ?ム
などの買い物をすませて店を出、家の方に?ろうと?いていると、後方で何人かの足音が聞こえた
[2]
[3]
。振り向くと男が?に3人?んで後をついて?るのがわかった
[2]
[3]
。2, 3分してもまだついてくるので、?味が?くなって「急ごう」と2人で話して少し足早に?くようにした
[3]
[12]
。道路沿いの大きな木のある家のところまで?たとき、突然、後ろから男たちが襲いかかってきて母と娘を木の下に引きずり?んだ
[2]
[3]
[12]
。家まで?十メ?トルないし100メ?トルというところだった
[5]
[11]
。彼女は?を出せないよう口をふさがれ、袋に詰められ、1人の男に?ぎ上げられた
[2]
[3]
[12]
[注? 3]
。母がどうなったかはわからない
[2]
[3]
。それ以?、ひとみは母のすがたを一度も見ていない
[5]
[12]
[注? 4]
。
休み明けの月曜日(1978年
8月14日
)午前8時すぎ、彼女の勤めていた病院の受付前では異?が起きていた
[3]
。すでに患者が4, 5人列をつくって?んでいた
[3]
。いつもなら、彼女がドアの鍵を開け、受付の準備を?ませている時間だった
[3]
。病院脇の寄宿?に電話を入れても?答がなかった
[3]
。?婦長と病院事務長は9時すぎ、寄宿?に?け付け、
机
や
タンス
も探して手がかりになるものを探した
[3]
。病院の
ロッカ?
も開けたが何の手がかりも見つからなかった
[3]
。家でも父親、親戚のほか集落?出で100人以上が?索に?たった
[16]
。裏山、川べり、海岸、くまなく探し、
佐渡汽船
の?船名簿も一枚一枚丹念に調べた
[16]
。やはり、手がかりは得られなかった
[16]
。佐渡ではひとみと母親は酒好きの父から逃げたという?が?まった
[5]
。父親自身も妹に、ひとみには准看護師の資格があるので母と二人で暮らしているのではないかと語った
[16]
。自殺したのではないかという人もいた
[5]
。妹は身の回りの世話をしてくれる親戚のもとで暮らすことになり、父はひとりで妻と長女を待った
[17]
。父と妹は、大事な家族を奪われたほかに、長い間、いわれのない?評と疑惑のなかにさらされたのである
[5]
。?校では、全員卒業を目標にしていた同級生たちや?任?師が突然のひとみの失踪にショックを受けた
[16]
。半年後、彼女の勤めていた病院に退職の申し出がなされた
[3]
。
北朝鮮へ
[
編集
]
拉致されたとき、?我ひとみはまだ19?であった。袋に入れられて?がれた?我ひとみは、小さな、おそらく木製の舟に?せられて川から海へ出て、沖に出てから少し大きな船に?り換えさせられた
[2]
[11]
[12]
。ひとみは船?でたどたどしい
日本語
を話す女性の?を聞いている
[11]
。翌13日の午後5時頃、船から降りた
[2]
。後で考えてみると、そこは北朝鮮の
?津
にちがいなかった
[2]
。翌朝彼らは、朝食の後、ひとみを海岸まで連れていき、「
アサリ
を探してもよい」と言った
[5]
[注? 5]
。
拉致?行犯は4人組で、そのうち1人はたどたどしい日本語を話す女工作員、通?「
キム?ミョンスク
」であった
[12]
[15]
。身長約150センチメ?トルで
朝鮮????外情報調査部
に所?していたとみられる。拉致?行の少し前から佐渡に?伏していたという
[12]
。3人の??員と日本語のできる1人の工作員4人のチ?ムという編成は、
蓮池?
、
地村保志
ら「
アベック失踪事件
」と?された拉致事件のケ?スと共通している
[12]
。キム?ミョンスクが日本語を話した相手としては、北朝鮮??工作員は考えられないので、?我ミヨシだったのではないかと考えられる
[12]
。そしてまた、4人は?我ひとみを連れてそのまま4人で北朝鮮まで行っているところから、北朝鮮?局が主張する「現地請負業者」なるものは?在しないものと考えられる
[12]
[注? 6]
。
?津の招待所に少しいた後、夜行汽車に?って翌朝平?に着いた
[2]
。平?に着いたのは
8月15日
のことであった
[5]
。平?の招待所には1週間ほどいて、別の招待所に移動したが、そこには
?田めぐみ
がいた
[2]
。?田とはすぐに仲良くなった
[15]
。彼女は?我ひとみといるときはいつもにこにこしていて、かわいらしいえくぼを見せていた
[15]
。そこで?田とは5か月ほど同居し、その後、別の招待所でも一?に生活した
[2]
。結局、?田とは1978年から
1980年
にかけて1年半近く同居し、?は朝鮮名で呼び合い、夜は日本語で小さな?で話す生活を送った
[18]
[19]
。2人とも日本が?しく、とにかく日本に?りたかった
[15]
。母への思いは共通していた
[15]
。?我ひとみの朝鮮名はミン?ヘギョン、?田めぐみの朝鮮名はリュ?ミョンスクであった
[注? 7]
。彼女は?田めぐみから
朝鮮語
の初?を習った
[18]
。2人は一?に朝鮮語を勉?し、また、
バドミントン
や
卓球
をすることもあったという
[2]
。
報道によれば、彼女の北朝鮮入?後の約4か月間、拉致?行犯の1人キム?ミョンスクは彼女の監視役であり、身の回りの世話もしていた
[12]
[15]
[21]
。また、拉致されてきて最初のころ、?我ひとみと?田めぐみの北朝鮮での?育係は、
原?晁
拉致?行犯の
辛光洙
であった
[18]
。彼女たちは、互いの存在がすべてであったので?い友情で結ばれた
[18]
。?田は、?我ひとみが結婚すると決まったとき、
餞別
として
新潟
から拉致されたときに持ってきたバドミントン用のバッグを彼女にあげた
[18]
。
結婚
[
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]
1980年
6月30日
、21?の?我ひとみは
1965年
に
在韓米軍
から?走したアメリカ軍人
チャ?ルズ?ジェンキンス
の家に連れて行かれた
[22]
。彼は?時40?で、彼の家は平?の
勝湖?域
立石里
にあった。ジェンキンスは彼女に
英語
を?えるよう命じられていたが、?局が2人を結婚させたがっていることは明白であった
[22]
。ひとみは朝鮮語が上手で、少なくとも自分(ジェンキンス)よりもでき、4人の米兵のなかでは最も朝鮮語に通じていた
ジェ?ムズ?ドレスノク
よりも達者であるように思われた
[22]
。ジェンキンスは一目でひとみを好きになったが、ひとみの方は1週間部屋からほとんど出て?ない?態であった
[22]
。他の米兵たち3人はすでに結婚していた。ジェンキンスはひとみに?し、きわめて紳士的に接し、彼女の居心地がよくなるよう?を配った
[22]
。やがてジェンキンスは何度か彼女にプロポ?ズをしたが、そのたびに彼女は?った
[18]
。ジェンキンスはひとみに次のように言った
[18]
。
次に連中が君をいつ、どこの、どんなところへ連れて行くかわかったものではない。私と結婚すればここに居られることだけは確かだ。そして少なくともここはいやではないと思うし、ここなら安全だということはわかっていると思う。私を愛していないのは知っている。こんな短い期間では誰だってそうだろう。そして正直に告白すれば、私もまだ本?に君を愛してはいない。でも愛せるようになると思う。君もいつの日か私を愛してくれるようになると、私は思っている。私たちには普通の男女のようにじっくり結婚を考えている時間も余裕もないんだ。この?では何が起こるかわからないから、明日にも連中は君をよそへ連れて行ってしまうかもしれない
[18]
。
彼の熱意と誠?さにより、彼女はようやく結婚に同意した
[18]
。2人は出?ってから40日後の
8月8日
に結婚式を?げた
[23]
。指導員やかつての料理人、政治委員と補佐官、運?手などによって祝宴がもうけられた
[23]
。ジェンキンスが
コ?ヒ?
を淹れに行っている間に、?った補佐官がひとみの?ているベッドに腰かけ、ひとみの足に手をかけて服をまくりあげようとしたのでジェンキンスが?中電?を持って飛びかかり、怒?が飛びかうなか祝宴はお開きになった
[23]
。しばらくしてひとみは平?商店で
日本酒
を買ってきた
[23]
。2人は何か月もかけてそれを?んだ
[23]
。望?の念はたがいに理解できるところから、就?時、ジェンキンスは日本語で「おやすみ」と、ひとみは英語で"Good night"と互いに?をかけあうのが習慣となった
[23]
。結婚式から?か月してひとみが妊娠した
[23]
。そのころには、2人はいっそうお互いを愛し合うようになり、信じあい、?りにしあうようになっていた
[23]
。2人は喜び、幸福感を味わった。しかし、
1981年
5月10日
、「正飛(まさひ)」と名付けられた2人の長男は、
早産
のため、その日のうちに亡くなってしまった
[23]
[24]
。ジェンキンスは子どもの死を彼女に?えるのがかわいそうで、ひとみの誕生日の前日の
5月16日
にようやく?えた
[24]
。生まれたのが日本であれば、助かった生命であろうと彼女は自らの境遇が恨めしかった
[25]
[注? 8]
。
家庭生活
[
編集
]
1981年、「組織」は4人のアメリカ人とその家族を立石里のジェンキンスの家の?に新しく
アパ?ト
を建てて、そこでまとめて住まわせることを決定した
[6]
。ジェンキンス?ひとみの夫妻は
1983年
6月1日
に長女のロベルタ?ミカ?ジェンキンス、
1985年
7月23日
に次女のブリンダ?キャロル?ジェンキンスの二女をもうけた
[6]
。アパ?トが完成したのは?れに?れて
1984年
のことであった
[6]
。引っ越す前に
マカオ
から拉致されてきたタイ人
アノ?チャ?パンジョイ
の夫
ラリ??アブシャ?
は死去してしまった
[6]
。アパ?トには、未亡人となったアノ?チャとジェンキンス?ひとみ一家が2階、ジェ?ムズ?ドレスノクとル?マニア人
ドイナ?ブンベア
の一家、
ジェリ??パリッシュ
とレバノン人
シハ?ム?シュライテフ
の一家が3階に住み、1階は空き家とした
[6]
。ドレスノク夫妻には2人、パリッシュ夫妻には3人の子がおり、アノ?チャは3世?の家族たちにとっておばさんのような存在だった
[6]
。アパ?トは巨大な
幼稚園
の?相を呈し、子どもたち同士は大の仲良しであったが、親同士はそうとばかりは言えない?態だった
[6]
。アノ?チャのところの一室が子どもたちが4?から6?までの2年間、?み書きや?について?ぶ場となった
[6]
。それが終わると家に隣接した農場の
小?校
に通ったが、?校では
プロパガンダ
以上のものはほとんど?えていないようだった
[6]
。
1990年代後半の「
苦難の行軍
」と呼ばれた時期、北朝鮮では?百万人規模の餓死者が生じ、その被害は20世紀最大といわれ、多くの人が拷問のような苦しみを味わった
[26]
[27]
。それに加えて、「
?化所
」「
管理所
」と名づけられた
?制?容所
ではろくに食糧も?えられないなかでの苛酷な??に、今なお?十万人あるいはそれ以上の人びとが苦しめられている
[26]
。そうしたなかにあって、アメリカ人家庭は北朝鮮のなかでは特別待遇をあたえられ、はるかにめぐまれた生活を送っていたことは事?である
[26]
。しかし、特?的な暮らしとはいっても、世界の大部分の?の人びとと比較すれば、話にならないほどひどい生活であった
[26]
。「私たちは常に寒さと空腹と貧困と不衛生と?っていた??る日も?る日も、そして?る年?る年も」とジェンキンスは振り返っている
[26]
。ひとみ自身もまた、いつ
停電
するか分からないことにはたいへん難?したと述べている
[21]
。上等なものではないにせよ中古の
家電製品
をそろえていたので、電?が止まれば生活に支障をきたした
[21]
。
水道
も電?で汲み上げていたので停電すると水が使えず、雨水をためて、
洗濯
や
食器
の洗いものに利用したことがあった
[21]
。水は不衛生なので、一滴のこらず必ず煮沸してからでないと、?料用や台所用には使えなかった
[26]
。
夫の
チャ?ルズ?ジェンキンス
(2004年、
キャンプ座間
にて)
冬の
暖房
のために支給された
石炭
は指導員たちによってしばしば?まれた
[26]
。?水を流す
パイプ
がゆがんでいるうえに元?の作りがわるいので、?水が流れない箇所があったり、空?が入り?んで流れなくなることがあるので、つきっきりで火をかき立てでもしなければ
ボイラ?
を管理するのは難しかった
[26]
。ジェンキンスは寒い娘たちの部屋に自家製の
床暖房
をつくってやったが、
1997年
以降は夏でも??的に停電し、冬は常に停電していた
[26]
。
食用油
や
?油
の類は冬になると決まって凍結した
[26]
。マイナス30度にもなる?冬は、家ではなるべく?き回るようにした
[26]
。停電して?っ暗ななか、身?を決して冷やさぬよう、4枚も5枚も着られるだけの服を着て、足には何枚もの
靴下
をはいて、家族で1つの
布?
にもぐり?み、固まって?るようにした
[21]
。
水洗式便所
に溜まっていた水が凍り、それが膨張して
便器
が破裂したこともあった
[21]
。
?月決まった日に
米
と生活費の支給があったが、生活費は最低限の保?しかなかった
[21]
。4人家族としては苦しい金額で、最初に必要?費を振り分け、どうしても欲しいものがあるときは何カ月も節約できるものを削って貯金しなければならないギリギリのものであった
[21]
。食品は、日本製のものは高すぎて手が出せず、たいていは中?製のもので間に合わせた
[21]
。生活費が不足しそうになると、禁止されていた
闇市
(
チャンマダン
)に行って買い物をすることもあったが、「何でもあり」なので不良品?まがい物をつかまされることも少なくなかった
[21]
。
?卵
などは、割ると
ひよこ
になる寸前のもの、腐っているものが混じっていることがあった
[21]
。配給米も小石を混ぜてかさ上げしたもの、?がたくさん混入したものが配られることが日常茶飯事であった
[21]
。のちに、娘たちは初めて日本の米を見て「お米って白いんだね」と驚いたという
[21]
[注? 9]
。
1995年
、幹部たちが何人かでやって?て、「金正日同志の偉大なるお心遣いによって、あなたがたの子どもたち全員が
平?外?語大?
(の高校の部)へ入?できることになった」と告げた
[28]
。しかし、それは工作員を養成するための下準備であるとも考えられ、ジェンキンスなどは?のところ猛反?であった
[28]
。米??走兵たちが北朝鮮に抑留されていることを知る者は少なく、結婚していることを知る者、子どもがいることを知る者はさらに少ないうえに、西洋人的な風貌をもつ子どもたちは誰も北朝鮮工作員だと怪しまない
[28]
。だからこそ、工作員にはうってつけなのである
[28]
。
金賢?
も外?語大?の?生だったところを召喚されて工作員にさせられた
[28]
。ジェンキンスはたいへん心配したが、結局、?校の寮に空きがなく、アパ?トからの通?となり、それには川下りをともなって冬季はきわめて危?だというのですぐに退?させるほかなくなり、彼の心配の種はなくなった
[28]
。
??
[
編集
]
2002年
9月17日
、
小泉純一?
首相が訪朝し、1日だけの
日朝首??談
を開き、それまで「事?無根」としてきた日本人拉致被害者の存在を北朝鮮政府が公式に認めた
[29]
。?我ひとみの生存も明らかにされ、妹はそのとき初めて姉と母が北朝鮮に拉致されたことを知った
[17]
。ただし、母のミヨシについて、北朝鮮?局は「承知していない。特殊機?工作員が『現地請負業者』から引き渡しを受けたのは?我ひとみ1人だけ」と?表した
[11]
。ジェンキンスは、日本政府が北朝鮮政府に提出したという、拉致被害者とみられる失踪者名簿のなかにひとみの名がなかったことに落ち?んだという
[29]
[注? 10]
。しかし、ジェンキンスは密かに
ラジオ
をずっと?いていて北朝鮮?局がひとみの拉致を認めたことを知り、「日本政府が?いに?るんだよ。やっと願いがかなうんだ。?いにいくべきだ」と彼女に?をかけた
[21]
。
??の10日前、蓮池夫婦や地村夫婦と初めて?ったが、ひとみは??メンバ?には絶??田めぐみがいるはずだと?心思っていた
[21]
。10月8日、警察?は?州で失踪した松木??石岡亨の?名とともに?我ミヨシ?ひとみの母子を正式に拉致被害者に認定した
[2]
。そして
10月15日
、?我ひとみは日本への??を果たした
[30]
。このとき、ジェンキンスもひとみ自身もすぐ北朝鮮に?るような心持ちの方が?かった
[30]
。
平??際空港
への見送りには、ジェンキンス、美花、ブリンダのほか、?田めぐみの娘キム?ヘギョンのすがたもあった
[30]
。彼女は一目見るなり?田の娘であることを確信し、すぐに抱きしめて泣いたという
[20]
。しかし、「母は死んだ」というキム?ヘギョンの言葉には衝?を受けた
[20]
。
2時間して
羽田空港
に降り立った
[20]
。24年ぶりの祖?であった。出迎えには妹が?て、ただただ抱き合って泣いた
[17]
。彼女は久しぶりに?った姉があまりに母親そっくりで驚いたという
[17]
。
10月17日
、ひとみは故?佐渡に?った。?野町では全?が「お?りなさい。?我ひとみさん」の札を?げて彼女を出迎えた
[31]
。彼女は「今、私は夢を見ているようです。人?の心、山、川、谷、みんな?かく美しく見えます」と?見で語った
[31]
。事故のケガで足の不自由な父は、玄?前で娘を抱きしめた
[31]
。「ご苦?だったな、父ちゃん待っとった」と?をかけ、大?で泣いた
[31]
。翌
10月18日
、定時制高校でたった1人の
卒業式
が開かれ、恩師や同級生に見守られて卒業?書を受け取った
[9]
。11月7日、ミヨシ?ひとみの母子は?野町の?籍を回復した
[2]
。しかし、母の消息は依然としてわからず、北朝鮮にいる夫や子どもたちと?うことのできない苦しみが?いた
[2]
。日本に?るまで母が日本で暮らしていると思っていたのに、24年前に自分とともに失踪したままになっていることに愕然とし、母の着物や日用品をながめては?日泣いていたという
[14]
。
11月6日
、?野町の?家を
安倍晋三
?閣官房副長官と
中山恭子
?閣官房??が訪れ、拉致被害者5人を北朝鮮には?さず、家族を日本に??させたい政府方針を?えた
[32]
。安倍副長官は、政府が?された家族の??を要求するので待ってほしいと語り、中山??は時間がかかると思うと付け加えた
[32]
。ひとみは「日本で一生懸命、待ちます」と答えたものの複?な心境であった
[32]
。?や町の職員からも佐渡に留まるよう何度も?得され、一人で決?するにはあまりにも?の重い事柄であったが、結局、ひとみは一人で家族を待つことを決?した
[20]
[33]
。
11月15日
??の『
週刊金曜日
』には平?で彼女の夫や娘たちをインタビュ?し、「早くお母さんに家に?ってきてほしい」「日本政府は約束を破った」などの?言を?載した
[2]
。ひとみはこれについて「(『週刊金曜日』には)怒っていると?えてほしい」「北朝鮮と日本の?ん中で引き裂かれそう」と周?につらい思いを吐露したが
[2]
、一方では、もし家族と?うことさえでき、日本に留まったいきさつを話せば、きっと分かってもらえるはずだという確信めいたものもあった
[20]
。?を決めたひとみは
11月23日
、日本にとどまる意思を政府に?えた
[32]
。翌24日、
福田康夫
?閣官房長官は記者?見を開き、現在??している5人を北朝鮮には返さず、「?家の責任」で、家族を日本に??させることなどを求めることを?表した
[32]
。
北朝鮮には?らないことを決めた5人の拉致被害者は2003年4月14日、記者?見を開いてその意思を表明した
[34]
。いずれも子どもたちを北朝鮮に?しての決?であった。彼らは、北朝鮮に?ることは誰の利益にもならないと考えており、北朝鮮に抑留されている家族は無事に日本側に引き渡されるよう、日本政府が交?をまとめてくれると信じていると語った
[34]
。しかし、ジェンキンスの指導員が彼に?えたのは、5人は北朝鮮への??を認めない日本政府を記者?見の場で非難したという??の?容であり、ジェンキンスはそれを信じて日本政府をたいそう恨み、また、絶望して死さえ望んだという
[34]
。
ジェンキンスと2人の娘はその後、小泉首相と?談し、小泉が「そもそもひとみさんを拉致したような?に、お返しするわけには行きません」「彼女は北朝鮮に?りたくはないのです。あなた方に日本に?てもらいたがっているのです」と?得した
[35]
。小泉は、金正日?書記は行ってもよいと言っているとも語ったが、その場では決めきれないジェンキンスに?し、日本の外交官が「まずは第三?で家族?議を開いてはどうか」と提案し、ジェンキンスもそれに同意した
[35]
。候補地としては、
中?
は?我ひとみが嫌がり、
シンガポ?ル
はアメリカとの間に逃亡兵の引き渡し?約も結んでいるのでジェンキンスが難色を示して
インドネシア
ではどうかという話にまとまった
[36]
[37]
[注? 11]
。ただ、その時点でもジェンキンスはひとみは本?は北朝鮮に?りたがっているのではないかと思っていた
[36]
。
2004年
、日本政府がアメリカ政府との交?によって??な判決を軍法?議で行う確約を取りつけたことから、同年
7月9日
、ジェンキンスは治療という名目で娘2人とインドネシアへ出?した
[38]
。
ジャカルタ?際空港
で家族を待っていた?我ひとみはジェンキンスに抱きついていた
[37]
[38]
[39]
。
ジャカルタ
での家族?議では、彼女は自分ばかりではなくジェンキンスとジェンキンスの母親、そして、家族のためでもあると彼を?得した
[38]
。ジェンキンスは葛藤しながらも日本行きに同意し、娘たちも最終的には同意して、
7月18日
、日本に入?した。
2023年7月、佐渡市長の
渡??五
(左端)とともに?理大臣の
岸田文雄
(右から二番目)に面?した。役職は撮影時のもの。
彼女自身、拉致被害者であるが、いま彼女は「家族?」とともに、母である拉致被害者?我ミヨシの救出活動に力を注いでいる
[注? 12]
。
??後の生活
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]
2003年、?野町が?託職員として採用。2007年、
准看護師
の資格を生かし佐渡市(?野町は2004年3月1日付けで佐渡市へ統合合?)の正規職員になった。市の老人福祉施設で介護業務に?事していた
[41]
。2020年3月31日、定年退職
[42]
。その後も再任用され同じ福祉施設で勤務。
2024年4月、佐渡市役所?務部?務課拉致被害者?策係へ異動。拉致問題の??となる
[43]
。
演じた女優
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脚注
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注?
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- ^
看護師で失踪者となった例としては他に、
1960年
2月に
秋田市
で失踪した
木村かほる
、
1976年
8月に
山口?
宇部市
で失踪した
??富子
がいる
[8]
。
- ^
??、?我事件は前もってタ?ゲットを定めた人定拉致という見方が一部にあったが、ひとみはこの?貨店にほとんど行ったことがなく、彼女が母と2人連れで買い物に出かけたのも偶然であったことから、人定拉致とは見なしえず、?件拉致である可能性が高まっている
[12]
。
- ^
佐渡は、1961年6月小木海岸で工作員1名が?出、1970年5月宿根木海岸から工作員が?入、1972年3月に宿根木で不審人物2名を?見などの事件が起こっており、工作員の侵入??出ポイントだったことが判明している
[13]
。
- ^
一?に拉致された母ミヨシの行方はひとみにもわからず、彼女が日本に??するまで母はてっきり日本にいるものと思っていた
[14]
。北朝鮮では「母は日本で元?にしている」「朝鮮語を?えたら日本に?してやる」と言われていたという
[12]
[15]
。
- ^
ジェンキンスは、母と子を拉致して離れ離れにしておきながらそういうことを言ってもおかしいと思わないことを、北朝鮮「幹部」特有の異?さだと指摘している
[5]
。市井の人の普通の?持ちをまるで理解できず、自分たちを恐れたり憎んだりしているかもしれないのに、それさえ?づかない。「常軌を逸している」と彼は記述している
[5]
。
- ^
1978年7月から8月まで、
富山?アベック拉致未遂事件
を含めると4件8人の「若い男女」が狙われ、?我事件に限って母と娘であることを考えると、工作員たちが服?や?型から母親を男性と見間違えて母子を「若い男女」と錯?した可能性もある
[12]
。
- ^
?田めぐみの娘の名はキム?ヘギョンと報道されたが、これは?初?田が親友である?我ひとみの名をつけたものと考えられた
[18]
。しかし、のちにヘギョンは?名であることが判明した
[20]
。
- ^
母乳の出る?態は?いており、こんな?酷なことはないと泣きながら母乳を搾って捨てていたという
[25]
。彼女は亡くなった子どもに?わせてほしいと?んだがかなわなかった
[25]
。ジェンキンスは?局より、北朝鮮では1?未?の赤ん坊は家族の一員として認めないので通常の「政府のやり方」で遺?を?理したいと?えられた
[24]
。彼は「北朝鮮政府は常にこんなことばかりしている。今から思えば異常で屈折しているとしか思えないやり方で、人?の生活の?深くまで干?するのだ」と憤っている
[24]
。
- ^
娘たちは、米を炊いている最中も「?なにおいがしないんだね」と炊きあがりを?しみにし、一口食べて「すごくおいしい。こんなにおいしいご飯を食べたのは初めて」「おかずがなくてもご飯だけでも食べられるね」と大?喜んだという
[21]
。
- ^
?我ミヨシ?ひとみ失踪事件に?しては、
新潟?警察
は母子で行方不明になっているなどの理由から北朝鮮側の?表まで拉致の可能性が薄いと考えていた
[10]
。政府が拉致被害者として認めたのは北朝鮮が情報を出してきてからであり、拉致問題に?する日本政府、特に警察の取り組みの甘さが指摘される
[10]
。
- ^
インドネシアの
ハッサン?ウィラユダ
外務大臣は、彼らは1か月の?在が許されているし、もし、それ以上に?在時間が必要ならば、それにも柔軟に??できるであろうと?明した
[37]
。
- ^
拉致被害者である
蓮池?
は、「?我さんに?しても、娘は把握しているが、母親のことは分からない、という。そんなことがありえますか」と述べている
[40]
。拉致被害者の安否確認について、彼は「北朝鮮は調査すると言うが、どこに誰が暮らしているかはすべて把握しているので必要ない」と指摘しており、「政府が02年の報告書を認めないのも、12人の拉致被害者が生きているとの確信があってのこと」だとしている
[40]
。
出典
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?考文?
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?連項目
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外部リンク
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ウィキメディア?コモンズには、
?我ひとみ
に?連するカテゴリがあります。