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日羅?係

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日羅?係 (にちらかんけい)では、古代の日本と 新羅 との?係について??する。

?要 [ 編集 ]

本項では、古代より新羅が滅亡する 935年 までの?史を??する。

以下、各?史書に基づき、 新羅 倭? に?する?史を??する [1] [2]

三?史記 』によると、新羅建?時より日本による新羅への軍事的な侵攻が度?記述されている。多くの場合日本側が勝利を?め、新羅側は食料?金??一部領土等を日本に割?した。また新羅建?の王族の昔氏や朴氏も倭人とされる。また、新羅の重?には倭人も登用されていたとされる。

新羅建?神話における倭との?係 [ 編集 ]

三?史記 』新羅本紀によれば、新羅には朴氏?昔氏?金氏の3姓の王系があり、それぞれ始祖?話を持つが、倭?または倭人との?連?承が多い。建?初期に倭人勢力との?わりを?えることや複?の王統を持つことなどは 高句麗 ? 百? の始祖?話?系とは異なるところである。新羅の始祖?話は紀元前後に?年されたものではあるが、?際に新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からである [3] 。また、『三?史記』は 1145年 に編纂され、『 三?遺事 』も 高麗 時代の 1280年代 に成立しており、後代からの視点で編纂されていることに留意する必要がある。

  • 朴氏の始祖?話に登場する 瓠公 倭人 であり、これが朴氏初代の 朴赫居世 ともいわれる [4]
  • また昔氏の始祖?話においても、倭?東北一千里のところにある 多婆那? の王妃の子が?解王である。「多婆那?」は一?に 丹波? とも比定されている [5] 。ほかに 但馬? 肥後? 玉名郡 周防? 佐波郡 などの?がある。
  • 金氏始祖の 金閼智 (第13代 味鄒尼師今 の7世祖)?話では、 ?解尼師今 の治世時に、?の鳴き?を聞いたので 瓠公 に調べさせたところ、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。容姿が優れていたので?解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて?明であったので「閼智」(知?者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。

日本側?承では新羅の祖は ?葺草葺不合命 の子の ?飯命 神武天皇 の兄)だとされている [6] 。また昔氏の出生について倭?東北1千里(?時の1里はおよそ500m)とされ、現在の 兵庫? 北部、 熊本? 北部、 山口? 中部等と推定されるが、時代を下ると、兵庫?豊岡周?の アメノヒボコ ?承との?連が指摘される。昔氏は現在の日本の但馬、丹波、肥後、周防のいずれかの地域から船で渡った倭人と見る向きが多く、その後、昔氏の末裔の アメノヒボコ が日本に?ったとされる [7] [8] 。『 日本書紀 』によると、 アメノヒボコ ?道河 をさかのぼり、 若? をへて、但馬にいたり、ここに居を構えた [9]

1世紀まで [ 編集 ]

  • 初代新羅王の 赫居世居西干 の時代(在位:紀元前57年 - 4年)
    • 紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の?得に?じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の 瓠公 がいた [1]
  • 第2代新羅王の 南解次次雄 の時代(在位:4年 - 24年)
    • 14年には倭人が兵船100?余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した [1] 。これに?して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を?浪軍に攻められた。しかし、流星が?浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追?させたが、賊軍が多いので追?は中止となった [1]
  • 第4代新羅王の ?解尼師今 の時代(在位:57年 - 80年)
  • ?解王は 倭? から東北一千里の 多婆那? の王の子といわれ [1] 、この多婆那?は一?に日本列島の 丹波? にも比定する?があり [5] [10] 、?解王の出身氏族である昔氏は倭と交易していた氏族とされる [11]
  • 第5代新羅王の 婆娑尼師今 の時代(在位:80年 - 112年)
    • 日本書紀 で倭?に服したという新羅王 波沙寐錦 (はさむきむ)のことを指すともいわれる [13] 。また、 414年 に建てられた ?開土王碑 の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、 中原高句麗碑 では、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」とされていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主?ともいわれる [14] 法興王 11年(524年)の建立とされる 蔚珍鳳坪碑 法興王 は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「 葛文王 」の表記が見られることから、6世紀初頭?時の新羅が絶?的な「王」による一元的な王?の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの?力の?存であったとも考えられている [14] [15] 。なお、法興王の前代の 智?麻立干 の時代に??を新羅として君主?を王に定めている [1]

2世紀 [ 編集 ]

  • 第6代新羅王の 祇摩尼師今 の時代(在位:112年 - 134年)
    • 121年2月に大甑山城(釜山?域市東??)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した [1]
    • 翌年123年3月に倭?と講和した [1]
  • 第8代新羅王の 阿達羅尼師今 の時代(在位:154年 - 184年)
    • 158年、倭人が?訪する [1]
    • 173年 5月、倭の女王 卑彌乎 が新羅に使者を送る [1] 。しかしこれは、『三?志』東夷?倭人?からの造作で、かつ干支を一運遡らせたものとする?もある [16]
  • 第9代新羅王の 伐休尼師今 の時代(在位:184年 - 196年)
    • 193年 6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した [1]

3世紀 [ 編集 ]

倭?と斯蘆? [ 編集 ]

三国時代の朝鮮半島 左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。 三国時代の朝鮮半島 左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。
三?時代 の朝鮮半島
左は韓?の?科書で一般的な範?(375年頃)、右は日本の?科書で一般的な範?(4~5世紀半ば)。半島西南部の解?には諸?がある。

3世紀ごろ、半島南東部には 辰韓 十二?があり、その中にのちに新羅となる 斯蘆 (しろ、しら)?があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは 斯蘆 ?を中心とする韓の??の意味と考えられている。新羅は、この 斯蘆 ?が?展して基盤となって、周?の小?を?せて?展していき、?家の態をなしたものと見られている。

  • 第10代新羅王の 奈解尼師今 の時代(在位:196年 - 230年)
    • 208年 夏4月、倭人が?境を犯す [1] 。奈解王は?軍昔利音に反?させた。
  • 第11代新羅王の 助賁尼師今 の時代(在位:230年 - 247年)
    • 232年4月に倭人が首都金城に攻め入った [1] 。王も出陣して倭人を?滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。
  • 233年5月、倭人が東部?境に侵入 [1] 。同7月、?軍の 昔于老 沙道 で倭軍を?退、倭人の兵船を?き?う。
  • 第12代新羅王の 沾解尼師今 の時代(在位:247年 - 261年)
    • 249年夏4月、倭人が昔于老を殺害 [1]
      • ?神天皇 14年(283年)、 弓月君 百? から?て、天皇に奏上した。「私の?の百二十?の人民が?化を求めています。しかし新羅人が拒んでいるので、みな加羅?に留まっています。」天皇は 葛城襲津彦 を遣わして、加羅?の弓月の民を召されたが、三年を?ても襲津彦は?らなかった [2]
  • 第14代新羅王の 儒?尼師今 の時代(在位:284年 - 298年)
    • 285年( ?神天皇 16年)、天皇は 平群木?宿? (へぐりのつくのすくね)、 的?田宿? (いくはのとだのすくね)を 加羅 に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が?らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を?ちその道を開け」と命じた。木?宿?らは精兵を進めて新羅の?境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭?に?ってきた [2] [17]
    • 287年 4月、倭人が一?部 [18] に?たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った [1]
    • 292年 、倭兵が沙道城(慶?北道 浦項市 )を?落させようとしたので 一吉飡 の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した [1]
    • 294年 、倭兵が長峯城を攻略した [1] 。また、沙道城を改築して沙伐州(慶?北道 ?州市 )の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。
    • 297年 、伊西? [19] に攻められ首都金城( 慶州市 )を包?されるが、 竹葉軍 の助力で防衛に成功した [1]

4世紀 [ 編集 ]

4世紀から5世紀にかけての新羅と百?は、 高句麗 倭? に比べて、?力も領土も弱小であったことに注意すべきであると 武光誠 は指摘している [20] 。?時の新羅の 領域 は北九州と同程度で、百?も新羅の二倍程であった [20] 。また、新羅にとって、自?と同程度の?さの北九州と中??四??近畿地方を領土とする大和朝廷は脅威であった [21]

新羅の建?時期は356年とされる。

三韓征伐 [ 編集 ]

朝鮮遠征。 1880年 月岡芳年

神功皇后 による 三韓征伐 は新羅征討?話ともよばれ、?話的な要素が?く、すべてが史?とはみなされてはいないが、?時の倭?と半島の?係には、?話が指示する事績もあり、?究が?いている。また、 日本書紀 の紀年など、計算法によって?該時期が?わる。

倭?から新羅(朝鮮半島)への大規模な軍事侵攻があったこと、また新羅が倭?に服?していた時代もあったことは朝鮮や中?の資料からも現在確認できる。

倭?への新羅の服? [ 編集 ]

?開土王碑 中原高句麗碑 により、時期によっては倭(ここで言う倭をヤマト、九州、朝鮮南部の倭人を指すなど諸?あり。定?はヤマト)や高句麗によって一定の支配を受けていたことも明らかとなっている。

?開土王碑 [ 編集 ]

?開土王碑 によれば、〈そもそも新羅?百?は(高句麗の)?民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百?? 加羅 ?新羅を破り、臣民となしてしまった。〉とあり、上代の時期に一時期とはいえ日本の??になっていたことがうかがえる。

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以?卯年來渡海破百殘加羅新羅以?臣民

百?と新羅は高句麗?民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年( 391年 )に海を渡り百??加羅?新羅を破り、臣民となした ? ?開土王碑

職貢?における倭?への新羅の服? [ 編集 ]

2011年に?見された『諸番職貢圖?』では [22] 、斯羅國が韓や に?したと記してある [23]

斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表?方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木?範,言語待百濟而後通焉

斯羅國は元は東夷の 辰韓 の小?。 の時代では 新羅 といい、 南朝宋 の時代には斯羅というが同一の?である。或るとき韓に?し、あるときは に?したため?王は使者を派遣できなかった。普通二年( 521年 )に募秦王( 法興王 )が百?に?伴して始めて朝貢した。斯羅?には健年城という城があり、習俗は高麗( 高句麗 )と類似し文字はなく木を刻んで範とした( 木簡 )。百?の通?で梁と?話を行った。
  • 第15代新羅王の 基臨尼師今 の時代(在位:298年 - 310年)
  • 第16代新羅王の 訖解尼師今 の時代(在位:310年 - 356年)
    • 312年 ?王から王子の通婚を要求 [1] 。王子ではないが、 阿飡 (6等官)の急利 [26] の娘を嫁として送った [1] 。なお、 337年 2月に新羅は百?に使者を送って?交を開こうとしている。
    • 344年 、倭?は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして?った [1]
    • 345年 、倭?は?書を送ってきて?交?絶 [1]
    • 346年 、倭?は風島を襲?し、さらに進?して首都の金城を包?攻?した [1] 。訖解尼師今は出?しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が?きて退却しようとした倭軍を追?して敗走させた [27]
  • 第17代新羅王の 奈勿尼師今 の時代(在位:356年 - 402年)
    • 356年 奈勿尼師今 が?位。新羅の?質上の建?年とも。
    • 362年 (?または364年)、神功皇后元年、?馬より半島に至り、新羅王都にいたる。新羅王は抵抗することなく降伏し、「馬飼部」となることを宣言し、?年の男女を貢ぐと約束した(日本書紀)。
    • 364年 4月、倭軍が侵入 [1] 。?千?の草人形に服を着せて兵器を持たせて 吐含山 (標高746m)の麓に?べ、1千人を斧峴( 慶州市 南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて?退し、?留兵は全滅した [28]
    • 新羅は、百?の 近肖古王 からは 366年 368年 に使者を受け入れており( 羅?同盟 )、 373年 には百?の禿山城( 京畿道 安城市 )の城主が領民300を率いて投降してきた。このとき百?からは?書を送って返還を求めてきたが、奈勿尼師今は「民草は、行きたいところへ行き嫌になれば去るというように、自分達の望むところに住まうものです。大王(百?王)は自らの民草の思いを配慮せず、私(新羅)を責めるのはいかがなものでしょうか」と答え、百?は何も言ってこなくなったという。
    • 377年 に前秦に初めて新羅が朝貢する [29]
    • 382年 には前秦に衛頭を送って、新羅??での朝貢を行い [30] 、新羅王?寒(ろうかん、ヌハン)が??を斯盧から新羅に改めたことを報告した。

倭?と高句麗の?? [ 編集 ]

新羅の支配?をめぐって、倭?と高句麗が ?? をしていることが、『三?史記』や 好太王碑 碑文などで記?されている。

    • 391年 倭が海を渡って 百? ? 加羅 ? 新羅 を破り、倭?の臣民となした [31] 。秋7月、高句麗王 好太王 が4万兵で百?北の?境を攻め、石峴など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗、百?の?彌城を落とす。百?王が11月、狗原の行宮にて死去した [32]
    • 392年 正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は、高句麗の?力を恐れ、王族である 伊飡 (2等官)大西知の子の?聖(後の ?聖尼師今 )を人質として送り?んだ。
    • 393年 5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包?され籠城?を余儀なくされたが、倭軍が退却しようとしたところを騎兵200を送って退路を塞ぎ、?兵1千を送って?山( 慶?北道 慶州市 )付近で??させ、倭軍を大敗させた [1]
    • 397年 、百?の 阿莘王 は王子 ?支 を人質として に送り通好する。
    • 399年 、新羅が倭の侵攻を受ける。倭軍が?境に?ち溢れ城池を潰破し民を奴客としたため高句麗に救援を求めた。同年、 百? 高句麗 との誓いを破って倭と和通したため [31] 、高句麗王は百?を討つため平?に進軍した。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした [31]
    • 400年 、高句麗は倭の侵攻を受けていた 新羅 に?騎五万を派遣し、新羅を救援する [31] 。このとき新羅の王都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き、 任那 ? 加羅 まで後退する [31] 。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した [31] 。新羅政府は 奈勿尼師今 の王子 未斯欣 を人質として倭に送って通交する [1] 。未斯欣は日本書紀には微叱許知?微叱許智として神功皇后?政前紀十月??同五年三月?に??する記事が見える。
    • 404年 ?方界 で倭軍の攻?を受けるが高句麗は?退した。
    • 407年 、高句麗は 後燕 に侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た [31]

5世紀 [ 編集 ]

倭の五王と「安東大?軍」除授 [ 編集 ]

日本では4世紀後期ごろからは 東晋 など南朝への交易がみられるようになり、その後南朝へは5世紀末頃まで??的に行われた。これが『 宋書 』に記された「 倭の五王 」であり、?、珍、?、興、武という5人の天皇(王)が知られる。 413年 から 478年 まで倭?の 倭の五王 らは、 東晋 南朝宋 朝貢 し、また官爵?の除授を要求し、除授にいたっている。除授を求めた理由については、 朝鮮半島 での倭?の軍事行動?や??的利益の?際的承認を求め [33] 、朝鮮半島南部の??を有利にしようとしたとされる [34] [35]

438年 に珍は「 使持節 都督 倭?百??新羅?任那?秦韓?慕韓六?諸軍事 安東大?軍 倭王 」の承認を要求し、 451年 南朝 は?に?して倭本?、新羅、 任那 秦韓 、慕韓の支配?を承認し、武は「 使持節 都督 倭?新羅?任那?加羅?秦韓?慕韓六?諸軍事 安東大?軍 倭王 」を授?されたが、南朝と?交のある百?だけは承認せず、武は百?に?する支配?の承認を繰り返し要求したことが記?されている [36] 。『 宋書 』倭??にある武の 478年 遣使の際の上表文には「東は毛人55?を征し、西は衆夷66?を服す。渡りては海北95?を平ぐ云?」とあって、大和朝廷の?土統一、 朝鮮半島 遠征の?況過程を?えている [37]

5世紀後半の新羅の台頭 [ 編集 ]

三?時代、5世紀後半頃

新羅は 倭? 高句麗 に??していたが、5世紀中頃からはその支配下から?却しようとして高句麗とも?うようになった。

一方で辰韓諸?に?する支配力も高め、 伽耶 諸?の領有をめぐって 百? とも?抗する姿勢を明らかにし、三?が相競う?相を示した。

6世紀 [ 編集 ]

6世紀になると新羅では 智?麻立干 ? 法興王 らが?制の整備によって?力を高め、6世紀中頃には ?興王 による急激な領域?大が可能となった。高句麗を攻?し北に領土を?げ、百??日本の連合軍を退け、 562年 には伽耶(大伽耶)を滅ぼして吸?し、文字通りの三?時代となった。

中?に?しては 564年 北? に朝貢して翌年に 冊封 を受け、その一方で 568年 南朝 にも朝貢した。このように中?大陸の南北王朝との?係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を?えた。 ? に?しても建?後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。

唐の中?統一の後に危機感を募らせた高句麗は 淵蓋蘇文 が??を握って緊急軍事態勢を敷き、新羅と激しく?立するようになっていた百?の 義慈王 と連携( 麗?同盟 )したため、新羅は?際的に孤立することとなった。

7世紀 [ 編集 ]

新羅の唐への接近 [ 編集 ]

新羅は 643年 善?女王 が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。このことが契機となって、新羅??では親唐派と反唐派の?立を生じ、上大等の毗曇が女王の?位を求めて反?を起こした。?を治めた 金春秋 (後の武烈王)と 金庾信 (『 三?史記 』金庾信列?によると、金庾信は 中? ?帝 の子? 少昊 の子孫である [38] )とは ??女王 を立てて親唐路線を?承していった。金春秋は中?の 律令制度 を取り入れる改革を始め、 650年 にはそれまで新羅?自で用いていた年?( 太和 )を?止し、唐の年?を用いるなどして、唐との連携を?めていった。

大化の新羅の賊 [ 編集 ]

兵庫? 朝?市 赤淵神社 [39] に?承する『 神社略記 』によると、大化元年( 645年 )に 表米宿?命 (ひょうまいすくね)が 丹後 ?白?の浜に?襲した新羅の賊を討伐した。沈?しかけた船を、 大海龍王 が、アワビの大群を用いて救ったと?わる。赤淵神社は 日下部氏 が奉祭する。

白村江の?い [ 編集 ]

新羅は唐の援軍と共に 金庾信 に軍を率いさせ、 百? に進軍。 660年 に百?を滅ぼす。

663年 (天智2年)8月に唐が白村江にて 倭? の水軍を破る( 白村江の?い )。

?時 ?制 を執っていた中大兄皇子(後の 天智天皇 )は、唐?新羅がさらには 博多? から 大宰府 に攻め?むことを想定し、万一の場合に備えて翌 664年 に現在の 福岡? 大野城市 から 太宰府市 にかけて 水城 を築かせた。翌 665年 には北九州から ???海 沿岸にかけて 大野城 基肄城 長門城 などの 古代山城 (朝鮮式山城)を築かせた。築城にあたっては、亡命百?人の 憶?福留 (おくらいふくる)、 四比福夫 (しひふくふ)が建設の指揮を執った。 667年 には都を?陸部の 近江大津宮 遷した 。翌天智7年(668年)正月、中大兄皇子は天智天皇として ?位 した。同年、新羅僧 沙門道行 草?? を?み新羅に逃げ向く [40] 。而して中路にて雨風荒れ、迷いて?るという 草???難事件 が?生している。

唐の軍事力を背景に新羅はその後 668年 高句麗 を滅亡させた。この間の?力の成長を支えたのは、 伽耶 が開?した?生産技術の取得が背景にあったものと見られる。

統一新羅 [ 編集 ]

その後、新羅は?百?領を占領していた唐とその支配?をめぐって?立し、 670年 から?った( 唐?新羅?? )が、 676年 に唐軍は半島から撤退し、?高句麗領の南半分と合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。これ以後を日本では 統一新羅 時代と呼んでいる。

半島統一後、新羅は引き?き唐との?係は緊張し?け、北境に長城を築くなどして唐に?抗した。

他方、唐の 律令制度 を取り入れ、位階などの名?も8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖??の姓や??的な名もまた、全て中華風に改められている。

遣新羅使と新羅による日本への朝貢 [ 編集 ]

668年 以降、日本は 遣新羅使 を派遣している。

672年 壬申の? で勝利した大海人皇子(後の 天武天皇 。在位は 673年 ? 686年 )は、親新羅政策をとった。また、次代の 持統天皇 (在位 690年 ? 697年 )も亡夫の天武天皇の外交方針を後?し、同?に親新羅政策をとったが、新羅に?しては?等の?係を認めず、新羅が日本へ朝貢するという?係を?いたが、新羅は唐との?抗?係からその?件をのんで日本への朝貢?係をとった [41]

天武天皇 の?位から 780年 まで、日羅?係の情勢に?じながらも遣日本使が30回以上送られている。

新羅?化人の移管 [ 編集 ]

持統天皇 元年(687年)、日本の朝廷は ?化 した 新羅 人14人を 下野? [42] 、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を 武?? [43] 土地と食料を給付し、生活が出?るようにする。?化人の??には日本から新羅に?化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の??が??され、半島に?還するものに?しては食料が配布された。?史的に?留した新羅からの?化人は百?十名と少なく、多くは中?人である。

持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し [44] 、翌持統天皇4年(690年)には?化した新羅の 韓奈末許? 等12人を武??や [45] 、下毛野?に居住させる [46] ?? 元年(715年)には尾張?人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃?を本貫地とし、 席田郡 に移される [47] 天平 5年(733年) [48] 。しかし何れの集落もその後?絶しており、?史的資料や他地域への移動も行われていない。

8世紀 [ 編集 ]

新羅と渤海 [ 編集 ]

高句麗の故地が新羅( 朝鮮人 )と渤海( 女?人 )に吸?され、さらに渤海の滅亡後にその故地で が建?された。

しかし、 696年 に唐と 渤海 との間に?端が開かれると渤海により唐と新羅は?境線を接しなくなった。これ以後を韓?や北朝鮮では 南北?時代 と呼んでいる [49]

732年 、渤海に山東の蓬萊港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻?を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻?、唐と新羅の?係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻?の功績が認められ、 735年 に唐から冊封を受けて 鴨?江 以南の地の領有を唐から正式に認められた。

「王城?」改?問題 [ 編集 ]

新羅が?力を高めて、 735年 天平 7年)日本へ入京した新羅使が、??を「王城?」と改?したと告知したため、日本の朝廷は無?で??を改?したことを責め、使者を追い返した [50]

こうして???係は、朝鮮半島を統一し?家意識を高め、日本との?等な?係を求めた新羅に?して、日本があくまで???扱いしたことにより?化した。なお、?時、 渤海 が成立し、日本へ 遣日本使 を派遣していることも背景にあるとされる [50]

阿倍?麻呂と疫病 [ 編集 ]

736年 (天平8年)には遣新羅大使の 阿倍?麻呂 が新羅へ渡ったが、外交使節としての?遇を受けられなかったらしく、朝廷は 伊勢神宮 など諸社に新羅の無?を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を 大宰府 に止めて??させ、入京を許さなかった [50] 。なお、阿倍?麻呂は新羅からの??途中に病死し、?された遣新羅使の??後、平城京では 天然痘 とみられる疫病が流行った。?時、この疫病が新羅から持ち?まれたと信じられた [51]

だが、?員の 雪連宅? は新羅到着前に?に病?していること、『三?史記』では遣新羅使の新羅到着前後から聖?王を含めた新羅側要人急死の記事が現れていることから、遣新羅使出?段階で?に感染者がおり、その往復によって日羅??に感染が?大した可能性も指摘されているが [52] 、雪連宅?がこの疫病の症?を?して死んだことは記?されておらず、無?係な病死である可能性が高い。

新羅の社?情勢 [ 編集 ]

745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が?生し、社?が疲弊していた [53] 。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が?わるほどだった [53] 。このときに、日本の九州北部をはじめ、日本へ亡命し、 ?化 した新羅の民が多?いた [53] 。しかし、その移民の?が多いため、天平?字3年(759年)9月、天皇は大宰府に、新羅からの?化人に?して、??したい者があれば食料等を?えたうえで??させよとする勅を出した [53] 。翌年には、??を希望しなかった新羅人13人を武??に送還した [53] 。また、飢饉や疫病によって、後述する新羅の賊が?生したともされる [53]

金泰廉による日本への朝貢 [ 編集 ]

752年 天平勝? 4年)、新羅王子 金泰廉 ら700余名の新羅使が?日し、日本へ朝貢した [50] 。この使節?は、 奈良の大? の塗金用に大量の金を持ち?んだと推定されている [50] 。この際は王子による朝貢であり外交的には日本に服?した形となった。

朝貢の形式をとった意?は明らかではないが、唐?渤海との?係を含む?際情勢を考慮し極度に緊張していた???係の緊張緩和を?ったという側面と交易による?利重視という側面があると見られている [50] 。金泰廉は?際の王子ではないとする?究 [54] が一部で出されているが、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意?していた?には確?は無い [55]

長安での席次?い [ 編集 ]

753年 (天平勝?5年)には長安の大明宮で開催された [56] 唐の朝賀で 遣唐使 大伴古麻呂 が新羅の使者と席次を?い意を通すという事件が起こる [50] 。この際唐は日本側の新羅が倭の???であった事?を受け入れ新羅を下位においた。この年の遣新羅大使は、新羅で 景?王 に謁することが出?なかった [50] [57]

藤原仲麻呂の新羅征討計? [ 編集 ]

天平?字2年( 758年 )、 安?山の? が起きたとの報が日本にもたらされ、 藤原仲麻呂 大宰府 をはじめ諸?の防備を?にすることを命じる。

天平?字3年( 759年 新羅 が日本の使節に無?をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計?が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により?行されずに終わる [58] [59] [60]

朝鮮半島を統一し?家意識を高め、日本との?等な?係を求めた新羅に?して、人質の?上や朝貢を受けるなどし、??より新羅を??と見なして?た日本(『隋書』倭??は、新羅が倭?を敬仰して、使いを通じていたと記している)は激しい反感を持ち、その?子は、 藤原仲麻呂 (?美押勝)が渤海の要請により新羅討伐計?を立ち上げた際の主張である、「新羅が??であるにもかかわらず日本に非?であるためとしている」にうかがえる。

?恭王の時代

これより以降、 ?恭王 の時代の新羅では律令?制の推進派と??の貴族連合的?制への復?派との間の?立は?在化し、反?が多??生する [61] 。768年7月には貴族連合?制復活派とみられる大恭?大廉の兄弟の反?が?生し、王都を33日間包?するが、王の軍隊が平定した。 770年 8月には律令?制推進派と見られる金融の反?、 775年 6月に貴族連合?制復活派の 金?居 の反?。775年8月には律令推進派の 廉相 ? 正門 が反?を企てたことが??して誅滅された。 776年 正月には新羅政府は?書を出し、律令?制を?固に推進した景?王が唐風に改名した百官の名?を、??のものに?した。貴族連合?制派への??であったと見られる [62]

?恭王による日本への御調朝貢 [ 編集 ]

8世紀の終わりに新羅の??が混?すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり [56] ?? 10年(779年)に新羅は日本への服?を象?する 御調 (みつき)を携え使者を派遣した [56] 。また新羅の混?により多?の難民が日本列島へ亡命し、大量に ?化 を申請する事態が?生するが、「??」の人民が天皇の?を慕って?化を願うことを 儒? 的な?点から善政の象?と見て、日本側は?化を許可した [56]

780年2月、伊飡の 金志貞 が反?を起こし宮中を包?する。同年4月、 金良相(後の宣?王) 金敬信(後の元聖王) とともに?兵し、金志貞を滅ぼす。この??の中で?恭王は王妃とともに殺害された。この8世紀末の新羅では、 780年 武烈王 の王統が絶えると王位?承の?いが激しくなり、王位簒奪や王都?での反?が頻繁に?生する?になった。また災害や飢饉、また相次ぐ反?や??、また 渤海 (698年 - 926年)との?立などもあり、新羅は衰退する。

遣新羅使停止 [ 編集 ]

日本では 780年 に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が?度送られたのみとなった [63] 。しかし民間レベル(主に交易)での交流は?けられており、唐?日本?新羅商人により、日本の文物を唐?新羅へ、唐?新羅の文物を日本へ、と運んで交易に?んだ [64] [65] 。そのため、三?の情報は比較的詳細に交換されていた。有名な新羅商人に 張?高 がいる。

8世紀末の新羅の外交政策 [ 編集 ]

新羅第37代の王 宣?王 は、 782年 閏正月、 に?して 朝貢 を行った。勢力を?めている 渤海 に備え、北方面の守備に努め、 781年 7月には 浿江 大同江 )以南の地に使者を送って安撫し、また782年2月には 漢山州 京畿道 ?州市 )の住民を浿江?( ?海北道 平山郡 または 金川郡 )へ移住させている。 785年 正月になってようやく唐の ?宗 から<?校太尉??林州刺史?寧海軍使?新羅王>に冊封されたが、病に倒れてそのまま正月13日に死去した。

第38代の王 元聖王 は、度?の天災に際しては租粟を振舞って民の救?を行ったり、政治的混?の?拾に努めたが 788年 秋には?賊が現われ、 791年 には元の 侍中 の悌恭が反?を起こして誅殺されるなど、安定はしなかった。

786年 へ朝貢し、 ?宗 からは新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書をもらっている [66]

9世紀 [ 編集 ]

日羅?交再開 [ 編集 ]

新羅第40代の王 哀?王 の時代の 801年 10月には、 耽羅? ?州島 )からの朝貢を受けた。耽羅?は 文武王 19年( 679年 )に新羅に隷?していたが、後に?立していた。

803年 には日本とも?交が再開された。

??の交?について『 三?史記 』新羅本紀では哀?王の4年(803年)7月「?交を開き通好した」、5年( 804年 )5月「日本から?金三百?が進上された」、7年( 806年 )3月「日本からの使者を朝元殿で引見した」、9年( 808年 )2月「日本?の使者を厚くもてなした」という4例を?える。『 日本後紀 』では 延? 23年(804年)9月己丑?で「 大伴宿?岑万里 を新羅に遣わした」の1例を?えるのみである [67]

805年、新羅は唐に 朝貢 及び、冊命の謝恩使の派遣を行い、次の 憲?王 も唐に?しては810年10月に王子金憲章を送って金銀製の?像などを?上したほか、定期的に 朝貢 を行った。 819年 7月には唐の ?州 山東省 ?寧市 )で 李師道 が反?を起こすと、兵馬を??する憲宗の詔勅に?えて?軍金雄元ら3万の援軍兵を派遣している。

812年 9月には 渤海 へも使者を派遣して動向をうかがっていたが、宣王 大仁秀 が?位するに及んで緊張を?し、後に 826年 7月には 漢山州 京畿道 ?州市 )以北の州?郡から1万人を??して浿江( 大同江 )沿いに300里の長城を築いて、渤海の南下を食い止める備えとした。

新羅??の情勢 [ 編集 ]

新羅??では度?災害が起こって民が餓える事態が?生した。 を免じたり穀倉を開いたが、 816年 には 浙江省 東部へ流入した民が170人にものぼった [68] [69]

この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位?承に破れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反?を起こす。 819年 3月には各地の賊徒がいっせいに蜂起したが、諸州の都督や太守に命じて??される。しかしこうした地方勢力を王?のもとに確?に掌握できていたわけではなく、首都慶州中心主義的な政治に?して地方勢力は反感を持ちながらも、?結して?抗するための中心を求めていた。

日本への賊徒侵攻 [ 編集 ]

新羅の??情勢が?化する一方、一部の新羅人は、日本へ亡命したり、また賊化した新羅人が度?日本を襲?してもいる。

弘仁 2年( 811年 )12月6日 [70] 、新羅船三?が ?馬 島に現れ、一?が 下?郡 佐須浦 に着岸した。船に十人ほど?っており、他の二?は闇夜に流れたが [70] 、翌12月7日未明 [71] 、?火をともし、相連なった二十余?の船が姿を現し、賊船である事が判明した [70] 。そこで先に着岸した者のうち五人を殺害したが、?る五人は逃走し、うち四人は後日補足した [70] 。島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけ [70] 、新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、?夜?箇所で火光が見えると大宰府に報告された。 大宰府 は通?と軍毅を?馬へ派遣し、?例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管?と 長門 ? 石見 ? 出雲 等の?に通知した。

弘仁4年( 813年 )2月29日、 肥前 五島 ? 小近島 ( 小値賀島 )に、新羅人110人が五?の船に?り上陸し、島民100余人を殺害した [72] 。具?的には、新羅人は島民9人を打ち殺し100人を捕虜にした [73] 。4月7日には、新羅人 一? ? ?漢巴 らが日本より新羅へ??した、と大宰府より報告された。この言上に?して、新羅人らを訊問し、??を願う者は許可し、?化を願う者は、慣例により?置せよと指示した [74] 。事後の?策として通?を?馬に置き、商人や漂流者、?化?難民になりすまして?年のように?寇する新羅人集?を尋問できるようにし、また 承和 2年(835年)には 防人 を330人に??した [72] 。承和5年(838年)には、796年以?絶えていた 弩師 (どし)を復活させ、?岐に配備した [72] 弘仁 5年(814年)、化?した新羅人加羅布古伊等6人を美濃?に配す [75]

弘仁11年( 820年 )には日本??の 遠江 ? 駿河 ??に移配した新羅人在留民700人が反?( 弘仁新羅の? )を起こしたがその殆どが?刑され [76] [77] 、??されている。 ?後?理として弘仁14年(823年)に若くして??の貴族 藤原衛 が遠江守に任ぜられる。衛は?やかで落ち着いた統治を行い、在地の百姓達も喜んだ?子であったとされる。衛はのちに大宰府勤務の時期、朝廷に?し新羅人の渡航遮?と?化申請を受け入れないことを建白し、認められている。

天長 元年(824年)、新羅人 辛良 ? 金貴賀 ? 良水白 等54人を陸??に安置し、法により復を給し、?田を口分田に充てる [78]

金憲昌?梵文の反?以後の新羅 [ 編集 ]

822年 3月、 武珍州 全羅南道 光州?域市 )? 菁州 慶?南道 晋州市 )? 熊川州 忠?南道 公州市 )の都督職を?任した 金憲昌 が反?を起こし、熊津(公州市)を都として 長安? と?すると、?土の大半が金憲昌を支持し、王?に?抗する姿勢を見せることとなった。金憲昌の反?は1ヶ月ほどで??されたが、?の??に活躍した討伐軍は貴族の私兵と 花? 集?であり、律令?制の下での兵制は有名無?化していることが露見した。

825年 1月には金憲昌の子の金梵文が高達山(京畿道 驪州郡 )を根?として反?を起こしたが、これは北漢山州(京畿道?州市)の都督によって??された。

832年 の春夏の旱魃、7月の大雨で凶作となり、餓えた民衆が?賊となって蜂起する。10月には各地に使者を派遣して慰撫に努めた。翌 833年 にも凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者を出すと、 834年 10月には王自らが巡幸して民に穀物を分け?え、民心の安定を?ろうとした。

日羅?係の?化 [ 編集 ]

遣唐使船保護問題 [ 編集 ]

承和3年(836年)、日本が 遣唐使 を久しぶりに派遣することが決定した際、遣唐使船が難破した場合の保護を新羅に要求した [56] 。すると、新羅側執事省は、使者 紀三津 (きのみつ)を問い詰め、「小人の荒迫(こうはく)の罪を恕し、大?の?弘の理を申す」との牒を日本へ送った [79] 。「小人」とは使者紀三津を、「大?」は新羅自身を指す。

このような新羅の?等または尊大な態度に加えて、また繰り返される 新羅の入寇 などの新羅の賊の侵攻に?して、それまで新羅を「??」とみなしてきた日本は憤慨し、『 ?日本後紀 』は、この事件を後世に?えなかったら、後人は得失を判?できないとして執事省牒全文を?載している [79]

日本の?新羅外交方針の?換 [ 編集 ]

承和9年(845年)、日本は外交方針を?換させ、新羅からの?化人?策に詳しかった太宰大? 藤原衛 (ふじわらのまもる)が新羅人の越境禁止を朝廷に進言した結果、以後は?化を申請してきた場合でも、漂着民に食料衣服を?えて追い返すこととされた [79] 。これは『 貞?格 (じょうがんきゃく)』にも?められ、以後の?新羅外交の基本方針になった [79]

9世紀後半 [ 編集 ]

新羅の情勢 [ 編集 ]

商人 張保皐(張?高) の下に逃げ?んだ 金祐? らの一派は兵と財を借り、838年3月に?兵。 金陽 武州 光州?域市 )を下してさらに 南原小京 全羅北道 南原市 )を?落させた。839年1月、側近にすら逃げだされた閔哀王は兵士に殺害され、祐?が 神武王 として?位し張保皐に官位を?えたが、病を得て?位後6ヶ月で死亡。その子 文聖王 もまた張保皐に官位を?えるが、中央貴族らに蔑まされた張保皐は待遇に不?を持ち、846年に?海?( 全羅南道 莞島)で反?を起こした。王側は宴?中に張保皐の暗殺に成功する。これらの動?は地域社?にも波及し、 9世紀 末には、農民の反?や豪族の?立が頻?する。ただしこの846年という年?は不確かであり、『?日本後紀』では841年11月までに死去しているとする。またこの頃、張保皐と日本の 文室宮田麻呂 の密貿易が??している。

第48代の王 景文王 は、 862年 7月に使者を派遣して土産物を貢納した。 864年 4月に日本からも?使を迎えたとされるが、日本側の史書には??する記事はない [80]

866年 10月に允興兄弟が反逆を謀った。事前に??して允興一族は誅滅された。

867年 5月には疫病が、8月には洪水が起こる。 868年 1月には金??金鉉らが反?を起こして誅殺された。 870年 にも地震?洪水、疫病が、 873年 にも飢餓と疫病が起こり政情は安定しなかった。 874年 5月にも近宗が反?を起こしている。

日本への賊徒侵攻 [ 編集 ]

貞? 8年( 866年 )には、 肥前 基肄郡 擬大領山春永? 藤津郡 領葛津貞津? 高?郡 擬大領大刀主? 彼杵郡 住人永岡藤津らが、新羅人と共謀し、?馬を攻?しようとした計?が??している [72]

貞?の韓寇 [ 編集 ]

貞?11年( 869年 )6月から、新羅の海賊、艦二?に?り 筑前國 那珂郡 ( 博多 )の荒津に上陸し、 豊前 の貢調船を襲?し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。日本側は追跡したが、見失ったと『 日本三代?? 』に記?があり、また「?國の兵革」、隣?である新羅の??(??)のことが背景にあるのではないかと (うらない)が?えたとある [81] 。なお、同貞?11年( 869年 )5月26日( ユリウス? 7月9日)には、 貞?地震 や肥後で地震が?生している。

日本側の?? [ 編集 ]

日本政府は沿海諸郡の警備を固めたほか、??の新羅商人 潤? ら30人を逮捕し放逐することに決めた。その後、新羅に捕縛されていた?馬の?師? 卜部乙屎麻呂 が現地の被害?況を?えたため、結局大宰府管?のすべての在留新羅人をすべて 陸?? などに移し 口分田 を?えて ?化 させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に?んでおり、問えば「?馬島を伐ち取らんが?なり(870年2月12日?)」と答えたという。また現地の史生が「新羅?の牒」を入手し、大宰少? 藤原元利万侶 の??を告?した。

870年2月15日、朝廷は 弩師 防人 の選士50人を?馬に配備 [72] する。また、在地から??した兵が役に立たないとみた政府は、 ?囚 すなわち律令?家に服?した 蝦夷 を配備した [82] 。これらの?防法令は『 延喜格 (えんぎきゃく)』に?められ、以後の外交の先例となった [82]

また、 伊勢神宮 石?水八幡宮 香椎 、神功陵などに奉幣および告文をささげ、「わが日本の朝は所謂神明の?也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く?るべきや(日本は神の?であり、神の守護によって敵?の船は攻め寄せない)」と訴えた [82] 。こうして新羅を敵視する考えは 神? 思想の?展へとつながっていった。また、 神功皇后 による 三韓征伐 ?話もたびたび?照されるようになる [82]

貞? 12年(870年)9月、新羅人20人の?、?倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武??に、僧香嵩、沙?傳僧、關解、元昌、卷才の5人を 上?? に、潤?、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長?、大存、倍陳、連哀の10人を 陸奧? に配する [83]

また貞?14年から19年にかけて編纂された『 貞?儀式 追儺儀 (ついなのぎ)では、陸??以東、五島列島以西、土佐?以南、佐渡?以北は、穢れた疫鬼の住?と明記されている [84] 。こうして?新羅?係が?化すると、天皇の支配する領域の外は ケガレ の場所とする 王土王民思想 神? 思想とともに形成された [84]

9世紀末 [ 編集 ]

新羅の情勢 [ 編集 ]

憲康王 の時代(在位 : 875年 - 886年)には、 876年 7月に朝貢を行い、 878年 4月には 僖宗 から 冊封 された。

878年 8月には日本からの使者を朝元殿で引見したこと、 882年 4月には日本?王が?金300?と明珠10個とを進上する使者を派遣してきたことを『三?史記』新羅本紀は?えているが、日本側の史料には??する記事は見られない。 869年 に新羅の海賊船が博多を襲って以?、新羅と日本との間には緊張?係が生じており( 新羅の入寇 を?照)、『 日本三代?? 』によれば、 元慶 4年( 880年 )に新羅の賊が侵入するという情報を得た日本海沿岸の諸?は?重な警戒態勢をとっていた。しかしその間にも、公私にわたる使者の往?はあったものと見られている [85]

『三?史記』新羅本紀には憲康王の時代は順調であったと記しているが、 879年 6月に信弘の反?、887年1月には金?が反?を起こしている。

新羅?代唯一の女王 ?聖女王 は、姦淫に耽り、綱紀はおおいに弛緩した。この女王の治世には??で反?が??し、 後三?時代 の幕開けとなる。治世11年の 897年 、女王は「?賊蜂起、此れ孤の不?なり」と宣言し、「太子」に?位してしまう。

新羅賊の肥後?松浦??馬襲? [ 編集 ]

貞? 15年( 873年 )、武?でもある 小野春風 が?馬守に赴任、政府に食料袋1000枚?保呂(矢避けのマント)1000領を申請して防備の?充を行っている。

?平5年 893年 5月11日 、新羅の賊が 肥後? 飽田郡 で民家を襲?し放火した。また肥前?松浦郡においても襲?してきたが、逃げた [86] 。 この知らせを受けた朝廷は、政治の中?の人間である ?議 藤原?? 大宰?帥 に任命して討伐を命じるなどの?策に追われた。

?平6年( 894年 )、唐人も交えた新羅の船大小100?に?った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が?馬に侵攻を始めた [72] 。45?でやってきた賊徒に?し、9月5日の朝、武?としての??があり?馬守に配されていた 文屋善友 [72] は郡司士卒を統率し、誘い?みの上で を構えた?百の軍勢で迎え?ち、220人を射殺した。賊は計300名を討ち取った [72] 。また、船11、 太刀 50、 ? 1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。

捕虜の?言ではこれは民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲?略奪であった。捕虜曰く、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も?きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが?に帆を飛ばして?り?たる」という。その全容は大小の船100?、?員2500、逃げ?った?軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が?大である、と?言した。翌年の?平7年( 895年 )にも、新羅の賊が?岐を襲?し、官?が?かれた [72]

このような賊の?襲は、新羅滅亡後の高麗時代にも?生している。

新羅だけではなく、唐政府の??も疑った朝廷は?平6年( 894年 )、??を調査するための 遣唐使 の派遣を議するが、9月19日に 大宰府 飛? の使が?退の成功を?え、遣唐使も中止された。

扶桑略記 』では、?平6年(884年)の9月(??)に新羅船45?は?馬を襲ったが、日本は大宰府の奮?で、これを迎?して危機を?したと記されている。合?後の捕虜となった新羅人の賢春は尋問で、前年?の不作により「人民飢苦」の?態が?き、新羅では「王城不安」だったと答えている。これを打開すべく王の命令により、2500人の軍が大小百?に分?、飛帆したと記されている。なお『 三?史記 』では十年に相?するが、十年の記述は三?史記では消失している。

10世紀 [ 編集 ]

新羅滅亡 [ 編集 ]

有力な勢力となった農民出身の 甄萱 892年 に南西部に 後百? を、新羅王族の 弓裔 901年 に北部に 後高句麗 を建て、 後三?時代 に入る。新羅の 孝恭王 は?抗できず酒色におぼれ、新羅の領土は日?しに削られて行く。

後高句麗の武?であった 王建 は後百?との??で何度も勝利し、群臣たちの信望が厚かった。しかし 弓裔 には嫌われ、命を狙われそうなこともあった。弓裔は宮殿を再建したため、民衆の不?が高まった。また自分を ?勒菩薩 と呼ばせて?心法で人の心を見ることができると言い、反?派を??した。王建は政?を起こして弓裔を追放し 918年 高麗 を興した。新羅の 景明王 920年 、王建と誼を通じて後百?に?抗したが、924年に亡くなった。次の 景哀王 は927年に宴?をしている最中、後百?の 甄萱 に奇襲を受け、殺された。その次の 敬順王 は甄萱により王位に就けられた。

以降、高麗と後百?の??が?いたが、 935年 、後百?の王の 甄萱 が四男に王位を?がせようとすると、長男の 甄神? (後百?の第2代王)が反?を起こし、甄神?は甄萱を寺院に監禁し、王位を奪った。 甄萱 は935年6月、後百?から逃げ出して高麗に亡命した。王建は甄萱を?賓として迎えた。同 935年 11月、新羅の 敬順王 が君臣を?げて高麗に?順した。これにより新羅は滅亡した。

高麗は翌年の 936年 に後百?を滅亡させ、朝鮮半島を統一した。

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 『三?史記』第1? 金富軾撰 井上秀雄?注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年。新羅本紀
  2. ^ a b c 岩波文庫「日本書紀」二(1994年、2001年第八版)。
  3. ^ 武田幸男 編『朝鮮史』 山川出版社 世界各?史 〉、2000年8月、73-74頁。 ISBN   978-4634413207  
  4. ^ 金素雲 『三韓昔がたり』
  5. ^ a b 上垣外憲一 『倭人と韓人』 講談社 講談社?術文庫 〉、2003年11月11日、70頁。 ISBN   978-4061596238  
  6. ^ 新撰姓氏?
  7. ^ ?裕二 地形で?み解く古代史 ベストセラ?ズ 、2016年11月26日、98頁。 ISBN   4584137617 https://www.google.co.jp/books/edition/地形で?み解く_古代史/LDFNDwAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&pg=PT98&printsec=frontcover  
  8. ^ ?裕二 『蘇我氏の正?』 新潮社 新潮文庫 〉、2009年4月25日。 ISBN   4101364729  
  9. ^ ?裕二 地形で?み解く古代史 ベストセラ?ズ 、2016年11月26日、103頁。 ISBN   4584137617 https://www.google.co.jp/books/edition/地形で?み解く_古代史/LDFNDwAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&pg=PT103&printsec=frontcover  
  10. ^ ほか 但馬? 肥後? 玉名郡 周防? 佐波郡 とも比定される。
  11. ^ 上垣外憲一 『倭人と韓人』 講談社 講談社?術文庫 〉、2003年11月11日、73頁。 ISBN   978-4061596238  
  12. ^ 『三?史記』第1? 金富軾撰 井上秀雄?注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年、?注
  13. ^ 日本書紀 』?九? 神功皇后 ?政前紀。岩波文庫「日本書紀」(二),151頁注?,(1994年、2001年第八版)。岩波文庫版『 日本書紀 』によれば、「波沙」は婆娑尼師今のことで、「尼師今」は王?で、すなわち「波沙」と「婆娑」は同一かとしている
  14. ^ a b 李成市 『東アジア文化?の形成』 山川出版社 〈世界史リブレット17〉、2000年。  
  15. ^ ?習院大?東洋文化?究所 Web版『?東叢刊3 蔚珍鳳坪碑』 Archived 2007年9月28日, at the Wayback Machine .
  16. ^ 景初2年(238年)記事。井上?注1980、p.61.註9
  17. ^ 秦氏 ?照。?板勝美,?史大系編修?編 『?史大系. 第1? 上』 吉川弘文館、1966年。p276 また、秦の遺民?は、『後漢書』辰韓?、『三?志魏書』辰韓?、晋書に記述が存在している。
  18. ^ 一?部を「一利郡」と解して 慶?北道 星州郡 星州面に比定する?がある。(→井上?注1980 p.66)
  19. ^ 伊西古?とも。慶?北道 ?道郡 とも。
  20. ^ a b 武光誠 『日本と朝鮮はなぜ一つの?にならなかったのか』 新人物往?社 新人物文庫 〉、2010年、21頁。  
  21. ^ 武光誠 『日本と朝鮮はなぜ一つの?にならなかったのか』 新人物往?社 新人物文庫 〉、2010年、22頁。  
  22. ^ 趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」『文史』2011年第1輯所?、中華書局、北京。 南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現
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  24. ^ ここでいう?浪??方は 後漢 西晋 の郡ではなく、?名であり、 ?海北道 鳳山郡 文井面と沙里院邑とに比定する?が有力とされる。(→井上?注1980 p.66)
  25. ^ 新羅本紀?基臨尼師今10年(307年)?に「復??新羅」とあるが、基臨尼師今までの新羅本紀においては、始祖 赫居世居西干 ?位紀において「徐那伐」と?し( 紀元前57年 )、第4代 ?解尼師今 金閼智 を得たとき( 64年 )に「?林」と?したことが見える。第17代 奈勿尼師今 の時代に 前秦 に朝貢してからは「新羅」が?際的に通用する??となったと見られているが、第22代 智?麻立干 の時代にも??を「新羅」と定めたという記事が見える。
  26. ^ ただし、急利はこの直前の訖解尼師今2年( 311年 )1月に阿飡の位に上がると同時に政務と軍事の統括を任されている。王の?位後すぐに有力者に政務と軍事とを委任する場合には 伊伐飡 (1等官)の官位に引き上げられることが多い。→ 儒?尼師今 2年(285年)2月?、 味鄒尼師今 2年(263年)正月?など。また、急利は 314年 1月に伊飡(2等官)に引き上げられている。
  27. ^ 三?史記 』新羅本紀 第十六代 訖解尼師今
  28. ^ 大平裕はこの年の侵攻を神功皇后による新羅征討に相?するとした。『日本古代史 正解』講談社,2009年,184頁。
  29. ^ 太平御? 』で引用する『秦書』。同書の記事を?考にしたと見られる『三?史記』新羅本紀では、??朝貢を奈勿尼師今の26年( 381年 )のこととしているが、377年の朝貢記事を記していない。
  30. ^ 太平御? 』で引用する『秦書』
  31. ^ a b c d e f g 好太王 好太王碑 ?照
  32. ^ 『三?史記』「百?本紀」
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  38. ^
    金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改?金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信?曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。 ? 三?史記、?四十一
  39. ^ 朝?市和田山町枚田上山に所在
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  42. ^ 『日本書紀』持統天皇元年三月丙戌
  43. ^ 『日本書紀』持統天皇元年四月癸卯
  44. ^ 『日本書紀』持統天皇三年四月庚寅
  45. ^ 『日本書紀』持統天皇四年二月壬申
  46. ^ 『日本書紀』持統天皇四年八月乙卯
  47. ^ 『?日本紀』??元年七月丙午
  48. ^ 『?日本紀』天平五年六月丁酉
  49. ^ なお韓?では、高句麗の滅亡後にその遺民が 靺鞨 族と共同して ?州 に建?した 渤海 を高句麗の後??家と見なし、新羅?渤海をあわせて 南北?時代 と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範?を朝鮮半島から ?洲 ? 沿海州 を含めた領域としている。しかしながら、言語的?点から現代の韓??北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗?渤海とでは、民族的?言語的に隔たりがあり( 金芳漢 著?大林直樹?『韓?語の系統』)、高句麗?渤海を現在の韓??北朝鮮へ連?する?家と見なす十全な根?がないため、高句麗?渤海の故地を領土に含み、また高句麗?渤海と民族的に同系である?州族を?民として多?抱える中?との間に軋轢が生じている(→ 東北工程 )。
  50. ^ a b c d e f g h 吉田孝『日本の誕生』岩波書店1997
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  61. ^ 反?の主?が政治的に律令制?貴族連合制のどちらの推進派であったかについては井上秀雄著『古代朝鮮』。
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  68. ^ 井上秀雄 『古代朝鮮』 日本放送出版協? NHKブックス 172〉、1972年、236頁。 ISBN   4-14-001172-6  
  69. ^ 日本後紀 』?二十五(逸文) 嵯峨天皇 ? 弘仁 七年(816年)冬十月:「甲辰。大宰府言、新羅人?石珍等一百八十人?化。」
    同八年( 817年 ):「二月乙巳。大宰府言、新羅人金男昌等?三人?化。」
  70. ^ a b c d e 日本後紀 』弘仁三年( 812年 )正月五日に出された勅における、12月28日の太宰府奏上
  71. ^ 日本紀略
  72. ^ a b c d e f g h i ?野精一? 『長崎?の?史』山川出版社。
  73. ^ 「新羅の一百十人、五?の船に駕り小近島に着き、土民と相?う。?ち九人を打ち殺し、一百人を捕獲す」『 日本紀略 』弘仁四年( 813年 )3月18日の?、およびその前後に記?された長崎? 五島 ? 小値賀島 への入寇をめぐる諸事項。
  74. ^ 日本後紀 』弘仁四年( 813年 )3月18日に大宰府言上。 肥前 ?司 の今月四月解。
  75. ^ 『日本後紀』弘仁五年八月丙寅
  76. ^ 日本後紀
  77. ^ 『紀略』弘仁十一年( 820年 )2月26日?
  78. ^ 『日本後紀』??二逸文(『類聚?史』一五九口分田)天長元年五月癸未
  79. ^ a b c d 川尻秋生 『平安時代 ?れ動く貴族社?』 小?館 〈日本の?史〉、2008年、292頁。  
  80. ^ 井上?注1980 p.385 注13
  81. ^ 日本三代?? 』?十六、貞?十一年( 869年 )6月15日から十八年3月9日?。
  82. ^ a b c d 川尻秋生 『平安時代 ?れ動く貴族社?』 小?館 〈日本の?史〉、2008年、294頁。  
  83. ^ 『三代??』貞?十二年九月十五日甲子
  84. ^ a b 川尻秋生 『平安時代 ?れ動く貴族社?』 小?館 〈日本の?史〉、2008年、265頁。  
  85. ^ →井上?注 p.386 注24、p.387 注29
  86. ^ 日本紀略 』『 扶桑略記 』?平5年( 893年 )および6年( 894年 )の?

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