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慧?
(えごん)は、
中?
の
南北朝時代
に活躍した
僧
。姓は范氏。
豫州
の人。
生涯
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16?で出家し、その風評はすこぶるよいもので、「?理を精?し?群籍に洞(あきら)かにす」といわれ、四方に遠く聞こえたという。
向?に燃えた慧?は、後に
???
の名僧、
鳩摩羅什
が?中(
長安
)に入ったのを聞き、他の?僧と同じく、その門を訊ね師事した。やがて
建康
に還り、東安寺を本?として活躍した。
宋
の高祖(
武帝
)は、慧?の卓越した資質を重んじ、長安を討伐した折にも慧?に同行するよう要請したが、「檀越(だんおつ、武帝)の此の行いが、罪を伐ち民を弔うといえども、貧道は事外の人、あえて命を聞かず」と述べて拒否した。このように??が堅固な慧?であったが、帝はますます重んじて幾度も丁寧に招請し、ついに?わせたという。以後、宋の皇帝との?係は密接にして、後代の
文帝
は「いまだ甚だ崇信せず」との?況から一?し、?の?えを取り?ぐべく、「情好尤も密なり。見(まみ)える度に弘?して?法を問う」と、時の?政者として熱心に?化せんとした。
宋主(文帝)をして「?に痛棹す」と詔されて、
元嘉
20年(
443年
)に春秋81?で東安寺で卒した。
彼の偉業の一つに、
法?
本と北本の2つあった
大般涅槃?
を、
慧?
及び
謝?運
と共に協力して統合訂正し南本の涅槃?を完成したことが?げられるが、その業績において次のようなエピソ?ドが『
梁高僧?
』第7?に?えられている。
ある日、彼の夢で、一人の形?極偉なる(極めて偉大なる人物)が現れ、?を?(はげ)まし「涅槃の尊?、何を以てか?く(??しく)斟酌(しんしゃく)を加う」と叱咤された。慧?は?め已(おわ)りて、僧を集めて、それまでに修治した?本を回?した。時に周?の僧らもみな口を?えて「これは後世の人にまで誡?(かいれい)せんと示された不思議に違いない。もし?じなければ、必ずや再び夢に見るであろう」と語り合い、慧?も然りとし、改めて涅槃??本についての??をさらに深め、?摯に校訂し改修編纂した。しかるに先の神人が夢枕に立ち、「君は涅槃の尊?を弘(ひろ)める力をもって必ず?(まさ)に?を見るべきなり」と告げられたという。
北本涅槃?(
曇無讖
?出)は文意の精?なるに優れているとされ、それまでの?僧は多く北本を重んじて用い、彼らの統治した南本が非難されていたとも?えられ、先の?話はそれを表しているといわれる。しかして南本が世に出でてからは重んぜられるようになった。
慧?の著述としては、「無生滅論」、「老子略注」などがある。また羅什門下において
龍樹
の??、中?論を?び、
道生
と共に「五分律」として出だした。なお、道生とは涅槃?理の解?に相違点が起こり後に?立している。
?連項目
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