思想犯保護?察法
(しそうはんほごかんさつほう、昭和11年5月29日法律第29?)は、
1936年
(昭和11年)、
思想犯
を
公?力
の下に監視しておくために制定された
日本
の
法律
である。全14?から成る。
治安維持法
違反で逮捕されたが執行猶予がついた者や、起訴猶予になった者、??放者、?期出獄者に?して適用された。
思想犯保護?察制度とは、一言で言うと、思想犯の再?育?監視制度である。犯罪者の
保護?察
制度は、19世紀の
アメリカ合衆?
を起源として、
ヨ?ロッパ
に?まった制度だったが、思想犯を?象とした制度の導入は日本が最初である
[1]
。
1945年
(昭和20年)、
「ポツダム」宣言
ノ受諾ニ伴ヒ?スル命令ニ?スル件ニ基ク治安維持法?止等ノ件(昭和20年10月15日勅令第575?)により?止された。
?要
[
編集
]
1936年2月に元
?閣?理大臣
の
?藤?
が
二?二六事件
により
暗殺
され
岡田?閣
が
??職
し、?いて
廣田?閣
が成立したが、その時期の5月に成立した法律である。
法成立の5月29日?時、
憲法
の番人たる
?密院
議長は
平沼騏一?
(元
?事?長
、元
?本社
代表、元
大審院
長、元
法曹?
?長。のち
?閣?理大臣
)。
?事?長
は
光行次?
(のち
貴族院議員
)、大審院長は
池田寅二?
[注 1]
、
警視?監
は元
神奈川?
知事
石田馨
(のち
宮??
御用掛、
高松宮
別?
)であった。
昭和維新
運動の
??
や治安維持法の罪を犯した者に再び罪を犯させないために、本人を保護し、その思想行動を?察することを目的とする刑事政策の一環であった。
思想輔導官、思想保護司が保護?察にあたり、保護?察審査?が設けられ、保護?察の要否、あるいはその期間(原則としては2年間)更新の要否などの審査、議決に?らせた。
全?22ヵ所に保護?察所が置かれた。保護?察に付された者は保護司によるかあるいは保護者に引き渡し,または保護??,寺院,??などに委託して私生活に及ぶ監視が?施された
[2]
。
東京府
では
神社本?
近?
[
疑問点
–
ノ?ト
]
の
?谷?
千?ヶ谷
に思想犯保護?察所が設置。
大阪府
では
大阪市
北?
若松町河岸の
弁護士
事務所跡の借地に設置され、100名以上の保護司によって、大阪控訴院?事局管轄?の1800名以上(うち大阪市600名)が保護?察を受けていた
[注 2]
。
本法律に基づき、
[
要出典
]
全日本???
なども思想犯保護?察??となった。
朝鮮半島
においては、
朝鮮思想犯保護?察令
(昭和11年制令第16?)
[3]
により統制された。朝鮮では司法人事?は
朝鮮?督府
が握っており、これに?し朝鮮弁護士?は、裁判所構成法や
弁護士法
を施行するよう帝?弁護士?に陳情をしたが、?現しなかった
[4]
。なお、朝鮮思想犯保護?察令の施行に際し、
朝鮮?督府保護?察所官制
(昭和11年勅令第432?)
[5]
に基づき朝鮮?督府保護?察所が設けられたほか、
朝鮮思想犯保護?察令施行規則
(昭和11年朝鮮?督府令第128?)
[6]
が制定された。
法案
[
編集
]
1934年
、
1935年
の2度の治安維持法改正失敗により
予防拘禁
制度の導入が不可能になったことから、
?向
政策推進のための法的基礎が失われた。そこで?面の?策として作られたのが
思想犯保護?察法
である
[1]
。
1934年の治安維持法改正案では、「保護?察」と「予防拘禁」の2制度が規定されていた。しかし、「予防拘禁」に反?が集中したためそれを削除し、代わって「保護?察」の適用範?を?げて作られたのが翌年の1935年改正案である
[7]
。なお、予防拘禁制度は
1941年
の新治安維持法の成立により復活する。
保護?察制度の生みの親であり、育ての親でもあるのが
森山武市?
(司法省保護課長??時)である
[8]
。法案責任者だった森山
[1]
は、「在?の行きがかりを一切捨てまして、全然新たなる基礎の下に立案した」と述べて、思想犯保護?察法が「威???」ではなく「保護指導」にあることを?調した
[9]
が、後述のように?態は異なる。
前述の通り治安維持法改正案(1934年、1935年)は?案になったが、これらから「保護?察」の部分をほぼそのまま取り出して法律化したのが思想犯保護?察法である
[7]
。法律化にあたっては、1935年改正案に次の3点の修正を施した
[10]
。
- 保護?察の決定?を?事にではなく、
保護?察審査?
(?事正?裁判所長?警察部長?弁護士などから構成)に?えるように?更した。
- 保護?察所
は?察?象者の通信、居住、交友などを制限できるようにした。
- 保護?察の期限は2年を上限とした。ただし、更新は可能である。
森山によると、同法が治安維持法改正案の代わりになっているとの懸念を?拭するために、上記3点の修正を行った他、法律の主管を刑事局から大臣官房の保護課へ移すなどの措置を取った
[9]
。
法案は、
1936年
の第69帝?議?に提出された
[1]
。法律制定の趣旨は、思想?向者の再犯防止、非?向者の?向促進である
[7]
。
特別高等警察(特高)
には?に思想要監視人?思想要注意人制度があったため、?初、
?務省
は法案に反?だったが、森山の?得で態度を?え法案に?成することになった
[1]
。
議?審議では
加藤勘十
が反?論を展開、治安維持法違反者の再犯率が約3パ?セントと低いこと(通常犯罪は約35パ?セント)、憲法に定める居住??居の自由を侵害することを指摘した
[10]
が、結局、法案は原案のまま
1936年
5月に成立、同年11月20日より施行された
[7]
。「思想の指導」と「保護?察」が2本の柱で、前者は「?の日本人に還元せしむる」ことを目的にして職業の斡旋?就??復?などに配慮する「生活の支援」、後者は字義通りであり、?象者は
起訴猶予
者、
執行猶予
者、
??放
者、?期?放者の4つであった
[7]
。
思想犯保護?察制度は、日本本土だけでなく
朝鮮
(1936年12月より)?
?東州
(
1939年
1月より)でも施行されたが、
台?
では導入されなかった
[11]
。
?向政策
[
編集
]
思想犯保護?察法成立に伴い、これまで適用されてきた?向判?基準は1936年には?格化された
[12]
。森山自身が著書『思想犯保護?察法解?』の中で?明するところでは?向を以下の五段階に分類し、第四段階を一?の目標とすることにされた
[13]
[14]
。
- 第二段階
- マルクス主義に?しては、全く又は一?無批判的にして、今?お〔
ママ
〕
自由主義
、個人主義的態度を否定し得ざる者
- 第四段階
- 完全に日本精神を理解せりと認めらるるに至りたる者
- 第五段階
- 日本精神を?得して、??躬行(きゅうこう)の域に到達せる者
このように?向者に「日本精神」を要求するようになった。
「日本精神」という言葉は、「
日本主義
」という言葉とともに1930年代の日本で流行したが、共にどのようなことを意味しているのか曖昧なまま使われていた
[15]
[注 3]
。森山の解?でも「日本精神」という言葉が?向の判?基準になっているが、司法省?森山共に「日本精神」の定義が明確だったわけではない
[20]
。このあいまいさは、共産主義以外の思想??につながっていった。
治安維持法は本?
共産?
?策の法律だったが、?向政策における「?向」の判?基準に、反自由主義?反個人主義や、「日本精神」というあいまいな基準を持ち出したため、
共産主義
以外の思想も排斥される原因になった
[20]
。問題は、それだけでは?まされない。思想?事は、思想の排斥??制を治安維持法違反者だけでなく、一般?民にまで?げようとした。例えば、東京保護?察所長の平田?は、?向方策は一般社?に?しても「日本精神の??と宣揚」のために必要である、と述べている
[21]
。また、同所輔導官だった中村義? (宮城控訴院?事局思想?事、後?名古屋地裁?事局思想?事、東京予防拘禁所初代所長
[22]
) は「今や思想?係者のなしとげた「?向」問題は?展し、更に一?して?民全?の時局的?策的「?向」を要請している」と書いている
[21]
。平田の?言は
支那事?
勃?前の1936年、中村の?言は
太平洋??
開始以前の1938年のものである。
?向判?は1938年になると更に基準が?しくなり、第五段階にならないと「
?向
」したと判?されなくなった
[20]
。また、支那事?以降「日本精神」の?揚は決定的になり、政府は?向者を
?家?動員
?制に組み?み、?地の宣撫班として宣?活動に協力させるように?制した
[15]
。
1941年
になると基準は、新治安維持法制定に伴って更に改訂され、「過去の思想を?算し、日常生活裡に臣民道を躬行し居るもの」のみが「?向」したと判?され、それ以外の者は「予防拘禁」に回された
[23]
。ただ、1941年の改正によって成立した新治安維持法における目玉政策だった予防拘禁制度は?際にはあまり?果を?揮したとは言えず
[24]
、?際に予防拘禁所?に拘禁された人?は期待されたほどの?にはならなかった
[25]
[26]
。
保護?察所
[
編集
]
1936年
(昭和11年)
11月1日
、東京?大阪など
控訴院
所在地に7ヶ所の保護?察所、15カ所の保護?察所出張所が設置された
[27]
[28]
。このうち、東京保護?察所は管?(
東京
?
埼玉
?
千葉
?
山梨
)だけで全?の「保護?察」?象者の約3分の1を占めており、保護?察所のモデルケ?スとして注目されていた
[8]
。東京保護?察所の所長には、平田?が就任した(
大審院
?事との兼務)
[28]
。平田は、保護?察制度の運用面で重要な役割を果たした人物である
[28]
。
大阪
?
名古屋
?
?島
?
札幌
の所長は思想?事から?出した?任者が所長になり、その他の保護?察所の所長は地裁?事局の思想?事が兼任した
[29]
。このように、保護?察制度の運用は思想?事によって主導されたと言ってよい。
保護?察所だけではなく、民間の保護事業??や、寺院、??、病院も身柄の引き受けの請負でかかわった
[12]
。保護事業??としては、例えば、半官半民の帝?更新?があげられる
[12]
。この?では、元共産?員で?向者の小林杜人が、思想犯の職業あっせんを??した
[12]
。
運用の?態
[
編集
]
思想犯保護?察制度は、その名前にあるように「保護」と「?察」の2面を持った制度で、「保護」に相?する事業として、思想犯やその家族の就職あっせんや結婚の仲介、職業訓練、授産
[12]
、就?援助、生活扶助
[30]
など、「?察」は、保護司らによる出張?察や定期的な呼び出し
[31]
である。
思想?事たちは、この制度が共産主義の??一?倒ではない日本?自の制度だと誇った
[23]
。例えば、東京保護?察所長の平田?は「保護?察法は全く母法なく、日本?自の愛の精神に立脚した?に日本的な法律」だと自?自?している
[32]
が、運用はこの言葉からはかけ離れたものに?質していった。
東京保護?察所では施行?初は「保護」重視の姿勢を示していた
[33]
。しかし、支那事?以降は「保護」よりも「?察」が主?になっていき、1940年頃になると、「?察」の重要視は決定的になった
[33]
。1936年の第69帝?議?で加藤勘十は、法案は「保護?察」とうたっているが運用は「監視取締」に主眼が置かれるだろう、と警告していた
[10]
が、?際にその通りになった。
脚注
[
編集
]
注
[
編集
]
- ^
なお5月13日までは
林?三?
。
- ^
?時の
大阪弁護士?
?長村野美雄は1908年の
宮武外骨
『滑稽新聞』?禁事件の??裁判官であったが、居住地は大阪市北?若松町であった。
- ^
「日本主義」という言葉は、私的なグル?プ用の文書ではあるが、外交官が作成したものにすら現れる
[16]
。1936年作成の『日本固有の外交指導原理綱領』が一例である
[17]
。この文書は革新外交官グル?プの1人である仁宮武夫の手によるもので、
?部良一
の言によれば「とても
外交官
が書いたものとは思われない。くどいほどに「道義」と「良心」が?調され、抽象的な?念論に終始し、うんざりするほど空?な言葉が羅列されている」
[18]
。「日本精神」という言葉を題名につけた本が1930年代に大量に?行されていたことは、現在でも容易に?書?索して確認できる。例えば、「日本精神」という言葉は、西田幾多?の『日本文化の問題』(岩波新書、1940年)pp.89-90にも見られ、その他にも、
?民精神?動員運動
(精動)中央連盟や精動委員?幹事?の議論でも使われている
[19]
。
出典
[
編集
]
?考文?
[
編集
]
?連項目
[
編集
]
外部リンク
[
編集
]