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?川 家定
(とくがわ いえさだ)は、
江?幕府
の第13代
?軍
(在任:
1853年
-
1858年
)。第12代?軍?
?川家慶
の四男。
生涯
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]
?軍就任以前
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]
文政
7年(
1824年
)4月8日、第12代征夷大?軍?
?川家慶
の四男として
江?城
で生まれる。母は幕臣?跡部正賢の娘?堅子。第11代征夷大?軍?
?川家?
は祖父、
?川治?
は?祖父、
?川宗尹
は高祖父にあたる。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き?ったのは家定だけであった。しかし家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。
天保
12年(
1841年
)に
大御所
?
?川家?
(第11代?軍。家定の祖父)の死後、(第12代?軍?家慶の)世嗣となる。しかし家慶は、家定の?嗣としての器量を心配して、
一橋家
の
?川慶喜
を?軍?嗣にしようと考えたほどである。だが、
老中
?
阿部正弘
らが反?したため、結局は家定を?軍?嗣とした。
?船?航
の19日後にあたる
嘉永
6年6月22日(
1853年
7月27日
)、家慶が病死したことを受け家定は第13代?軍となった。
?軍時代
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嘉永
7年
1月16日
(
1854年
2月13日
)、
マシュ??ペリ?
が7隻の艦隊を率いて再?日すると、幕府は同年
3月3日
(
3月31日
)
日米和親?約
に調印した。
家定は元?健康が優れなかったが、?軍就任以後はさらに?化し、
?人
同?になったとまで言われている。このため、幕政は老中?
阿部正弘
によって主導され、
安政
4年
6月17日
(
1857年
8月6日
)に正弘が死去すると、その後は老中?
堀田正睦
によって主導された。
安政4年
10月21日
(
1857年
)に米??領事
タウンゼント?ハリス
を
江?城
で引見している。
?軍?嗣問題
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家定は
鷹司政?
の娘
任子
(天親院有君)
[注? 2]
や
一?忠良
の娘
秀子
(澄心院?明君)を御簾中に迎えたが、いずれも早世し、
近衛忠?
の養女敬子(
天璋院
)を御台所に迎えるも?子は生まれなかった。このため、?軍在職中から後?者?いはすでに起こっていたが、家定の病?が?化した安政4年(1857年)頃からは、それが激化する。
家定の後?者候補として、
井伊直弼
ら
南紀派
が推薦する
紀州藩
主?川慶福(後の
?川家茂
)と、
島津?彬
や
?川?昭
ら
一橋派
が推す一橋慶喜(?川慶喜)が?がり、この?派が互いに?軍?嗣をめぐって?った。
家定はこの間にも表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年6月25日(1858年8月4日)、諸大名を招集して?弟である慶福(後の家茂)を?軍?嗣にするという意向を?え、安政5年7月5日(1858年8月13日)に一橋派の諸大名の?分を?表するという異例の行動を見せた。家定が?軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後であった。
安政5年7月6日(1858年8月14日)、死去。享年35。養子となった慶福改め家茂が跡を?いだ。
人物
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- 『
安政紀事
』には「疾ありて政をきくことあたはず、ただ廷中わずかに儀容を失はざるのみなり」と記されている。
松平春嶽
も「凡庸の中でも最も下等」と酷評したと?わる。しかし、幕臣であった
朝比奈昌?
は
明治期
に「凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前(春嶽)や薩摩(
島津?彬
)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」と弁護している。
- 家定は就任直後から後?問題が浮上するほど病弱であった。また、しばしば?を起こし、幼少の頃から人前に出ることを極端に嫌い、
乳母
である
歌橋
にしか心を開かなかったとされ、幕末の難局にもかかわらず、?軍としての指導力を示すことは出?なかった。
- 上記の行動から、家定は
障害
を患っていたと考えられており、
?性麻痺
とする?もある(?を起こすのは
アテト?ゼ
型の典型症?である)。ハリスの
日記
によると、引見した際に家定は言葉を?する前に頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすという行動を取ったと記されている。これは?性麻痺の典型的な症?と言われる
[1]
。しかし、家定はハリスに?して「?か遠方より使節をもって書簡の?け?ること、ならびにその厚情、深く感じ入り?足至極である。??の親しき交わりは幾久しく?くであろう
合衆?プレジデント
にしかと?えるべし」と告げ、?軍らしい態度も見せたという。
- 幼少の頃に患った
痘瘡
のため、目の?りに
?
が?ったが、
肖像?
などには描かれていない。これが人前に出るのを嫌った一因ともされている。
- カステラ
や
饅頭
を作ったりするなど、
菓子
作りが趣味だったとされている。また
煮豆
やふかし芋などを作り、自分だけで食べずに、時には家臣たちに振る舞っており、春嶽からは「
イモ公方
」などと呼ばれた。しかし自分でよく調理をしたのは、猜疑心が?く
暗殺
を恐れての事であったとも言われる。家定が
大御所
として西之丸で生活していた祖父?家?を訪れた際、出された食事に毒が入っているかもしれないと考えて
箸
をつけなかったという逸話も?っており、これは後に家定が家?と不仲であったという俗?を生んでいる。
- 庭の鳥を追いかけるなどしたというのは『朝野新聞』の記事から派生した訛?である。
- 天璋院
(島津?彬の養女?篤子、のち近衛忠?の養女?敬子)の入輿について、家定や
大?
が長命で子?山だった祖父?家?にあやかって薩摩出身の夫人を望んだことが明らかになっている(家?の御台所
?大院
は
島津重豪
の娘)。この?組は自らの推す一橋慶喜を次期?軍に擁立するための島津?彬による政略ではないかと考えられた時期もあるが、島津家から
大?
への
御台所
の申し入れは家定が?軍となる以前から行われていたため、現在では入輿と?嗣問題は無?係と考えられている
[2]
。
- 大樹寺
に?められている各?軍の位牌が、遺骨から判明したそれぞれの身長と同じ高さであるとする?から、家定の身長については149.9cm程度であったと推測される。また、父?家慶の位牌が153.5cmで?際の身長より誤差が0.9cm余りであることから、家定は150.8cmであったとも考えられる。
- 生?病弱であったため、御台所及び2人の
御簾中
や
側室
との間に子はなかった。また、
?室
たる御簾中
一?秀子
は、極めて矮小な??をしており、立っていても首が?の引き手の下にあったという。一?に彼女は、片足が短いため
跛行
して?いたと?えられる。
- 自らの後?者候補となった慶喜とも不仲であった。家定に影響を及ぼした
大?
の意向を反映したものと考えられているが、側小姓であった
朝比奈閑水
(後に
外??奉行
?
町奉行
?
勘定奉行
を務める)の回想によると「?に自分より慶喜の方が美形であったから」という私怨に近いものであった。なお、慶喜は(生母?
登美宮
(貞芳院)が家慶の御台所
?宮
(??院)の姉妹にあたるので)義理の?弟である
[3]
。また、家定自身は「まだ若く世子誕生の見?みもある」と考えていたため、慶喜擁立論が自分を暗愚?病弱であることを前提にしたものだと捉えて反?していたとする指摘もある
[4]
。
死因
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]
- その死は一橋派の諸大名?分の翌日であったため、
一橋派
が??師?
岡?仙院
を使って家定を毒殺したのではないか、という?が流布されたことがある。
- 家定の死因は、通?では持病の
脚?
が?化したため
[1]
とも、その頃流行していた
コレラ
によるものとも言われている。
- 家定の死の直前、大老?井伊直弼と?母?
本?院
との判?で、
漢方?
の?木春岱?
遠田澄庵
、
蘭方?
の
伊東玄朴
?
?塚?海
が江?城登城を許され家定を診察した。以降、幕府?部にも
西洋??
が導入されることになる。
系譜
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?川家定の系譜
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| 16.
?川宗尹
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| 8.
?川治?
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| 17. 於由加
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| 4.
?川家?
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| 18. 岩本正利
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| 9.
岩本富子
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| 19. 梅田養女
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| 2.
?川家慶
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| 20. 押田勝輝
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| 10. 押田敏勝
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| 21. 金田正利娘
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| 5.
押田照子
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| 22. 天野久豊
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| 11. 押田勝久養女
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| 1.
江?幕府
13代
?軍
?川家定
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| 24. 跡部正泰
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| 12. 跡部正辰
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| 6. 跡部正賢
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| 26. ?田?松
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| 13. ?田?松娘
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| 3.
跡部堅子
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官?
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※日付=??
偏諱を?えた人物
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]
- 家定時代(?軍在職中)
-
家定の在任期間は?年であり、この間に偏諱を賜った人物も上記の2名だけであった。
- (補足)
-
- 家定は初め
家祥
(いえさち/いえさき)と名?っていたが?軍就任に際して
家定
に改名している。これは名に
偏
のついた
江?幕府
の?軍(
家
綱
?
綱
吉
?
家
?
?
家
治
)には?子がないか、いても早世したため?起が?いとされたためだという。しかし家定にも結局?子を得ることができなかった。また後?の?川家茂が
慶福
から
家茂
に改名したのも同?の理由だと考えられるが、結局家茂も子?に?まれないまま死去した。
- ?軍の一字(偏諱)を?領する家柄は固定していたので、元?「定」の字を使用していた大名が遠慮して改名するという現象を生じた(例:
久松松平氏
の松平定穀→松平勝善、
松平定猷→松平猷
、
松平定保→松平勝道
)。
?連作品
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]
- テレビドラマ
-
- テレビアニメ
-
- 漫?
-
脚注
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]
注?
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]
- ^
?像には入っていないが、?面右上に「?恭院?」の書?がある「院?本」。なお?川記念財?には、ほぼ同?だが平?が異なる
狩野雅信
筆の肖像?もある(
岡崎市美術博物館
編集??行 『特別企?展 家康の肖像と東照宮信仰』 2017年6月2日、第115,116?)。
- ^
家定との結婚時(1841年)には父の政?が死去していたため、兄である
鷹司政通
の養女として輿入れしている。
出典
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]
外部リンク
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]
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f4/OOjs_UI_icon_helpNotice-ltr-destructive.svg/38px-OOjs_UI_icon_helpNotice-ltr-destructive.svg.png) | この節の
正確性に疑問
が呈されています。
問題箇所に
信?できる情報源
を示して、記事の改善にご協力ください。議論は
ノ?ト
を?照してください。
(
2024年6月
)
疑問点:文室綿麻呂、藤原忠文、源義仲は征夷大?軍ではありません。
|
|
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- 家康
1566 - 1605
- 秀忠
1605 - 1623
- 家光
1623 - 1651
- 家綱
1651 - 1680
- 綱吉
1680 - 1709
- 家宣
1709 - 1712
- 家?
1713 - 1716
- 吉宗
1716 - 1745
- 家重
1745 - 1760
- 家治
1760 - 1786
- 家?
1787 - 1837
- 家慶
1837 - 1853
- 家定
1853 - 1858
- 家茂
1858 - 1866
- 慶喜
1866 - 1868
- 家達
1868 - 1940
- 家正
1940 - 1963
- 恒孝
1963 - 2023
- 家?
2023 -
|