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後藤 夜半
(ごとう やはん、
1895年
(
明治
28年)
1月30日
-
1976年
(
昭和
51年)
8月29日
)は、
大阪府
出身の
俳人
。本名は潤。
高浜?子
に師事、「諷詠」を創刊、主宰。「
ホトトギス
」同人。
喜多流
の
能?師
で
人間??
の
後藤得三
、喜多流十五世宗家の
喜多?
はともに?弟。
後藤比奈夫
は息子。
生涯
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大阪市
北?
?根崎新地
生まれ。父??平、母?フクの長男。私立
泊園書院
を卒業後、1918年から終?まで
北浜
の
?券?社
長門商店に勤める。少年時代、父の書架にあった「
ホトトギス
」を?んだことから俳句に興味を持つ。1923年、「ホトトギス」に初投句し、
高浜?子
に師事する。同誌の
日野草城
、
山口誓子
、
阿波野?畝
らと「無名?」を結成。1928年、「ホトトギス」課題句選者。1931年、「蘆火」を創刊、主宰。1932年、「ホトトギス」同人。1934年、病?のため「蘆火」を終刊。
?後は俳句?業となり、1948年「花鳥集」を創刊、主宰。1953年、「花鳥集」を「諷詠」に改題。
俳人協?
名??員。神?俳人協?理事等も努めた。
1976年
(昭和51年)、
神?市
東灘?
北?木
にて死去。大阪市北?の
蓮華寺
に眠る。戒名は潤?院法?至純居士。?後、長男の
後藤比奈夫
が「諷詠」の主宰を?承。同年9月26日、蓮華寺にて追悼句?が行われる。
作品
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代表句として「瀧の上に水現れて落ちにけり」(『翠黛』所?)が、「
?
」の
季題
の代表句として非常によく知られている。この句は句帖に?えば1929年6月9日に作られた句で、
箕面の?
を詠んだものである。阿波野?畝によれば、句?でこの句がでたとき、誰もわからなくて取らなかったというが、同年の「ホトトギス」9月?にて?頭を取ったのち、1931年、?日新聞主催の「日本新名勝俳句」(?子選)でも第1席に選ばれており、
客??生
に徹した句として?子の激賞を受けることとなった
[1]
。
山本健吉
は「?を高速度映?に?し取ったような句」と解?している
[2]
。現在、箕面公園の?前には同句の句碑が建てられている。
ただし「瀧の上に」の句は夜半の句業の中ではやや異質な句であり、全?としては古典の造詣をふまえた、上方らしい情?のある句を得意としている。「牡?舟へ降りる客追ひ廓者」「あそびめの膝をあてがふ火桶かな」「金魚玉天神祭映りそむ」(いずれも『翠黛』所?)といった句で、閑?な田園地?に住みながら色街の句を詠みつづけたことも特色である
[3]
。
遺句集『底紅』??の「底紅の?く隣にもまなむすめ」は「ホトトギス」1954年12月?の?頭句で、「底紅」(
底紅木槿
)を季語として定着させた作品である。この句にちなんで夜半の忌日は底紅忌とも呼ばれる
[1]
。
著書
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句集
- 『翠黛』
三省堂
、1940年
- 『?き獅子』 第一出版、1962年
- 『色彩』 第一出版、1968年
- 『底紅』
角川書店
、1978年
- 『破れ傘』(
後藤比奈夫
編)
ふらんす堂
〈精選句集シリ?ズ〉、1994年
- 『後藤夜半全句集』
沖積?
、2002年
俳書
出典
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]
- ^
a
b
後藤比奈夫 「後藤夜半」 ?畑汀子編 『ホトトギスの俳人101』 新書館、2010年、30-31頁。
- ^
山本健吉 『俳句鑑賞?時記』 角川書店〈角川ソフィア文庫〉、2000年、107頁。
- ^
三村純也 「後藤夜半」 『現代俳句大事典』普及版、三省堂、2008年、228-229頁。
外部リンク
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