弓裔
(きゅうえい)は、
後三?時代
の群雄のひとりで、
後高句麗
の建?者。姓は金、僧?は善宗。隻眼であったことから
一目大王
との別?もある。
?制的な暴政、もしくは豪族たちとの?立が先?化し、918年の「
易姓革命
」で侍中であり有力な部下であった
王建
に追放されることとなったため、
諡?
はない。
生涯
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三?史記に記される出生
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『
三?史記
』によると
新羅
の第47代?王
憲安王
あるいは第48代?王
景文王
の
庶子
として生まれ、日官は王に「赤ん坊は重午日に生まれただけではなく、出生時の空がおぼろだったことや、生まれたばかりなのに?が生えているところが不吉である」といい、王は弓裔を殺すように命令したという
[1]
。
しかし兵は赤ん坊の弓裔を殺せず、宮殿の下に投げ捨ててしまった。宮殿の下で
乳母
が?落する弓裔を助けたが、弓裔は助けられた際に乳母の指が目に刺さり、それがもとで隻眼になった
[2]
。乳母は弓裔と都から遠くに逃亡し、貧窮のなかで?の母として弓裔を育てたという。
弓裔が10?になった頃、乳母は周?と悶着を起こしてばかりいる弓裔に出生の秘密を告げた。乳母は「あなたは王室の子として生まれて、殺されるところだったのを?の毒に思った。それであなたを命をかけて育てたのに、あなたは?日?動を起こして私に心配ばかりがけている。それが悲しいのです。あなたの正?が知られると私たちは殺されるのですよ」と言った。弓裔は泣きながら「私が?い。もう二度と母上に心配をかけることはないだろう」と言って家を出た
[2]
。
解?
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現在、?界の一部には弓裔を憲安王の庶子とする意見が存在するが、憲安王には二人の娘らしかいなかったため生まれたばかりの
王子
を殺す理由はないと考えられている。憲安王に?いて?位した景文王は憲安王の?として王位を承?した。憲安王は?位の際に景文王の父の
侍中
金啓明
から助力を得たために自分の長女と景文王を結婚させ、次の王位を?ろうとしたとされる。この過程で憲安王の庶子である弓裔は金啓明一派の標的になったという推測もあるが、?定はできない。どの王の息子であれ、結果として王子でありながら王室から見捨てられ、民間で成長した弓裔は新羅王室に反感を持つことになった。
建?と滅亡
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弓裔は家を出てから世達寺(現在の
江原特別自治道
寧越郡
にあったと推定されている
[3]
)に入り、僧侶になって善宗と?した
[2]
。寺では世俗のことは忘れ、?道に?念するよう?えられたが、弓裔は自分が新羅の王族であることから僧侶の生活に意義を見出せず、成長すると戒律にとらわれず物怖じしない人物となった。?戒に行く途中で、カラスがくちばしにくわえていたものを彼の托鉢の鉢の中に落とした。それをみると「王」と記された象牙の札であった
[2]
。これが弓裔が一?の王となる野望をいだく契機となった。
?時の新羅は中央政府の統制が失われ、
均田制
が?れたところに凶作が?き、各地で豪族たちの反?が起きるようになった。また有力豪族は自らの勢力?を事?上の?立?とし、?土を分割しつつあった。
891年
、弓裔は竹州(チュクジュ、現在の
安城
)?永同に?点を持った?賊の魁帥の
箕萱
(キフォン)の部下になったが、箕萱は無?であったので、元??申煊らと結託してその下を去り、
892年
には北原の
梁吉
(ヤンギル)の部下になった
[4]
。
893年
、梁吉の部下を?えて酒泉(現在の
醴泉
)?奈城(ネソン、現在の
寧越
)などを攻略し、さらに江原道?京畿道??海一?を攻略して、多くの兵力を集めることに成功し、?自の勢力を形成し、半島中部地方で大きな勢力を形成した。
894年
には溟州(現在の
江陵
)を占領した。ここで3500の兵を得て14の部隊をつくった
[4]
。弓裔は、自分自身に?う人?や兵士と苦?をともにし、?利品を分配するなど、あらゆる場面で公平であったので、人望を得ることに成功した。彼は自らを世界が終わる日に新しい世界へ導くという?勒であるとし、人?は弓裔が自分たちを救?してくれると信じ、?立勢力の指導者に推した
[4]
。
?いて現在の
江原道
?
?海道
?
京畿道
一?を攻略して、
?原
を?点に?立?としての?制を整えていった。
895年
、梁吉は自分の娘を弓裔に嫁がせている。弓裔の急速な勢力の?張に?海道西部の豪族たちが次?と投降し、松嶽(現在の
開城
)の豪族の王建が投降して?ると、王建を?原郡太守に任命し、
896年
には王建に命じて僧嶺?臨江の2?を、
897年
には仁物?を攻略させた。
898年
には?原(
忠州
)??州(
牙山
)など30余州を?落させ、半島中部を占?する形勢となった。北原の梁吉は、勢力を?大している弓裔を倒そうとし、弓裔に攻?したが、弓裔は予期していて梁吉の軍勢をさんざんに打ち破った
[5]
。
松嶽を?点に勢力を?大した弓裔は、
901年
には自らを王を?し後高句麗を建?した。この後高麗と、
892年
に
完山州
を?点に朝鮮西南部を支配した
甄萱
の
後百?
、都の
慶州
付近を維持する新羅とが鼎立する時代を
後三?時代
と?する。
弓裔は
904年
には??を
摩震
と改め、年?を
武泰
として都を松嶽から
?円
に移した。
聖冊
2年(
906年
)には後百?軍を
?州
の沙火?で迎え討って勝利を?め、 聖冊6年(
910年
)には王建に水軍を?えて
西南海
上に派遣し、
珍島
?
皐夷島
を攻略、錦城(
羅州
)を奪って甄萱を牽制した。この頃、弓裔の勢力は南は
公州
、東北は甑城(
安?
)、西北は
?海道
?
平安道
まで及んだ。
聖冊7年(
911年
)には??を
泰封
、年?を
水?万?
と改元し、自らを
?勒菩薩
と?し、長男を
?光菩薩
、次男を
神光菩薩
と呼ばせた。このころには弓裔には粗暴なふるまいが多くなっており、『高麗史』の太祖(王建)の項によると、?勒?心法と?して人?の本性を探り出すことに熱中し、三尺の?棒を熱して拷問殺害を繰り返し、特に女性の不道?を嫌って多くの女性を?刑したとされる。弓裔の?暴を?めた康王后も不倫を疑われて陰部を熱した棒で貫かれ殺害され、さらに二人の息子も殺された。その他多くの臣下を殺したために人心を失った。
政開
5年(
918年
)、部下の
卜智謙
?
申崇謙
?
洪儒
?
裵玄慶
らが謀って王建を王に推戴した。王位から逐われた弓裔は逃亡する途中、飢えをしのぐために畑の作物を?もうとして村人に?見され
平康
で殺害された。
家族
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王后
- 王后康氏(?-915年):弓裔によって殺害される。
子女
- ?光菩薩(?-915年):弓裔によって殺害される。
- 神光菩薩(?-915年):弓裔によって殺害される。
登場作品
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]
脚注
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出典
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]
- 洪淳昶
「羅末麗初の?動期における政治と宗?-下-特に後三?時代を中心として」,東北大?文?部附?日本文化?究施設 編『日本文化?究所?究報告23』所?,1987年
- 金富軾
/
井上秀雄
(?)『三?史記』1(新羅本紀),平凡社,1980年
- 金富軾/井上秀雄,鄭早苗(?)『三?史記』4(列?),平凡社,1988年