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大?裏

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平安宮 から?送)
平安京大?裏の位置
平安京大?裏(平安宮)

大?裏 (だいだいり)とは、 平安京 の宮城である。別名 平安宮

平安京 における宮城?の 天皇 在所である ?裏 が「大?裏」と呼ばれた。 14世紀 になると宮城全?を「大?裏」と?するようになり、この用例が一般化するようになる。 平安京 の北?中央に位置する。

構造 [ 編集 ]

東西約1.2km、南北約1.4kmの、行政施設??家儀式や年中行事を行う殿?、天皇の居住する?裏が設置されている?域であった。

大?裏の周?は 築地 の大垣が張り巡らされており、この築地を「宮城垣」または「外の重(とのえ)」という。

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門は最も外側に「宮城門(きゅうじょうもん)」が位置し、?裏外郭の門を「宮門(きゅうもん)」、?郭の門を「閤門(こうもん)」という。

宮城十二門は次の通り。

宮城十二門の一?(陽明門から時計回り) [1]
?像 位置 弘仁式 貞?式 延喜式 ?みの?訛 造進氏族 通?
貞?式 延喜式
東面 ?犬養門 山門 陽明門 やま やうめい 山氏 兵衛御門
山門 建部門 待賢門 たけるべ たいけん 建部氏 中御門
達部門 的門 郁芳門 いくは いくはう 的氏 大炊御門
南面 壬生門 壬生門 美福門 みぶ びふく 壬生氏 壬生御門
大伴門 大伴門 朱雀門 おおとも (大伴氏の名はすぐ北の ?天門 に?る) すざく 大伴氏 大伴門
西 若犬養門 若犬養門 皇嘉門 わかいぬかい くわうか 若犬甘氏 雅?寮門
西面 玉手門 玉手門 談天門 たまて だんてん 玉手氏 馬寮の門
佐伯門 佐伯門 藻壁門 さえき さうへき 佐伯氏 西中御門
伊福部門 伊福部門 殷富門 いふくべ いんぷ 伊福部氏 西近衛門
北面 西 海犬養門 海犬養門 安嘉門 あまいぬかい あんか 海犬甘氏 兵庫寮御門
猪使門 猪使門 偉鑒門 いかい いかん 猪養氏 不開(あかずの)門
丹治比門 丹比門 達智門 たぢひ たっち 丹治比氏 多天井門

宮城門には、以上の十二門に加えて東面では陽明門のさらに北に 上東門 (じょうとうもん)、西面では殷富門のさらに北に 上西門 (じょうさいもん)があった。上東門と上西門は大?通用門として「屋根を設けず築地を開いただけ」の門であったため、「土の門」=「土御門」と呼ばれた。この門を出た通りが「土御門大路」であり、姓氏の 土御門家 藤原氏 邸宅 土御門殿 はこの地名に由?している。上東門と上西門を除く12門が「宮城十二門」と??される。

大?裏の主な施設 [ 編集 ]

?史 [ 編集 ]

村上天皇の日記(村上天皇御記、天?御記)によると、元は 秦河勝 の邸宅があった場所であるという。大?裏??裏は10世紀後半以降、たびたびの?失に見舞われた。最初の?失は 村上天皇 天? 4年( 960年 )のことで、村上天皇御記で「人代以後」3度目の?裏?失( 難波宮 [注? 1] ? 藤原宮 [注? 2] に次ぐと認識された)を平安遷都170年で招いた自らの不?を嘆いた。村上天皇は冷泉院 [注? 3] 里?裏 とし、翌 ?和 元年(961年)に大?裏が再建されると還幸した [2] 。しかし、再建した大?裏も15年後、 円融天皇 の貞元元年(978年)に?失してしまう [3]

以後、?裏の再建と?亡は頻繁に起こり、円融天皇? 一?天皇 の時代にはそれぞれ再建と?亡を1~3年間隔で3度ずつ繰り返した。 三?天皇 長和 4年(1015年)には、9月20日に再建が成った?裏に1年ぶりに?ったのにもかかわらず、わずか2か月後の11月17日に?裏が?失する有?であった [4] 。また、?初は1~2年程度で行われた再建も、一?天皇の ?弘 2年(1005年)に?生した?亡からの再建に6年を要したのを皮切りとして間隔が長くなる傾向が見られ、天皇の里?裏暮らしが常態化するようになった [5]

院政期 [ 編集 ]

白河天皇 永保 2年(1082年)に?亡した?裏は、 康和 2年(1100年)の再建までに足掛け19年を要した。このため、 ?? 3年(1086年)に?位された 堀河天皇 は、堀河院という里?裏で ?祚 することとなった [6] 。また堀河天皇は?裏再建後も里?裏で暮らした期間が長く、天皇在位期間の大半を里?裏で過ごした [7] 。以後の 院政 期の天皇たちも同?で、 鳥羽天皇 は15年半の在位期間中合計7か月程度しか?裏で暮らしておらず [8] 崇?天皇 は儀式などのために大?裏に4回赴き?在したが、?裏には一度も足を踏み入れなかった [9] 。天永3年(1112年)に鳥羽天皇の里?裏である 高陽院 が?失した際には、本?の?裏が存在して使用可能であるにもかかわらず「次の里?裏」を選ぶ議論が行われた。『 中右記 』によれば、 治天 である白河法皇が「?裏の殿?は甚だ?博なり」(?裏は?すぎる)という理由を?げて幼少の天皇の?裏住まいに反?したといい、孫である天皇を法皇の御所である小六?殿に同居させて(それまで天皇と院の同居は異例であった)天皇を庇護?後見する院という政治?制を?現した [10] 。院政を敷く治天は大?裏の修築?活用を嫌い、 慈円 の『 愚管抄 』には 藤原忠通 (慈円の父)が「捨てられた」大?裏の復興を提起したものの鳥羽院が退けた話が載せられている [11] 。康和2年(1100年)再建の?裏は承久元年(1219年)まで119年間?失を免れるが、天皇が日常的に暮らさなくなったために火を使わなくなったことが理由と考えられる [12]

大?裏全?は荒?の一途をたどったが [13] 、特定の建物は儀?の場として維持された [14] 。?位式を行う 大極殿 などで、?位式が行われる時期だけは修造?復興がなされた [15] 。保元2年(1157年)、後白河天皇の近臣である 信西 (藤原通憲)が主導して大?裏再建が着手された。算術に明るい信西は自ら計算を行って各?に無理なく費用を分?させたといい、1年足らずで造?を終えた [16] 。ただし近年の?究によれば [注? 4] 信西が再建したのは 朝堂院 (その正殿である 大極殿 や回廊? ?昌門 )? 朱雀門 など限られたものであり [注? 5] 二?天皇 の?位式(保元3年(1158年))の?場として整備されたものと考えられる [18]

安元3年(1177年)に?生した 安元の大火 (太??亡)は、 朝堂院 大極殿 を含む)が?失するなど、大?裏に?滅的被害を?えた [19] (?裏は?失を免れた)。大極殿再建が間に合わなかったために、 安?天皇 は?裏の 紫宸殿 で?位式を行ったが、安?天皇が平家とともに?したために?裏での?位は「凶例」と見なされ、後鳥羽天皇は 太政官? で?位した( 後三?天皇 が、?失した大極殿の代わりに太政官?で?位式を行った前例があった) [20] 。以後室町期まで、中世の天皇は太政官?で?位することが定例となる [21]

治承??永の? を?て朝廷は明白な財政難に?った。安元の大火で?失した大?裏の再建は??として進まず、文治5年(1189年)にようやく再建が始まった [22] 。承久元年(1219年)に?裏を含めた大?裏が?失。その再建途上の 安貞 元年(1227年)に火災によって全?し、これをもって大?裏の再建は放棄された [23]

?野 [ 編集 ]

平安後期の大?裏は、周?に巡らせた大垣が維持されて(正門たる朱雀門周?では)威容を保った一方、大垣の?側では?裏などの一部施設を除いて空閑地であったことが考古?的に確認されている [注? 6] 。大?裏の?墟になった部分は ?野 (うちの)と呼ばれるようになった [24] 。平安時代中期成立の『 今昔物語集 』 ?第二十七第三十三「西京の人、?天門の上の光る物を見る語」には、西京(右京)に住む者が深夜に「?野通」を通り、?天門と?昌門の間 [注? 7] で怪しい光を目?した話であるが、平安時代中期にはすでに大?裏が夜間通行可能な荒地と化し、そこに「?野通」という道路が作られていたことを物語る [25] 。「?野通」は、?時の市街地であった左京北部と西の嵯峨方面とを結ぶ道のひとつであった [26]

?野は鎌倉時代には武士たちの馬場として利用された [27] 。各地から上京した武士が京中の秩序を?すことを懸念した鎌倉幕府が天福元年(1233年)に出した禁制の中には、?野を馬場として馬術や騎射術の訓練を行うことを禁じるものがある [28] 。元弘3年(1333年)に 足利尊氏 六波羅探題 を攻めた際、六波羅の軍勢が?野に布陣して迎え?ったのを皮切りとして、明?2年(1391年)の 明?の? における?野合?など、南北朝期から??期にはしばしば?場として利用された [29]

室町時代には、?野の北に位置する 北野社 が?野や朱雀大路を占?して農地を開?し、室町幕府に社領として認めさせた。その一方で、天皇の?位式の?場となる 太政官? 、各種神道儀式が行われてきた 神祇官 、各種??儀式が行われてきた ?言院 の3つの施設は南東にある 神泉苑 と共に荒?しながらも?野の中に存?していたが、 ?仁の? でこれらの施設は?失し、再建することが出?なかった。このため、 後柏原天皇 の?位式は?裏を大?裏の空間に見立てて?施された [30]

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は?野に 聚?第 を建設したが、その後豊臣秀次失脚の余波で破却された。近世には 聚?村(聚?廻り) という農村となって近代を迎え、現代では京都市街地の一部(中京?の「 聚?廻 」を冠する町など)となっている。

のちの施設との?係 [ 編集 ]

幕末まで天皇が住んだ 京都御所 は、 1331年 光?天皇 里?裏 だった 土御門東洞院殿 を皇居として定めたものである。現存の建物は 1855年 に建造された建物と 太平洋?? 後に復元された建物が混在している。

1895年 には 平安神宮 が建立され、?部に 大極殿 ?天門 など大?裏 朝堂院 の施設が縮尺復元された。

文化財 [ 編集 ]

重要文化財(?指定) [ 編集 ]

  • 平安宮豊?殿跡出土品(考古資料) - 明細は以下。京都市所有、京都市埋?文化財調査センタ?保管。2005年(平成17年)6月9日指定 [31]
    • ?釉?三彩瓦 422点
    • 瓦塼類 237点
    • 白色土器 3点
    • 金?製品 3点
    • ガラス玉 1点
    • 基壇 石材 8点

?の史跡 [ 編集 ]

  • 平安宮跡
    1979年(昭和54年)12月22日、史跡「平安宮?裏?郭回廊跡」の指定。
    1990年(平成2年)2月22日、史跡「平安宮豊?殿跡」の指定。
    2008年(平成20年)7月28日、史跡「平安宮?裏?郭回廊跡」と「平安宮豊?殿跡」を統合し、?暑堂跡の一部および豊?殿??暑堂間の廊跡を追加指定して、「平安宮跡 ?裏跡?豊?院跡」に名??更。
    2017年(平成29年)2月9日、朝堂院大極殿回廊跡の一部(?野公園)?豊?院跡の一部を追加指定して、「平安宮跡 ?裏跡?朝堂院跡?豊?院跡」に名??更 [32]
    2021年(令和3年)3月26日、史跡範?の追加指定 [33]

京都市指定文化財 [ 編集 ]

  • 有形文化財
    • 平安宮?裏承明門跡 地?め遺構出土品 42点(考古資料) - 京都市考古資料館保管。2008年(平成20年)4月1日指定。
    • 平安宮?酒殿跡出土 「?酒殿」木簡(考古資料) - 京都市考古資料館保管。2010年(平成22年)4月1日指定。
    • 平安宮出土 和歌墨書土器(考古資料) - 京都市考古資料館保管。2010年(平成22年)4月1日指定。
  • 史跡
    • 平安宮造酒司倉庫跡 - 1997年(平成9年)4月1日指定。

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 日本書紀 』には朱鳥元年(686年)に難波宮が全?したと記?されている。
  2. ^ 扶桑略記 』には和銅4年(711年)に?失したという記事がある。
  3. ^ 嵯峨天皇 が?位後に住んだことに始まる 後院 の一つ
  4. ^ 桃崎(2016年)は 上原?人 「院政期平安宮―瓦からみた―」(高橋昌明編『院政期の?裏?大?裏と院御所』(文理閣、2006年)を引いている
  5. ^ 朝堂院の正門である ?天門 (?昌門の外側に位置する)や諸官?は再建されなかったという [17]
  6. ^ 桃崎(2016年)は 山本雅和 「都の?貌」(西山良平?鈴木久男編『古代の都3 恒久の都 平安京』(吉川弘文館、2010年)を引いている
  7. ^ 本? 朝堂院 の敷地にあたる

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 『?史大?典』(吉川弘文館)「宮城十二門諸史料異同一?」表に基いて記載。
  2. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4277
  3. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4331
  4. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4334
  5. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4341
  6. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4344
  7. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4388
  8. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4393
  9. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4410
  10. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4644
  11. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4723
  12. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4764
  13. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4886
  14. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4777
  15. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4820
  16. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4933
  17. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4955
  18. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4990
  19. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4357
  20. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4821
  21. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.4852
  22. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.5316
  23. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.5316
  24. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.5335
  25. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.5338
  26. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.5347
  27. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.5364
  28. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.5387
  29. ^ 桃崎(2016年)、kindle版位置No.5400
  30. ^ 久水俊和「室町期の?野における存?官衛 -神祇官?太政官???言院?神泉苑考-」『駿台史學』第160?、2017年、pp.1-27/改題所?:「?野の存?官衙」久水俊和『中世天皇家の作法と律令制の?像』八木書店、2020年、pp.209-246
  31. ^ 平安宮豊?殿跡出土品 - ?指定文化財等デ?タベ?ス( 文化?
  32. ^ 平安宮跡 - ?指定文化財等デ?タベ?ス( 文化?
  33. ^ 令和3年3月26日文部科?省告示第49?。

?考文? [ 編集 ]

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]

座標 : 北緯35度01分17秒 東?135度44分33秒  /  北緯35.021492度 東?135.742559度  / 35.021492; 135.742559