八代目 市川 雷?
(
、
1931年
〈昭和6年〉
8月29日
-
1969年
〈昭和44年〉
7月17日
)は、
歌舞伎役者
および
日本
の
俳優
。出生名は
?崎 章雄
(
)
。後に
本名
を
竹? 嘉男
(
)
、さらに
太田 吉哉
(
)
に改名した。身長は170
センチメ?トル
[1]
。
生後6か月のときに
三代目市川九團次
の養子となり、15?のとき
市川??
を名?って歌舞伎役者として初舞台を踏む。
1951年
(
昭和
26年)に
三代目市川壽海
の養子となり
八代目市川雷?
を襲名。
1954年
(
昭和
29年)に
映?俳優
に?身。
1959年
(
昭和
34年)の映?『
炎上
』での演技が評?され、
キネマ旬報
主演男優賞受賞、
ブル?リボン賞
主演男優賞などを受賞。
1960年代
には
勝新太?
とともに
大映
の二枚看板(カツライス)として活躍した。ファンから「雷(らい)さま」と親しまれた。
1968年
(
昭和
43年)
6月
に
直腸癌
を患っていることがわかり、手術を受けるが肝?に?移、翌年7月17日に死去した。
生涯
[
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]
その生涯で芸名や本名がたびたび?わっているため、本文中でこの人物のことを指すときは原則として「雷?」で統一する。
誕生?三代目市川九團次の養子となる(1931年8月 - 1933年)
[
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]
市川雷?は
1931年
(
昭和
6年)
8月29日
、
京都府
京都市
中京?
西木屋町神屋町で誕生した。出生時の名は
?崎 章雄
といった。生後6か月の時に伯父で
歌舞伎役者
の
三代目市川九團次
の養子となり、本名を
竹? 嘉男
と改名した
。
映?評論家の
田山力哉
によると、雷?が養子に出された?緯は次のとおりである。雷?の父は母が雷?を妊娠中に
陸軍
幹部候補生
として奈良に移り、母は父の生家に留まった。しかし母は父の親族のいじめに遭い、母は父に助けを求めたが無視されたため、たまりかねて?家に?って雷?を出産
。その時までに?親の仲は決裂しており、母は1人で雷?を育てるつもりだったが、間もなく父の義兄にあたる三代目九團次が雷?を養子として引き取ると申し出た。母ははじめこの申し出を?ったが最終的に同意、雷?は九團次の養子となった
。雷?自身が九團次の養子であることを知ったのは16?の時
、?母との?面を果たしたのは30?を過ぎてからのことだった
。
歌舞伎役者となる(1934年 - 1949年5月)
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]
三代目九團次の養子となってからおよそ2年が過ぎた
1934年
、雷?は京都から大阪へ移った。九團次は幼少期の雷?に歌舞伎役者の修行をさせなかった
が、1946年、3年生の時に大阪府立天王寺中?校 (現在の
大阪府立天王寺高等?校
) を退?して歌舞伎役者になる道を選んだ
[注? 1]
。
1946年
11月、15?の時に
大阪歌舞伎座
で催された東西合同大歌舞伎の『
中山七里
』の娘おはなで
市川 ??
(いちかわ えんぞう、養父?三代目市川九團次の前名
)を二代目として名?り初舞台を踏んだ
。初舞台から2年余りが?った
1949年
5月には
嵐鯉昇
(後の八代目嵐吉三?、映?俳優?北上?太?)や
二代目中村太?
らとともに若手による勉??「つくし?」を立ち上げ、稽古に?んだ
。しかし養父の九團次は
京都市?
議員
の子で、歌舞伎役者に憧れて
二代目市川左團次
に弟子入りした、門弟あがりの役者だった
。?門の出ではない九團次は上方歌舞伎における脇役?門の役者に過ぎず、雷?はその息子であることに苦しみ?けることになる。
三代目市川壽海の養子となる(1949年6月 - 1951年6月)
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]
1949年に雷?が「つくし?」を立ち上げたのと同じ時期に、
演出家
の
武智?二
は筋の良い若手歌舞伎役者を起用して、後に「
武智歌舞伎
」と呼ばれるようになる正統派歌舞伎を上演するようになった
[注? 2]
。「つくし?」が武智歌舞伎に?加した
ことがきっかけで雷?を知った武智は、雷?の役者としての資質を高く評?したが、九團次の子のままでは?門が幅を利かせる
梨園
では日の目を見ずに埋もれてしまうことを案じた
。そこで武智は、四半世紀もその名が絶えていた上方歌舞伎の大名跡「
中村雀右衛門
」を?がせようと考えたが、雷?が梨園の?門の出でないことを嫌った
三代目中村雀右衛門
の未亡人に?られてしまう
。
その後武智は、子がなかった
三代目市川壽海
が雷?を養子にしたいという意向を持っていることを知る
[17]
。
1950年
12月、三代目市川壽海は「つくし?」に審査員として立ち?い、『修?寺物語』の
源?家
を演じた雷?に高評?を?えていた
。壽海は仕立職人の息子という歌舞伎とは無?の出自を抱えながら、苦?の末に?中から?後にかけての?西歌舞伎で急成長をとげ、この頃までには?西歌舞伎俳優協??長の要職を?う重?となっていた
[18]
。さらに
七代目團十?
と
九代目團十?
が俳名に使っていた「
壽海
」を名跡として名?ることを許され
[19]
、加えて「
成田屋
」と「
壽海老
」という、通常ならば
市川宗家
の者が使用する
屋?
と
定紋
を許されてもいた
[注? 3]
[20]
。そこで武智は?係者に?きかけ、この養子?組を取りまとめることに成功する
。壽海は雷?に、自身と同じような市川宗家ゆかりの由?ある名跡である「
市川新?
」を?がせたいと願ったが、これには?時東京で市川宗家の番頭格としてこれを代表する立場にあった
二代目市川猿之助(初代猿翁)
が「どこの馬の骨とも知れない役者に新?の名跡はやれない」と猛反?し
[注? 4]
、交?の結果「
市川雷?
」の名跡を?ぐことで決着した
。養子?組は1951年4月に成立。同年6月には大阪歌舞伎座で雷?襲名披露が行われた
。なお、映?監督の
池?一夫
によると三代目市川壽海について、雷?の?父ではないかという?があったという
。
養子?組を受けて、雷?は後半生の本名?
太田 吉哉
に改名した
。この名前は
姓名判?
に凝っていた雷?が自ら決めたものだった
。ちなみに
大映京都撮影所
所長だった
鈴木?也
によると雷?は周?にも盛んに改名を?め、大映の?係者の中には雷?の?めで改名した者が20?30人はいたという
。後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷?の?めで雅子に改名している
。
映?俳優に?身(1951年7月 - 1957年)
[
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]
1951年に壽海の養子となった雷?だったが、若いうちから大役を?えないという壽海の方針もあって、さして良い役は?えられず、?屋には大部屋があてがわれるという扱いを受けた
。そんな中、雷?は1954年に
大映
所?の映?俳優に?身した。
動機について雷?自身は日和見的?試?的に映?に出てみようと思ったと述べている
が、田山力哉によると雷?は以前から自分に?する?遇に?い不?を感じていたところ、1954年に大阪歌舞伎座で催された六月大歌舞伎『高野聖』において、台詞がひとつもない白痴の役が割り?てられたことに憤激し
[注? 5]
、梨園と?を切ることを決意すると、かねてから雷?を時代劇のスタ?として?り出そうとしていた大映の誘いに?じ、映?俳優に?身したという
。なお、映?俳優?身後に雷?がつとめた歌舞伎は
1964年
1月、前年に落成したばかりの
日生劇場
で上演された武智?二演出『
?進帳
』の富?左衛門のみである。雷?はこの時「歌舞伎は年を取ってからでないとだめだが、映?は年を取ったらだめ。若い間、映?で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」と語っている
。映?俳優になることを決めた後、雷?は映?館に足繁く通って
東映
の時代劇スタ?
中村錦之助
の演技を?究した
。
雷?は1954年8月25日公開の『
花の白虎隊
』で映?俳優としてデビュ?した。?門の出ではない雷?の出自は歌舞伎界では出世の妨げとなったが、?西歌舞伎の重??市川壽海の子である雷?は映?界では貴種として扱われた。大映の??陣は雷?を
長谷川一夫
に?くスタ?として?り出す意向を持っており、デビュ?作の『花の白虎隊』の後5作目の『潮?出島 美男?法』(1954年12月22日公開)、6作目の『
次男坊鴉
』(1955年1月29日公開)と立て?けに主役に?擢した
。
デビュ?2年目の1955年、雷?は『
新?平家物語
』(1955年9月21日公開)の
平?盛
役でスタ?として注目を集めるようになった。雷?の映?を16本監督した
田中?三
は、?初雷?の俳優としての大成は難しいと感じていたが、『新?平家物語』で印象が一?したと述べている
。また雷?の映?を16本監督した
池?一夫
は、それまで長谷川一夫の?流のようなことをやっていたのが、じわじわと役者根性が出てきたと評している
。映?評論家の
佐藤忠男
は、『新?平家物語』を境に「長谷川一夫の後を追うように、もっぱらやさ男の美男の侍ややくざを演じた」雷?が、「通俗的なチャンバラ映?だけではなく、しばしば格調の高い悲劇も鮮やかに演じるすぐれた俳優になっていった」と評している
。雷?は足腰が弱く、立ち回りの時にふらつく癖があった
。元大映企?部長の土田正義によると、立ち回りに不安のある雷?に「天下を制した?年?盛」を演じさせるのは大?な冒?だったという
。雷?も自身の足腰の弱さを自?しており、
同志社大?
相撲部へ通い四股を踏むなど??な鍛?を行った
が改善されず、撮影時にスタッフは足腰の弱さが?面に表れないよう配慮する必要があった
。雷?の映?を18本監督した
三隅?次
によると、雷?は自らの肉?的な弱さに?し?い嫌?感を持っていたが、ある時期を境にそうした肉?的欠?を受けいれた上で、それを?り越えようとする姿勢をとるようになったという
。『新?平家物語』を境に雷?は、年間10本以上の映?に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日?を送るようになった
。
トップスタ?となる (1958年 - 1968年5月)
[
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]
1958年
(
昭和
33年)、
市川崑
は『
炎上
』(同年
8月19日
公開。原作は
三島由紀夫
『
金閣寺
』)の主役に雷?を?擢した。市川によると、はじめは
川口浩
を起用しようとしたが、大映社長の
永田雅一
に反?され、そこで直感的に雷?を指名したという
。この役は
吃音症
に劣等感を持つ暗い?生僧で、大映社?にはそれまで二枚目の役ばかりを演じてきた雷?の起用を疑問視したり反?する意見もあった
が、「俳優市川雷?を大成させる一つの跳躍台としたい」という決意で臨んだ雷?
はこの役を好演した。市川は雷?の演技を「百点?点つけていいと思います。もう何もいうことないですよ」と評した
。『炎上』での演技はしばしば、雷?自身の生い立ちが反映していると評される。市川崑は「役を通じて何か自分というものを表出しようとしている」「演技を通り越した何か…(中略)…彼がそれまで背負ってきた、人にはいえないような人生の何かしらの表情」があったと評している
。田中?三は雷?の複?な生い立ち、心の地の部分のようなものが出、役と重なり合っていたと評している
。池?一夫は、生い立ちにまつわる「人生の?された部分」、「地の部分」というべきものを演技に出せる雷?だからこそできた表現と評している
。なお、大映企?部だった?久一が雷?自身の生い立ちが『炎上』での演技に影響しているのではないかと問うたところ、雷?はこれを否定しなかった
。『炎上』での演技は世間でも高く評?され、
キネマ旬報
主演男優賞、
ブル?リボン賞
男優主演賞などを受賞。雷?はトップスタ?としての地位を確立した
。
1963年
(
昭和
38年)に始まった『
眠狂四?
』シリ?ズは、雷?の晩年を代表するシリ?ズとなった。田中?三によると、雷?は?初主人公?眠狂四?を演じることに苦?した。雷?自身も1作目の『
眠狂四?殺法帖
』(
1963年
(
昭和
38年)
11月2日
公開)について、「狂四?という人物を特?づけている?無的なものが全然出ていない」と述べ、失敗作だったことを認めている
ものの、4作目の『
眠狂四?女妖?
』(
1964年
(
昭和
39年)
10月17日
公開)で?無感、ダンディズム、ニヒリズムを表現する役作りに成功した
。『眠狂四?』シリ?ズにおける雷?の演技について
勝新太?
は、「眠狂四?をやる時にかぎり、鼻の下がちょっと長くなるのね。死相を出すというのかな。人間、死ぬ時の顔だね、あれは」「立ち回りなんかも、雷ちゃん、顔で斬ってたね。?で斬らないで顔で斬ってた」と述?、「雷ちゃんは、眠狂四?を殺陣でもセリフでもなく、顔でやっていたんだとおれは思うよ」と評している
。池?一夫は「何も言わないで、表情もなしで、ただ?いている姿だけで、背負っている過去みたいなものを表現した」と評している
。『
眠狂四?多情?
』の監督を務めた
井上昭
は、雷?以外にも眠狂四?を演じた役者はいるが、精神性において雷?にはかなわなかったと述べている
。雷?が主演したシリ?ズの作品?は12本に及び、雷?が主演した作品の中で最も多いものとなった。
池?一夫によると、雷?は俳優としてキャリアを重ねるにつれ、監督として映?製作に携わることを希望するようになっていったという。池?は雷?に?し、監督ではなくプロデュ?サ?として題材、脚本家、監督、出演者をすべて決める方がよいとアドバイスした
。
1968年
(
昭和
43年)
1月
、雷?は「今まで見たこともない新しい演劇をこしらえたい」という決意の下、劇?「テアトロ鏑矢」を設立しプロデュ?サ?としての活動を始めようとしたが、その直後に病に冒され(下述)、劇?が活動することはなかった
。雷?の作品14本の脚本を??した
星川?司
によると、雷?は星川と三隅?次に「映?というのはそう長くないかもしれないなあ。いつか3人で芝居をやろう。新しい仕事をやってみよう」、「
?阿?
の作品を現代的な目でとらえてやってみようよ」と語ったこともあったという
。
晩年?死去(1968年6月 - 1969年7月17日)
[
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]
1968年
(
昭和
43年)
6月
、雷?は『?の?太っぺ』の撮影中に下血に見舞われ、入院した
。?査の結果、
直腸癌
であることが判明したが、本人には知らされなかった
。8月10日に手術を受け退院した
が、家族は?師から「半年余りの間に再?する」という宣告を受けた
。雷?は生まれつき胃腸が弱く
、
1961年
(
昭和
36年)にも『
沓掛時次?
』の撮影後に下血に見舞われており、病院で精密?査を受けた結果、「直腸に傷がある」という診?を受けたことがあった
。また、
1964年
(
昭和
39年)
1月
に日生劇場で『?進帳』をつとめた際には武智?二に?し、「下痢に?まされている」と告白している
。
退院後、雷?は『
眠狂四??女狩り
』(1969年1月11日公開)『
博徒一代 血祭り不動
』(
1969年
(
昭和
44年)
2月12日
公開)の撮影を行ったが、?力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた
。
1969年
(
昭和
44年)
2月
に?調不良を訴え再入院。2度目の手術を受けた雷?は、ス?プも喉を通らなくなるほど衰弱していた
が、『
あ?海軍
』で海軍士官の役を演じることに意欲を見せ、?係者と打ち合わせを行っていた。しかし復?がクランクインに間に合わず、大映は代役に
二代目中村吉右衛門
を立てて撮影することを決定。そのことを新聞を?んで知って以?、雷?は仕事の話を一切しなくなったという
。7月17日、
?移性肝がん
のため死去
[68]
。37??。葬儀は7月23日に
大田?
の
池上本門寺
で行われた。
戒名
は「大雲院雷?法眼日?居士」。墓所もかつては同寺にあったが、現在は
久遠寺
(
山梨?
南巨摩郡
身延町
)に移?している。
死の間際、雷?は混濁した意識の中で自分の死に顔を誰にも見せないよう何度も懇願したといわれているが
、妻の太田雅子はこれを否定し、「雷?は最後まで復?をあきらめておらず、
遺言
は一切なかった」と述べている
。死後、雷?の顔には白布が二重に?かれ、火葬されるまで解かれることはなかった
。雅子によると、本人の「?せてしまった姿を誰にも見せたくない」という遺志から、死に顔を見たのは養父の壽海と社長の永田だけであったという
。
最後の出演作品となったのは『
博徒一代 血祭り不動
』(
1969年
(
昭和
44年)
2月12日
公開)で、?時人?を博していた
東映
の
任?路線
を明らかに意識した作品だった。雷?は「
鶴田浩二
の二番煎じを俺にやれというのか」と出演を?ったが、土田正義が「次はやりたい作品に出演させる」と?得し、出演が決まった?緯があった。しかし、土田は後年に本人が?り?でなかった作品が遺作になったことについて、後悔の念を述べている
。死から2年後の
1971年
(
昭和
46年)に大映は倒産したが、星川?司は「雷?の死は、大映の倒産を象?する出?事だった」と回顧している
。
死後(1969年7月17日 - )
[
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]
死から5年後の
1974年
、ファンクラブ「朗雷?」が?足
、
2019年
現在も活動を?けている。大映京都撮影所で製作部長を務めた松原正樹によると、雷?のファン層はその演技や人間性に惹かれたと思われる
インテリ
の女性が多いところに特?があり、「キャ?キャ?とさわぐようなタイプなど見?たらなかった」という
。また京都では、雷?の命日にあたる
7月17日
に行われる「市川雷?映?祭」で主演作品を上映することが夏の恒例行事となっている
[75]
[76]
。
2009年
12月から
[77]
2011年5月まで
[78]
雷?の出演作品を上映する『?後40年特別企? 大雷?祭』が開催された。
2000年
に?表された『
キネマ旬報
』の「
20世紀の映?スタ?
?男優編」で日本男優の6位、同?の「?者が選んだ20世紀の映?スタ?男優」では第7位になった。
2014年
?表の『
キネマ旬報
』による『オ?ルタイム?ベスト 日本映?男優?女優』では日本男優3位となった
[79]
。
なお、「市川雷?」と養父の「市川壽海」の名跡に?しては、
十三代目市川團十?白猿
(十一代目市川海老?)が2014年9月に自身の
ブログ
にて預かっていることを示唆している
[80]
。
家族
[
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]
1962年
(
昭和
37年)に
永田雅一
の養女?雅子と結婚
。3人の子供をもうけている
。雅子は雷?から「表には一切出ないように」と言われており
、死後も夫について語って欲しいという依?を?り?けていたが
、死後40年を?た
2009年
(
平成
21年)、『
文藝春秋
』
2009年
(
平成
21年)
5月
特別?に回想記「夫?市川雷?へ四十年目の?文」を?表している。
受賞?
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]
市川 (1995)
、?末の年譜による。
- 1959年
(
昭和
34年)1月 『
炎上
』で
キネマ旬報
主演男優賞
- 1959年(昭和34年)2月 『炎上』『
弁天小僧
』で
ブル?リボン
主演男優賞、NHK映?最優秀主演男優賞
- 1959年(昭和34年)9月 『炎上』の演技により、イタリアの映?誌『シネマ?ヌオボ』で最優秀男優賞
- 1964年
(昭和39年)11月 『
?
』で
京都市民映?祭
主演男優賞
- 1967年
(昭和42年)2月 『
華岡?洲の妻
』でNHK映?最優秀男優賞、キネマ旬報主演男優賞
- 1968年
(昭和43年)11月 『華岡?洲の妻』で京都市民映?祭主演男優賞
- 1969年
(昭和44年)11月 京都市民映?祭マキノ省三賞
評?
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演技
[
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]
脚本家の
八尋不二
は雷?の人柄について、「誰に?しても、おごらず、たかぶらず、常に?儀正しかった」と評しており、その性格が芸風にも反映されていたとしている。八尋は、「?ある時代劇の俳優の中にも、もう彼のように、折り目の正しい、いい意味での、本?の武士らしい武士になりきれるものは一人もいない」と述べている
。
池?一夫
は、雷?の生い立ちが役者としての雷?に「非情の影」を落とし、その結果人生の影の部分、地の部分が出ていた。しかも?に出すのではなく?みしめて出していたと評している
。雷?の出演作品で最も多く監督を務めた
森一生
は、雷?は自身が抱える「誰にもいっていない人間的な苦しみ」に耐え、芝居に昇華させていたと述べている
。森が映?評論家の
山根貞男
によるインタビュ?を受けた際、2人は雷?に「さわやかな悲しさがある」という見解で一致した。山根はこの言葉の意味を「悲劇を演じることが多いのですが、ただ暗くゆううつというのではなく、どこかにスカッとした面があります。悲しみとさわやかさの?方を備えた役者というのは雷?以外にはいません」と解?している
。
佐藤忠男
は雷?の演技について、時代劇、現代劇を問わず、「どんなにみじめな役でも、どんなに滑稽な役でも、それを格調高く演じることによって作品に?品を?えた」と評している
。評論家の
川本三?
は雷?の演技の良さについて、「ここにいながらここにいない」ともいうべき「濁世にあっていつもまなざしを遠くへと向けている透明感」にあると評し、この透明感ゆえに「取りようによってはキザなセリフが、そうはならない」と述べている
。
鈴木?也
は、雷?と同じように武智歌舞伎から映?俳優に?身したが、大成せずに結局歌舞伎の舞台に?った
二代目中村扇雀(四代目坂田藤十?)
や
七代目大谷友右衛門(四代目中村雀右衛門)
を引き合いに出して、梨園で子役時代を??しなかった雷?が歌舞伎に染まりきらなかったことが映?で成功した大きな要因だったと分析している
。
2014年に映??係者や文化人を?象にした『
キネマ旬報
』のアンケ?トでは、好きな日本映?男優の第3位に選ばれている
。
容姿
[
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]
雷?には普段は地味で目立たない容姿だが、撮影時に
メ?ク
をすると一?するという特?があった。多くの映??係者がこの特?に言及している。
市川崑は、雷?の本質は「硬質かつ素朴」で、通常のスタ?が特定のキャラクタ?を通すのに?し、持前の素朴さが「メ?キャップでどうにでも?わる」ところに特?があったと評している
。井上昭は、メ?クを施すと普段の姿とはまったく違って美しく見えたといい
、また「『え、これが!?』というぐらい、メ?クでパッと?わる」とも述べている
。田中?三は、「手?えのない?和さと、?潔な雰??を持ったこの人は、仕事になると?然と肩を上げて、着?で重厚な、そして絢爛たる演技者に?貌した。これは素顔を知っている私には、目をみひらくような驚きであった」と評している
。
井上昭によると、デビュ?時に雷?は勝新太?や
花柳武始
とともに長谷川一夫からメ?クの指導を受けた。他の2人は?わった通りにメ?クをしていたのに?し、雷?だけは自己流を通す部分が多かったという。井上は、目張りや眉毛のメ?クに雷?の?自性が表れていると分析している。さらに井上によると、雷?は主要なメ?クを自身の手で行い、その?子を人に見せようとはしなかったという。井上は、雷?にとってメ?クは役柄に?頭していくプロセスであったため、他人には見られたくなかったのだと推測している
。親交の深かった者の多くが語るところでは、メ?キャップが天才的に上手で、洋?でメガネを掛けた地味な銀行員然たる普段の雷?と、カメラの前の雷?とはまるで別人であったため、私生活の雷?と街ですれ違っても、その質素さからスタ?雷?だと?づく者は、ファンはもとより業界?係者にもほとんどいなかった
。
『好色一代男』の脚本を書いた
白坂依志夫
は、普段は商社マンのようだが「スクリ?ンに登場すると、驚くべき?貌を遂げ、明るさのなかに、?無と一抹の?愁をたたえた雄?しく、美しい?年スタア」に?貌を遂げると評している
。井上昭は、雷?が主演した作品のポスタ?には後姿の雷?が顔だけ振り向いている構?のものが多いが、これは後姿にこそ雷?の持つ?無的な魅力が出ると多くの監督が感じていたためだと述べている
。
勝新太?との比較
[
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]
雷?は脇役?門の役者?三代目市川九團次の子で、かつては二代目市川??といった。勝新太?は
長唄
三味線
方?
杵屋勝東治
の子で、かつては二代目杵屋勝丸といった。その雷?と勝が大映と??契約を結んだのはともに1954年で、2人は同期入社だった。同じ1931年生まれで、歌舞伎に早?と見切りをつけて映?という新天地を選んだ点で、この2人は良く似た境遇にあった。
前述のように、大映の??陣は雷?を長谷川一夫に?くスタ?として?り出す意向を持っており
、「スム?ズに軌道に?った」
。一方、田中?三によるとデビュ??初の勝は「長谷川一夫さんの二番煎じのような」白塗りの二枚目を演じていたが
、監督も配役も一流のものとはいえず、長らくヒット作に?まれなかった
。
勝が興行?入や話題において雷?を凌ぐほどの活躍を見せるようになったのは、1960年代に入って主演した『
?名
』シリ?ズや『
座頭市
』シリ?ズがヒットしてからのことであった
。鈴木?成は、勝は「70?80本撮って何ひとつ?たらん?態が?いた後、『?名』でようやく使いものになった」
と述?している。また田中?三によると、1960年の『
不知火?校
』で野心的な?僧を演じて絶?されるまで勝の出演作は客入りが?く、映?館主からはなぜあの俳優ばかりを使うのかという苦情が寄せられるほどだったという
。1959年?時の?況について勝は、「番付が違う。雷ちゃんはもうすぐ大?、?綱になるのが分かってたわけだから。おれのほうは、三役になれるかなれないかというところ」と振り返っている
。
「勝」と「雷」を掛け合わせて「カツライス」と呼ばれるまでになった大映の「二枚看板」市川雷?と勝新太?
は、その容姿や芸風が大きく異なることから比較の?象とされることが多く、2人はライバル?係にあると一般には思われていた。しかし「勝っちゃん」「雷ちゃん」と互いを呼び合う2人の仲は、?係者によると決して?いものではなく、むしろ親しい?係にあったという
。そもそも雷?は、勝の妻である
中村玉?
とは、玉?の父が?西歌舞伎の
二代目中村?治?
という?係もあって、彼女が幼少時から親交があった
。
作家の
村松友視
は、「大きい役とは?がなく、門閥と因襲にしばられる歌舞伎界で、悶?とした日?をすごし」た雷?
と、歌舞伎界において裏方である長唄三味線の出身である勝
には、ともに「一種のコンプレックスが、解決すべき重大な問題としてあった」のであって、「同じようなエネルギ?源となる要因」を持っていたのだと指摘している
。
- 俳優としての比較
- 雷?は台本が完成するまでは作品について色?と意見を言う性格で、「
ゴテ雷
」と呼ばれた。ただし一度納得すると不平や愚痴を言うことはなく、撮影に入ってから意見を言うこともなかった
。一方、勝は台本の段階では何も言わず、撮影現場で意見をするタイプで、台本とは全く違う演技をしてスタッフを困らせることもしばしばあった
。
- 井上昭によると、雷?は監督の演出方法に合わせて役を演じることができた。そのため、たとえば同じ眠狂四?でも監督が違うと?いや味が違うのだと述べている。一方の勝の場合は、監督が違っても「座頭市だったら、全部、勝ちゃんの座頭市」になると述べている
。鈴木?也も同?の意見を述べている
。村松友視は、勝は「何をやっても勝新太?のイメ?ジ」になるタイプの俳優で、長谷川一夫や
片岡千??
らとともに日本の映?スタ?の本流に?するのに?して、雷?は役柄に?じて多彩に演じ分ける、日本の映?スタ?の中では異色の存在であったと分析している
。
- ?者の主演作品で監督した田中?三は、?者の
殺陣
を比較して、雷?については「腰から下がきまらない点はあるが、それでも十分にリアルな立ち回りもできる人」とおおむね肯定的な評?を?えている一方で、「勝ちゃんが巧すぎる」として勝に軍配を上げている
。
- 人物像の比較
- 池?一夫によると、勝は嫌いな相手に?しても「一?調子を合わせる」ことができたが、雷?の場合は「嫌いな人は徹底的に嫌う」タイプで、面と向かって「顔も見たくない」という態度をとったという。池?によると、雷?が特に嫌ったのは仕事がいい加減な人間だった
。
- 大映映?の多くで美術監督をつとめた
西岡善信
は、映??係者との人付き合い方について、勝が俳優や?社の偉いさんと?みに行くタイプだったのに?し、雷?は裏方や若輩者と交流するタイプだったという
。田中?三も、雷?はスタッフの面倒見がよく、しばしば自宅へ招いたり一?に食事をするなどしていたと述べている
。星川?司によると、雷?は「ネオンのけばけばしい店や有名な料亭」を好まず、「ごくふつうの料亭で格式ばらずに」、「?正直に映?論や人生論をたたかわした」
。
- 雷?の『
眠狂四?炎情?
』と勝の『
座頭市二段斬り
』をほぼ同時期に手がけた撮影監督の
森田富士?
は、?者の性格について、雷?は?面目で直線的だが、勝は直感的で点をあちこちに散らばめたような行動?式だったと述べている
。
出演作品
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]
これまでに確認されている雷?の出演作品は159本である
[77]
。以下に年度別出演作品を示す
[注? 6]
。
1954年
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]
1955年
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]
1956年
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]
1957年
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]
1958年
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]
1959年
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]
1960年
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]
1961年
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]
1962年
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]
1963年
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]
公開日
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作品
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脚本
|
監督
|
共演
|
ポスタ?
|
1月3日
|
新撰組始末記
|
星川?司
|
三隅?次
|
藤村志保、城健三朗、近藤美?子
|
|
1月13日
|
雪之丞?化
|
伊藤大輔
衣笠貞之助
和田夏十
|
市川崑
|
長谷川一夫、山本富士子、若尾文子
|
|
3月1日
|
影を斬る
|
小?英雄
|
池?一夫
|
嵯峨三智子、成田純一?、坪?ミキ子
|
|
4月21日
|
第三の影武者
|
星川?司
|
井上梅次
|
高千?ひづる、万里昌代、小林勝彦
|
|
5月29日
|
手討
|
八尋不二
|
田中?三
|
藤由紀子
、城健三朗、阿井美千子
|
|
6月30日
|
てんやわんや次?長道中
|
八尋不二
|
森一生
|
坪?ミキ子、
藤原?子
、姿美千子
|
|
8月10日
|
??忍びの者
|
高岩肇
|
山本薩夫
|
藤村志保、城健三朗、坪?ミキ子
|
|
10月5日
|
妖僧
|
衣笠貞之助
相良準三
|
衣笠貞之助
|
藤由紀子、小林勝彦、万里昌代
|
|
11月2日
|
眠狂四?殺法帖
|
星川?司
|
田中?三
|
中村玉?、城健三朗、
扇町景子
|
|
12月28日
|
新?忍びの者
|
高岩肇
|
森一生
|
若尾文子、城健三朗、
細川ちか子
|
|
1964年
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]
1965年
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]
1966年
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]
1967年
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]
1968年
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]
1969年
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]
出演予定であった映?
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]
公開日
|
作品
|
脚本
|
監督
|
共演
|
-
|
?の?太っぺ
|
|
三隅?次
|
本?功次?を代役に製作、『
二匹の用心棒
』として公開
|
-
|
あ?海軍
|
|
村山三男
|
中村吉右衛門
を代役に製作された
|
脚注
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]
注?
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]
- ^
歌舞伎役者となった?緯について、雷?自身は、中?をやめて家で過ごすうちになんとなく芸能界に興味を持ち、なんとなく歌舞伎役者になったと述べている
が、
海軍
士官
や?師になることを志したものの近視だったため海軍士官になることは諦めざるを得ず、やがて?師になることも諦めたともいわれている
。
- ^
武智歌舞伎の第1回公演は1949年12月に行われている。
- ^
「壽海老」は本?、市川宗家の御曹司?
市川海老?
が
替紋
の代替に使う
役者文?
である。
- ^
先代の
五代目市川新?
は
九代目市川團十?
に見?まれてその養子となり、ゆくゆくは「十代目團十?」となることが期待されたが病を得て早世したという?緯があった。
- ^
武智?二は、『高野聖』での配役に憤った雷?が武智に?し、「こんなことでは、永久に、脇役者にされてしまいます」と語ったことを明かしている
。
- ^
市川 (1995)
および
室岡 (1993)
?末の資料をもとに、上映年別に記載(『おてもやん』のみ
Movie Walker
を?照)。
- ^
a
b
c
d
e
f
特別出演
。
出典
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]
?連書籍
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]
?考文?
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]
外部リンク
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]
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1960年代
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1990年代
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2000年代
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2020年代
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1980年代
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括弧?は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月)
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