嵐 ?壽? (あらし かんじゅうろう、新字?:???、本名:高橋 照一 [注? 1] (たかはし てるいち)、 1902年 〈 明治 35年〉 12月8日 - 1980年 〈 昭和 55年〉 10月21日 )は、 日本 の 映?俳優 、 映?プロデュ?サ? である。
?前??後期にわたって活躍した時代劇スタ?で、300本以上の映?に出演し、「 アラカン 」の愛?で親しまれた。同時代の時代劇スタ?の 阪東妻三? 、 大河?傳次? 、 片岡千?? 、 市川右太衛門 、 長谷川一夫 とともに「 時代劇六大スタア 」と呼ばれた [1] 。?たり役は 鞍馬天狗 と『 右門捕物帖 』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリ?ズ化されている。また、 新東? の『 明治天皇と日露大?? 』では、俳優の中で初めて 天皇 を演じて話題となった(本作では 明治天皇 を演じた)。晩年は 東映任?映? で助演し、 テレビドラマ でも活躍した。
祖父は 文?の人形遣い の初代 桐竹紋十? 。叔父は俳優の 六代目嵐?三? [注? 2] 。?妹は女優の 森光子 で、甥に AV男優 の 山本?二 がいる。自宅は 嵐山 にあった。
1902年 (明治35年) 12月8日 、 京都市 木屋町 三?下ルに生まれる。「無芸だった」という父親が奉公していた手前、?手に住む祖母(夫が 桐竹紋十? )の??する料理旅館「葉村屋」に預けられた。
?十?の時、母親の「芸事より固い商?を」との方針で、??尋常小?校を五年で中退、七條大宮の 衿屋 に 丁稚 奉公させられる。「睡眠5時間、おかずは?庵二切れのみ、月給一円、休みは月に一度だけ」という殺人的重??に「まるで 留置場 やった」と述?している。
丁稚時代、月に一度の休日に活動??を?に行くことだけが愉しみで、尾上松之助の忍術トリック映?や、 ニコニコ大? ( バスタ??キ?トン 、 チャ?ルズ?チャップリン 、 ハロルド?ロイド の混載興行)に熱中していた。のちに、チャップリンの「 キッド 」が鞍馬天狗と杉作とのからみに、キ?トンの無表情さがむっつり右門の演技に、それぞれ大きな影響になったと述?している。
1919年 (大正8年)、 手代 から 番頭 に出世しようという17?のときに、主人が死去。一から丁稚のやり直しは御免と、祖母に?んで 愛知? 岡崎市 で巡業中の 片岡松之助 の一座に加入。「食事は卵に味?汁付き、給金五円」の待遇に「丁稚奉公のツキイチとは雲泥の差やった」と述べている。一座ではちょうど片岡義士劇の 大石主? 役の役者が女をこしらえ逐電したところで、「 嵐?太? 」の芸名をもらい、?えで18?でいきなり主?役の初舞台を踏む。この義士劇にはチャンバラがあり、ここで 殺陣 を?えた。
?人はこれでかなり自惚れたというが、片岡義士劇では役はいつまでたっても大石主?役のみだった。「?む打つ買う」の巡業生活に染まって、 オイチョカブ に誘われ、 松江 の巡業先で大事な衣?の紋付まで質に入れる大負けとなり、着の身着のまま京都へ逃げ?る [注? 3] 。
1921年 (大正10年)、初代中村扇雀( 中村?治? )一座の、?時「ちんこ芝居」と呼ばれた「?西?年歌舞伎」に加わり、 女形 となる。ここには市川?之助のほか、のちに映?に移る 市川百?之助 、市川右一(のちの 市川右太衛門 )、林長丸(のちの 長谷川一夫 )など??のライバルたちが同期生所?していて、百?之助、右太衛門、長丸、アラカンの四人が?って腰元役で舞台を踏んだこともあったという。「不謹?にいえば、オイチョカブのおかげで?舞台を踏むことがでけた」と語っている。芝居の世界は女買いが盛んで、若い?太?は酒は?めなかったが「モテにモテて」、?筋から引く手あまただったが、女?を買うときは必ず根引き(?占)にしていた。
1923年 (大正12年)、 腰元 役ばかりでうだつの上がらぬ現?に不?を抱き、「桐竹紋十?の孫なんぞ大歌舞伎の世界では通用しない」と悟った嵐?太?は、「二流の小屋でもいいから芝居らしい芝居がしたい」と東京宮?座で「大衆歌舞伎」を?げた叔父の?三?の一座に加入。この夏、好きになった年?の芸妓と?け落ちを決意。出奔の?日 9月1日 正午に ?東大震災 が?生。結局女も金も失い、失意のまま京都へ?り、「しばらくふぬけていた」という。
しばらくして叔父の?三?が東京から引き揚げ、先?代片岡仁左衛門を「うわのせ(特別出演)」して、大阪松島の八千代座での旗揚げ公演を決定。誘いをかけてきた。母親も態度を?えて?めたので、「月給百五十円」で加入を決意。 屋? を 葉村屋 、叔父?三?から「 嵐和歌太夫 」の芸名をもらう。この一座で片岡千??(のちの 片岡千?? )と鏡台を?べる。
1926年 (大正15年)、芸妓に振られ自棄?味だった和歌太夫は女出入りが激しく、ついに 淋病 に罹り、子種を失うこととなる。入院中は「煙草三箱」で千??に代役を?んだ。難?のおかげで ?兵?査 を丙種失格となる。
1927年 (昭和2年)、??持ちの 片岡仁左衛門 が、「奴」を踊った千??( 片岡千?? )を「貴?は鈍な役者だ」と??の峰で?った。このときそばで見ていた和歌太夫は「男の面態を!」と心が寒くなり、「阿?でも名門のセガレは出世がでける、才能があっても家系がなければ一生冷や飯?わされる、こんな世界に何の未練もない」と思ったという。
この事件が起こったころに、ポスタ??社の?正堂を通して、 マキノ省三 が映?界入りを誘ってきた。マキノ監督は?立した 市川右太衛門 の後釜として「月給八百円」(?時家が一軒買えた)の高待遇を提示。「丁稚奉公と同じや、ウソで塗り固められた徒弟制度の?の中で主人の顔色をうかがって、犬のように餌をもらう生活は御免や」と考えていた和歌太夫は、北陸の巡業先から逐電し、同年3月に マキノ?プロダクション 御室撮影所 に入社した。
和歌太夫によると、大阪松島の八千代座に出ているときに「マキノの先生」が見え、「八百円やるから、カツドウに?い」と誘われた。?時の月給は三百円で、約3倍ということで、「そら行きますがな」ということだった。これを叔父の?三?に?えると「お前、泥芝居 [注? 4] に行くんか、泥芝居の役者ンなんのか!」と怒鳴られ?面を張られた。祖母や親戚中から反?され、勘?同然でマキノへ入ったというが、母親だけは「月給八百円」の?件で大?成だった。
マキノへ行くと、「この中のどの役をやってみたい?」と?誌「 少年??部 」を渡された。嵐が選んだのが 鞍馬天狗 である。天狗役が決まるとマキノ監督は「俺がつけたる」と、?の持ち方から立ち回りまで、殺陣の特訓をしてくれた。芸名は「嵐はそのままでええ、こうつと名前やな、叔父貴からもらえ、お前顔が長いよって長三?にしとけ」と「 嵐長三? 」の名を?えられた。 片岡千?? に一日?れた入社だった。
4月、マキノ御室撮影所製作の『鞍馬天狗異聞?角兵衛獅子』でデビュ? [2] 。脚本は?り出し中の 山上伊太? 、撮影は名キャメラマンと謳われた 三木稔 と、マキノ最高のスタッフで固められたデビュ?作だった [3] 。それから鞍馬天狗は彼の?たり役となった。
以降マキノの看板スタ?として、在籍一年半足らずで27本の映?に主演。『鞍馬天狗』シリ?ズのほか『鳴門秘帖』『百万?秘聞』でもヒットを飛ばした。
1928年 (昭和3年)4月、『新版大岡政談 前編?中篇』の2作で 丹下左膳 を演じたのを最後に、マキノから?立、 嵐???プロダクション (略?:?プロ)を設立。?立の理由には、 鞍馬天狗を巡るマキノとの軋轢 があった。この?立に際して長三?の名を返上し、 葉村屋 の宗家の名跡である「 璃? 」からとった「 嵐?壽? 」を名?り、以?生涯この名で通す。しかし、設立第5作の『鬼神の血煙』をもって?プロは解散した。
1929年 (昭和4年)2月、 東?キネマ京都撮影所 にスタ?級幹部俳優として迎えられた。同年、『右門一番手柄 南?幽?』でむっつり右門を初めて演じ、鞍馬天狗と?ぶ?り役となった。
1931年 (昭和6年)5月、?プロ名義、東?キネマの配給で『都一番風流男』を?表。同年8月に東?キネマ京都撮影所長の 高村正次 とともに東?を退社。第2次?プロを設立し、7年後の解散までに鞍馬天狗、むっつり右門、 ?形平次 を演じたほか、 山中貞雄 を?擢して『 磯の源太 抱?の長脇差 』『 小笠原?岐守 』にも主演。?プロ時代の代表作との?も高い。
しかし、 1937年 (昭和12年)8月に?プロは解散した。剛毅な性格だったアラカンは、この「?プロ」合流に前後して 新興キネマ の身?り話が持ち上がったことにかこつけて、新興側の 永田雅一 が???に?して「?プロ」解散費用を全負?し、「八千円の給料」と言う破格の?件で入社をもちかけたところ、「?業員はほっといてお前だけ?い」との永田の一言に激怒。永田と衝突した結果、アラカンは自社の?業員を新興に送り?んで、自身は半年ほど映?界から追放された。?姉妹の 森光子 は「おとなしいような顔をして、その?は大?な反逆?なんですね。永田雅一さんにさからうなんて、?時考えられないころです。それで一時にせよ映?スタ?をやめちゃったんですから、あの方は徹底してるんです」と述?している。
1938年 (昭和13年)、 日活京都撮影所 に入社。ここでも鞍馬天狗とむっつり右門を演じ、ほかにも『出世太閤記』『海援隊』等の佳作に出演した。
1942年 (昭和17年)、日活が?時統合により大映に改組されたことで、 大映京都撮影所 へ移る。同年の『 鞍馬天狗 』( 伊藤大輔 監督)が大映移籍後の主演第1作となる。同作の立ち回りでは「?さばきが?れないこと」が特?とされ、「林長二?と同じく女形出身だから」と、どんなチャンバラでも?の?れは見せなかった [4] 。同作で伊藤監督は、アラカンに百メ?トル疾走する立ち回りを要求し、出?あがった映?で?さばきが?れていないことに感心し、「あれもほんとうのわざおぎです」と評している。このころから、一座を組み中?大陸の慰問活動を熱心に行っている。
1948年 (昭和23年)、大映京都を退社してフリ?となる。この頃は GHQ の チャンバラ禁止令 により ?戟映? の製作が禁止されていたため、『 私刑 』等の現代劇に出演していた。 1950年 (昭和25年)、綜芸プロダクションを設立。
1956年 (昭和31年)、 新東? に入社。新東?では?少ないスタ?俳優として活躍し、翌 1957年 (昭和32年)公開の『 明治天皇と日露大?? 』では 明治天皇 を演じる。同作では、 大?貢 社長じきじきに「日本映?界初の天皇俳優にならんか」とこの役を持ちかけられ、?初 乃木希典 役と思っていたアラカンは余りの大役に?惑いつつも、御?影や?話のイメ?ジ通りの威?ある明治天皇を演じて話題となり、作品は空前の大ヒットを記?する。?けて『 天皇?皇后と日??? 』『明治大帝と乃木?軍』でも明治天皇を演じている。ほか、『大東???と?際裁判』では 東條英機 、『皇室と??とわが民族』では 神武天皇 を演じるなど?史上の大人物を演じることが多かった。
1961年 (昭和36年)に新東?が倒産すると、以後はどこにも??せず、脇役に回った。
新東?倒産後は、主に 東映任?映? や 松竹 ? 日活 のヤクザ?ギャング映?に多く出演した。 1965年 (昭和40年)からは、『 網走番外地 』で「八人殺しの鬼寅」を演じ、同シリ?ズを通しての?たり役となる。
1968年 (昭和43年)、 今村昌平 監督の『 神?の深き欲望 』に出演。 ?日映?コンク?ル で男優助演賞を受賞した。
この時期からテレビ界にも進出し、 テレビドラマ にも時折ゲストで出演した。それらのいずれも脇役ながら俳優としての存在感は健在だった。 1972年 (昭和47年)には『 ?身忍者嵐 』で 百地三太夫 を演じる。?時は『 ?面ライダ? 』に始まる ?身ヒ?ロ???面ヒ?ロ?のブ?ム のさなかで、「?身ヒ?ロ?の元祖が?身番組に出演」と、その登場は話題となった。
最晩年も活躍し?け、『 男はつらいよ 寅次?と殿? 』や『 ダイナマイトどんどん 』などに出演。後者と『 オレンジロ?ド急行 』の演技では 第2回日本アカデミ?賞 優秀男優賞を受賞している。
1979年 (昭和54年)夏ごろに ?血栓 で倒れ 京都市 西京? の自宅で療養していたが、 1980年 10月21日 に死去した。77??。
幼少時より、祖母から踊りを仕?もうとされたが、これを嫌って 琵琶湖疎水 で泳いでばかりいた。このため 中耳炎 を患い、以?、左耳が難?となる。若いころから無口だったのはこの難?のせいだった。
私生活では5回の結婚と4回の離婚とを繰り返したが、別れるたびに前妻に全財産と家屋敷を?り渡していた。最晩年も40?年下の久子夫人を伴侶としていた。アラカン自身は「モテたんちゃう。買いに行ったん。映?(界)入ったら月給は三倍やでん。使い道あらへん。これがいかんでしたわ。それから獄道ですワ」と語っている [5] 。 ?垣浩 は求婚した女性が、アラカンの「何番目かの」愛人だったことがあったという [6] 。 金?面には無頓着で、生涯遊べるだけの金を稼ぎながら、財産はほとんど?さなかった。一つには、前述したように離婚のたびに全財産を?り渡していたこともさることながら、もう一つは面倒見のよさからだった。?死した「???プロ」時代のスタッフの?前へ、自費で一軒ずつ全?を回って香典をそなえたりと、スタッフへの物心?方の援助も惜しまなかった。新東?の最後までつきあっているのもスタッフを捨て置けなかったからだった。
その反面、自身は贅?が嫌いで、衣?道?も?がなく、和服も2、3着より持たず、背?も靴も?製品、煙草はマッチ派だった。?前の全盛期でも自宅から撮影所まで自家用車を使わず 京福電? 嵐山線 を利用、?後はもっぱら 円タク を使った。「映??社の社長はん、ゴルフする暇あったらパチンコせいとは言わんが円タクに?るべしや」と語っている。円タクで支?いの際に「ワテ嵐?壽?ダ」と言えば運?手がファンになる、これが庶民派のアラカン流だった。付き人の 嵐?之助 は「?人に入られても、“警察に?けたらあかんで、折角ゼニつかんで喜んでるのに、?の毒やさかい”という人ですからね。…“他人のためには金は惜しまん、おのれは最低必要なものがあればよい”という精神、これ昔からなんですわ。神?みたいな人です」と?言している。
???プロ 解散直後、本?で雲?れに洋行を考えていたが、洋食嫌いの理由で?念した。かなりの偏食で、洋食は一切受けつかなかった。アラカン自身ナイフとフォ?クを使って肉を食べる習慣が野?なものと嫌?し、味の面でも「 ナマリブシ みたいなん切らしたら死んでしまいます。 トンカツ ぐらいでんな。西洋料理で口にあうのは」と語っている。日本料理?門だが、それも火が通ったものだけで、刺身も?司もうけつけなかった [3] 。
1939年 、琵琶湖の天寅飛行場から大阪?へ、テスト飛行に無事合格、世間をアッと言わせた。アラカンは運動神?が良く、飛行機だけでなくオ?トバイや自動車も運?できた。 ?垣浩 によると、大スタアの中で、自動車に?れる人は?時ほとんどいなかったという [7] 。
嵐?の立ち回りは「見せる立ち回り」という点で、「アラカンに勝る?戟スタアは?前?後を通じていない」とまで評された。「バンツマ( 阪東妻三? )の立ち回りは悲愴豪?、 大河?傳次? 八方破れ、アラカンは「さばきの美事さ」と定評がある。必殺の白刃を息もつがせず手首の返しで繰り出してくる、切先が銀蛇のようにしない、上段から下段へなぎ立てる。胸元まで?ていま一つのび、蝶のごとく舞う」 [7] 。
1929年 、アメリカの活劇俳優の ダグラス?フェアバンクス 夫妻が?日の折、?在先の 京都ホテル でアラカンは英語のスピ?チをし、「わてが映?俳優として最初に英語で??したんだす」と後年まで自慢していた。なお、そのときの言葉は「ウェルカム?ダ ゴ ラス!」のみであった。
?プロ解散後、しばらくアラカンは無聊を託っていた。元?新しい物好きで自家用車に凝っていたこともあるアラカンは、二等飛行操?士のライセンスを取り、ドイツ製の フォッカ? を購入、自家用飛行機を持つまでに至った。このライセンスを生かし、遊?飛行のアルバイトをしていたとき、客から「アラカンや、飛行機屋とはけしからん!」と?がれたことがある。?嗟に人違いだと言って取り繕ったものの、腹が立って?まらず、「せやけど、聞きずてならへん。アラカンやったらなんでアカンねん。金?ろてとっと去ね!」とやりかえしたという。後年、「役者やっとったらこうはいきまへん。稼ぎは別として、?しい?日やった」と述?している。
1951年 、鞍馬天狗の杉作役で共演した 美空ひばり について、「美空ひばりにはたまげた。まあいうたら子供の流行歌手ですよってな、多くは期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。…男やない女の色?を出しよる。あの 山田五十鈴 に?抗しよる」と感服し、女優としてのその才能を認めていた。
1957年 、『 明治天皇と日露大?? 』で明治天皇を演じるが、これを受けた一番大きな動機として、「 シネマスコ?プ 、これに心が動きましたんや」と語っている。映?は大ヒットし、アラカンによると封切りで8億円稼いだ。すると 大?貢 新東?社長がアラカンを 新橋 の料亭に招き、「???くん、ご苦?でした」と10万円くれた。アラカンはこれを「アセモ代のボ?ナス」だと思っていたところ、「あとで東劇で凱旋興行をやるから衣?を着けて??してくれ」との話になった。アラカンは「あの10万円ギャラやったんか、すまんがそらお?りや、皇室利用して?儲けしてもわての知ったこっちゃない、せやけど少しは遠慮しなはれ、明治天皇サンドイッチマンにする了見か」と、大?の商魂に舌を?いている。
アラカンが『網走番外地』の老?客、鬼寅親分を?たり役としていた 1960年代 に、趣味の 競艇 に行ったところ、組?係者から丁重に??され、「どうぞ」とわざわざ貴賓室に案?された。アラカンは「鬼寅親分のおかげや。ファンなんだその連中、冬などはまことによろしい。ガラス張りであたたかい、?度心地よう利用させてもろてます」と喜んでいた。鬼寅は、ロケ地の 網走刑務所 でも見物していた囚人たちから「アラカン!頑張れ!」と?援が飛び、アラカンを感激させたほどの?の入った役だった。『 直?地獄拳 大逆? 』( 1974年 [注? 5] )でも、ラストの網走刑務所のシ?ンの締めのためにわざわざアラカンに鬼寅役で1シ?ン登場させるほど、?時の鬼寅役は知名度の高いものだった。
1968年 の『 神?の深き欲望 』では、?の娘を犯して、彼女を妊娠させ子供を産ませたという鞍馬天狗とは正反?の汚れ役を演じ、映?生活42年目にして映?で初めて賞を受賞した [5] 。この役は?初 早川雪洲 が演じる予定であったが、諸事情により早川が降板。他の俳優を探していたところ、アラカンにオファ?が回ってきたが、その役柄に嫌?感を感じ?り?がせず一旦拒否する。しかしその後の 今村昌平 監督の執拗な出演依?にやむを得ず出演をしたとの事である。この作品の演出指導はかなり苛酷なもので、今村監督にいきなり「あんたは今まで主演ばっかりやっていたから、人の顔見てものを言わない。自分のアップだけしか考えていない」、「役者は相手を見てものを言うもんや。相手と?話して初めて映?になる。お前は一人で目ェむいてる」と言われたという。また撮影時にアラカンが「カメラはどっちや?」と尋ねると今村昌平監督が「こっちや」と明らかに違う方向を指差す等、その演出指導にほとほと嫌?がさしアラカンは何度も現場放棄をしたが、結局撮影に舞い?ってくるという逸話を?している。
『 男はつらいよ 寅次?と殿? 』は、『 トラック野? 』と同時にオファ?があり、迷った上での出演であった。甥の 山本?二 によると、どちらに出演すべきか相談を持ちかけられ、山本は、「そら先生、寅さんでっしゃろ。?民的映?ですがな」と背中を押してみたが、「せやけど、 菅原文太 には、新東?の義理があるさかいなぁ…」と?に掛けていた。が、「後で、トラック野?にもちゃっかり出演してはりました」と山本は語っている。
?者から 高血? の予防に「くるみの?を手の中で?がしておくように」と言われ、どうせならと、 パチンコ 店に通い始めた。「趣味と?益と健康と、一石三鳥というわけだ。」と本人は嘯き、なかなかの腕前であった。だがマスコミにパチンコの趣味を暴露されてからは、店?で「先生どうぞ」と、玉のサ?ビスをしてもらったり、 桂米朝 の NHKビッグショ? 出演のギャラにパチンコ玉交換券を貰うなどの目にあい、アラカンは「有難迷惑や」と苦笑していた。
落語家 林家木久扇 の憧れの人であり、『 笑点 』でも時?アラカンの物まねをする。また、 三波伸介 が司?していた?時に番組のコ?ナ?「伸介のなんでもコ?ナ?」( 1975年 7月6日 放送)にゲスト出演した際に木久扇(?時木久?)と共演した。
水木しげる の漫?作品になぜかよく登場していて、タコに子供を生ませたり、 鬼太? とともに妖怪を退治したこともある。
マキノで撮った1927年の初作『鞍馬天狗異聞?角兵衛獅子』から、 1956年 の『疾風!鞍馬天狗』までの?に30年の長きにわたり、アラカンは40本もの『鞍馬天狗』映?に主演している。もっともこれは確認漏れもあり、アラカン自身は「46本のはずだ」と述べている。一方、「庶民のスタア」だったアラカンは批評家からは「アラカンといえばB級???版、お子?ランチ」などと差別された一面もあった。
アラカンは?たり役『鞍馬天狗』を引き受けた理由として、杉作という子供のキャラクタ?を?げ、「昔から、子供の出る芝居は必ず?たるんですね。“先代萩”ありますやろ。チャップリンの“キッド”ありますやろ。子供が出るので、こりゃいけると思いまして、出さしてもらいますと返事しました。子供使うの得や。思ったとおり、大?たりとりました」と語っている。
長三?時代からアラカンの殺陣は?快で「スポ?ツ?戟」と評されたこともあった。マキノ雅弘はアラカンの殺陣について「わりあいリアルで伸びが良かった」と語っている。?垣浩によると、立ち回りで相手に刀(竹光)をパチ?ンとぶつけることで有名だった。一度立ち回りの際に?合いで六尺棒を竹光で?っ二つに斬ったこともあったという。
鞍馬天狗の立ち回りについては決して下着を見せなかった。「女形をやってましたから、これが結果としてよかったのでしょう。女形の?さばきちゅうもんはチャンバラと合うんですワ。でも私には、人を斬ったるという?がありました。 竹光 だから斬れへん。周りは弟子がかためましたから、遠慮いりまへん。弟子にはずいぶん怪我さしてます。でも他人には怪我さしてません」と語っている。
そんなアラカンが一番怖かったのは 大河?傳次? だったという。「私の時に限って ?? 使うんですワ。一番仲良かったけど、やっぱり?構えが違うんですな。いつも大河?さんは 近藤勇 の役で、しかもあの人、近眼でっしゃろ。怖かったですよ」 [8] 。
1928年 に???が「マキノ御室撮影所」を退社したが、これは『角兵衛獅子功名帖』を「鞍馬天狗最終作」と?社側が勝手に決めてしまったことが最大の理由であった。また理由はこれだけではなく、折しもこの年マキノ省三が 伊井蓉峰 を主役に起用して『 忠魂義烈 ??忠臣? 』を制作しアラカンも出演したが、新派の大物である伊井の尊大な態度や監督の指示を聞かない勝手な演技などの我がままを、マキノたちスタッフが招聘した手前どうにもできずに容認していたことを目の?たりにし、このことへの不?も、アラカンに退社の決意を固めさせた要因であったという [9] 。
その後、?中?後の混?や空白も?り越えて、約30年にわたってアラカンは??の『鞍馬天狗』を制作し演じていたが、 1954年 、原作者の 大佛次? が自ら『鞍馬天狗』映?の製作に?り出した。この際にアラカンに不?を言い鞍馬天狗役を封印させたが、大佛の手掛けた、 小堀明男 を主演に据えた『新鞍馬天狗』は結局、日本映?史に?るとまで言われる(それどころか、作家としての大佛自身の評?にまで傷がつく程の)大失敗作に終わり、『新鞍馬天狗』で映?館が被った損失の補?というとんだあおりを食らってアラカンは代理で2本出る羽目になっている。このときも「言うたら?いが、生きてる天狗はわてがつくった。」とアラカンは、暗に大佛次?を非難している。
人物?としては、この奇骨の人物を愛した 竹中? による『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』がある。晩年のインタビュ?によると原作者の「天狗が人を斬りすぎる」という意見に?して、アラカンは「 活動大?? 」(アラカンの表現)としての立場から同意していない。
アラカンの、鞍馬天狗についで有名なキャラクタ?は38本撮った むっつり右門 である。唇をへの字に曲げて腰を開いて、さァ?いと構えても、右門は「ヤ?」とも「オ?」とも言わない。無?映?であるから?は聞こえずともよいが、何も言わない顔がかえって迫力があると大いに受けた。アラカンは子供のころからアメリカの喜劇映?が大好きで、「自分がむっつり屋だから」と、「むっつり屋」のキ?トンがごひいきだった [4] 。
アラカンは右門について、「これも自分に合うと思いました。昔はしゃべるのがイヤで、いつも、むっつりやったから。キ?トン、バスタ??キ?トン、あの人ちっとも笑いまへん。これでいこう! と思いました、はい」と語っている [5] 。
映?プロデュ?サ?として、アラカンの制作姿勢は前衛的だった。1931年には、最初の色彩時代劇である、『京一番風流男』( 仁科熊彦 監督)をパ?トカラ?で撮り、1935年には『春霞八百八町』( マキノ正博 監督)で?っ先に?産ト?キ??映音システムを採用している [7] 。
1928年に、マキノ映?のスタ?たち6人が?立してそれぞれプロダクションを興したが、20mも離れていなかった千?プロと???プロは?抗意識が?く、プロぐるみで反目し合っていた。結局この2つのプロダクションだけが生き?ることとなっている。自らが映?プロデュ?サ?を務めたこの???プロでは、 1938年 公開の『出世太閤記』を「よろしおしたな。あの映?は一生の思い出ドス。」と語っている。
この作品でアラカンは自ら御殿場ロケで使う馬の交?に?たり、また?現しなかったが 阪東妻三? に信長役での出演を?みに、阪妻邸まで出かけていって頭を下げたりと精力的にプロデュ?サ?役に務めた。 ?垣浩 は「 山中貞雄 を?見したのもそういう情熱があったからだろう」と語っている。そんなアラカンも晩年は「ちかごろの時代劇アキマセンな。なんでこないなことになったのドスやろ」と嘆いていたという [6] 。