岸和田城

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
岸和田城
大阪府
別名 岸ノ和田城、?城、蟄?利城、千?利城
城郭構造 輪郭式 平城
天守構造 複合式望?型5重5階( 慶長 二年、 1597年 築)
複合式層塔型5重5階( 元和 五年、 1619年 改)
現在:連結式望?型3重3階、復興天守( 昭和29年 1954年 再)
築城主 信濃泰義か
築城年 ?永 年間( 1394年 - 1428年
主な改修者 三好?休 小出秀政 岡部宣勝
主な城主 小出氏 岡部氏 三好氏
?城年 明治 4年( 1871年
遺構 石垣、堀
指定文化財 大阪府史跡?名勝(本丸庭園)
再建造物 復興天守、櫓?門
位置 北緯34度27分31.74秒 東?135度22分14.81秒  /  北緯34.4588167度 東?135.3707806度  / 34.4588167; 135.3707806  ( 岸和田城 ) 座標 : 北緯34度27分31.74秒 東?135度22分14.81秒  /  北緯34.4588167度 東?135.3707806度  / 34.4588167; 135.3707806  ( 岸和田城 )
地?
岸和田城の位置(大阪府内)
岸和田城
岸和田城
テンプレ?トを表示

岸和田城 (きしわだじょう)は、 大阪府 岸和田市 岸城町にあった 日本の城 。別名 千?利城 (ちきりじょう)。 江?時代 には 岸和田藩 の藩?が置かれた。本丸庭園は?の 名勝 [1] [2] 城跡 は大阪府の 史跡 に指定されている。本丸および二の丸一?の4.9 ha は千?利公園として岸和田市が管理している。

?要 [ 編集 ]

延元 元年/ 建武 3年 5月25日 1336年 7月4日 )の 湊川の?い 楠木正成 の部下として活躍した 岸和田治氏 という武?がおり(『岸和田治氏軍忠?』)、おそらくその一族によって1400年までに岸和田が開拓されたと見られる(?永7年9月28日『足利義?御判御?書』(『石?水文書』)) [3] 。しかし、その頃はまだ城廓と呼べるものはなかった [4]

平成時代 の?掘調査によれば、15世紀後半に現在の岸和田城跡から約500m南東に 山城 が築城され( 岸和田古城 )、16世紀初頭頃に放棄されていた [4]

その後『日本城郭大系』によると信濃泰義によって現在地に移築されたとしている。

羽柴秀吉 紀州征伐 の?点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、 小出秀政 が5重 天守 を上げる本格的な構えとした。 松平康重 の代に ?構え と城下が整備され、 岡部宣勝 の頃、城の東側に2重、西側に1重の 外堀 寺町 が?築されている。 文政 10年( 1827年 )に天守を?失。以降再建されないまま、 明治 4年( 1871年 )に ?城 とされ、まもなく破却された。

岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、 本丸 二の丸 を合せた形が、 の??を?く器具「?」(ちきり)に似ていることから蟄?利城(後に千?利城)と呼ばれるようになった。城?にある 岸城神社 は千?利と「契り」とをかけて、?結びの神社として知られている。?の季節は 花見 名所 となり、 大阪みどりの百選 に選定されている [5]

日本100名城 の選定?象となるものの、?討の結果、選定されなかった。

2017年 平成 29年)4月6日、 ?日本100名城 (161番)に選定された。

沿革 [ 編集 ]

楠木氏の時代

一次史料 からは、 楠木正成 の部下だった 南朝 岸和田治氏 という武?もしくはその親族が14世紀に岸和田を開拓した?子が見られる [3] 。その後、1400年までには敵である室町幕府の 足利義? の手に落ちた [3] 。しかし、これらの文書には岸和田に城が築かれたという記述はない。

かつては、楠木正成の甥 和田高家 という人物が岸和田城を築城したという??があった。しかし、これらの文?の出典を遡っても江?時代初期にまでしか到達せず [6] 、しかも岸和田に城があったことを示す最初の一次史料は後述の 永? 元年( 1558年 )に三好氏が同城に入ったことを記した?心院快?書?(永?元年12月12日付、京都府立?合資料館所?「板原家文書」)まで下ることになる。 山中吾朗 は?時の和泉?の?況から岸和田城の築城をどんなに早くても15世紀とし、和田高家に?する?承は江?時代に盛んになった楠木氏崇?の風潮によるものとする [7]

平成時代 の?掘調査によれば、 岸和田古城 が築城されたのは15世紀後半と言われ [4] 、岸和田の支配?が南朝/楠木氏部下の岸和田氏から北朝/ 室町幕府 の足利氏に移った14世紀後半から100年近くも後である。

和泉守護細川氏の時代

?永 15年( 1408年 細川?長 細川基之 が和泉?の上下 半?守護 となり岸和田城の城主となったようで、その後 和泉守護細川家 が岸和田城と?わりを持っていく。 明? 9年( 1500年 )には、和泉上守護 細川元有 と和泉下守護 細川政久 ?山?順 に攻められ岸和田城で討ち死にしたおりには、管領?細川政元の重臣? 赤?朝? が城を奪還した。その後、 ?細川の? により細川元有の子? 細川元常 が阿波に逃れると、 細川高? 政?下において 細川高基 細川晴宣 が和泉守護となり、守護代 松浦氏 松浦盛 ? 松浦守 父子と共に岸和田領の統治をおこなった。

大永7年( 1527年 )、阿波の 細川晴元 が細川高?との決?に勝利し( 桂川原の?い )、和泉堺を本?とした「 堺公方 府」を設置、細川元常?その子 細川晴貞 が和泉守護に?り?いた。この時、松浦守は引き?き守護代として統治に?わっている。しかし、天文17年( 1548年 )細川晴元とその重臣? 三好長慶 が?立すると、松浦守は、和泉上守護?細川晴貞から離反し三好長慶についた。松浦氏は 三好政? の下でも和泉?における支配的な地位を確保し?けていたとみられているが、松浦守の?後に跡を?いだ 松浦万? (孫八?)は幼少であり、 三好政? は松浦万?の立場を認めつつもその後見を口?に岸和田城に兵を進めることになる(「九?家文書」所?:永?2(3?)年4月23日付三好長慶書?) [7]

松浦氏の時代

永? 元年( 1558年 )には、 三好長慶 の?弟? 三好?休 十河一存 安宅冬康 が岸和田城に入った。永?3年( 1560年 )には三好?休が大規模な改修をし、十河一存、安宅冬康を?大?に2800兵を籠城させた。この時には岸和田城も相?な規模となっており、 阿波? ?岐? 淡路? などから ?津? 、京への交通の要となっていた。現在の二の丸(二の丸公園)にある市民道場「心技館」の建設時に、今の 石垣 の?側に更に古い石垣の列が?掘されたことにより、?時は海に面した二の丸周?が主郭ではないかと思われ、海を背負った城郭の基礎がこの時に完成したのではないかと推測されている。

永?5年( 1562年 ?山高政 との 久米田の?い で三好?休が?死すると、安宅冬康は岸和田城を退き代わって守護?細川刑部(細川晴貞)が城主となった。しかし同年の ?興寺の?い で?山高政が大敗すると、再び三好長慶軍が岸和田城を回復し、 松浦虎 が城主になった。だが、?時松浦氏は一族に?紛を抱えていたらしく、この時城主になった松浦虎(孫五?)は松浦万?(孫八?)の?立者であったと推定され、後に同じ肥前守と名?った松浦光(孫八?)に城主が交替したことが確認できるなど、三好氏と?山氏の?間にあって松浦氏は混?のうちにあったと考えられる [7]

織田氏の時代

元?年間において松浦光が岸和田城主となっており、河? 高屋城 主の ?山昭高 と共に 織田信長 に?い 三好三人衆 篠原長房 荒木村重 らと?ったが、天正3年( 1575年 )に 家? であった寺田又右衛門、寺田安太夫( 松浦宗? )兄弟に討たれ、松浦宗?が城主となり 佐久間信盛 の?力として活動することになった [8] 。天正4年( 1576年 織田信長 石山本願寺 を攻めた。 天王寺の?い (1576年) である。そこに 毛利氏 が援助のため 兵糧 を貝塚に運搬し、これを阻止するため和泉?水軍(沼間、松浦、寺田、?鍋)が立ちはだかったが大敗した( 第一次木津川口の?い )。天正5年( 1577年 )、織田信長は 紀州征伐 を行い、紀伊方面の抑えとして 織田信張 佐野砦 に置いた。その後、織田信張は岸和田城へ移った。天正9年( 1581年 )、前年に和泉?の支配者となった [9] 蜂屋?隆 が城主とされた [10] (1581年7月5日付けで ?如 から岸和田城入城を祝されている [11] )。

中村氏:小出氏の時代
岸和田城の城郭部分 (昭和60年度のカラ?空中??)

天正11年( 1583年 豊臣秀吉 は、岸和田城を 中村一氏 の配下に置き、 根?衆 ?賀衆 粉河衆 などの 一揆 衆討伐を命じる。そんな中天正12年( 1584年 小牧?長久手の?い の留守を狙って、根?衆、?賀衆、粉河衆連合軍は??3万兵が侵攻し岸和田城に 攻城? を仕掛けてきた。これに?して中村一氏と松浦宗?は城兵8000兵で守り切った( 岸和田城攻城? )。この時、無?の?に救われたという??がある( ?地??? )。この功により松浦宗?は加?されて、伊勢?に?封となった。豊臣秀吉は根?衆、?賀衆、粉河衆連合軍を追討するため、天正13年( 1585年 )に岸和田城に入城し、そこから貝塚の諸城を落城させ最後に 積善寺城 ?城 を開城させた( 千石堀城の?い 紀州征伐 )。

この合?の後、豊臣秀吉は 小出秀政 を岸和田城の城主とした。最初4千石であった小出秀政の知行も、 文? 3年( 1594年 )1万石、翌文?4年( 1595年 )3万石に?大した。『岸城古今記』にはこの年から天守が築城され 慶長 2年( 1597年 )に竣工したと記している。

江?時代

慶長19年( 1614年 )、 大坂冬の陣 では 松平信吉 が城主となり、のちに 北?氏重 、その後は 小出吉英 元和 5年( 1619年 松平康重 が城主となったようである。その後元和9年( 1623年 )に 伏見城 が破却されると矢倉などが移築され城郭が?化された。その松平康重も 山崎城 へ?出すると ?永 17年( 1631年 )、 高槻城 より岡部宣勝が入城し、6万石の城主となった。以後 岡部長職 の時代まで 岡部氏 13代の居城となる。明治4年(1871年) ?藩置? により岸和田城も?城となる。

紀州監視の岸和田城 [ 編集 ]

?川?宣?像

岸和田城は 大坂城 和歌山城 の中間地点にあり、通?では岡部宣勝は ?川家康 の妹の子で、 紀州藩 の監視の意味もあったとされる。

?川御三家 の一つである 和歌山城 ?川幕府 の相互監視政策に例外は無く、?川家康の子 ?川?宣 の抑えの城としても城郭が整えられたのでは思われている。『深訪日本の城』によると、 江?城 で?川?宣と岡部宣勝が?面した時、?川?宣が「貴殿が岸和田に移封されたのは、われらの目付のためだという風聞であるが、いかなる計策をもって紀伊をおさえるつもりか」と問いかけてきたのに?して、岡部宣勝は「われら小藩のものが、大大藩の貴殿のおさえるほどの策略を持ち合わせるきずもござらぬが、ただ足の裏に米粒がついたぐらいのことしかできませぬ」という返事をした、と解?している。このようなやり取りがあったと思われているが?藩は?を交えることはなかった。

しかしながら、岸和田城の?張が和歌山側より大坂側に厚い防御線を設けていることなど、矛盾する点も指摘されている。

岸和田城の略年表 [ 編集 ]

和? 西? 主な出?事
?永 15年 1408年 細川?長 ? 細川基之 和泉? の上下 半?守護 となり岸和田城に入る
明? 9年 1500年 ?山?順 和泉上下守護 を破り城を落とすが、 赤?朝? に奪還される
永正 5年 1508年 細川元常 が阿波に逃れ、守護代の 松浦盛 が岸和田領を統治する
永正8年 1511年 細川元常が再び阿波に逃れ、 細川高基 細川晴宣 が和泉上下守護となる
大永 7年 1527年 細川晴元 が「 堺公方 府」を開き、細川元常が和泉守護として?還する
天文 18年 1549年 江口の?い 三好長慶 が細川晴元を倒し、 松浦守 が城主となる
永? 3年 1560年 長慶の?弟? 十河一存 が岸和田城に入り、 松浦万松 を後見する
永?5年 1562年 ?山高政 久米田の?い に勝利し、 松浦虎 が岸和田城に入る
永?9年 1566年 松浦光 三好三人衆 に敗れ、岸和田城に籠城する
天正 3年 1575年 松浦光が家臣の 松浦宗? に討たれる
天正5年 1577年 織田信長が 紀州征伐 を行う。その後、 織田信張 が岸和田城に入る
天正9年 1581年 織田重臣の 蜂屋?隆 が岸和田城に入る
天正11年 1583年 羽柴秀吉 の家臣 中村一氏 が岸和田城に入る
天正12年 1584年 根?衆 ? ?賀衆 が?襲し、 岸和田合? がおこる( ?地???
天正13年 1585年 羽柴秀吉が岸和田城に入り 根?寺 を?く。ついで 小出秀政 が城主となる
慶長 2年 1597年 岸和田城の天守が竣工する
元和 5年 1619年 小出氏?封後、 松平康重 が入城して ?構え と城下町を整備する
元和9年 1623年 伏見城 より伏見 が二の丸に移築される
?永 17年 1640年 松平康重?封後、 高槻城 より 岡部宣勝 が入城する
文政 10年 1827年 天守が 落雷 のため?失。再建されず
明治 4年 1871年 ?藩置? により 岡部長職 東京 に居住し、岸和田城は ?城 となる
昭和 18年 1943年 大阪府史跡に指定される
昭和29年 1954年 現在の連結式望?型3重の復興天守が再建される
昭和44年 1969年 多門櫓?隅櫓 櫓門 が復興再建される
平成 4年 1992年 天守閣屋根の葺き替え、外壁塗り替えなどの改修工事が行なわれる

城郭 [ 編集 ]

岸和田城正保城??/?立公文書館?閣文庫所?

『泉邦四?石高』によると、

今之城、天正之比?天守もなく堀、矢倉も?相成に依て伏見之御城天守、矢倉門等?被成御曳、石垣出?、小出播磨守御代之事、二、三之丸?出?、又大坂御陣後、通筋堺町之門、堀、石垣、浜手石垣、南住間還之入口、門、堀、石垣等出?、須田次?太?殿奉行になり

?泉邦四?石高

とあり 大坂の陣 後に本格的な城郭、 ?構え が整えていたのではないかと推察されている。東西は約370m、南北は約650mの平城で、5万3千 の城郭であった。

本丸 [ 編集 ]

天守

現在の 天守 は連結式望?型3層であるが、 正保 年間に 幕府 へ提出された 正保城?? 「泉州岸和田城?」では5層の天守が描かれている。初層は 千鳥破風 であったが、後に唐破風が取り入れたように見受けられる [12] [13] 。文政10年(1827年)11月20日 落雷 によって消失し、その後江?幕府に復興願いを?出?みで、それによると3層の天守、2層の小天守とあるが結局は再建されなかったようである。 天保 年間に描かれた「岸和田城?」には隅櫓しか描かれていないので、この時には?に天守はなかったものと思われている。 明治時代 以後、天守台の石垣の?に一段低い小天守台があったと言われているが、これは二の丸にあった伏見城の移築櫓が3層であったため、それを代用していた可能性も指摘されている。天守台の大きさは南北、東西共に約18m、面積は336m²で、?時の 岡山城 と同規模の天守だったと思われている。現在の天守の高さは約22mであるが、?時の天守の高さは18 あり、今の天守より約10mは高かったと思われている。また、本丸の面積は約4702m²ある。

現在の天守は昭和29年に市民の寄付や?城主の子孫である岡部氏の要望などにより再建された。?工費は?時の金額で3460万円、設計士は 一級建築士 池田谷久吉 、施工は岩出建設株式?社、工事は昭和29年1月6日起工、同年11月13日竣工。?初は?書館として利用されていた。また、平成4年には大改修工事も行なわれた。?工費は3億7801万円、設計は株式?社比石英二建築事務所、施工は岩出建設株式?社、工事は平成3年8月起工、平成4年8月31日竣工。 [14]

犬走り

本丸の石垣には南東および南西側下部に周堤?が存在する。これを 犬走り と呼ぶ。城の防衛という見地から見ると非常に不利であり、なぜこのような構造にされたかはわかっていない。脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためという?が有力である。この犬走り周?の石垣は 平成 11年 ( 1999年 )6月28日の豪雨で崩れ、今は?度のある 花崗岩 で補修され色の違う石垣が見受けられる。また補修工事の時に、百?十基の 墓石 が?見された。年?は、永正、天文、永?等16 世紀 前期-中期のものが多く、本丸の石垣は永?年間( 1560年 )以後であることが裏付けられた。

八陣の庭

?の名勝(平成26年10月6日指定) [1] [2] 重森三玲 の設計で、 昭和28年 (1953年)7月に着工し同年12月竣工した砂庭式枯山水庭園である。庭園は諸葛孔明の八陣法をテ?マにしたとされ、中央の大?と先端の天?地?風?雲?鳥?蛇?龍?虎の各陣に石組みが配されている。

二の丸 [ 編集 ]

二の丸跡にある市民道場「心技館」(御殿風復興建物)

二の丸には「二の丸御殿」と伏見城から二の丸北隅に移築されたとされる「伏見櫓」があった。??時代まではこちらが本丸であったと思われ面積は約8000m²ある。ここでは、平成13年度に行われた調査で確認された??末期の鍛造土坑から、墨に混ざってフイゴ羽口10本以上、?かす100個以上が出土した [15]

現在は二の丸公園として整備されている。 昭和32年 に20匹の アカゲザル が市民から寄贈されたことをきっかけに猿?が二の丸公園?に整備され、 昭和36年 には市民道場「心技館」も建設された。猿?のアカゲザルは 昭和50年 頃には40匹まで?えたがその後皮膚病などの流行で減少し、 平成23年 11月24日 には最後の1匹が 岸和田市中央公園 に移送されて猿?は終焉を迎えた。なお、移送された最後のアカゲザルは 平成24年 1月5日 に同公園で死亡した。同年 5月28日 には二の丸?場?光交流センタ?が開館。

二の曲輪 [ 編集 ]

五風?

二の曲輪は?堀の外側、一重目の外堀の?側にあり、主な施設としては「太鼓部屋?軍科倉庫」、「極?橋」、「向御屋敷」、「家老中家屋敷」、「新御茶屋」、「家老久野家屋敷」、「御?園」、「牢屋」、「西大手門」などがあったが、現在これらの施設は消滅している。また、二の曲輪の西部には ? のような形をした「あぶみ堀」があった。これは二の丸が本城であった頃、 馬出 の名?ではないかと考えられている。

「太鼓部屋?軍科倉庫」の跡地には明治13年に岸和田郡役所(のち ? 日根郡 役所→ 泉南郡 役所)が設置され、昭和16年より岸和田市役所の所在地となっている。また、「家老中家屋敷」の跡地には明治31年に大阪府第六尋常中?校(現? 大阪府立岸和田高等?校 )の校?が建設され、「向御屋敷」跡地も同校の運動場として利用されている。

「新御茶屋」の跡地には昭和4年から10年をかけて造?された「 五風? 」がある。回遊式の 日本庭園 で3000 の敷地があり主屋と庭園を見渡せる3つの 茶屋 があり、庭園の見?は自由となっている。平成31年4月より岸和田グランドホ?ルが五風?の 指定管理者 となっており、 和食 レストラン として活用されている。また、西隣の「家老久野家屋敷」の跡地は コインパ?キング の「 タイムズ 五風?」となっている。

三の曲輪 [ 編集 ]

二の曲輪の外側にあり、「北口門」、「坂口門」、「御勘定所」、「東大手門」、「牛頭天王社」、「八幡社」、「神明門」、「神明社」、「南大手門」、「 三の丸神社 」などがあった。

町曲輪?外曲輪 [ 編集 ]

浜の石垣

紀州街道 が町曲輪?外曲輪を?貫し、街道筋に「?馬口門」、「?町門」、「堺口門」が設置されていた。また、町曲輪の北東に「北大手門」があった。

浜の石垣 [ 編集 ]

町曲輪?外曲輪の北西?には「浜の石垣」が築かれ、町曲輪の出入口として浜の石垣に2箇所の「汐入門」が設置されていた。 松平康重 が藩主の時代に、?時の海岸線沿いに築かれたもので、約800mにわたって整備され、沿岸防衛や防潮堤の役割を果たしていた。

明治以降に取り?しが進み、現在では中町?童公園のそばに幅9m、高さ2mあまりが?存するだけになっており、?時の海岸線や岸和田城の外郭の規模を示す貴重な資料となっている。 [16]

改修 [ 編集 ]

『岸和田城跡』によると、主に3段階の改修があったと思われている。

岸和田城の改修の?史
回? 年代 主な特?
築城?初 - 1585年 現在の二の丸を主郭し、二の曲輪に「あぶみ堀」があり南西に馬出を備える。
二の丸付近まで海水が差し?み、 原が?がっていたと思われている。
第2次改修 1585年 - 1620年 小出秀政 が城主となると、天守を含めた城郭設備、 城下町 建設に取りかかる。
城下町は町曲輪のみで本町?中町がこれにあたる。
第3次改修 1620年 - 1660年 松平康重 時代に海岸部と城下町を?切る浜の石垣が築かれる。
町曲輪の南に南町、北に堺町?魚屋町?北町にあたる町域が成立。
岡部宣勝 時代には外曲輪が築かれ堺町がこの?となる。
更に南町雄心寺跡地と沼村領?にそれぞれ新屋敷が築かれ、
寺前川寺前橋から?川勘太夫橋まで南北約1.9 km の城下町が完成する。

その他 [ 編集 ]

城?の主な施設 [ 編集 ]

岸和田城の復元模型

施設情報 [ 編集 ]

  • 所在地
    • 大阪府岸和田市岸城町9-1
  • 開場時間
    • 午前10時~午後5時(入場は午後4時まで)※お城まつり期間中の指定日は午後8時30分まで(入場は午後8時まで)
  • 休場日
    • ?週月曜日(祝日?休日の場合、お城まつり期間中は開場)
    • 年末年始(12月29日~1月3日)
  • 入場料(天守)
    • 大人300円
    • 中?生以下無料

交通アクセス [ 編集 ]

電車
  • 南海本線 ?地?? - 最寄?。南大手門跡付近に所在する。
  • 南海本線 岸和田? - 特急停車?。南口から徒?約5分で東大手門跡(城見橋交差点)に至る。
バス

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ a b 岸和田城庭園(八陣の庭)が?の名勝に指定されました
  2. ^ a b 岸和田城庭園「八陣の庭」が名勝に
  3. ^ a b c 日本?史地名大系 2006 , 大阪府:岸和田市 > 岸和田村.
  4. ^ a b c ? 2015 , pp. 72?74.
  5. ^ 大阪みどりの百選 ”. 大阪府. 2016年12月23日 ??。
  6. ^ ? 2015 , pp. 75?78.
  7. ^ a b c 山中吾朗「和泉?松浦氏小考」( 小山靖憲 編『??期畿?の政治社?構造』(和泉書院、2006年) ISBN 978-4-7576-0374-5 所?)
  8. ^ 『織田信長家臣人名?典』2010年第2版 , p. 453.
  9. ^ 『織田信長家臣人名?典』1995年 , p. 327.
  10. ^ 織田信長家臣人名?典』1995年 , p. 328.
  11. ^ 『織田信長家臣人名?典』2010年第2版 , p. 368.
  12. ^ 全?城郭管理者協議?監修 『復元イラストと古??で見る 日本の城』 碧水社 1997年改訂第3刷
  13. ^ 三浦正幸 監修 『?史群像シリ?ズ特別編集【決定版】?? 天守のすべて』 ?習?究社 2007年
  14. ^ ?史とだんじりの町のシンボル『岸和田城』
  15. ^ 西川?勝 他編著『 岸和田城跡 東の二の丸の調査 大阪府埋?文化財調査?要 』大阪府?育委員?、2001年。
  16. ^ 『岸和田城下町めぐり』岸和田城趾保存??ボランティアガイド、2004年4月、29頁。  
  17. ^ お城の堀から自?車、冷?庫??…ごみ10トンに警察も警戒 大阪?岸和田 産?新聞 2013年4月30日

?考文? [ 編集 ]

  • 谷口克?, 高木昭作『 織田信長家臣人名?典 』吉川弘文館、1995年。 ISBN   4642027432 NDLJP : 13208283 https://dl.ndl.go.jp/pid/13208283  
  • 谷口克?『 織田信長家臣人名?典 』(第2版)吉川弘文館、2010年。 ISBN   9784642014571 ?立???書館書誌ID : 000011020939 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011020939  
  • 『日本城郭大系』第12? 大阪?兵庫、 新人物往?社 、1981年3月、200-207頁。
  • 『探訪日本の城』6 畿?、小?館、1977年9月、145-146頁。
  • 西ヶ谷恭弘 ?光武敏?『城郭みどころ?典-西?編』東京堂出版 、2003年9月、70-71頁。
  • 岸和田市立?土資料館『??の中の岸和田城 : 石山合?から大坂の陣まで : 岸和田城天守閣再建五十周年記念特別展』岸和田市立?土資料館、2004年、28頁。 ?立???書館書誌ID : 000007525410  
  • 『日本?史地名大系』平凡社、2006年。  
  • ? 陽史「 護持山朝光院天性寺所?『天性寺聖地?尊?起』の成立過程-地?菩薩の利生譚から岸和田城史譚へ 」『國文學』第99?、?西大??文??、2015年3月31日、69?89頁、 hdl : 10112/9239   閲覧は自由

?連文? [ 編集 ]

  • 『岸和田城いまむかし』岸和田市立?土資料館。
  • 『岸和田散策マップ』岸和田市?光振興協?。

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]