出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山部 赤人
(やまべ の あかひと、生年不詳 -
天平
8年(
736年
)?)は、
奈良時代
の
歌人
。
山部 明人
、
山邊(?)赤人
と表記されることもある。
姓
は
宿?
。
官位
は
外
?六位下
?
上?少目
。
三十六歌仙
の一人。
出自
[
編集
]
山部氏(山部連?山部宿?)は、
天神系
氏族
である
久米氏
の一族?
久味?造
の後裔で、
職業部
(cf.
部民制
、
品部
)の一つである
山部
の
伴造
家とされる。また、
天武天皇
13年(
684年
)
八色の姓
の制定によって山部
連
から山部
宿?
への
改姓
が行われている。
[2]
、赤人も宿?姓を賜?されたことが『
万葉集
』の詞書から確認できる
[3]
。
?要
[
編集
]
その??は定かではないが、『
?日本紀
』などの
正史
に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。
神?
?
天平
の?時代にのみ
和歌
作品が?され、
行幸
などに?行した際の
天皇
?歌が多いことから、
聖武天皇
時代の
宮廷歌人
だったと思われる。作られた
和歌
から諸?を旅したとも推測される。同時代の歌人には
山上憶良
や
大伴旅人
がいる。『
万葉集
』には
長歌
13首?
短歌
37首が、『
拾遺和歌集
』(3首)以下の
勅撰和歌集
に49首が入首している
[4]
。自然の美しさや?さを詠んだ
?景歌
で知られ、その表現が周到な計算にもとづいているとの指摘もある。
?本人麻呂
とともに
歌聖
と呼ばれ?えられている。
紀貫之
も『
古今和歌集
』の
?名序
において、「人?(?本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人?が下に立たむことかたくなむありける」
[注? 1]
と高く評?している。この人麻呂との?は、『
万葉集
』の
大伴家持
の漢文に、「山?の門」(山部の「山」と?本の「?」)とあるのを初見とする
[注? 2]
。
平安時代
中期(『拾遺和歌集』頃とされる)には名?の高まりに合わせて、
私家集
の『
赤人集
』(
三十六人集
のひとつ)も編まれているが、これは万葉集の?11の歌などを集めたもので、『
人麻呂集
』や『
家持集
』とおなじく万葉の赤人の作はほとんど含んでいない。『
後撰和歌集
』まではあまり採られることのなかった人麻呂ら万葉歌人の作品が、『拾遺和歌集』になって急?するので、?連が考えられている。
作品
[
編集
]
- 万葉集
- 田子の浦ゆ うち出でてみれば ?白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
[注? 3]
- 若の浦に潮?ち?れば潟をなみ葦?をさして鶴鳴き渡る
- み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだもさわく 鳥の?かも
- 春の野の すみれ摘みにと こしわれそ 野を?かしみ 一夜?にける
- 吾兄子(わがせこ)に 見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪のふれれば
ストラヴィンスキ?
が曲をつけていることで知られる。
- 新古今和歌集
- 田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
新古今和歌集
に??された?歌は、後に『百人一首』に採?されている。
?跡
[
編集
]
墓所
[
編集
]
赤人の墓と?わる
五輪塔
が
奈良?
宇陀市
の
額井岳
の麓に存在する。
千葉?東金市には、赤人塚がある。赤人が
上??
山?郡
の出身と?わっており、江?時代の神代?者?山口志道は、「田子の浦」は現在の千葉?
鋸南町
であるとの?を?表している。
神社
[
編集
]
赤人を祭神として祀る神社がいくつか存在する。
[1]
脚注
[
編集
]
注?
[
編集
]
- ^
この一文では人麻呂より赤人の方を評?しているように?めるが、全文を通じて最も評?されている歌人は人麻呂である。
- ^
ただし、この「山?」については、「山」を山上憶良とする?もある。
- ^
大井川マラソンコ?ス(?岡?島田市)の、蓬?橋付近に歌碑がある。ただし「?白にそ」の部分が「まし?にそ」となっている。
出典
[
編集
]
外部リンク
[
編集
]
?考文?
[
編集
]
- 田口?幸
『万葉赤人歌の表現方法 批判力と?想力で拓く?文?』
鼎書房
、2010年
- ?賀?男
『古代氏族系譜集成』中?、古代氏族?究?、1986年
?連項目
[
編集
]
ウィキクォ?トに
山部赤人
に?する引用句集があります。
ウィキメディア?コモンズには、
山部赤人
に?連するカテゴリがあります。