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山道 襄一
(やまじ じょういち、
1882年
(
明治
15年)
3月15日
-
1941年
(
昭和
16年)
5月11日
[1]
)は、
日本
の
政治家
、
ジャ?ナリスト
。所?政?は
憲政?
→
立憲民政?
→
?民同盟
→立憲民政?。
衆議院議員
を10期務めた。
??
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]
?島?
賀茂郡
板城村
(現?
東?島市
)出身。
1906年
(明治39年)に
早?田大?
大?部政治???科卒業
[2]
。鳥取新聞社の主筆を務めた後、
韓?
に渡り、『大韓日報』の主筆となり、また習俗慣行の調査にあたった。
韓??合
後、大韓日報が?刊になると、?誌『新半島』を??し、
朝鮮?督府
の?託として引き?き習俗調査を行った。のちに『
中?新聞
』主筆も務めた。
1912年
(
大正
元年)、衆議院?島?郡部補欠選?に?選した
[3]
。以後、?選10回を?え、その間
加藤高明?閣
?
第1次若槻?閣
の
文部
??官
、
濱口?閣
で
?道
政務次官
を務めた。
1931年
(昭和6年)4月から同年12月まで民政?幹事長を務めた
[4]
。
民政??では
安達謙?
直系の?人政治家として知られ
[5]
、同じく民政??の安達直系少?議員である
永井柳太?
?
中野正剛
?
鈴木富士彌
とともに「安達の四天王」と?された
[5]
。民政?幹事長?任後安達?中野らとともに民政?を離?し?民同盟の結?に?加したが、幹部の間の意見の齟齬が原因で?民同盟を離?し民政?に復?。
復?後は
?藤隆夫
と行動をともにし
[6]
、
1940年
(昭和15年)
2月2日
の
反軍演?
により?藤が政府?陸軍?親軍派政治家から攻?を受けた時は友人として?藤からの相談を受けた
[6]
。?藤は?初離??告は受諾するが議員?職は?固拒否する立場を貫いたが民政??で議員除名論が台頭すると
2月29日
には議?での?明が可能で選?民の同意が得られれば議員?職も考慮するとの意見を民政?幹部の
俵孫一
につたえた
[6]
。だが親軍派の
政友?革新派
?
社?大衆?
?時局同志?らが?藤の?明の?容は「陳謝的?容」以外は認めないと主張したことにより
3月4日
の山道??藤?
川崎克
?
工藤?男
?
岡崎久次?
らの?談で?藤が「自己の欲するが如き?明をなし得ない位ならば、敢へて自?的?職も思ひ止まるもやむなし」と山道らに語り
[6]
、?藤はあえて除名される道を選ぶことになった
[6]
。
著書
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]
脚注
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]
- ^
『官報』第4332?、昭和16年6月18日
- ^
『早?田大?校友??員名簿 大正4年11月調』
大?部政治???科 明治三十九年得業81頁(?立???書館デジタルコレクション)。2018年5月11日??。
- ^
『官報』第114?、大正元年12月16日
- ^
『昭和の政?』、419頁。
- ^
a
b
『昭和の政?』、185-186頁。
- ^
a
b
c
d
e
『昭和の政?』、362頁。
?考文?
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]
- 『?島?紳士名鑑』?民?育普及社、1917年。
- 『早?田大?校友??員名簿 大正4年11月調』早?田大?校友?、1915-1925年。
- 粟屋憲太?
『昭和の政?』
小?館
〈文庫版 昭和の?史 第6?〉、1988年11月1日。
ISBN
4-09-401106-4
。