尾形 藤吉 (おがた とうきち、 1892年 3月2日 - 1981年 9月27日 )は、 日本 の 騎手 、 調?師 。
1908年より騎手となり、1911年からは騎手兼調?師として 初代ハクショウ 、 アスコット 、1936年より?業の調?師となってからは11?無敗の クリフジ ( JRA?彰馬 )、 八大競走 3勝を?げ、日本馬としてはじめてアメリカの 重賞 競走を制した ハクチカラ (同前)など?多くの名馬を手掛けた。 日本中央競馬? (JRA)が?足した1954年以降だけでも年間最多勝を12回記?し、通算1670勝および 東京優駿(日本ダ?ビ?) 8勝をはじめとする? 八大競走 39勝、 重賞 189勝(1932年以降)は史上最多勝利記?。さらに門下からはそれぞれ JRA騎手?彰者 の 保田隆芳 、 野平祐二 、同 調?師?彰者 の 松山吉三? ら??の人材を輩出した。その幾多の功績により日本競馬界において「 大尾形 」と?される [1] 。
1964年 ?綬褒章 、1966年 ?五等?光旭日章 受章。2004年、調?師?彰者に選出。同じくJRA調?師の 尾形盛次 は長男、 尾形充弘 は孫。
出生から1908年までは「大河原」姓であり、また1911年から1946年までは「 尾形景造 」と名?っていたが、本項では統一して「藤吉」と記述する。
1892年、 北海道 有珠郡 伊達町(現?北海道 伊達市 )の開拓農家に、大河原?次??キク夫妻の次男として生まれる [2] 。父方の大河原家、母方の尾形家は、?方とも 亘理伊達家 の?臣であり、主君? 伊達邦成 に?って?地に入植していた [2] 。家では2頭の農耕馬を飼い、?次?はその手入れのすべてを自ら行う馬好きな人物だった(藤吉が3?の時に死去) [2] 。藤吉も幼少より馬に親しみ、 尋常小?校 に入?してからは夏になると裸馬の背に立って?り回し、友人らに「立ち?りの藤ちゃん」とあだ名された [2] 。
高等小?校4年次であった1907年9月、異父弟が川遊びの最中に溺死する不幸に見舞われ、さらに10月には大火が伊達町を襲い、藤吉を消沈させた [3] 。しかし翌11月、官?の 新冠御料牧場 に勤めていた大叔父?阿部哲三が火事見舞いに訪れると、藤吉はこれを新局打開の機?と捉え、自らを御料牧場へ連れていくよう哲三に?んだ。すると好感を抱いた哲三も母キクの?得に努め、これを認められて藤吉は哲三と共に御料牧場へ移り、馬術見習生となった [3] 。牧場に入ってしばらくは?用をこなしていたが、2カ月後に前??者の過失から「 豪サラ 」の 種牡馬 ウヰリアムの?り運動を新たに??することになり、曲のある同馬とともに?馬技術を磨いていった [4] 。1908年には近隣の牧場から人馬を集めて行われる祭典競馬にも?加し、2?1勝?2着1回の成績であったという [3] 。
1908年8月、東京で 園田?? お抱えの騎手兼調?師を務めていた菅野小次?が、馬市?加のため北海道を訪れ、牧場での藤吉の?馬姿に目を留め、自らの弟子とすることを哲三に提案する [5] 。藤吉が同座したのち菅野があらためて入門を誘うと、藤吉は二つ返事で了承し、翌日には御料牧場を離れ上京の途に就いた [5] 。 目? の??に到着してから正式に菅野に弟子入り [6] 。兄弟子には後に藤吉の弟子となる?藤潔の父??藤?一がいた [6] 。
2年弱さかのぼる1906年秋、東京競馬?? 池上競馬場 で行われた馬券??を伴う開催が多額の?益を?げ、これに??された全?各地に競馬??部が??と設立された [7] 。競馬は 軍馬 の改良や、そのために必要な馬産振興といった公益的な名目の下に行われ、それを?う競馬主催者の?入源として、 馬券 ??は「?許」という形になっていた [7] 。しかし?利目的による競馬開催の?行や、?客の射幸心の挑?、競馬場?における?擾事件の頻?などといった風紀紊?の弊害を問題視され、藤吉の上京からわずか2カ月後の1908年10月6日をもって馬券??は全?的に禁止された [8] 。これにより財源を失った各地の競馬主催者は大打?を受け [8] 、藤吉の先行きもにわかに暗いものとなった [9] 。「もし競馬ができなくなったら、陸軍の調馬師にでもなるがいい」と、菅野が藤吉に陸軍馬術?範を?えたほどであった [9] 。しかし政府からの補助金を?りに競馬開催そのものは?けられることになり、12月13日の目?秋季開催3日目、??産呼馬競走で藤吉は騎手として初騎?した [10] 。4頭立ての全てが園田??の所有馬で、藤吉はホクエン、菅野がここまで13?全勝、 帝室御賞典 にも優勝していたシノリに騎?していた。藤吉は最後にシノリを追い?み、1着同着という結果で初騎?初勝利を?げた。なお、藤吉は「確かに頭ひとつだけ勝った」が「馬券はないし、2頭とも園田氏の所有馬だし、シノリの14?目も1着という記?にしておきたかったのだろう」と述?している [10] 。
以後も補助金?みの競馬開催が?くなかで藤吉も騎手として活動したが、?客の少ない寂しいものであったという [11] 。1908年秋季開催における全?7競馬?の一般入場者?は、1競馬場あたり1日平均20人という少なさだった [9] 。なお、1909年8月、母方の尾形家の相?人が早世したことから、藤吉が代わって家名を?ぎ、大河原藤吉から尾形藤吉へと改姓した [11] 。
1911年元旦、藤吉は菅野のもとを離れ、 明治天皇 の御召馬車の御者として 宮?省 主馬寮 に勤める多賀一に??騎手として抱えられることになった [12] 。多賀は御者のかたわらで 新橋 に料亭を??し、やはり料亭??の次弟?平岡?高 [注 2] 、末弟?多賀半?と共同で「Hクラブ」という名義を用いて競走馬を所有していた [12] 。Hクラブはそれまで美馬孝之を??としていたが、美馬は?時 チリ からの招聘を受けて離日する予定で、その後任として藤吉が求められたものだった [12] 。多賀との出?いにより、藤吉は宮?省の運?になる 下?御料牧場 、および御料に匹敵する二大牧場として??の名馬を輩出する 小岩井農場 との間に、優先的な?がりを築いていくことになる [13] 。
藤吉はHクラブが所有する 祐天寺 の??に移り、5月末には目?競馬場で移籍後最初の開催を迎えたが、新呼馬?(新馬?)での騎?中に進路妨害を受けて馬もろとも?倒し、16日間意識不明となる事態に?った [12] 。?醒後は快方に向かったが、多賀の妻が厄?いとして藤吉に改名を?め、 姓名判? から藤吉は「景造」を名?ることとなった [12] 。以後この名前は 太平洋?? 後に?籍名での登?が義務づけられるようになるまで使用された [12] 。
以後騎手として復?し、Hクラブの所有馬アスベル [注 3] 、トクホといった馬で成績を?げた。特にトクホは?時最大級の牧場であった 小岩井農場 の生産馬で、藤吉が手掛けた最初の小岩井馬であった [15] 。Hクラブの次弟??高の所有馬だったが、同馬がデビュ?した1915年?時は?高の料亭「花月?」が??難に?っていたことから?却も視野に入れられていた [16] 。しかしトクホは?時の大競走である 優勝??産馬連合競走 (連合二?)を制して賞金3000円を獲得し、花月?の??を救うことになった [16] 。また、藤吉は同競走で1番人?だったミツイワヰに騎?していた重?? 北?五? とこれを機に親しく交わるようになり、のちにトクホを「名馬以上の馬で福の神」と?えている [16] 。
翌1916年には多賀一の?めで主馬寮に勤務する梶山甲造の娘??子と結婚 [16] 。約半年後、半?の死去や?高の多忙化でHクラブの運?が難しくなったことから、多賀一より?立を?められる [14] 。藤吉は北?に相談した後この提案を受け容れ、祐天寺の??を?り受けて騎手兼調?師として?立した [14] 。?立?初の管理頭?は5~6頭であった [14] 。
藤吉は?立後、目先の勝利よりもまず充?した??の下地作りに力を注いだ [17] 。1918年には最初の弟子となる美馬信次(Hクラブ??だった孝之の弟)が入門 [17] 。同年藤吉はシンオ?ミフジに騎?して最高級競走の 帝室御賞典 (春季? 阪神競馬??部 )に初優勝 [18] しているが、雨漏りする??の屋根を葺き替えることができないほど財政面では苦しかった [19] 。
1923年7月1日、馬券??に法的根?を?える新制 競馬法 が施行され、15年ぶりに馬券??が復活した [20] 。翌年春の目?開催では前年秋の優勝??産馬連合競走を制していたスタ?リングが競走中の事故により死亡する不幸に見舞われたが、それに代わってチヱリ?ダッチェス、アストラルの牝馬2頭が活躍し、前者は1924年春の帝室御賞典(?浜)に優勝、後者は1927年秋の?外?産古馬競走や帝室御賞典(?浜)に優勝した [19] 。チヱリ?ダッチェスは 抽せん馬 、アストラルは購買額1350円という安馬だった [19] [注 4] 。大正末期から昭和初期にかけては、ほかにも フロラ?カツプ 、 クヰンフロラ? 、キングフロラ?、 アスベル 、カイモン、クヰンホ?クといった馬で大競走を次?と制した [21] 。また、この頃には 大久保?治 、 岩佐宗五? 、 二本柳勇 、 古賀嘉? といった弟子達が騎手として成長し、活躍をはじめた [21] 。
同時期、藤吉は騎手として自ら「世紀の決? [22] 」と?する競走を??した。 ハクショウ と臨んだ1930年新設の??産馬競走( 中山四千米 )である。この競走は 中山競馬??部 理事長? 肥田金一? が古馬(5?以上馬)の?決算的な競走として考案したもので、ここまで17勝を?げ引退レ?スとして臨んだ ナスノ とハクショウの 一騎討ち となった。?時の規定で2頭立ての競走は成立しないため、敗れた方が500円を?うという?件でゴ?ケツ(織田紋次?騎手)に出走を要請し、3頭立てで行われた [23] 。この競走は新聞の社?面で取り上げられるほど注目を集め [23] 、?日の 中山競馬場 には?時としては競馬始まって以?(藤吉)という2万人が詰めかけた [22] 。藤吉は追い?み得意の騎手であったが、この競走ではナスノを先に行かせると逃げきられるとの判?から一?して逃げを打ち、そのままゴ?ルまで逃げきってナスノに3馬身差で優勝を果たした [22] 。翌日の??新聞には「ナスノが負けた」と?客たちが驚嘆する?子や、同馬に騎?した岸三吉が?したという模?が?えられている [24] 。
また、1931年秋よりデビュ?した アスコット も藤吉の?記に一項を割かれるなど特筆される1頭である。同馬は同年春に5連勝するなど?時の尾形??の筆頭格であったワカクサの弟で、農林省賞典(阪神)、中山四千米、帝室御賞典(目?)、 目?記念 、 ?浜特別 など17勝を?げたが、性格の?順さ、操?の容易さもあって競走馬引退後に 東久邇宮稔彦王 に?馬として寄贈され、陸軍で訓練を受けたのちに騎兵大尉? 西竹一 と1936年の ベルリン五輪 に ?合馬術 競技の日本代表として出場した [25] 。結果は50頭中の12位であったが、藤吉は「アスコットが??の難?を切り?けて野外騎?でゴ?ルに入ったという報告を聞いたときは、競馬に勝ったときよりうれしかった」と述べている [25] 。
1932年、目?競馬場を管轄する 東京競馬??部 が 東京優駿大競走(日本ダ?ビ?) を創設。藤吉はその第1回競走に3頭の管理馬を送り?み、自身もオオツカヤマで騎手として出走した。?日は6番人?であった。レ?スはスタ?トから先頭を奪った ワカタカ がそのまま逃げきって初代ダ?ビ?馬となり、後方から追い?んだオオツカヤマは4馬身差の2着となった [26] 。翌年、目?競馬場が 府中市 へ移?して新たに 東京競馬場 が竣工し、これに伴い目?祐天寺裏にあった尾形の??も府中へ移った。尾形は府中に2000坪の土地を買い、16頭?容の??を2棟と自宅や雇員の小屋などを建てた [27] 。翌1934年、東京競馬場での初開催となった日本ダ?ビ?に藤吉は4頭を送る。本命視されていた 中村一雄 ??(阪神)の ミラクルユ?トピア が競走?日の怪我で出走を取り消し、尾形??の フレ?モア (大久保?治)、テ?モア( 伊藤正四? )、デンコウ(二本柳勇)に人?が集まると [28] 、結果もこの3頭が1着から3着を占め、藤吉は第3回にしてダ?ビ?初優勝を果たした。翌年の第4回競走ではアカイシダケに騎?して2着となり、これが騎手として最後のダ?ビ?出走となった。1936年には伊藤正四?騎?の トクマサ でダ?ビ?2勝目を?げた。
同年、全?各地で?立運?されていた11の 競馬??部 が 日本競馬? として統合されるに?たり、調?師と騎手の職域を明確化する「調騎分離」が打ち出された。藤吉は新たに??に入った?藤潔、 松山吉三? 、 保田隆芳 、 八木?勝美 といった多くの弟子が成長しつつあることに鑑み、11月23日の目?記念でアカイシダケに騎?して4着となったのを最後に騎手を引退し、以後調?師?業となった [29] 。騎手成績は明確に集計されている範?では373?148勝。勝率は3割9分6厘、後年算出されるようになる 連?率 (2着以?率)は6割超という高率であった [30] 。騎手としての日本ダ?ビ?優勝はならなかったが、帝室御賞典11勝は最多勝利記?である。
1938年、藤吉は テツモン で同年創設された第1回農林省賞典四?呼馬(後の 菊花賞 )を制覇。さらに アステリモア で第1回阪神優駿牝馬(後の 優駿牝馬 、オ?クス)も制した。翌1939年には中山四?牝馬特別(後の ?花賞 )、?浜農林省賞典四?呼馬(後の 皐月賞 )が新設され、日本ダ?ビ?と合わせて日本における「 五大クラシック 」が整備された。1940年には タイレイ で中山四?牝馬特別に優勝。同年、Hクラブ時代以?の付き合いだった北?五?が死去し、藤吉はその後を?いで日本調?師騎手?の?長に就任した [31] 。また、北?の弟子であった 田中康三 と 前田長吉 のふたりを自身の??に引き受けている [31] 。
翌1941年には 田中和一? ??の セントライト が史上初のクラシック三冠を達成したが、同年末より 太平洋?? が勃?。日米開?後もしばらく競馬は開催され、1943年、藤吉は牝馬 クリフジ を擁してクラシック?線に臨んだ。クリフジは前田長吉を背にデビュ?から連勝を重ね、3?目の日本ダ?ビ?では2着に6馬身差?レコ?ドタイムで牝馬として2頭目の優勝を果たし、前田も20?3カ月という史上最年少の ダ?ビ?ジョッキ? となった。さらに秋には阪神優駿牝馬を10馬身差、京都農商省賞典四?呼馬も大差で制し、翌1944年の引退まで11?全勝という成績を?した。クリフジは後世まで史上最?牝馬とも評され、藤吉は「古今を通じて、これほど?い牝馬はいないという 巴御前 のような」と評した [32] 。また藤吉は前田についても「天才騎手といえるほどの少年 [32] 」と高く評?している。なお、前田は?兵を受けて?軍後 シベリア抑留 の身となり、1946年に病?のため同地で?した。
1944年から競馬は「能力?定競走」として東京と京都のみの無?客開催となる [33] 。各馬主の所有馬はすべて日本競馬?が買い上げ、良質馬を「?定馬」として?し、調?師ひとりにつき10頭ずつ割り振られた [34] 。春秋2回の開催で、尾形??は日本ダ?ビ?でシゲハヤが2着という成績を?したが、やがて空襲が激しさを?して都?での競馬開催はできなくなり、競馬?の支所として北海道支所( 北海道 ??町 )、東北支所( 岩手? ??村 )、?東支所( ?木? 宇都宮市 )の3カ所が設置され、藤吉は弟子の八木?勝美や田中康三らと東北支所に赴き、?勢70頭の?定馬をもって非公式の競馬開催が?けられた [33] 。1945年8月14日には東北支所が?定競走中に空襲を受けたが [33] 、翌15日に終?を迎えた。
終?後、先行きが不透明な中で藤吉は盛岡に留まっていたが、秋になり競馬再開の報があったことから東京に?り、??の再建を始めた [34] 。?後の競馬は1946年10月からの開催と決まり、競走馬については?定馬を抽籤で各馬主に再配布し、それらをさらに抽籤して各調?師に割り振ることになったが、藤吉に目立った馬は?たらず、再開第1回の競馬は牝馬オホヒカリが3勝を?げたことと、新弟子で?時18?の 野平祐二 がそのうち2勝を?げたことが目立つ程度であった [34] 。しかし1949年には ヤシマドオタ? が?花賞を制して?後のクラシック初勝利を?げる。同馬は次走の日本ダ?ビ?で落馬事故に?き?まれて重傷を負ったが、のちに快復し、翌1950年秋の天皇賞に優勝するなど活躍した。同年はほかに ハタカゼ が重賞3勝を?げるなどし、年間では99勝を?げて?前の最高成績を上回った [35] 。1951年にはハタカゼが天皇賞(秋)を制覇、1952年にはオホヒカリの子? クリノハナ が皐月賞と日本ダ?ビ?の二冠を制し、藤吉は五大クラシック競走の完全制覇を達成した。
1953年には ハクリョウ が菊花賞に優勝。同馬は翌1954年に古馬(5?以上馬)として確固とした存在に成長し、天皇賞(春)などを制し、同年より 啓衆社 がはじめた年度表彰において史上初の 年度代表馬 に選出された。また同年にはアメリカの ロ?レルパ?ク競馬場 から?際競走 ワシントンD.C.インタ?ナショナル に日本馬として初めて招待を受けたが、巨?のため用意された飛行機では輸送が難しいことが分かり?念された [36] 。しかし1956年から1957年にかけて日本ダ?ビ?、天皇賞(秋)、有馬記念を制した ハクチカラ が1958年から改めてアメリカ遠征を行うことになり、保田隆芳を伴って渡米。保田とのコンビで臨んだ現地4?では好成績を?せなかったが、現地騎手のレイ?ヨ?クが?った渡米後11?目のワシントンバ?スデ?ハンデキャップ( 英語版 )を逃げきって、日本馬として初めてアメリカの重賞競走を制した [36] [注 5] 。また保田は現地で モンキ??り を習得し??後に3年連?して最多勝利騎手となるなど好成績を?げ、あぶみの長い「天神?り」が定着していた日本でのモンキ??り普及に大きく貢?した。
1961年には2代目となる ハクショウ がメジロオ?との「?の毛一本」といわれた僅差を制して日本ダ?ビ?に優勝。1963年には尾形??から出た メイズイ と グレ?トヨルカ の2頭が二?としてクラシックを?った。春の二冠はメイズイが制し、セントライト以?2頭目のクラシック三冠確?といわれたが、三冠最終?の菊花賞では騎?した 森安重勝 の騎?ミスもあって6着に沈み、代わってグレ?トヨルカが最後の一冠を制することになった。このとき藤吉は茫然自失で、グレ?トヨルカ騎?の保田から?を掛けられるまで同馬の勝利に?付かなかったともいわれ [37] 、のちに森安の騎?を「だらしないの一語に?きる」と指?している [38] 。また、同年は コレヒサ で天皇賞(春)も制しているほか、保田隆芳が史上初の通算1000勝という記?を達成した。
1966年には コレヒデ が天皇賞(秋)と有馬記念を制し、尾形??から4頭目の年度代表馬となる。1969年には ワイルドモア 、 ミノル 、 ハクエイホウ 、 メジロアサマ の「尾形四天王」がクラシック路線を賑わせ、うちワイルドモアが皐月賞を制した [39] 。同年には シャダイタ?キン でオ?クスも制し、年間78勝の成績で自身12度目の年間最多勝を記?した [39] 。日本中央競馬?が?足した1954年から?年までの15年間、?東では一度も最多勝を?らず、年間の史上最多勝記?である1959年の121勝を筆頭に、100勝越えは3度(1948~1953年の??時代を含めると5度)に及んだ [39] 。
シャダイタ?キン以降、藤吉は八大競走制覇から遠ざかり、勝利?の面でも徐?に成績を落としていった。1973年秋の天皇賞では1番人?に推された ハクホオショウ が骨折で競走を中止し、斜陽をいっそう印象づけた [40] 。また、翌月にはハクホオショウの馬主で、?後の尾形??を支えた馬主のひとりである 西博 が死去 [40] 。同じころ藤吉自身も腰に怪我を負い、その?過が芳しくなく、息子の盛次や孫の充弘が??管理を補佐した [40] 。また、藤吉は弟子の保田や盛次の??開業に際して自身の管理馬房を10ずつ割?し、1975年からは競馬?が調?師1人?たりの管理馬房?削減策を打ち出したことから、さらに管理?を減らしていった [41] 。そうした最中の1977年、藤吉は ラッキ?ル?ラ で自身8度目にして最後のダ?ビ?優勝を果たした。
1981年9月27日、89?で死去 [39] 。息を引き取ってから約15分後に行われた セントライト記念 に メジロティタ?ン が優勝したのが最後の重賞勝利となった。なお、一般に藤吉の通算成績は、日本中央競馬?が?足した1954年以降の成績をもって 9390?1670勝 とされる [42] 、史上最多記?であるが、全?統一された最初の競馬組織である日本競馬?が?足した1937年以降では、 14103?2776勝 となる [注 6] 。死後、 正六位 に ?された [39] 。
2004年、日本中央競馬?50周年を記念してホ?スマンの殿堂にあたる調?師?騎手?彰者制度が創設され、藤吉は弟子の松山吉三?とともに調?師部門で選出された [43] 。騎手部門では保田隆芳と野平祐二の2名も 福永洋一 と共に同時選出された [43] [44] 。
騎手としての藤吉は馬術仕?みの手綱捌きで馬を抑え、 追い?み?法 を得意としていた [46] 。?日新聞記者の高橋謙はその騎?姿を評して「長いアブミで帆かけ舟のようなスタイルよろしく、ゆうゆうと馬群の後からいき、3コ?ナ?にかかる頃からやや前傾姿勢になると?力な脚でもみ出しながら、?手綱を一本の棒のようにピンと張ってハミに合わせて追い出す絶妙の追い?み」と述べている [47] 。下半身を使って追うことが特?であったようで、北?門下の 梶?三男 も「普通は叩いたり、 拍車 を入れて追ってくるのだが、あの人は腰でもみ出してくる。達者な人だった」と評している [48] 。
長あぶみの姿勢で追い?む姿は尾形一門に共通し、「尾形流」ともいわれた [49] 。保田隆芳は「あぶみが長く、ハミあたりがやわらかく、しかも剛毅に?る」ことが一門の特?だったと述べている [50] 。その一方で、 野平祐二 は若手時代から?自に?の短いモンキ??りを試みていたが、??の?統と異なるフォ?ムにも藤吉からの叱言はなかったという [49] 。
記者の 井上康文 が藤吉に「調?の秘訣」を尋ねた際、藤吉は「各人各?のやり方がある」「馬と相談しなければならない、馬の能力を知らなければならない」などと語ったのみで、井上が調?を?察したところでもメニュ?は適宜に?えられていた [51] 。保田隆芳によると、彼が入門した1934年ごろには長距離を?るイギリス式の調?が競馬界全?の主流で、尾形??の場合、馬は外?を出て東京競馬場まで10~15分ほど?き、東京競馬場に入ってから30分ほど動かし、コ?ス(1周2000メ?トル)に入ってからは速?で1周、??で2周半の計7000メ?トルが通常メニュ?であり、追い切りでもコ?ス1周を追うことが普通だった [52] 。これは1970年代半ばから普及していく短距離で?ませるアメリカ式の調?とは大きく異なるが、?時としては主流の調?法であった [52] 。また、府中の尾形宅は高低差の大きな坂道の底にあり、藤吉は坂の上り下りが鍛?になると見越してここで引き運動も行わせていた [52] 。藤吉は太平洋??前後の時期、友人でもあった 伊藤勝吉 と「東の尾形、西の伊藤」と?び?されたが、この言葉は大勢力であることのほかに、調?の運動量の多さも表していたとされる [52] 。
藤吉は1953年に公務として 津?義孝 とアメリカまで馬の買い付けに赴き、現地の競馬を見聞したが、「馬の調?や騎?については、日本もアメリカもそう?わりなく、?考になることはあまりなかった」との感想を?している [53] 。一方でスピ?ド感に富んだアメリカ特有の競走?容については「見習う点がある」とし、軍馬改良の思想から始まり、耐久力を重視してきた日本の競馬も?化していくべきではないかとの提言も行っていた [53] 。
また、藤吉の調?の妙を物語る逸話として、次のようなものがある。1967年、?時開業2年目であった孫弟子の 伊藤雄二 が管理馬ハイドルを擁して日本ダ?ビ?へ臨むに?たり、?東での管理を藤吉に依?した。しかし東上前に行った削蹄に狂いがあり、ハイドルの前脚は腫れ上がってしまっていた。これを見た藤吉は、?蹄師に適宜削蹄の指示を?えつつ1日も調?を休むことなく、ダ?ビ??日までに腫れをすっかり引かせてしまった。日本ダ?ビ?でハイドルは23着と大敗したものの、伊藤は大きく目を開かされたという [54] 。また、このとき藤吉が自宅で伊藤に語って?かせた「精神論と具?的方法を?せ持つ話」は、伊藤の競馬論の「根底のテキスト」になったという [54] 。伊藤は2014年に松山吉三?の子? 松山康久 とともに調?師?彰者に選出された [55] 。
藤吉は馬を購買する際の要点として、まず血統を最重視したといい、馬?では「胸の張り、あばらの張りがよいのと、皮膚が薄いのをえらぶ。背中から腰うつりが良く、『名馬の尾だくさん』といわれるとおり、尾毛が多く、付け根の丈夫な馬がよい。膝下は骨太で、腱、球節(くるぶし)、?(くるぶしと足の間)が丈夫なもの。蹄はあまり?いのはよくない」と述べている [56] 。 藤本?良 は藤吉の馬選びについて「見たところモサッとしたような、 (中略) 太めと細めの二つに分ければ、太めの馬を好んでいたようだ」としている [57] 。??の大馬主に?まれた藤吉であったが、安馬で好成績を?げることを「馬を買うことで一番の妙味」とも述べており、初代ハクショウ、ヤマヤス、アスコット、トクマサ、クリフジ、タカハタ、 スウヰイス? については「大穴中の大穴を?てたような?分だった」としている [56] 。
また、藤吉の馬選びに絡む逸話として次のようなものがある。1934年に小岩井農場で競り市が開かれた際、藤吉とは別に?加していた馬主の高橋?逸が、「馬がよく分からないから」と、藤吉の目利きを見越して彼が最も高額を提示した馬にさらに競り掛けて落とすよう、調?師の 布施季三 に言い含めて競りに臨んだ。藤吉が「第15 シアンモア 」に熱を入れているのを見た高橋は、高額に?る布施を?ましながら競り?け、ついに同馬を競り落とした [58] 。この「第15シアンモア」は ガヴァナ? の競走名で [58] 、翌1935年の日本ダ?ビ?に優勝した。
徒弟制が色濃かった?前??後の競馬界において、藤吉は極めて?格だったことで知られる。同じく?しさで聞こえた 武田文吾 でさえ、?年期の藤吉を評して「本?におそろしい人でした。?東の鬼と思ったものです。ものすごい?格な人で、ご自分にも?しかった。足一本折れても、小指の一本ぐらいちぎれても、俺は痛いといわんぞという人でした。だから、??するのもこわごわしたものです」と述べている [59] 。保田隆芳は「?格で無口。馬に?しては誰も先に置かないほどの愛情と相馬眼の持ち主でした。先生の前ではあの 大久保房松 さんさえ、ステッキでなぐられた」と述?している [50] 。人には?しかった反面、馬に?しては折檻することを?禁していた [60] 。娘の?美子によれば「馬は神?に祀られたもので、世の中でいちばん正直な動物だ」と口癖のように言っていたといい、「馬をいじめるようなことは一度もなかった」という [61] 。
往時の競馬界では、「この世界で本?に先生といえるのは、尾形藤吉ただひとり」ともいわれていた [50] 。松山吉三?は、藤吉の頭には常に競馬人の地位向上があり、そのため?節について特に?しく注意したのだとしている [62] 。弟子に?しては周?を?察し、馬ばかりではなく時事を知り、出?事について自分なりの意見を持つことを促し「人のことや世間のことが判らんのに馬のことが判るようにはならんぞ」としばしば?いていたという [62] 。松山は「先生がいなかったら、馬の社?はもっともっと?れていた」と述べている [62] 。また、 藤本?良 は「あの方は紳士でしたし、貫?もあった。調?師としてあれだけの人望家というか、信?のおける人物は、もう出てこないでしょう」と評している [63] 。
私生活では酒を非常に好んだ。45?のときに健康を考え、酒と煙草を?天秤に掛けて煙草を?ち、以?「日本酒なら2升、洋酒なら1本」を適量として酒を?み?けた [64] 。武田文吾によれば、?格な藤吉も酒が入ると柔らかくなったといい、藤吉が?んでいる間は弟子も一息つけたのではないか、と述べている [59] 。一方で弟子たちの思い出話では、?いが回ると居?ぶ?弟子に堂?巡りの?諭を?晩のようにしていたともいい、保田は藤吉の話が長いあまりに正座を?けた足が痺れ、這いずって部屋まで?ったという思い出を語っている。しかしこのときの?諭は後?の糧として?ってもいるという [64] 。
長男の尾形盛次は?初競馬界とは違う職に就いていたが、藤吉の負??減のため尾形??の調?助手となり [40] 、やがて?立し調?師となった。藤吉の死後管理を引き?いだメジロティタ?ンで1982年の天皇賞(秋)を制している。また、盛次の子?充弘もやはり藤吉の?調がすぐれなかった頃に一般企業から調?助手に?じた [40] 。充弘は調?師として1990年代末にGI競走で4勝を?げた グラスワンダ? などを管理しているほか、2010年から2012年まで調?師?長を務めた。
妻の?子は藤吉に代わり大??の?事をよく切り回し、賢夫人との呼び?が高かった [65] 。井上康文は「尾形さんにとってまさに至? [66] 」という存在であったと評し、尾形も?子の臨終の際に「私が今日までなれたのはお前のおかげだ」と謝したという [67] 。1955年に?子が 大腸癌 で死去すると、娘の?美子が家事を取り仕切り、?子の弟である梶山和義が??の事務を?った [67] 。?美子の子である尾形重和は??師として 社台ファ?ム に勤務した [68] [注 7] 。
また、母方の曾祖父の阿部安貞から連なる遠?に、東京競馬場?長を務めた阿部安之や メルボルンオリンピック日本選手? の馬術コ?チを務めた?理町秀雄がいる [69] 。
尾形一門は日本競馬界最大の勢力であり [70] 、『日本調?師?50年史』に記載されている直弟子だけでも45名にのぼる [71] 。
※『日本調?師?50年史』に尾形から連なる系?に記載されている者のみ記す。なお、この元となった表の作成に?たり、調?助手出身者に?してはアンケ?トによってそれぞれの師を定めたとしており [72] 、最初に所?した??や長く所?した??とは必ずしも一致しない。
騎手時代の主な騎?馬として?げた馬は割愛する。
尾形藤吉 | 松山吉三? | 藤本?良 | 武田文吾 | ?葉幸夫 | 二本柳俊夫 | 久保田金造 | 伊藤雄二 | 松山康久 | 橋口弘次? | 藤?和雄
野平祐二 | 保田隆芳 | 福永洋一 | 岡部幸雄 | 河?洋 | ?原洋行 | 柴田政人